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2018年5月25日金曜日

女性の究極的パートナーは孤独である

《男は〈すべて〉、ああ、すべての男は、ファルス享楽なのである。l'homme qui, lui, est « tout » hélas, il est même toute jouissance phallique [JΦ]》(ラカン「三人目の女 La troisième」1974)

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以下、アルゼンチンの女流ラカン派分析家 Florencia Farìas 2010 の文を主に抄訳引用するが、そこには「ヒステリーの女性」という言葉が出現する。このヒステリーとは、巷間に流通するヒステリーとは異なり、「言語によって分割された主体$」という意味であり、ひとは言語を使用するかぎり、本来的にはヒステリーである。《思い切って言ってしまえば、話す主体はヒステリカルそのものである。》(GÉRARD WAJEMAN 「The hysteric's discourse 」)

晩年のラカン自身、《私は完全なヒステリーだ、……症状のないヒステリーだ。je suis un hystérique parfait, c'est-à-dire sans symptôme》(Lacan, S24, 14 Décembre 1976)と言い放っている。そして主に男性的特徴とされる強迫神経症とは、「ヒステリーの方言」(フロイト)である。


さて、Florencia Farìas 2010の引用であるが、途中にラカン自身の言明を挿入して補足してゆく。

女性たちのなかにも、ファルス的な意味においてのみ享楽する女たちがいる。このファルス享楽は、シニフィアンに、象徴界に結びつけられた、つまり去勢(ファルスの欠如)に結びつけられた享楽である。この場所におけるヒステリーの女性は、男に囚われたまま、男に同一化したままの(男へと疎外されたままの)女である。…彼女たちはこの享楽のみを手に入れる。他方、別の女たちは、他の享楽 l'Autre jouissance 、女性の享楽jouissance féminineへのアクセスを手に入れる。(Florencia Farìas、2010, Le corps de l'hystérique – Le corps féminin、PDF

《ファルス享楽 jouissance phallique とは身体外 hors corps のものである。 (ファルスの彼岸にある)他の享楽 jouissance de l'Autre(=女性の享楽[参照]) とは、言語外 hors langage、象徴界外 hors symbolique のものである。》(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

ファルスとしての女は、他者の欲望 désir de l'Autre へと彼女の仮装 mascarade を提供する。女は欲望の対象の見せかけを装い fait semblant、そしてその場からファルスとして自らを差し出す。女は、自らが輝くために、このファルスという欲望の対象を体現化することを受け入れる。しかし彼女は、完全にはその場にいるわけでない。冷静な女なら、それをしっかりと確信している。すなわち、彼女は対象でないのを知っている elle sait qu'elle n'est pas l'objet。もっとも、彼女は自分が持っていないもの(ファルス)を与えることに戯れるかもしれない elle puisse jouer à donner ce qu'elle n'a pas。もし愛が介入するなら、いっそうそうである。というのは、彼女はそこで、罠にはまることを恐れずに、他者の欲望を惹き起こす存在であることを享楽しうる jouissant d'être la cause du désir de l'autre から。彼女の享楽が使い果たされないという条件のもとでだが。(Florencia Farìas、2010)

《女は、見せかけ semblant に関して、とても偉大な自由をもっている!la femme a une très grande liberté à l'endroit du semblant ! 》(Lacan、S18, 20 Janvier 1971)

《見せかけ、それはシニフィアン(表象)自体のことである! Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même !》 (Lacan, S18, 13 Janvier 1971)

《男を女へと結びつける魅力について想像してみると、「擬装した人 travesti」として現れる方が好ましいのは広く認められている。仮面 masques の介入をとおしてこそ、男と女はもっとも激しく、もっとも燃え上がって la plus aiguë, la plus brûlante 出会うことができる。》(ラカンS11、11 mars 1964 )

彼女は、パートナーの幻想が彼女に要求する対象であることを見せかける。見せかけることとは、欲望の対象であることに戯れることである。彼女はこの場に魅惑され、女性のポジション内部で、享楽する jouisse。しかし彼女は、この状況から抜け出さねばならない。というのは、彼女はいつまでも、対象a(欲望の対象–原因)の化身ではありえないから。彼女が「a」のまま reste là comme a・対象のままcomme objet なら、ある種のマゾヒスティックポジションに縛りつけられたままだelle reste enchainée dans une sorte de position masochiste と言うのは、誇張ではない。(Florencia Farìas、2010)

《女性が自分を見せびらかし s'exhibe、自分を欲望の対象 objet du désir として示すという事実は、女性を潜在的かつ密かな仕方でファルス ϕαλλός [ phallos ] と同一のものにし、その主体としての存在を、欲望されるファルス ϕαλλός désiré、他者の欲望のシニフィアン signifiant du désir de l'autre として位置づける。こうした存在のあり方は女性を、女性の仮装と呼ぶことのできるものの彼方 au-delà de ce qu'on peut appeler la mascarade féminineに位置づけるが、それは、結局のところ、女性が示すその女性性のすべてが、ファルスのシニフィアンに対する深い同一化に結びついているからである。この同一化は、女性性 féminité ともっとも密接に結びついている。》(ラカン、S5、23 Avril 1958)

反対に、女性の享楽 jouissance féminine は、人が「大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre」、あるいは「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」へのアクセスを手に入れうる場である。

対象aと女性の享楽は、性関係の不在を補填 suppléance する二つの様式である。この二つは、性関係の不可能な出会いを証明づけることをやめない。

したがって、女性の身体 Le corps féminin は、「愛と享楽 l'amour et la jouissance 」とのあいだに自らを提供する。私たちは言いうる、ひとりの女 une femme は、「享楽することと愛されること le faire jouir et l'être aimée 」とのあいだに自らを位置づけると。(Florencia Farìas、2010, Le corps de l'hystérique – Le corps féminin、PDF

《愛することは、本質的に、愛されることを欲することである。l'amour, c'est essentiellement vouloir être aimé. 》(ラカン、S11, 17 Juin 1964)

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《身体の実体 Substance du corps は、自ら享楽する se jouit 身体として定義される。》(ラカン、S20、19  Décembre 1972 )

・自ら享楽する身体 corps qui se jouit…、それは女性の享楽 jouissance féminine である。

・自ら享楽する se jouit 身体とは、フロイトが自体性愛 auto-érotisme と呼んだもののラカンによる翻訳である。「性関係はない il n'y pas de rapport sexuel」とは、この自体性愛の優越の反響に他ならない。(ミレール2011, L'être et l'un)


以下、自閉症をめぐるラカン派の記述をかかげるが、ラカン派における自閉症とは、その原義の「自己状態 αὐτός-ismos」という意味であり、巷間に流通する「自閉症」とは異なる。

自閉症は主体の故郷の地位にある。l'autisme était le statut natif du sujet (ミレール 、Première séance du Cours、2007、pdf
後期ラカンは自閉症の問題にとり憑かれていた hanté par le problème de l'autism。自閉症とは、後期ラカンにおいて、「他者」l'Autre ではなく「一者」l'Un が支配することである。…「一者の享楽 la jouissance de l'Un」、「一者のリビドー的神秘 secret libidinal de l'Un」が。(ミレール、LE LIEU ET LE LIEN、2001)
自閉症的享楽としての身体固有の享楽 jouissance du corps propre, comme jouissance autiste. (ミレール、 LE LIEU ET LE LIEN 、2000)
身体の享楽(女性の享楽)は自閉症的である。愛と幻想のおかげで、我々はパートナーと関係を持つ。だが結局、享楽は自閉症的である。(Report on the ICLO-NLS Seminar with Pierre-Gilles Guéguen, 2013)

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ここまでは、Florencia Farìasの『Le corps de l'hystérique – Le corps féminin、2010、PDF』の記述を主に引用して、ラカン自身やラカン臨床派の記述によって裏付けたが、彼女の言っている内容を、一般向けによりわかりやすく言えば、次のジジェク文がふさわしい。

男は自分の幻想の枠組みにぴったり合う女を直ちに欲望する。他方、女は自分の欲望をはるかに徹底して一人の男のなかに疎外する。彼女の欲望は、男に欲望される対象になることだ。すなわち、男の幻想の枠組みにぴったり合致することであり、この理由で、女は自身を、他者の眼を通して見ようとする。「他者は彼女/私のなかになにを見ているのかしら?」という問いに絶えまなく思い悩まされている。

しかしながら、女は、それと同時に、はるかにパートナーに依存することが少ない。というのは、彼女の究極的なパートナーは、他の人間、彼女の欲望の対象(男)ではなく、裂け目自体、パートナーからの距離自体なのだから。その裂け目自体に、女性の享楽の場所がある。⋯⋯

女性の究極的パートナーは、ファルスの彼岸にある女性の享楽 jouissance féminine の場処としての、孤独自体である。 ( ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)

そしてこの「孤独」を、よりラカン臨床派的にいえば、女性の享楽としての「自閉症的享楽」あるいは「自ら享楽する身体 corps qui se jouit」のこととなる。

※原症状(サントーム・固着・欲動の根)という観点からの女性の享楽については、
女性の享楽と身体の出来事」を参照のこと。