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2018年5月4日金曜日

他者の欲望の対象として自分自身を認めたら、常にマゾヒスト的だよ

最近、荒木経惟に風当たりが強いらしいね。わたくしはツイッターをやめて、しかも新聞のたぐいも読まないので日本の情報にひどく疎い。一週間ほど前にふと気づいたがーーツイッターをやめたといっても、さる二人のツイートだけは一週間に一度ぐらいは覗いてみる。だがこの二人は稀にしかツイートしない。一人はひと月に一回だけは必ず出現する仕儀になっている人、一人は幼少時から絵を描いていたのに、ある時「白い紙に一本の線も書けなった」人ーー、昨日何が言われているのか、わずかだが読んでみた。たしかに「道徳的には」とってもひどい男かもな。

でも「感想」を書くつもりはいまのところない。浅田彰の発言とされるーーたぶんかなりまえのアラーキー批判が流通しているが、一つは以前も引用したことのある草間彌生をめぐるもので、一つはスーザン・ソンダクとの対話における発言だが、後者にはちょっと頭ニキタがね。とはいえ、愛忌避症状が覿面の、あのボウヤを罵倒する準備はまだ整ってないな。


◆ARAKI NOBUYOSHI — NAN GOLDI」N — PAST FUTUR SELF




荒木の写真を眺めていてまず思うのは、女は緊縛されたくて撮られにいくのかってことだな。どうなんだろう?

男の幸福は、「われは欲する」である。女の幸福は、「かれは欲する」である。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』)

男の愛の《フェティッシュ形式 la forme fétichiste》 /女の愛の《被愛マニア形式 la forme érotomaniaque》(Lacan, E733)


女性の愛の形式は、フェティッシュfétichiste 的というよりもいっそう被愛マニア的érotomaniaqueです。女たちは愛され関心をもたれたいのです。 (ジャック=アラン・ミレール、2010、On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? ")

他者の欲望の対象として自分自身を認めたら、常にマゾヒスト的だよ⋯⋯que se reconnaître comme objet de son désir, …c'est toujours masochiste. 》(ラカン、S10,l6 janvier l963)


女性が自分を見せびらかし s'exhibe、自分を欲望の対象 objet du désir として示すという事実は、女性を潜在的かつ密かな仕方でファルス ϕαλλός [ phallos ] と同一のものにし、その主体としての存在を、欲望されるファルス ϕαλλός désiré、他者の欲望のシニフィアン signifiant du désir de l'autre として位置づける。こうした存在のあり方は女性を、女性の仮装と呼ぶことのできるものの彼方 au-delà de ce qu'on peut appeler la mascarade féminineに位置づけるが、それは、結局のところ、女性が示すその女性性のすべてが、ファルスのシニフィアンに対する深い同一化に結びついているからである。この同一化は、女性性 féminité ともっとも密接に結びついている。(ラカン、S5、23 Avril 1958)

《(少なくともある時期までの)フロイトが気づいていなかったことは、最も避けられることはまた、最も欲望されるということである。不安の彼方には、受動的ポジションへの欲望がある。他の人物、他のモノに服従する欲望である。そのなかに消滅する欲望……。》(ポール・バーハウ1988, Paul Verhaeghe 、THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE ーー享楽という原マゾヒズム

※参照:「女は愛する男には暴行されたようにして身をまかせることを欲する