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2018年5月9日水曜日

教養ある美しき魂

やあ、アラーキーについて記したことになんか言ってくるヤツがいるが、きみは教養あるマジョリティなんだよ、教養人はボクのブログなんて読んじゃだめだ。そもそもここは「蚊居肢」だぜ。つねに女の肢のまわりをまわってる蚊のブログだよ、 《スカートの内またねらふ藪蚊哉》(永井荷風)

愛の欲動 Liebestriebe を、精神分析ではその主要特徴と起源からみて、性欲動Sexualtriebe と名づける。「教養ある Gebildeten」マジョリティは、この命名を侮辱とみなし、精神分析に「汎性欲説 Pansexualismus」という非難をなげつけ復讐した。性をなにか人間性をはずかしめ、けがすものと考える人は、どうぞご自由に、エロスErosとかエロティック Erotik という言葉を使えばよろしい。

私も最初からそうすることもできただろうし、それによって多くの反発をまぬかれたことだろう。しかし私はそうしたくなかった。というのは、私は弱気に陥りたくなかったからである。そんな尻込みの道をたどっていれば、どこへ行きつくものかわかったものではない。最初は言葉で屈服し、次にはだんだん事実で屈服するのだ。

私には性 Sexualität を恥じらうことになんらかの功徳があるとは思えない。エロスというギリシア語は、罵詈雑言をやわらげるだろうが、結局はそれも、わがドイツ語の愛(リーベ Liebe)の翻訳である。つまるところ、待つことを知る者は譲歩などする必要はないのである。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)

教養あるマジョリティってのは、善人のことだ

私は善人は嫌ひだ。なぜなら善人は人を許し我を許し、なれあひで世を渡り、真実自我を見つめるといふ苦悩も孤独もないからである。(坂口安吾『蟹の泡』)
善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んで行く。(坂口安吾『続堕落論』)

女の尻から目をそらして、ウスギタナイとかいったりするのが、ようするに善人だな。

我々小説家が千年一日の如く男女関係に就て筆を弄し、軍人だの道学先生から柔弱男子などと罵られてゐるのも、人生の問題は根本に於て個人に帰し、個人的対立の解決なくして人生の解決は有り得ないといふ厳たる人生の実相から眼を転ずることが出来ないからに外ならぬ。(坂口安吾「咢堂小論」)
自分の生活を低く評價せられまいと言ふ意識を顯し過ぎた作品を殘した作者は、必後くちのわるい印象を與へる…。唯紳士としての體面を崩さぬ樣、とり紊さぬ賢者として名聲に溺れて一生を終つた人などは、…殊にいたましく感じられます。(折口信夫「好惡の論」)

 ま、というわけでさ、ではサヨウナラ、教養ある美しい魂くん!

完全に不埒な「精神」たち、いわゆる「美しき魂」ども、すなわち根っからの猫かぶりども。(ニーチェ『この人を見よ』)
世論と共に考えるような人は、自分で目隠しをし、自分で耳に栓をしているのである。(ニーチェ『反時代的考察』)