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2018年5月23日水曜日

美は、世界の夜に対する最後の防衛である

欲望は防衛、享楽へと到る限界を超えることに対する防衛である。le désir est une défense, défense d'outre-passer une limite dans la jouissance.(ラカン、E825、1960)
美は、欲望の宙吊り・低減・武装解除の効果を持っている。美の顕現は、欲望を威嚇し中断する。…que le beau a pour effet de suspendre, d'abaisser, de désarmer, dirai-je, le désir : le beau, pour autant qu'il se manifeste, intimide, interdit le désir.(ラカン、S7、18 Mai 1960 )



美は現実界に対する最後の防衛である。la beauté est la défense dernière contre le réel.(ジャック=アラン・ミレール、2014、L'inconscient et le corps parlant)
私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。ラカン、S.23, 13 Avril 1976)


ラカンにとってトラウマとは、《穴ウマ(troumatisme =トラウマ)》(S21、1974)でもある。

ーーこれが前回(いくらか冗談めかして)記した「美は黒洞に対する最後の防衛」のよってきたるところである。

⋯⋯⋯⋯

ところで、ニーチェの次の音楽の定義を受け入れるなら、音楽においても、いや音楽においてこそ、「美は黒洞に対する最後の防衛」は最も当てはまりうる。

夜と音楽。--恐怖の器官としての耳は、恐怖心をもつ時代の、すなわちこれまで存在した中で最も長かった人間の時代の生活様式に応じて、夜においてのみ、暗い森や洞穴の薄明の中でのみ、現在見られるように立派に発展することが出来た。明るいところでは、耳はそれほど必要ではない。それが原因で、夜と薄明の芸術という音楽の性格が生まれるのである。(ニーチェ『曙光』250番)

※参照:「美は恐ろしきものの始まり」(リルケ)




音楽を聞くには隠れなければならないと思うことがある。音楽は手袋の内と外をひっくり返すようにわたしを裏返してしまう。音楽が触れ合いの言葉、共同体の言葉となる。そんな時代がかつてあったし、いまも人によってはそんな場合があるのはもちろん知っているが、わたしの場合は、ほかの人々と一緒に音楽は聞けない。誰かと一緒に音楽を演奏するとなれば話は別だ。(……)

だが、なぜ一緒に聞くことができないのだろう。なぜ音楽は孤独で身動きできない状態にあるときのわたしたちをとらえるのか。一緒に聞けば、他人の目の前で、そして他人とともにいながら、自己をあくまでも自分ひとりきりのものでしかない状態に投げ出してしまうことになるからなのか。それぞれの人間によってたがいに異なるはずの遠くの離れたものを共有することになるからなのか。子供時代も死も共有できはしないからなのか。

音楽、それは身体と身体のぶつかりあいであり、孤独と孤独のぶつかりあいであり、交換すべきものがなにもないような場での交換である。ときにそれは愛だと思われもしよう。演奏する者の身体と聴く者の身体がすっかり肉を失い、たがいに遠く離れ、ほとんどふたつの石、ふたつの問い、ふたりの天使を思わせるものとなって、どこまでも悲しい狂おしさを抱いて顔を向き合わせたりしないならば。(ミシェル・シュネデール『グレン・グールド PAINO SOLO』)




ーーシューマンは、この「暁の歌」を狂気に陥る直前に作曲した。

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《美は現実界に対する最後の防衛である》とは、「美は享楽に対する最後の防衛」と言い換えることもできる。

私が享楽 jouissance と呼ぶものーー身体が己自身を経験するという意味においてーーその享楽は、つねに緊張tension・強制 forçage・消費 dépense の審級、搾取 exploit とさえいえる審級にある。疑いもなく享楽があるのは、苦痛が現れ apparaître la douleur 始める水準である。そして我々は知っている、この苦痛の水準においてのみ有機体の全次元ーー苦痛の水準を外してしまえば、隠蔽されたままの全次元ーーが経験されうることを。(ラカン,Psychanalyse et medecine,1966)
享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel(ラカン、S23, 10 Février 1976)

※参照:究極のエロス・究極の享楽とは死のことである


享楽(悦楽 Lust)が欲しないものがあろうか。享楽は、すべての苦痛よりも、より渇き、より飢え、より情け深く、より恐ろしく、よりひそやかな魂をもっている。享楽はみずからを欲し、みずからに咬み入る。環の意志が享楽のなかに環をなしてめぐっている。――

- _was_ will nicht Lust! sie ist durstiger, herzlicher, hungriger, schrecklicher, heimlicher als alles Weh, sie will _sich_, sie beisst in _sich_, des Ringes Wille ringt in ihr, -(ニーチェ「酔歌」『ツァラトゥストラ』)



おそらく下の図の右側の項にかかわるものであるならば、(多くの場合)同様に言いうるのかもしれない。もちろん「美は身体の欲動に対する最後の防衛」とするのは、最も典型的な言い方である。

愛のテュケーと愛のオートマン

私は、ギリシャ人たちの最も強い本能 stärksten Instinkt、力への意志 Willen zur Macht を見てとり、彼らがこの「欲動の飼い馴らされていないゲバルト(暴力) unbändigen Gewalt dieses Triebs」に戦慄するのを見てとった。(ニーチェ「私が古人に負うところのもの Was ich den Alten verdanke」1889)

ーー《しかし力への意志 la volonté de puissanceは…至高の欲動 l'impulsion suprême のことではなかろうか?》(クロソウスキー『ニーチェと悪循環』1969年)


欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞 l'orifice du corps の機能によって欲動を特徴づけたことを。(ラカン、1975, Strasbourg)

だが、たとえば、

ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976)

 ここから、「美はひとりの女に対する最後の防衛だ」と言ってもよい筈である。

私は後に(『防衛―神経精神病』1894年で使用した)「防衛過程 Abwehrvorganges」概念のかわりに、「抑圧 Verdrängung」概念へと置き換えたが、この両者の関係ははっきりしない。現在私はこの「防衛Abwehr」という古い概念をまた使用しなおすことが、たしかに利益をもたらすと考える。

…この概念は、自我が葛藤にさいして役立てるすべての技術を総称している。抑圧はこの防衛手段のあるもの、つまり、われわれの研究方向の関係から、最初に分かった防衛手段の名称である。(フロイト『制止、症状、不安』最終章、1926 年)

「抑圧」という語の原義には圧するの意味はない。むしろ「放逐」あるいは「追放」が正しい。

そして、

本源的に抑圧(放逐)されているものは、常に女性的なものではないかと疑われる。(フロイト, Brief an Wilhelm Fließ, 25, mai, 1897)

「最後の防衛」とは、十分には防衛しきれていないという意味もある。防衛の「残存現象 Resterscheinungen」(フロイト、1937)、あるいは置き残しがかならずある。

翻訳の失敗、これが臨床的に抑圧(放逐)と呼ばれるものである。Die Versagung der Übersetzung, das ist das, was klinisch <Verdrängung> heisst.»   (フロイト、フリース書簡 Brief an Fliess、1896)
抑圧 Verdrängung はフロイトが固着 Fixierung と呼ぶもののなかに基盤がある。フロイトは、欲動の居残り(欲動の置き残し arrêt de la pulsion)として、固着を叙述した。通常の発達とは対照的に、或る欲動は居残る une pulsion reste en arrière。そして制止inhibitionされる。フロイトが「固着」と呼ぶものは、そのテキストに「欲動の固着 une fixation de pulsion」として明瞭に表現されている。リビドー発達の、ある点もしくは多数の点における固着である。Fixation à un certain point ou à une multiplicité de points du développement de la libido(ミレール2011, L'être et l'un、IX. Direction de la cure

フロイトにとって、欲動の固着(リビドーの固着 )は、トラウマにかかわる。そして《リビドーの固着 Fixierung der Libidoは生涯を通して、しつこく持続する。》 (『精神分析概説』草稿、死後出版 1940 年)

これがニーチェが次のように言っていることの真意である。

もし人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する己れの典型的経験 typisches Erlebniss immer wiederkommt を持っている。(ニーチェ『善悪の彼岸』70番)

ニーチェにおいて、最も静かな時刻に女主人が回帰した。

きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻 stillste Stunde がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人 meiner furchtbaren Herrin の名だ。

……彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるだろうか。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部 「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」)

なんだろうか、恐ろしき女主人とは。

わたしの本来の深遠な思想である 「永遠回帰」 に対する最も深い異論とは、 つねに母と妹なのだ。― (ニーチェ『この人を見よ』--妹エリザベートによる差し替え前の版 Friedrich Wilhelm Nietzsche: Ecce homo - Kapitel 3

・・・というわけで、⋯⋯⋯フロイトを引用しておくだけにする。

母へのエロス的固着の残余 Rest der erotischen Fixierung an die Mutter は、しばしば母 への過剰な依存 übergrosse Abhängigkeit 形式として居残る。そしてこれは女への隷属 Hörigkeit gegen das Weib として存続する。(フロイト『精神分析概説』草稿)

ゆえに(いささか飛躍して記す。音楽をめぐっての記述の筈が逸脱してしまい、かつまた、すでに長くなり過ぎた)、

美には傷 blessure 以外の起源はない。どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、その人が世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。(ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』宮川淳訳)

すなわち、美はトラウマに対する最後の防衛である。



あるいは、美は世界の夜に対する最後の防衛である。

人間存在は、すべてのものを、自分の不可分な単純さのなかに包み込んでいる世界の夜 Nacht der Weltであり、空無 leere Nichts である。人間は、無数の表象やイメージを内に持つ宝庫だが、この表象やイメージのうち一つも、人間の頭に、あるいは彼の眼前に現れることはない。この夜。幻影の表象に包まれた自然の内的な夜。この純粋自己 reines Selbst。こちらに血まみれの頭 blutiger Kopf が現れたかと思うと、あちらに不意に白い亡霊 weiße Gestalt が見え隠れする。一人の人間の眼のなかを覗き込むとき、この夜を垣間見る。その人間の眼のなかに、 われわれは夜を、どんどん恐ろしさを増す夜を、見出す。まさに世界の夜 Nacht der Welt がこのとき、われわれの現前に現れている。(ヘーゲル『現実哲学』イエナ大学講義録草稿 Jenaer Realphilosophie 、1805-1806)

さらにこう言っておこう、美は「世界の起源」に対する最後の防衛だと。