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2018年5月16日水曜日

ラカンの性別化の式のデフレーション

いままでの標準的なラカン派は、男女の性愛を考えるうえで、まずラカンのセミネール20「アンコール」における性別化の式に準拠してきた。

だが、ラカン主流派のボス、ジャック=アラン・ミレールは、2012年の講演「21世紀における現実界LE RÉEL AU XXIèmeSIÈCLE」において、性別化の式は、二次的な構築物だといっている。いささか誇張していえば、性別化の式は、ラカンが精神分析を科学的なものにしようとした必死の努力だが、21世紀の現在における最も重要な症状の側面からいえば、「ほとんど役立たずだ」と。

以下、その一部を掲げる。

ラカンによって発明された現実界は、科学の現実界ではない。ラカンの現実界は、「両性のあいだの自然な法が欠けている manque la loi naturelle du rapport sexuel」ゆえの、偶発的 hasard な現実界、行き当たりばったりcontingent の現実界である。これ(性的非関係)は、「現実界のなかの知の穴 trou de savoir dans le réel」である。

ラカンは、科学の支えを得るために、マテーム(数学素材)を使用した。たとえば性別化の式において、ラカンは、数学的論理の織物のなかに「セクシャリティの袋小路 impasses de la sexualité」を把握しようとした。これは英雄的試み tentative héroïque だった、数学的論理の方法にて精神分析を「現実界の科学 une science du rée」へと作り上げるための。しかしそれは、享楽をファルス関数の記号のなかの檻に幽閉する enfermant la jouissance ことなしでは為されえない。

(⋯⋯)性別化の式は、「身体とララングとのあいだの最初期の衝撃 choc initial du corps avec lalangue」のちに介入された「二次的構築物(二次的結果 conséquence secondaire)」にすぎない。この最初期の衝撃は、「法なき現実界 réel sans loi」 、「論理なきsans logique 現実界」を構成する。論理はのちに導入されるだけである。加工して・幻想にて・知を想定された主体にて・そして精神分析にて avec l'élaboration, le fantasme, le sujet supposé savoir et la psychanalyse。(JACQUES-ALAIN MILLER、2012、pdf

これについては、ジジェクが「何かが途轍もなく間違っている(ジジェク 2016→ ミレール)」と言っているのを、以前みた(以前といっても2年近く前の話になる。ここでのわたくしの記述はこの2年間、なんらかの形で断続的に考えた当面の結論である)。

科学的現実界、哲学的現実界のジジェクにとっては、当然の反発である。そしてジジェクのかつての師匠ミレールーージジェクは「私のラカンはミレールのラカンだ」と2004年時点でさえ言っているーーの観点からは、現在のジジェクにたいして「おまえさんは、半分しか現実界についてわかってないんだよ」とほとんど言っていることになる。


【アンコールにおける断裂】

さてここでラカンの発言をいくらか取り上げてみることにする。

まず性別化の式(左側が男性、右側が女性)である。



大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre、それを徴示するのがS(Ⱥ) である …« Lⱥ femme »は S(Ⱥ) と関係がある。これだけで彼女は二重化dédouble される。彼女は« 非全体 pas toute »なのだ。というのは、彼女は大きなファルスgrand Φ とも関係があるのだから。(ラカン、S20, 13 Mars 1973)

この13 Mars 1973の講義にて、ラカンはこうも言っている。

現実界は形式化の袋小路に刻印される以外の何ものでもない le réel ne saurait s'inscrire que d'une impasse de la formalisation(LACAN, S20、20 Mars 1973)

これについてミレールは、上に引用したように、次のように言っているのである。

性別化の式において、ラカンは、数学的論理の織物のなかに「セクシャリティの袋小路 impasses de la sexualité」を把握しようとした。これは英雄的試み tentative héroïque だった、数学的論理の方法にて精神分析を「現実界の科学 une science du rée」へと作り上げるための。しかしそれは、享楽をファルス関数の記号のなかの檻に幽閉する enfermant la jouissance ことなしでは為されえない。(MILLER、2012)

ミレールーーあるいは女流ラカン派の第一人者コレット・ソレールも同様だがーー彼らの観点においては、ラカンのセミネール20「アンコール」自体のなかに、断裂がある。

たとえば、15 mai 1973 のラカンの発言。

・現実界、それは「話す身体 corps parlant」の神秘、無意識の神秘である Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient

・私は私の身体で話す。私は知らないままでそうする。だから私は、常に私が知っていること以上のことを言う。Je parle avec mon corps, et ceci sans le savoir. Je dis donc toujours plus que je n'en sais. (Lacan, S20. 15 Mai 1973)

この「話す身体 corps parlant」が、「形式化の袋小路impasse de la formalisation」に現れるはずはない、というものである。

さらにラカンは一年半後には次のように言っている。

症状は、現実界について書かれる事を止めぬ le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン、三人目の女 La Troisième、1974、1er Novembre 1974)

ここでの症状は、サントーム(原症状)のことである。

症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)

ーーこの「症状 symptôme」は、「サントーム sinthome」のことである。《サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps》 (miller, Fin de la leçon 9 du 30 mars 2011)

この症状は、ひとりの女=他の身体の症状でもある。

ひとりの女は…他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)

この他の身体の症状とは、他の享楽(=女性の享楽)にかかわる。

ファルス享楽 jouissance phallique とは身体外 hors corps のものである。 (ファルスの彼岸にある)他の享楽 jouissance de l'Autre(=女性の享楽) とは、言語外 hors langage、象徴界外 hors symbolique のものである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

ーーいま通常は「大他者の享楽」と訳される"jouissance de l'Autre"を「他の享楽」と訳した理由は、「ラカンの「大他者の享楽」」を見よ。

アルゼンチンの女流ラカン派 Florencia Farìas は、次のように記しているが、これは現在の(まともな)臨床ラカン派のほぼコンセンサスであるようにみえる。

女性性をめぐって問い彷徨うなか、ラカンは症状としての女 une femme comme symptôme について語る。その症状のなかに、他の性 l'Autre sexe がその支えを見出す。後期ラカンの教えにおいて、症状と女性性とのあいだの近接性 rapprochement entre le sinthome et le féminin が見られる。

女la femme は「他の身体の症状 le symptôme d'un autre corps」であることに同意する。…彼女の身体を他の身体の享楽に貸し与えるのである elle prête son corps à la jouissance d'un autre corps。他方、ヒステリーはその身体を貸さない l'hystérique ne prête pas son corps。(Florencia Farìas 、Le corps de l'hystérique – Le corps féminin、2010.PDF

二つの現実界」にてもいくらか示唆したが、これが1973年(15 mai 1973)以降のラカンであるというのはほぼ正しいのではなかろうか。とすればジジェク組(アレンカ・ジュパンチッチ、ムラデン・ドラー)のラカンの現実界の捉え方は、後期ラカン的には間違っているということになる。アラン・バディウ? わたくしはバディウをまともに読んだことがないのではっきりしたことは言えないが、ジジェクの解釈するかぎりでの哲学的ラカン派バディウの現実界も間違っている。


⋯⋯⋯⋯

さて、ここでは冒頭に引用したミレール文のなかの語彙をいくらか補足説明する。

【性的非関係による穴】

ミレール2012文にはこうあった。

ラカンによって発明された現実界は、科学の現実界ではない。ラカンの現実界は、「両性のあいだの自然な法が欠けている manque la loi naturelle du rapport sexuel」ゆえの、偶発的 hasard な現実界、行き当たりばったりcontingent の現実界である。これ(性的非関係)は、「現実界のなかの知の穴 trou de savoir dans le réel」である。

まず「穴」の基本的な意味は、ミレール読解によれば次の通り。やや長いが核心的な部分のひとつなのでそのまま掲げる。

穴 trou の概念は、欠如 manque の概念とは異なる。この穴の概念が、後期ラカン教えを以前のラカンとを異なったものにする。

この相違は何か? 人が欠如を語るとき、場 place は残ったままである。欠如とは、場のなかに刻まれた不在 absence を意味する。欠如は場の秩序に従う。場は、欠如によって影響を受けない。この理由で、まさに他の諸要素が、ある要素の《欠如している manque》場を占めることができる。人は置換 permutation することができるのである。置換とは、欠如が機能していることを意味する。

欠如は失望させる。というのは欠如はそこにはないから。しかしながら、それを代替する諸要素の欠如はない。欠如は、言語の組み合わせ規則における、完全に法にかなった権限 instance である。

ちょうど反対のことが穴 trou について言える。ラカンは後期の教えで、この穴の概念を練り上げた。穴は、欠如とは対照的に、秩序の消滅・場の秩序の消滅 disparition de l'ordre, de l'ordre des places を意味する。穴は、組合せ規則の場処自体の消滅である Le trou comporte la disparition du lieu même de la combinatoire。これが、斜線を引かれた大他者 grand A barré (Ⱥ) の最も深い価値である。ここで、Ⱥ は大他者のなかの欠如を意味しない Grand A barré ne veut pas dire ici un manque dans l'Autre 。そうではなく、Ⱥ は大他者の場における穴 à la place de l'Autre un trou、組合せ規則の消滅 disparition de la combinatoire である。

穴との関係において、外立がある il y a ex-sistence。それは、剰余の正しい位置 position propre au resteであり、現実界の正しい位置 position propre au réel、すなわち意味の排除 exclusion du sensである。(ジャック=アラン・ミレール、後期ラカンの教えLe dernier enseignement de Lacan, LE LIEU ET LE LIEN , Jacques Alain Miller Vingtième séance du Cours, 6 juin 2001)

そしてより具体的に「性的非関係による穴」とは何か。

穴、それは非関係・性を構成する非関係によって構成されている。un trou, celui constitué par le non-rapport, le non-rapport constitutif du sexue(ラカン、S22, 17 Décembre 1974)

我々はみな現実界のなかの穴を塞ぐ(穴埋めする)ために何かを発明する。現実界には 「性関係はない」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」をつくる。…tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. Là où il n'y a pas de rapport sexuel, ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974 )
私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

フロイトの原抑圧(=固着)による穴なのである。


【フロイトの固着】

フロイトにおいて、症状は本質的に Wiederholungszwang(反復強迫)と結びついている。『制止、症状、不安』の第10章にて、フロイトは指摘している。症状は固着を意味し、固着する要素は、der Wiederholungs­zwang des unbewussten Es(無意識のエスの反復強迫)に存する、と。症状に結びついた症状の臍・欲動の恒常性・フロイトが Triebesanspruch(欲動の要求)と呼ぶものは、要求の様相におけるラカンの欲動概念化を、ある仕方で既に先取りしている。(ミレール、Le Symptôme-Charlatan、1998)

フロイトの反復強迫が、現実界にかかわる症状(サントーム)である。それが《症状は、現実界について書かれる事を止めぬ le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel 》(ラカン、三人目の女 La Troisième、1974)の意味である。

上に《症状(原症状=サントーム)は身体の出来事である le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps》(ラカン、AE569、1975)と引用したが、これは、フロイトの《幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、欲動の固着 (リビドーの固着 Fixierungen der Libido )を置き残す hinterlassen 傾向がある》(『精神分析入門』)とほぼ等価な意味合いをもつ簡潔な「翻訳」である。

ゆえにミレールは次のように言うことになる。

身体の出来事は、トラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。événement de corps…est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard

…この享楽は、固着の対象である。elle est l'objet d'une fixation

…女性の享楽は、純粋な身体の出来事である。la jouissance féminine est un pur événement de corps (ジャック=アラン・ミレール 、Miller, Cours L'Être et l'Un 、2011)

結局、最後のラカンは、フロイトの固着(原抑圧)に回帰したのである。そして固着とは、科学的現実界では処理されえないものである。

ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)
「一」Unと「享楽」jouissanceとの結びつきが分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。(ジャック=アラン・ミレール2011, Jacques-Alain Miller Première séance du Cours)
精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状である。…現実界の到来は、文字-固着 lettre-fixion、文字-非意味の享楽 lettre a-sémantique, jouie である…

現実界の定義のすべては次の通り。常に同じ場 toujours à la même place かつ象徴界外 hors symbolique にあるものーーなぜならそれ自身と同一化しているため car identique à elle-mêm--であり、反復的 réitérable でありながら、差異化された他の構造の連鎖関係なし sans rapport de chaîne à d'autre Sa のものである。したがってラカンが現実界的無意識 l'inconscinet réel について注釈した二つの定式の結束としてある。すなわち「一のようなものがある y a de l'Un」と「性関係はない "y a pas" du RS」(コレット・ソレール2017,"Avènements du réel" )

フロイト自身による「固着」の記述のいくらかは、「ラカンのサントームとは、フロイトの固着のことである」をみよ。



身体とララングとのあいだの最初期の衝撃 】

ミレール2012が強調する《身体とララングとのあいだの最初期の衝撃 choc initial du corps avec lalangue》については「ララング定義集」をみよ。

ララングとは実は、精神分析的思考に疎遠な人にとっても、哲学的にとても重要な概念である。

リトルネロとしてのララング lalangue comme ritournelle (Lacan、S21,08 Janvier 1974)
ここでニーチェの考えを思い出そう。小さなリフレインpetite rengaine、リトルネロritournelleとしての永遠回帰。しかし思考不可能にして沈黙せる宇宙の諸力を捕獲する永遠回帰。(ドゥルーズ&ガタリ、MILLE PLATEAUX, 1980)

ーーニーチェの永遠回帰とは、フロイトがすでに指摘しているように、反復強迫(運命強迫)なのである。

精神分析的観点からみたララングについては、いまはコレット・ソレールによる一文のみを引用するだけにする。

ララングは享楽を情動化する。…ララング Lalangue は象徴界的 symbolique なものではなく、現実界的 réel なものである。現実界的というのはララングはシニフィアンの連鎖外 hors chaîne のものであり、したがって意味外 hors-sens にあるものだから(シニフィアンは、連鎖外にあるとき現実界的なものになる
 le signifiant devient réel quand il est hors chaîne)。そしてララングは享楽と謎の混淆をする。…ララングは意味のなかの穴であり、トラウマ的である。…ラカンは、ララングのトラウマをフロイトの性のトラウマに付け加えた。(コレット・ソレール2009、Colette Soler、L'inconscient Réinventé )

⋯⋯⋯⋯

以上の記述自体、「現在の」主流ラカン派の解釈であり、そのうちなんらかの移行がありうることは否定しない。だが、経験論的に考えても、たとえば地震やレイプなどのトラウマ的事件に遭遇して、その記憶の反復強迫におそわれている人の現実界的症状を、「形式化の袋小路」による現実界によるものとは言い得ないように、わたくしは思う。

私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。…これは触知可能である…人がレミニサンス réminiscence と呼ぶものに思いを馳せることによって。…レミニサンス réminiscence は想起 remémoration とは異なる。⋯⋯(ラカン、S.23, 13 Avril 1976)


ちなみにジジェクによる現実界の定義は次の通り。

現実界 The Real は、象徴秩序と現実 reality とのあいだの対立が象徴界自体に内在的なものであるという点、内部から象徴界を掘り崩すという点にある。すなわち、現実界は象徴界の非全体 pastout である。一つの現実界 a Real があるのは、象徴界がその外部にある現実界を把みえないからではない。そうではなく、象徴界が十全にはそれ自身になりえないからである。

存在(現実) [being (reality)] があるのは、象徴システムが非一貫的で欠陥があるためである。なぜなら、現実界は形式化の袋小路だから。この命題は、完全な「観念論者」的重みを与えられなければならない。すなわち、現実 reality があまりに豊かで、したがってどの形式化もそれを把むのに失敗したり躓いたりするというだけではない。現実界 the Real は形式化の袋小路以外の何ものでもないのだ。濃密な現実 dense reality が「向こうに out there」にあるのは、象徴秩序のなかの非一貫性と裂け目のためである。 現実界は、外部の例外ではなく、形式化の非全体 pas-tout 以外の何ものでもない。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012、私訳)

ーーこれは、「アンコール、13 Mars 1973」、71才までのラカンの現実界としては正しい。だが・・・ーー、については上に記した通り。