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2018年5月1日火曜日

科学が存在するのは「女というものは存在しない 」からである

科学が存在するのは、「女というものは存在しない la femme n'existe pas」からである。(ミレール「もう一人のラカン」Another Lacan、Jacques-Alain Miller

ーー比較的はやい時期(ラカンがまだ生きている1980年)にジャック=アラン・ミレール はこう言っている。「科学 science」とは、もちろん「人文科学」も含めて考えるべきである。ようするに知的探求として。

ラカンの《女というものは存在しない la femme n'existe pas》というテーゼは、まずは母のファルスあるいは女性のファルスの不在にかかわる。

母のペニスの欠如は、ファルスの性質が現われる場所である。sur ce manque du pénis de la mère où se révèle la nature du phallus(ラカン「科学と真理」1965、E877)

フロイトから引用すれば、次の文がそれを示している。

男性性は存在するが、女性性は存在しない gibt es zwar ein männlich, aber kein weiblich。(⋯⋯)

両性にとって、ひとつの性器、すなわち男性性器 Genitale, das männliche のみが考慮される。したがってここに現れているのは、性器の優位 Genitalprimat ではなく、ファルスの優位 Primat des Phallus である。フロイト『幼児期の性器的編成(性理論に関する追加)』1923年)

現在のラカン派では《「女性 Lⱥ femme」のシニフィアンの排除》が強調されているが(2018年の主流ラカン派会議のテーマ)、これが「女というものは存在しない」ことの内実である。

すべての話す存在 être parlant にとっての、「女性 Lⱥ femme」のシニフィアンの排除。精神病にとっての「父の名」のシニフィアンの限定された排除(に対して)。forclusion du signifiant de La/ femme pour tout être parlant, forclusion restreinte du signifiant du Nom-du-Père pour la psychose.(LES PSYCHOSES ORDINAIRES ET LES AUTRES sous transfert, 2018)

この排除は《一般化排除の穴 trou de la forclusion généralisée》とも呼ばれ、つまり女性の表象が象徴界に存在しないことによるトラウマ(穴ウマ)である。ラカンの別のテーゼ「性関係はない Il n'y a pas de rapport sexuel 」も女性のシニフィアンが存在しないことによる性的非関係を示している。

穴、それは非関係・性を構成する非関係によって構成されている。un trou, celui constitué par le non-rapport, le non-rapport constitutif du sexue(S22, 17 Décembre 1974)
我々はみな現実界のなかの穴を塞ぐ(穴埋めする)ために何かを発明する。現実界には 「性関係はない」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」をつくる。…tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. Là où il n'y a pas de rapport sexuel, ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974 )

上のラカン文が既に暗示しているが、現在ラカン派の観点からは、科学どころか、人間の全活動は「女性の表象は存在しない」による(もっともこれ自体、ある意味でとくに目新しい指摘ではないとさえ言える。フロイトの「昇華」概念の取り扱い方を考慮すれば、人間の全活動はエスに対する昇華とさえ言いうるのだから[参照:昇華という症状])。

人はみな、標準的であろうとなかろうと、普遍的であろうと単独的であろうと、一般化排除の穴を追い払うために何かを発明するよう余儀なくされる。Tout un chacun est obligé d'inventer ce qu'il peut, standard ou pas, universel ou particulier, pour parer au trou de la forclusion généralisée. (Jean-Claude Maleval, Discontinuité - Continuité, 2018)

ラカンはこれを「人はみな妄想する」と、標準的な人びとにとっては、いささか過剰な誇張にきこえる表現で言明した。現代ラカン派の議論では、一般化排除の穴があるゆえに、人にはみな 「一般化妄想 le délire généralisé 」あるいは「一般化倒錯 la perversion généralisée」とがあるというものである(参照)。

事実、ラカンの定義においては倒錯も穴埋めにかかわる。

倒錯者は、大他者のなかの穴をコルク栓で埋めることに自ら奉仕する le pervers est celui qui se consacre à boucher ce trou dans l'Autre, (ラカン、S16、26 Mars 1969)

とすれば一般化妄想、一般化倒錯などといわずに、「女性の表象は存在しない」という現前たる事実の穴、その穴を「人はみな穴埋めする」でいいのである。

このあたりは、臨床ラカン派派閥内部での些細な用語遣いに拘るより、哲学的ラカン派のジジェクの記述を参照したほうがいいかもしれない。

象徴秩序が排除しているものは、陰陽、あるいはどんな他の二つの釣り合いのとれた「根本的原理」としての、主人の諸シニフィアン Master‐Signifiers、S1‐S2 のカップルの十全な調和ある現前である。《性関係はない》という事実が意味するのは、二番目のシニフィアン(女のシニフィアン)が「原抑圧」されているということである。そして、この抑圧の場に我々が得るもの、その裂目を埋めるものは、多様なmultiple「抑圧されたものの回帰」、一連の「ふつうの」諸シニフィアンである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)

《二番目のシニフィアン(女のシニフィアン)が「原抑圧」されている》、--これが厳密に「一般化排除」の意味である。

ジジェクは別に、《女というものは存在しないが、女たちはいる la Femme n'existe pas, mais il y a des femmes》(LESS THAN NOTHING, 2012)

ーーラカン派用語においては、"exist"とは象徴界における存在の有無、他方、" il y a"は(基本的には)現実界における有無にかかわる。

実際に「女性の表象が存在しない」のは誰もが実は知っていることである。象徴界、つまり言語の世界において性差を徴づけるものは、ファルスのシニフィアンしかない。

例えば赤子が生れたときにまず注意が向けられるのは(健康状態を除けば)、ファルスプラス/ファルスマイナスである(ファルスの現前/不在 l'absence -ϕ et la présence ϕ)。
ファルスのゲシュタルトは、その徴がなされているか、徴がなされていないかとしての両性を差異化する機能を果たすシニフィアンを人間社会に提供する。(Safouan , Lacaniana: Les séminaires de Jacques Lacan, 1953–1963 , 2001)

こうしてわれわれは誰もが(構造的な意味において)トラウマ化されているのである。

「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé (ジャック=アラ ン・ミレール J.-A. Miller, dans «Vie de Lacan»,2010)
もし、「妄想は、すべての話す存在に共通である le délire est commun à tout parlêtre」という主張を正当化するとするなら、その理由は、「参照の空虚 vide de la référence」にある。この「参照の空虚」が、ラカンが記したȺの意味であり、ジャック=アラン・ミレールが「一般化排除 forclusion généralisée 」と呼んだものである。 (Jean-Claude Maleval, Discontinuité - Continuité, 2018)

ーー「参照の空虚」とは、《大他者の場における穴 à la place de l'Autre un trou、組合せ規則の消滅 disparition de la combinatoire》(ミレール)のことである(後詳細引用)。

柄谷=マルクス的に言えば、次の内容が「参照の空虚」である。

・根源にあるのは、使用価値(シニフィアン)と使用価値(シニフィアン)の任意の関係にほかならない。価値形態とは、いわば形象的な言語である。

・マルクスが、社会的関係が貨幣形態によって隠蔽されるというのは、社会的な、すなわち無根拠であり非対称的な交換関係が、対称的であり且つ合理的な根拠をもつかのようにみなされることを意味している。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』1978年)

すなわち表象と表象の、無根拠であり非対称的な交換関係(コミュニケーション関係)。別の言い方をすれば、すべての表象はそれ自身を表象することができないのである。常に残余としての「彷徨える過剰」(剰余享楽=剰余価値=対象a)がある。《常に「一」と「他」、「一」と「対象a」がある。il y a toujours l'« Un » et l'« autre », le « Un » et le (a)》(ラカン、S20、16 Janvier 1973)。たとえば人は、シニフィアン「私」というたびに、参照の空虚があり、対象a(剰余享楽)がある。それは一つの商品の使用価値が交換されるとき、参照の空虚と剰余価値があるのと同様である。

すべてのシニフィアンの性質はそれ自身をシニフィアンする(徴示する)ことができないことである il est de la nature de tout et d'aucun signifiant de ne pouvoir en aucun cas se signifier lui-même.( ラカン、S14、16 Novembre 1966)

ラカンの《人はみな妄想する》とは、マルクス的には《ここがロードス島だ、ここで跳べ!》とさえ言いうるかもしれない。

資本(剰余価値)は流通において発生しなければならぬと同時に、流通において発生してはならない。 ……幼虫から成虫への彼の発展は、流通部面で行われねばならず、しかも流通部面で行われてはならぬ。ここがロードス島だ、ここで跳べ!(マルクス『資本論』)
⋯⋯⋯剰余享楽の必然性(必要性)は、《塞ぐべき穴 trou à combler》(Lacan,Radiophonie,1970)としての享楽の地位に基礎づけられていることを認めることである。

マルクスはこの穴を剰余価値にて塞ぐ。この理由でラカンは、剰余価値 Mehrwert は、マルクス的快 Marxlust ・マルクスの剰余享楽 plus-de-jouir だと言う。(capitalist exemption,Pierre Bruno,2010

ーー「剰余享楽」とある、われわれ人間は(極限的な自閉症者以外は)、欲望の主体(=幻想の主体・妄想の主体) であるが、いままでラカン派では通常、欲望とは欠如の換喩と言われてきた。だが《欲望は剰余享楽の換喩である、欠如の換喩と同じ程度に。le désir est autant métonymie du plus-de-jouir que métonymie du manque.》(コレット・ソレール,2013)


 さてマルクスから離れ、話を元に戻す。

以下のミレール文で「欠如」と「穴」が対比されているが、欠如とは「父の名」、穴とは「女性のシニフィアン(の不在)」(穴ȺのシニフィアンS(Ⱥ))にかかわる。


◆ジャック=アラン・ミレール「後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan, 6 juin 2001」 LE LIEU ET LE LIEN Jacques Alain Miller Vingtième séance du Cours, pdfより

穴 trou の概念は、欠如 manque の概念とは異なる。この穴の概念が、後期ラカン教えを以前のラカンとを異なったものにする。

この相違は何か? 人が欠如を語るとき、場 place は残ったままである。欠如とは、場のなかに刻まれた不在 absence を意味する。欠如は場の秩序に従う。場は、欠如によって影響を受けない。この理由で、まさに他の諸要素が、ある要素の《欠如している manque》場を占めることができる。人は置換 permutation することができるのである。置換とは、欠如が機能していることを意味する。

欠如は失望させる。というのは欠如はそこにはないから。しかしながら、それを代替する諸要素の欠如はない。欠如は、言語の組み合わせ規則における、完全に法にかなった権限 instance である。

ちょうど反対のことが穴 trou について言える。ラカンは後期の教えで、この穴の概念を練り上げた。穴は、欠如とは対照的に、秩序の消滅・場の秩序の消滅 disparition de l'ordre, de l'ordre des places を意味する。穴は、組合せ規則の場処自体の消滅である Le trou comporte la disparition du lieu même de la combinatoire。これが、斜線を引かれた大他者 grand A barré (Ⱥ) の最も深い価値である。ここで、Ⱥ は大他者のなかの欠如を意味しない Grand A barré ne veut pas dire ici un manque dans l'Autre 。そうではなく、Ⱥ は大他者の場における穴 à la place de l'Autre un trou、組合せ規則の消滅 disparition de la combinatoire である。

穴との関係において、外立がある il y a ex-sistence。それは、剰余の正しい位置 position propre au resteであり、現実界の正しい位置 position propre au réel、すなわち意味の排除 exclusion du sensである。(ジャック=アラン・ミレール、後期ラカンの教えLe dernier enseignement de Lacan, LE LIEU ET LE LIEN , Jacques Alain Miller Vingtième séance du Cours, 6 juin 2001)

ーー

冒頭に掲げた《科学が存在するのは、「女というものは存在しない」からである》というミレール発言の起源も、やはりフロイトにある。

フロイトにとっては知的探求欲の起源は《赤ん坊はどこからやってくるのか? 》という謎にかかわるのだから、これは突き詰めれば母のファルスの不在に関係する。


【知の欲動 Der Wißtrieb】
小児の性生活が最初の開花に達するのと同じ時期、つまり三歳から五歳までの年頃に、小児にはまた、知の欲動あるいは探究欲動 Wiß- oder Forschertrieb にもとづく活動の発端が現われてくる。

この欲動は、本源的な欲動成分 elementaren Triebkomponenten とみなすわけにもゆかず、またセクシャリティSexualität だけに区分することもできない。この活動は一方では独占 Bemächtigung の昇華された仕方 sublimierten Weise に対応し、他方では覗見欲Schaulustのエネルギーを用いて行われる。しかし性生活への関係がとくに重要なのであって、それというのは、小児たちの知の欲動 Wißtrieb は思いもよらないほどに早く、また意想外に激しい仕方で、性的問題 sexuellen Problemen に惹きつけられる、いやそれどころか、おそらくは性的問題によってはじめて目ざめさせられる、ということをわれわれは精神分析によって知ったからなのである。

小児における探究活動の働きを進行させるのは、理論的な関心ではなくて、実践的な関心である。次の子供が実際に生れたり、やがては生まれるという予想のために自分の生存条件が脅かされたり、またこの出来事と関連して、親の愛や庇護を失うかもしれないと恐れるために、小児は物思いがちになったり、敏感になったりするのである。この探究活動の発達段階において、小児が熱中する最初の問題は、性差 (ジェンダー差異 Geschlechtsunterschiedes)の問題ではなく、赤ん坊はどこからやってくるのか Woher kommen die Kinder? という謎である。(フロイト『性欲論三篇』)

最後に、フロイト文だけではわかりにくいかもしれないので、90年代に書かれたポール・バーハウの明晰なトラウマ論から引用しておこう。

我々の誰もが、欲動と心的装置とのあいだの構造的関係のために、構造的トラウマ(性的ー欲動的トラウマ)を経験する。我々の何割かはまた事故的トラウマを、その原初の構造的トラウマの上に、経験するだろう。(ポール・バーハウ、1998, Paul Verhaeghe、TRAUMA AND PSYCHOPATHOLOGY IN FREUD AND LACAN)
要約しよう。トラウマをめぐるラカン理論は次の通りである。欲動とは、トラウマ的現実界の審級にあるものであり、主体はその衝動を扱うための十分なシニフィアンを配置できない。構造的な視点からいえば、これはすべての主体に当てはまる。というのは象徴秩序、それはファルスのシニフィアンを基礎としたシステムであり、現実界の三つの諸相のシニフィアンが欠けているのだから。この三つの諸相というのは女性性、父性、性関係にかかわる。

「Das ewig Weibliche 永遠に女性的なるもの」「Pater semper incertus est 父性は決して確かでない」、「Post coftum omne animal tristum est 性交後どの動物も憂鬱になる」。これらの問題について、象徴秩序は十分な答を与えてくれない。ということは、どの主体もイマジナリーな領域において、これらを無器用にいじくり回さざるをえない。これらのイマジネールな答は、主体が性的アイデンティティと性関係に関するいつまでも不確かな問いを処理する方法を決定するだろう。

別の言い方をすれば、それらのイマジネールな答えにおける主体の幻想は、人が入りこむ世界、いやさらに間主観的世界を構築する方法を決定する。

この構造的なラカン理論は、分析家の世界を、いくつかのスローガンで征服した。象徴秩序が十分な答を出してくれない現実界の三つの諸相は、キャッチワードやキャッチフレーズによって助長された。「La Femme n'existe pas 女というものは存在しない」、「il n'y a pas d'Autre de l'Autre 大他者の大他者はない」「Il n'y a pas de rapport sexuel 性関係はない」。

結果として起こったセンセーショナルな反応あるいはヒステリーは、ーー例えば、イタリアの新聞はラカンにとって女たちは存在しないんだとさと公表したーーー構造的文脈やフロイト理論で同じ論拠が研究されている事実をかき消してしまった。フロイトは書いている、どの子供も、自身の性的発達によって促されるのは、三つの避け難い問いに直面することだと。すなわち「母のジェンダー、一般的にいえば女のジェンダー」、「父の役割」、「両親の間の性的関係」。(Paul Verhaeghe、TRAUMA AND HYSTERIA WITHIN FREUD AND LACAN 、1998)

《象徴秩序はファルスのシニフィアンを基礎としたシステム》とあるが、これについてのラカン自身の簡潔な発言も掲げておく。

「ファルスの意味作用 Die Bedeutung des Phallus 」とは実際は重複語 pléonasmeである。言語には、ファルス以外の意味作用はない。il n'y a pas dans le langage d'autre Bedeutung que le phallus(ラカン、S18, 09 Juin 1971 )

バーハウの文に「Pater semper incertus est 父性は決して確かでない」とあるが、フロイトにおいては次のような使われ方をしている。

幼児は、性関係 sexuellen Beziehungen において父母が演じる役割の相違を知るようになり、「父性は常に不確実 pater semper incertus est」で「母性は確実 Mutter certissima ist」だと悟る…。(フロイト『ファミリーロマンス』1909)