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2018年4月5日木曜日

向こうに歩いていく女たち








ゴダールには上のような映像がふんだんにある(あえてどの作品かは書かないでおくことにする)。

他方、向こうから(たとえば穴の向こうから)やってくる女たちーー女だけではないがだけではないがーーの映像も多い。







こういった映像にこよなく惹かれてしまうのは、「ボクの原光景」のひとつが次のようなものであることが大いに関係しているだろう。




ゴダールといえば海や空の映像が美しいと長年なんとなく思ってきたが、このところいくらかの作品をまとめて観てみると、わたくしが真に惹かれるのは、こういったイマージュのほうであることが改めて瞭然となった。

今、ゴダールの作品だけについて記してはいるが、映画芸術において、この、向こうに行く女と遠くからやってくる女とは、もっともよく使われる構図のひとつなのかもしれない。わたくしは映画を多く観るほうではなくーーいや海外住まいになってからほとんど観ていないと言っていいぐらいだーー、確かなことはまったく言えないのだが、ふと思い浮かべてみるだけでも、小津安二郎の作品に頻繁に出て来る鎌倉の家の片側が植え込みになった小径を原節子はしばしば行ったり来たりしていたし、ああ、そういえば、北野武にもある。





とはいえ(わたくしの場合)、「樟がざわめく古い屋敷」で記したように、女はいず、木々がゆれているだけでも茫然自失するなどということがときにある。





もちろんこれらは「世界の起源」の覆い(フェティッシュ)でもあり、「世界の夜」=無の隠喩でもありうる、--《確かにイマージュとは幸福なものだ。だがそのかたわらには無が宿っている。そしてイマージュのあらゆる力は、その無に頼らなければ、説明できない。》(ゴダール『(複数の)映画史』「4B」)

人間存在は、すべてのものを、自分の不可分な単純さのなかに包み込んでいる世界の夜 Nacht der Weltであり、空無 leere Nichts である。人間は、無数の表象 Vorstellungen やイメージ Bilder を内に持つ宝庫だが、この表象やイメージのうち一つも、人間の頭に、あるいは彼の眼前に現れることはない。この夜。幻影の表象 phantasmagorischen Vorstellungen に包まれた自然の内的な夜。この純粋自己 reines Selbst。こちらに血まみれの頭 blutiger Kopf が現れたかと思うと、あちらに不意に白い亡霊 weiße Gestalt が見え隠れする。一人の人間の眼のなかを覗き込むとき、この夜を垣間見る。その人間の眼のなかに、 われわれは夜を、どんどん恐ろしさを増す夜を、見出す。まさに世界の夜 Nacht der Welt がこのとき、われわれの現前に現れている。(ヘーゲル『現実哲学』イエナ大学講義録草稿 Jenaer Realphilosophie 、1805-1806)


ラカンのセミネールⅣ「対象関係」(30 Janvier 1957)には、次の図がある。


(ラカン、セミネールⅣ「対象関係」)


ここでは、ミレールによる簡潔な注釈を掲げる。

ここに、主体、一つの点、すなわちヴェールがある。他の側には無がある。Ici, le sujet, un point ; le voile ; et de l'autre côté, un autre point, le rien.

もし、ヴェールがないなら、我々は無があるのを見る。S'il n'y a pas de voile, on constate qu'il n'y a rien。

もし、主体と無とのあいだにヴェールがあるなら、すべてが可能である。 Si entre le sujet et le rien il y a un voile, tout est possible.

人はヴェールにて戯れ jouer avec le voile、事物を想像する imaginer des choses ことができる。…ヴェールは無から何ものかを創造する le voile crée quelque chose ex nihilo。ヴェールは神である Le voile est un Dieu。(ジャック=アラン・ミレール 、享楽の監獄LES PRISONS DE LA JOUISSANCE )

《人が見るもの(人が眼差すもの)は、見られ得ないものである。Ce qu’on regarde, c’est ce qui ne peut pas se voir》(ラカン、S11, 13 Mai 1964)

《イマージュは、見られ得ないものにとってのスクリーン〈覆い)である。l'image fait écran à ce qui ne peut pas se voir》(ジャック=アラン・ミレール 『享楽の監獄 LES PRISONS DE LA JOUISSANCE』1994年)

ジャック=アラン・ミレールによって提案された「見せかけ semblant」 の鍵となる定式がある、「我々は、見せかけを無を覆う機能と呼ぶ。Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien」

これは勿論、フェティッシュとの繋がりを示している。フェティッシュは同様に空虚を隠蔽する、見せかけが無のヴェールであるように。その機能は、ヴェールの背後に隠された何かがあるという錯覚を作りだすことにある。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳)

わたくしがゴダールのイマージュのなかで惹かれるのはーーいやそもそもあらゆる映像において「真に」惹かれるのは(バルトのいう《私を突き刺す偶然》としての「プンクトゥム」のようなものとして)--、静止画像ではないが、それと同じような効果をもつイマージュだと言っていいかもしれない(これでは、あまりに精神分析的言説に囚われ過ぎているているという批判がなされるだろうことは承知してはいるが)。

最初のフェティッシュの発生 Auftreten des Fetischの記憶の背後に、埋没し忘却された性発達の一時期が存在している。フェティッシュは、隠蔽記憶 Deckerinnerung のように、この時期の記憶を代表象し、したがってフェティッシュとは、この記憶の残滓と沈殿物 Rest und Niederschlag である。(フロイト『性欲論三篇』1905年、1920年注)


…我々は何かの現前のなかにいる。記憶の流れ le cours de la mémoire をスナップショット l'état d'instantané の状態に凍りつかせて fige 還元する réduit 何かーー隠蔽記憶(スクリーンメモリー souvenir-écran、Deckerinnerung )と呼ばれるある点で止まる何かの現前。

映画の動き mouvement cinématographique を考えてみよう。素早く継起する動き、そして突然ある点で止まり、全登場人物が凍りつく。このスナップショットは、フルシーン scène pleine の還元の特色である…幻想のなかで不動化(静止画像化)されている何か quelque chose qui s'immobilise dans ce fantasme、そこには全てのエロス的機能 valeurs érotiques が積み込まれたままである…そこではフルシーンが表現したものを含み、そして幻想が目撃したものと支えたもの、その居残った最後の支え le dernier support restant が含まれている…(Lacan,Le séminaire livre IV)

※参照:「歩く隠蔽記憶

なにはともあれ、ラカン派の表象論ーーイマージュ論はその重要な部分であるーーの核心は次の考え方である。

・確かに絵は、私の目のなかにある。だが私自身、この私もまた、絵のなかにある。le tableau, certes est dans mon oeil, mais moi je suis dans le tableau.

・そして私が絵の中の何ものか quelque chose dans le tableau なら、…それは染み tâche としてある。(ラカン、S11, 04 Mars 1964)
私は何よりもまず、次のように強調しなくてはならない。すなわち、眼差しは外部にある le regard est au dehors。私は見られている(私は眼差されている je suis regardé)。つまり私は絵である。これが、視野における、主体の場の核心に見出される機能である。視野のなかの最も深い水準において、私を決定づけるものは、眼差しが外部にあることである。…私は写真であり、私は写真に写されている je suis photo, photo-graphié。(ラカン、S11, 11 mars 1964)

表象には、イマージュには、染みとしての私が書き込まれているのである。そしてその染みが私を眼差す。

主体の眼差しは、常に-既に、知覚された対象自体にシミとして書き込まれている。「対象以上の対象のなか」(=対象a)に。その盲点から対象自体が主体を眼差し返す。(ジジェク、パララックス・ヴュ―、2006)

そしてイマージュは非全体である。すべてのイマージュは歪像(アナモルフォーシス)である。

表象は「すべてではない」。表象は非全体 pastout である。表象が非全体なのは、主体の刻印のためである。表象自体の領野のなかに、主体にとっての何かが代理されているのだが、その主体の何ものかの刻印のためである。(ムラデン・ドラ―2016, Mladen Dolar「Anamorphosis 歪像」)

これがドゥルーズ=プルーストが次のように言っている真の意味合いである。

愛する理由は、人が愛する対象のなかにはけっしてない。les raisons d'aimer ne résident jamais dans celui qu'on aime(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

あなたは、私が愛するイマージュを見ている場から、その対象を見ることはけっしてない。

あなたは、私があなたを見ている場から私を見ることはけっしてない Jamais tu ne me regardes, là où je te vois(ラカン, S11, 04 Mars 1964)

⋯⋯⋯⋯

※付記

中井久夫は「静止画像」をめぐってこう書いている。

私たちは三歳から五歳以後今まで連続した記憶を持っている。むろん忘却や脱落はあるが、にもかかわらず、自我は一つで三歳以後連続している確実感がある。それ以前の記憶は断片的である。また成人型の記憶は映画やビデオのように、いやもっとダイナミックに動いているが、ある時期の記憶は前後関係を欠き、孤立したスティール写真のような静止画像である。成人型の記憶と違って、言葉に表しにくい。(中井久夫「私の三冊」『アリアドネからの糸』所収)
成人文法性成立以後に持ち越されている幼児型記憶は(1)断片的であり、(2)鮮明で静止あるいはそれに近く、主に視覚映像であり、(3)それは年齢を経てもかわらず、(4)その映像の文脈、すなわちどういう機会にどういういわれがあって、この映像があるのか、その前後はどうなっているかが不明であり、(5)複数の映像間の前後関係も不明であり、(6)それらに関する画像以外の情報は、後から知ったものを綜合して組み立てたものである。(「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』)
外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。相違点は、そのインパクトである。外傷性記憶のインパクトは強烈である、幼児型記憶はほどんどすべてがささやかないことである。その相違を説明するのにどういう仮説が適当であろうか。

幼児型記憶は内容こそ消去されたが、幼児型記憶のシステム自体は残存し、外傷的体験の際に顕在化して働くという仮説は、両者の明白な類似性からして、確度が高いと私は考える。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収)

肝腎なのは「内容」ではなく「形式」なのである。そして究極の外傷的記憶とは、固着=原抑圧にかかわる(参照:ラカンのサントームとは、フロイトの固着のことである

原抑圧とは、何かの内容を無意識のなかに抑圧することではない。そうではなく、無意識を構成する抑圧、無意識のまさに空間を創出すること、「システム意識 System Bewußt (Bw)・システム前意識System Vorbewußt (Vbw)」 と「システム無意識System Unbewußt (Ubw)」 とのあいだの間隙を作り出すことである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)
……ここにはカントからヘーゲルへの移行の鍵となる帰結がある。すなわち、内容と形式とのあいだの裂け目は、内容自体のなかに投影される(反映し返される reflected back into)。それは内容が「全てではない pastout 」ことの表示としてである。何かが内容から抑圧され/締め出されているのだ。形式自体を確立するこの締め出しが、「原抑圧」 (Ur‐Verdrängung)である。そして如何にすべての抑圧された内容を引き出しても、この原抑圧はしつこく存在し続ける。(同ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012)


中井久夫は「思い出すままにほとんどすべてを列挙する」として幼児型記憶を十ほど掲げているが、そのうちの一つは次のものである。

「母親がガラスの器にイチジクの実を入れてほの暗い廊下を向こうから歩いてくる」



無意識は常に、主体の裂け目のなかに揺らめくものとして顕れる。l'inconscient se manifeste toujours comme ce qui vacille dans une coupure du sujet, ラカン、S11, 22 Janvier 1964)
現実界は見せかけ(≒表象)のなかに穴を開けるものである。ce qui est réel c'est ce qui fait trou dans ce semblant.(ラカン、S18, 20 Janvier 1971)