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2018年4月15日日曜日

父権制の原理の回復が真のフェミニストの仕事

ああ貴嬢、シツレイながら敢えて言わせてもらうが、現在の日本のフェミニストたちは、とてつもない誤解をいまだしているのだよ。これはいかに遠慮して言おうとそう言わざるをえないね、すくなくとも大半の日本的フェミニストたちに対しては。たとえば「父権制・男根制」廃絶のたぐいを、イミフのままスローガンのようにして声高に言い続けているなんてね。

日本において男女同権という「言語によるタテマエ」が、とりわけ政治組織や会社組織で守られていないのは、日本という国は、父権制的ではなく、母権性的だからだよ。言語による規則が守らないというのが基本的には母権性。すくなくともフロイト・ラカン派的にはハッキリしている、--《母の法 la loi de la mère…それは制御不能の法 loi incontrôlée…分節化された勝手気ままcaprice articuléである》(Lacan. S5)

あえてこれを20世紀の「常識」と言わせてもらうが、その常識が現在の日本的フェミニストたちには未だほとんどない。これは、浅田彰や柄谷行人が30年前から言い続けているんだが、フロイト・ラカンをうっちゃってしまっているフェミニストたちには馬耳東風なんだな。

公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがたい力で束縛する不可視の牢獄と化している。(浅田彰「むずかしい批評」1988年)
日本における「権力」は、圧倒的な家父長的権力のモデルにもとづく「権力の表象」からは理解できない。(柄谷行人「フーコーと日本」1992 『ヒューモアとしての唯物論』所収)
柄谷)日本人は異常なほどに偽善を嫌がる。その感情は本来、中国人に対して、いわば「漢意=からごごろ」に対してもっていたものです。中国人は偽善的だというのは、中国人は原理で行くという意味でしょう。中国人はつねに理念を掲げ、実際には違うことをやっている。それがいやだ、悪いままでも正直であるほうがいいというのが、本居宣長の言う「大和心」ですね。それが漱石の言った露悪趣味です。日本にはリアル・ポリティクスという言い方をする人たちがいるけれども、あの人たちも露悪趣味に近い。世界史においては、どこも理念なしにはやっていませんよ。(……)

浅田)日本人はホンネとタテマエの二重構造だと言うけれども、実際のところは二重ではない。タテマエはすぐ捨てられるんだから、ほとんどホンネ一重構造なんです。逆に、世界的には実は二重構造で偽善的にやっている。それが歴史のなかで言葉をもって行動するということでしょう。(柄谷行人/浅田彰対談『「歴史の終わり」と世紀末の世界』1993年)

柄谷や浅田じゃなくてもいい。わが日本の「敬愛スベキ代表的ふぇみ」上野千鶴子さんが尊敬しているらしい中井久夫を引用しよう。

一神教とは神の教えが一つというだけではない。言語による経典が絶対の世界である。そこが多神教やアニミズムと違う。一般に絶対的な言語支配で地球を覆おうというのがグローバリゼーションである。(中井久夫『私の日本語雑記』2010年)

中井久夫はかつて、こう言っている。

アニミズムは日本人一般の身体に染みついているらしい。( 中井久夫「日本人の宗教」1985年初出『記憶の肖像』所収)

つまり言語による支配がなされない国、タテマエなんてものはすぐ放り出される国が日本だよ。これが母権性の意味だ。

日本の「男」とは実は、《分節化された勝手気まま caprice articulé》な「女」が化けてるだけだよ。

かつては、父は社会的規範を代表する「超自我」であったとされた。しかし、それは一神教の世界のことではなかったか。江戸時代から、日本の父は超自我ではなかったと私は思う。(中井久夫「母子の時間 父子の時間」初出2003年 『時のしずく』所収)

中井久夫はこの同じエッセイで、父の「レリギオ」(つつしみ)に対する母の「オルギア」(距離のない狂宴)と言っている。これは、ラカン語彙であれば「父なる超自我」に対する「母なる超自我」と相同的。

母なる超自我 Surmoi maternel…父なる超自我の背後にこの母なる超自我がないだろうか? 神経症においての父なる超自我よりも、さらにいっそう要求し、さらにいっそう圧制的、さらにいっそう破壊的、さらにいっそう執着的な母なる超自我が。 (ラカン, S5, 15 Janvier 1958)

ーー欧米諸国も1968年と1989年における「出来事」により、父なる超自我の斜陽は歴然としているけれど(参照:「父の眼差し」の時代から「母の声」の時代への移行)、そうはいっても一神教の国だから、まだいくらかの「父なる超自我」の機能は残存している。

柄谷行人が「帝国の原理」と言っているのも、父の機能を回復しなくてはならないことにかかわる。

近代の国民国家と資本主義を超える原理は、何らかのかたちで帝国を回復することになる。(……)

帝国を回復するためには、帝国を否定しなければならない。帝国を否定し且つそれを回復すること、つまり帝国を揚棄することが必要(……)。それまで前近代的として否定されてきたものを高次元で回復することによって、西洋先進国文明の限界を乗り越えるというものである。(柄谷行人『帝国の構造』2014年)

柄谷の考え方では、現在の「新自由主義」の時代とは帝国の原理が機能していない時代(参照:「帝国」と「帝国主義」の相違)。中井久夫も「市場原理」という言葉を使って同じことを言っている(参照:《みずからのトゲを抜こうとする努力》から、《むき出しの市場原理》への移行)。

柄谷行人が言っている「帝国を否定して、帝国の原理を回復する」とは、ラカンの次の言明と等価。

人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.(Lacan, S23, 13 Avril 1976)

つまり父権制を迂回しつつ、父権制原理を使用しなくてはならない。だから日本的文脈で、父権性廃絶なんていまだ言ってるなんて、トンデモ間抜けだよ。現在、父権制の原理の回復が「真の」フェミニストの仕事なんだがな。

通常、女性の論理とされる「非全体」をめぐって、ジジェクはこう言っている。

真の「非全体 pastout」は、有限・分散・偶然・雑種・マルチチュード等における「否定弁証法」プロジェクトに付きものの体系性の放棄を探し求めることではない。そうではなく、外的限界の不在のなかで、外的基準にかんする諸要素の構築/有効化を可能にしてくれるだろうことである。(ジジェク、 LESS THAN NOTHING、2012 )

母性的な「共感の共同体」・「キズナ」の日本では、こういったキラワレルことを言ってはならないのだろうけど、敢えて言わせてもらうよ、これがボクの「常識」だし、この「常識」のないヤツを阿呆鳥と呼ぶ。そもそもたとえば安倍って男根主義者だと思うわけ? つまりオチンチンあると思うの?