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2018年3月9日金曜日

愛するものがつまびくのか/遠方の友をおもい青春の日々をしのぶのか

ひっそりと街は静まる。灯のともされた小路にひと気は絶え
松明の飾り馬車のひびきは遠ざかる
昼の楽しみにもひとは倦み 憩いをもとめて家路をたどり
得失をかぞえ賢しい頭〔こうべ〕は
家にくつろぐ、ぶどうも花もとりかたされ
手仕事のいとなみの跡とてなく 広場のざわめきもいまはとだえる
ふと弦の音が遠くあたりの庭からひびきだす。おそらくは
愛するものがつまびくのか あるいは孤独な男が
遠方の友をおもい青春の日々をしのぶのか。泉は
絶え間なくあふれ ひたひたとかぐわしい花壇にここちよい
夕暮れの大気の中 ひっそりと鐘が鳴り
数を呼ばわり夜警が時をふれまわる。
いま風がたち 杜の梢をひそかにゆする。
見よ! われらの大地の影の姿 月も
しのびやかにたちのぼる。陶然たつもの 夜がきたのだ。
星々に満ち われらのことなど気にとめぬ顔に
目を見張らせ ひとの世にあり見知らぬものが
山のかなたに悲しげにまた壮麗にたちのぼり輝きわたる。

ーーーヘルダーリン「パンとぶどう酒」


こう引用して音楽をつけくわえるなら、ドイツ系の、大地や森のにおいがする音楽をかかげるべきなんだろうな、だが《愛するものがつまびくのか あるいは孤独な男が/遠方の友をおもい青春の日々をしのぶのか》とある、ブラームスでもマーラーでもダメだな、シューベルトやシューマンはどうか? 歌曲は浮かんでくるさ、でもどうもぴったりくる弦楽曲は、わたくしにはない。

とうわけで、偏愛のフォーレとなるんだな、後期フォーレを愛する「病理学的な存在」だよ、ボクは。

◆Violin Sonata No. 2 in E Minor, Op. 108 ANDANTE




ひとは何よりもまず、この人物の口から発せられる調子、あの晴れた冬空に似た静穏な調子を、正しく聴きとらねばならぬ。そうしてこそ、かれの英知にふくまれた意味をみじめに誤解することがなくなるのだ。「嵐をもたらすものは、もっとも静寂な言葉だ。鳩の足で歩んでくる思想が、世界を左右するのだーー」

「いちじくの実が木から落ちる。それはふくよかな、甘い果実だ。落ちながら、その赤い皮は裂ける。わたしは熟したいちじくの実を落とす北風だ。

このようにいちじくの実に似て、これらの教えは君たちに落ちかかる。さあ、その果汁と甘い果肉をすするがいい。時は秋だ、澄んだ空、そして午後――」

ここで語っているのは、狂信家ではない。ここで行われているのは「説教」ではない。ここで求められているのは信仰ではない。無限の光の充溢と幸福の深みから、一滴また一滴、一語また一語としたたってくるのだ。ねんごろの緩徐調が、この説話のテンポだ。こういう調子は、選り抜きの人々の耳にしかはいらない。ここで聴き手になれるということは、比類のない特権だ。ツァラトゥストラの言葉を聴く耳をもつことは、誰にでも許されていることではないのだから……。(ニーチェ『この人を見よ』)

ああ、また標準的な耳には、フォーレとまったく合致しない文を掲げちまったよ、でもこれが晩年のフォーレさ

もちろんこうピッタリと引用したっていいが、《それは一羽の小鳥なのか、小楽節のまだ完成していない魂なのか、一人の妖精なのか》と。

最後の部分がはじまるところでスワンがきいた、ピアノとヴァイオリンの美しい対話! 人間の言語を除去したこの対話は、隅々まで幻想にゆだねられていると思われるのに、かえってそこからは幻想が排除されていた、話される言語は、けっしてこれほど頑強に必然性をおし通すことはなかったし、こんなにまで間の適切さ、答の明白さをもつことはなかった。最初に孤独なピアノが、妻の鳥に見すてられた小鳥のようになげいた、ヴァイオリンがそれをきいて、隣の木からのように答えた。それは世界のはじまりにいるようであり、地上にはまだ彼ら二人だけしかいなかったかのようであった、というよりも、創造主の論理によってつくられ、他のすべてのものにはとざされたその世界―――このソナタ―――には、永久に彼ら二人だけしかいないだろうと思われた。それは一羽の小鳥なのか、小楽節のまだ完成していない魂なのか、一人の妖精なのか、その存在が目には見えないで、なげいていて、そのなげきをピアノがすぐにやさしくくりかえしていたのであろうか? そのさけびはあまりに突然にあげられるので、ヴァイオリン奏者は、それを受けとめるためにすばやく弓にとびつかなくてはならなかった。すばらしい小鳥よ! ヴァイオリン奏者はその小鳥を魔法にかけ、手なずけ、うまくつかまえようとしているように思われた。すでにその小鳥はヴァイオリン奏者の魂のなかにとびこんでいた。すでに呼びよせられた小楽節は、ヴァイオリン奏者の完全に霊にとりつかれた肉体を、まるで霊媒のそれのようにゆり動かしていた。スワンは小楽節がいま一度話しかけようとしているのを知るのであった。(プルースト「スワン家のほうへ」)

いやでもじつは、すべての遺作のop121のアンダンテにあるんだ。なぜこんなに美しいんだろう?

◆Faure, String Quartet, Movement 2



ここには、ヘルダーリンがもとめた「表現の澄明さ die Klarheit der Darstellung」がある。この美はみずから充足し、ボク抜きで存在する。それでいて嫌になるほど執拗に呼びかけ、ボクにはわかるはずもない答えを要求する。しまいには音が耳にきえてくるのではなく、ボクを聴くものとなる・・・

いやあシツレイ!

《私の愛するもの、愛さないもの J’aime, je n'aime pas》、そんなことは誰にとっても何の重要性もない。とはいうものの、そのことすべてが言おうとしている趣意はこうなのだ、つまり、《私の身体はあなたの身体と同一ではない mon corps n'est pas le même que le vôtre》。というわけで、好き嫌い des goûts et des dégoûts を集めたこの無政府状態の泡立ち、このきまぐれな線影模様のようなものの中に、徐々に描き出されてくるのは、共犯あるいはいらだちを呼びおこす一個の身体的な謎の形象である。ここに、身体による威嚇 l'intimidation du corps が始まる。すなわち他人に対して、自由主義的に寛容に私を我慢することを要求し、自分の参加していないさまざまな享楽ないし拒絶を前にして沈黙し、にこやかな態度をたもつことを強要する、そういう威嚇作用が始まるのだ。(『彼自身によるロラン・バルト』)
愛の形而上学の倫理……「愛の条件 Liebesbedingung」(フロイト) の本源的要素……私が愛するもの……ここで愛と呼ばれるものは、ある意味で、《私は自分の身体しか愛さない Je n'aime que mon corps》ということである。たとえ私はこの愛を他者の身体 le corps de l'autreに転移させる transfèreときにでもやはりそうなのである。(ラカン、S9、21 Février 1962)