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2018年3月6日火曜日

あこがれの女

私自身が一人の女に満足できる人間ではなかつた。私はむしろ如何なる物にも満足できない人間であつた。私は常にあこがれてゐる人間だ。(坂口安吾「私は海をだきしめてゐたい」)

⋯⋯⋯⋯

ゴダールの1955年の短編「コケテッシュな女 Une Femme Coquette」を観てみたところで、初期トリュフォーの作品も観てみた。トリュフォーは1932年生れで、1930年のゴダールより2才年下だが、映画作家としては、ゴダールに先立って名高くなっている。1959年に「大人は判ってくれない Les Quatre cents coups」が評判になったのだから。あの作品は27才のときなのか、などと実はいまごろ知ったのだが。

だがここでは「大人は判ってくれない 」ではない。その前年の1958年に作られた
「あこがれ Les Mistons」である。かつて観ているはずなのだが、記憶から抜け落ちている(かつて、というのは、わたくしの場合、30年以上まえの話だが)。

ああ、こんなに美しい作品があったのか、ーー足フェチ・トリュフォーの原点のような作品だ。同じ足フェチとしてこの作品を失念していたのは忸怩たる思いである。

まず冒頭シーンを貼り付けよう。全編は、YOUTUBEにはなく、VIMEOにある(→François Truffaut Les Mistons)。

◆Les Mistons




あのゴダール=ナタリー・バイ Nathalie Baye がすでにこんなところにいるではないか!


(ゴダール、勝手に逃げろ/人生 Sauve qui peut (la vie)、1979年)


そもそもナタリー・バイ(Nathalie Baye, 1948年生れ)は、トリュフォーの作品「アメリカの夜 La Nuit américaine 」(1973)、「恋愛日記 L'Homme qui aimait les femmes」 (1977)、「緑色の部屋 La chambre verte」 (1978)に出演後の、「勝手に逃げろ/人生 Sauve qui peut (la vie) 」(1979)である。

トリュフォーは女に手がはやいので名高いが、ーーフランソワーズ・ドルレアックFrançoise Dorléac(カトリーヌ・ドヌーヴの姉)、ジャンヌ・モロー Jeanne Moreau、カトリーヌ・ドヌーヴ Catherine Deneuve、ジャクリーン・ビセット Jacqueline Bisset、ファニー・アルダン Fanny Ardant等々、等々ーー、ナタリー・バイともヤッテるんだろうか?



ーーああ、たぶん・・・キットキット

(撮影の)仕事をしている時、私は魅惑的な誘惑者になります。世の中で一番すてきなこの仕事は、一つの「ラブストーリー」が始まる時に、私を感情的に有利な立場に置いてくれるのです。というのもふつう、私の前には、心を高ぶらせ、怖がっていて、従わざるをえない、そして私にすべてを託し、身を投げ出す用意のできている若い女性がいるのです。そこで起こることといったら、いつも同じことです。(トリュフォー、リリアーヌ・ドレフュス宛てーー『恋のエチュード』1971年、撮影中の手紙)

最も惚れたのは、カトリーヌ・ドヌーヴだったと噂があるが、さもありなん。

暗くなるまでこの恋を La Sirène du Mississipi(1969年)

いやあ、ドヌーヴというのは、じつに美しい。「シュルブールの雨傘」以来、隠れドヌーヴファンであることを、ここで白状しなければならない。なかんずくトリュフォーによって輝かされた彼女のなんという美! 

すこしまえ「歩く隠蔽記憶」をめぐって記述したとき、上の写真を貼り付けようかどうか迷ったこともあわせて白状しておこう。


(Flaka Jahaj , 隠蔽記憶 Deckerinnerung)


さて話を戻さねばならぬ。1958年の「あこがれ」である(ドヌーヴが自転車の似合う女だったらもっとよかったのに)。





いやあじつに感激してしまった、「あこがれ」には、ボクの少年時代が書き込まれているのである。




ああ、ああああ、ああああああ! ここにはたしかにボクがいる、




生きつづける欲望を自己の内部に維持したいとねがう人、日常的なものよりももっと快い何物かへの信頼を内心に保ちつづけたいと思う人は、たえず街をさまようべきだ、なぜなら、大小の通は女神たちに満ちているからである。しかし女神たちはなかなか人を近よせない。あちこち、木々のあいだ、カフェの入り口に、一人のウェートレスが見張をしていて、まるで聖なる森のはずれに立つニンフのようだった、一方、その奥には、三人の若い娘たちが、自分たちの自転車を大きなアーチのように立てかけたそのかたわらにすわっていて、それによりかかっているさまは、まるで三人の不死の女神が、雲か天馬かにまたがって、神話の旅の長途をのりきろうとしているかのようであった。(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」)



こう記していると、なぜかめったにきかないヘンデルがきこえてくる、なぜだろうか?

――なおひとこと、選り抜きの耳をもつ人々のために言っておこう、わたしが本来音楽に何を求めているかを。それは、音楽が十月のある日の午後のように晴れやかで深いことである。音楽が独特で、放恣で、情愛ふかく、愛想のよさと優雅さを兼ねそなえた小柄のかわいい女であることである。……わたしは、ドイツ人が音楽とは何かであるかを知りうる力のあることを、断じて認めないだろう。世にドイツの音楽家と呼ばれている者たち、とくにその最大の者たちはみな外国人だ。スラヴ人、クロアチア人、イタリア人、オランダ人――もしくはユダヤ人である。そうでなければ、協力な種族に属するドイツ人、いまは死に絶えたドイツ人、たとえばハインリヒ・シュッツ、バッハ、ヘンデルなどである。(ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳)

いやいやただたんに「かわいい女」のせいではない。





ーーこの画像は、ボクにとってヘンデルと結びついているのである。

◆Lesley Garrett - Lascia Chio Pianga