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2018年3月7日水曜日

「幻想の横断」・「自由連想」・「寝椅子」のお釈迦

いやあ貴君!「世の中で一番始末に悪い馬鹿」で記したこと、つまりお釈迦になった幻想の横断とは、もはや「常識」だよ。わたくしは臨床家ではまったくないので、エラそうなことはいいたくないが、いまだ「自由連想」のみに終始している旧套の精神分析家というのは、はやいとこお釈迦にしなくちゃいけない。

ラカンは幻想を、欲動を主体に統合し和解させる典型的な神経症的戦略として概念化した。ラカン的観点からは、この戦略は錯覚的 illusory であり、主体を反復循環へと投げ入れる。1960年代のラカンは、精神分析治療の目標を「幻想の横断 la traversée du fantasme」と考えた。これは、主体が幻想のシナリオを何度も何度も反復する強迫的流儀は、乗り越えるべき何ものかであるという意味である。…

しかしながら1970年代以降の後期理論で、ラカンは結論づける、そのような「横断」は、治療がシニフィアンを通してなされる限り、不可能であると。…

こうしてラカンは、彼が「サントーム」と呼ぶものの構築を提唱する。それは純粋に個人的な方法、ーー執着する欲動衝迫と同時に他者の優越をを巡っている現実界・想像界・象徴界を取り扱う純単独的な方法である。(Identity through a Psychoanalytic Looking Glass、2009、Stijn Vanheule and Paul Verhaeghe、PDF

 幻想の横断のお釈迦というのは、自由連想のお釈迦ということだ。これは中井久夫も記している。

…… 境界例や外傷性神経症の多くが自由連想に馴染まないのは、自由連想は物語をつむぐ成人型の記憶に適した方法だからだと私は考えている。いや、つむがせる方法である。この点から考えると、フロイトが自由連想法を採用したことと幼児期外傷の信憑性に疑問を持ったこととは関係があるかもしれない。語りになれば、それはウソくさくなったかもしれないのである。(中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・記憶・外傷』所収)

境界例や外傷性神経症というのは、中井久夫とポール・バーハウにおいては、フロイトの「現勢神経症」の範疇にはいる(参照:ホロコースト生存者の子供たちのPTSD)。

現勢神経症 Aktualneurose の症状は、しばしば、精神神経症 psychoneurose の症状の核であり、そして最初の段階である。(フロイト『精神分析入門』1916-1917)
精神神経症と現勢神経症は、互いに排他的なものとは見なされえない。(……)精神神経症は現勢神経症なしではほとんど出現しない。しかし「後者は前者なしで現れるうる」。(フロイト『自己を語る』1925)

ーー精神神経症/現勢神経症とは、ラカン的には象徴界の症状/現実界の症状である(ファルス享楽の症状/身体の享楽の症状)。

そして外傷神経症とは、現実界の症状の範疇にある。

外傷性戦争神経症 traumatischen Kriegsneurosen という名称はいろいろな障害をふくんでいるが、それを分析してみれば、おそらくその一部分は現勢神経症 Aktualneurosen の性質をわけもっているだろう。(フロイト『制止、症状、不安』1926)

現勢神経症の特徴は、バーハウの簡潔な表現ならこうなる。

「現勢神経症」の主な特徴とは、表象を通しての欲動興奮を処理することの失敗である。(ポール・バーハウ2008、Paul Verhaeghe,Lecture in Dublin, A combination that has to fail: new patients, old therapists)

現在、まともなラカン派においては、フロイトの「現勢神経症」概念を前面にだしているか否かは人によるが、幻想の横断や自由連想のお釈迦をめぐっては、ほぼコンセンサスがあるはずだよ、そんなことはすこし調べればどこにでも書いてある。

以下、三人のラカン派臨床家の文を掲げておくよ。


◆ LE RÉEL AU XXIèmeSIÈCLE ▪ PRÉSENTATION DU THÈME DU IXème CONGRÈS DE L'AMP CONFÉRENCE DE JACQUES-ALAIN MILLER 、2012、PDF )

精神分析は、知を想定された主体 sujet supposé savoir のおかげで、抑圧されたもの、そして抑圧されたものの解釈の水準で行われる。

しかし21世紀において、精神分析は別の相を探る精神分析の問いがある。別の相とは、法なき現実界と意味なき現実界に対する防衛 la défense contre le réel sans loi et sans sensである。

ラカンは現実界の概念 la voie du réel にてこの方向を示した。フロイトが欲動の神話的概念 le concept mythique de la pulsion.にて示したのと同様に。

後期ラカンの無意識は、現実界の水準にある。便宜上こう言おう、フロイトの無意識の底部 « sous » l'inconscient freudien にある無意識と。

したがって21世紀に入り込むために、我々の臨床は防衛の解体(防衛を散らすこと déranger la défense)、現実界に対する防衛の脱秩序化 (防衛を乱すことdérégler contre le réel )に焦点を当てなければならない。

分析における転移性無意識 l'inconscient transférentiel は、すでに現実界に対する防衛 défense contre le réel である。転移性無意識には、いまだ意図 une intention・意味(言いたいことconserve une intention)を保持している。

だが現実界の無意識は意図はない l'inconscient réel n'a pas d'intentionnalité 。それは「まさにそれだ C'est ainsi」の様相のもとで直面される。我々の「アーメンAmen」のようなものである。(ジャック=アラン・ミレール、2012)


◆An Interview With Paul Verhaeghe(Paul Verhaeghe and Dominiek Hoens,2011)PDF

ほぼ 15 年前ほどから私は感じはじめた、私の仕事のやり方、私の伝統的な精神分析的方法がもはやフィットしないようになってしまったと。私はとても具体的にこれが確かだとすることさえできる。あなたが分析的に仕事をしているとき、いわゆる予備会話をするだ ろう。この意味は誰かを寝椅子に横たえる瞬間をあとに延ばすということだ。あなたはいつ始めるかの目安をつかむ。あなたが言うことが出来る段階のね。さあ私は患者を寝椅子に 横たえるときが来た、と。ところが多くの患者はこの段階までに決してならない。というのは 彼らが訪れてくる問題は、寝椅子に横たえさせると、逆の治療効果、逆の分析効果をもっているから。

それで私は自問した、これはなんだろうと。ここで扱っているのはなんの問題なんだろう? と。どの診断分類なのだろう? あらゆる診断用語のニュアンスを以て、どの鑑別的構造に 直面しているのだろう? 私が思いついた最初の答、それによって擁護しようと思った何か、 いまもまだ擁護しようとしているものは、フロイトのカテゴリーAktualpathologie(現勢病理≒ 現勢神経症)だった。

ここに私はこれらの患者たちのあいだに現れる数多くの症状の処方箋を見出した、まずは パニック障害と身体化 somatisation だった、不十分な象徴化能力、徹底操作や何かを言 葉にする能力の不足とともに。これが我々の最も重要な道具、「自由連想」を無能にしたのだ。

古典的な精神神経症のグループは意味の過剰に苦しんだ、ヒストリー=ヒステリーの過剰、 イマジネールなものの過剰に。そしてこれがあなたが脱構築しなければならないものだっ た。新しいグループは全てのレヴェルでこれらが欠けている。かつまた彼らは他者を信頼 しない。転移があるなら陰性転移しかない。象徴化の能力はほとんどない。ヒストリー(歴史)も同じく。

いや彼らにヒストリーはある。だがそのヒストリーを言語化できない。…私はなんと逆の方向に仕事をしなければならないのだ。

社会的側面に戻れば、私が自問したのはなぜこのようなラディカルな移行が起こったのか、 ということだ。なぜ古典的なヒステリーや強迫神経症者が少なくなったのか?…

答えは母と関係がある。母と子どものあいだの反映、つまり鏡(像)の過程にある。… 結果として我々は視界を拡げなければならない。母が以前に機能したようにはもはや機能 していないのなら、異なった社会的文脈にかかわるにちがいない。そのときあなたは試み なくてはならないーーこれは古典的な分析家/心理学者にとってはひどく難しいのだが ーー何を試みるべきかといえば社会的要因への洞察を得ようとすることだ。

さらに、あなたはイメージを形成するようにしなくてはならない、素朴な解決法に陥らないよ うにしながら。だから私は母親非難 mother-blaming モデルの考え方を捨て去った瞬間を とてもよく覚えている。私はとても素早くそうした。そのモデルには別の危険が潜んでいる、 すなわち保守主義だ。…

こういった理由で、治療はむしろ数々の象徴化の構築の手助けに焦点を絞ることになる。 それは古典的な神経症の治療とは全く逆だ。神経症では象徴化があまりにも多くありそれ を剥ぎとらなければならない。(ポール・バーハウ、2011)


◆Geneviève Morel 、Fundamental Phantasy and the Symptom as a Pathology of the Law'(2009、PDF

ラカンはその教えの最後で、父の名と症状とのあいだの観点を徹底的に反転させた。彼の命題は、父の名の「善き」法にもかかわらず症状があるのではなく、父の名自体が、あまたある症状のなかの潜在的症状ーーとくに神経症の症状--以外の何ものでもない、というものだ。ヒステリーの女性たちとともにフロイトによって発明された精神分析は、まずは、父によってつくり出された神経症的な症状に光を当てた。だが、精神分析をこれに限るどんな理由もない。事実、精神病においてーーそれは格別、我々に役立つ--、主体は、母から分離するために、別の種類の症状を置こうと努める。

この新しい概念化において、症状は、たとえ主体がそれについて不平を言おうとも、母から分離し、母の享楽の虜にならないための、必要不可欠な支えなのだ。分析は、症状の病理的で過度に制限的な側面を削減する。すなわち、症状を緩和するが、主体の支えとしての必要不可欠な機能を除去はしない。そして時に、主体が以前には支えを仕込んでいない場合、患者が適切な症状を発明するよう手助けさえする。(Geneviève Morel、2009)

→文化共同体病理学篇「「父の蒸発」後の「母女」の時代