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2018年3月31日土曜日

この知らないイマージュは何だろ

ゴダールは、『(複数の)映画史』2Aで、デュラスやトリュフォーが絶賛したらしい、チャールズ・ロートン唯一の監督作品 『狩人の夜』の、殺人鬼ハリ ーに追われる幼い兄妹が小舟で逃れるシーンを、『映画史』では珍しいぐらい長く引用している(以前から美しいシーンだとは思っていたのだが、このシーンが『狩人の夜』からであるのは、数日前知った)。

◆ The Night of the Hunter - River Boat Scene BY CHARLES LAUGHTON - 1955




ーーこの箇所はたしかにこよなく美しいが、全編をみようとしたら、途中で退屈してしまった・・・音楽もコトバも邪魔になってしまう。わたくしはもはや長い「物語」映画を忍耐強く観る能力が欠けている。

ゴダールは、ボードレールの「旅の誘い」を読むジュリー・デルピー Julie Delpy の姿とのモンタージュの形で引用している(『狩人の夜』自体、今みると、前後の映像を移動させているようだ)。





ゴダールは1987年に、《ふと、知らないメロディを聞いて、ああ、これは何だろうと惹きつけられることがあるでしょう。それと同じように、美しい映像に惹きつけられて、ああ、これは何だろうと人びとに思ってもらえるような映画を作ってみたい》と言っているが、「俳優」チャールズ・ロートンによる『狩人の夜』の幼い兄妹の舟のシーンとは、映画を多く観ているわけではないわたくしには、まさにそれだった。




連中は何もいうことがないので、名前だけでものをいうのです。テレビは、対話というか、そうした話題をめぐって話をする能力を確かに高めはしました。だが、見る能力、聴く能力の進歩に関しては何ももたらしていない。私が『リア王』にクレジット・タイトルをつけなかったのはそのこととも関係を持っています。

ふと、知らないメロディを聞いて、ああ、これは何だろうと惹きつけられることがあるでしょう。それと同じように、美しい映像に惹きつけられて、ああ、これは何だろうと人びとに思ってもらえるような映画を作ってみたいのです。しかし、名前がわからないということは人を不安におとしいれます。新聞やテレビも、一年間ぐらい絶対に固有名を使わず、たんに、彼、彼女、彼らという主語で事件を語ってみるといい。人びとは名前を発音できないために不安にもなるでしょうが、題名も作曲者もわからないメロディにふと惹きつけられるように、事件に対して別の接し方ができるかもしれません。

いま、人びとは驚くほど馬鹿になっています。彼らにわからないことを説明するにはものすごく時間がかかる。だから、生活のリズムもきわめてゆっくりしたものになっていきます。しかし、いまの私には、他人の悪口をいうことは許されません。ますます孤立して映画が撮れなくなってしまうからです。馬鹿馬鹿しいことを笑うにしても、最低二人の人間は必要でしょう(笑)。(ゴダール「憎しみの時代は終り、愛の時代が始まったと確信したい」(1987年8月15日、於スイス・ロール村――蓮實重彦インタヴュー集『光をめぐって』所収)


2018年3月28日水曜日

全芸術論の核としての「無意識の再記憶 ressouvenirs inconscients」

《私は作品の最後の巻――まだ刊行されていない巻――で、無意識の再記憶 (ressouvenirs inconscients) の上に私の全芸術論をすえる 。》(Marcel Proust, « À propos du “ style ” de Flaubert » , 1er janvier 1920)

⋯⋯⋯⋯

……彼らが私の注意をひきつけようとする美をまえにして私はひややかであり、とらえどころのないレミニサンス réminiscences confuses にふけっていた…戸口を吹きぬけるすきま風の匂を陶酔するように嗅いで立ちどまったりした。「あなたはすきま風がお好きなようですね」と彼らは私にいった。(プルースト「ソドムとゴモラⅡ」)




私の作品はたぶん一連の 「無意識の小説 Romans de l'Inconscient」 の試みのようなものでしょう。(……)「ベルクソン的小説」というのは正確さを欠く言い方になるでしょう。なぜなら私の作品は、無意志的記憶(mémoire involontaire)と意志的記憶(mémoire volontaire)の区別に貫かれていますが、この区別はベルクソン氏の哲学に現れていないばかりでなく、それと矛盾するものでさえあるからです。 (Interview de Marcel Proust par Élie-Joseph Bois, parue dans le journal “Le Temps” du 13 novembre 1913)
これは極めてリアルな書 livre extrêmement réel だが、 「無意志的記憶 mémoire involontaire」を模倣するために、…いわば、恩寵 grâce により、「レミニサンスの花柄 pédoncule de réminiscences」により支えられている。 (Comment parut Du côté de chez Swann. Lettre de M.Proust à René Blum de février 1913)




われわれは、自分のすべての記憶を、自分に所有している。ただ、記憶の全部を思いだす能力をもっていないだけだ、とベルグソン氏の説にしたがいながら、ノルウェーのすぐれた哲学者はいった(……)。しかし、一体われわれが思いださない回想とはなんであろう?  

Nous possédons tous nos souvenirs, sinon la faculté de nous les rappeler, dit d'après M. Bergson le grand philosophe norvégien... Mais qu'est ce qu'un souvenir qu'on ne se rappelle pas? (プルースト「ソドムとゴモラⅡ」)



あの小さな写真で、私は何だか打ちのめされたような様子をしているが⋯⋯この映画の唯一の目的は、それをはっきりさせることかもしれない。(ゴダール『JLG/自画像』)



2018年3月27日火曜日

「潜在的なもの」と「潜在的対象」の相違

ドゥルーズにとって、「潜在的なもの le virtuel」と「潜在的対象 L'objet virtuel」は異なる。すくなくともわたくしはそう考える(ドゥルーズ研究者のなかで誰もそう言っているのをみたことはないが)。

ドゥルーズは潜在的なものを《純粋多様体 une multiplicité pure》と言っている。他方、潜在的対象は《純粋過去の切片 un lambeau de passé pur》《部分対象 un objet partial》としている。

・潜在的なものは⋯⋯「イデア」における純粋多様体を示す。le virtuel ⋯⋯ désigne une multiplicité pure dans l'Idée

・潜在的対象は純粋過去の切片である。 L'objet virtuel est un lambeau de passé pur

・潜在的対象はひとつの部分対象である。L'objet virtuel est un objet partial(ドゥルーズ 『差異と反復』)

ーー純粋過去=潜在的なものとすれば、潜在的対象は、潜在的なものの切片である(たとえばマドレーヌの味)。

この関係はラカンの「享楽」と「剰余享楽」の関係と相同的である。あるいはラカンマテームにおけるȺとS(Ⱥ)の関係に(トラウマȺとトラウマの原シニフィアンS(Ⱥ)の関係)。

剰余享楽は(……)享楽の欠片である。 plus de jouir…lichettes de la jouissance (ラカン、S17、11 Mars 1970)

ーー享楽とは現実界である。

享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel,(ラカン、S23, 10 Février 1976)

ーー《真理における唯一の問い、フロイトによって名付けられたもの、「死の本能 instinct de mort」、「享楽という原マゾヒズム masochisme primordial de la jouissance」 …全ての哲学的パロールは、ここから逃げ出し、視線を逸らしている。》(ラカン、S13, 08 Juin 1966)


そして現実界とはトラウマ(=言語で表象されえないもの)であり、ラカンの用語遣いでは穴ウマ=トラウマ( troumatisme)である。 穴 TROU、すなわちȺである。

私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。…これは触知可能である…人がレミニサンス réminiscence と呼ぶものに思いを馳せることによって。…レミニサンス réminiscence は想起 remémoration とは異なる。(ラカン、S.23, 13 Avril 1976)

⋯⋯⋯⋯

以下にドゥルーズの文をいくらか長く引用する。 

◆ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』(第二版、1970年より)

【意志的記憶 mémoire volontaire】
意志的記憶 la mémoire volontaire には、過去の即自存在 l'être en soi du passé という本質的なものが欠けているのは明らかである。

意志的記憶は、過去が以前に現在であったのちに、過去が過去として構成されたかのようにふるまう。(……)確かに、われわれは過去を現在として経験しているその同じときに、何かを過去として把握することはない(……)。しかしそれは、意識的知覚と、意志的記憶との結合された要求によって、もっと深いところで両者の潜在的な共存 une coexistence vỉtuelle が存在しているところに、両者の実在的な連続 une succession réelle が作られるからである。


【一気に、過去そのものの中に自らを置くこと qu'on se place d'emblée dans le passé lui-même】
もしもベルクソンとプルーストの考え方にひとつの類似があるとすれば、それはこのレヴェルにおいてである。つまり、持続のレヴェルにおいてではなく、記憶のレヴェルにおいてである。現勢的な現在 actuel présent から過去にさかのぼったり、過去を現在によって再構成したりしてはならず、一気に、過去そのものの中に自らを置かなくてはならない on se place d'emblée dans le passé lui-même。この過去は、過去の何かを代表象するものではなく ce passé ne représente pas quelque chose qui a été、現在存在するもの、現在としてそれ自体と共存する何か coexiste avec soi comme présent だけを代表象する。


【ベルクソンの「潜在的なもの le virtuel」】
過去はそれ自体以外のものの中に保存されてはならない。なぜならば過去はそれ自体において存在し、それ自体において生き残り、保存されるからである。――これが『物質と記憶』の有名なテーゼである。過去のこのようなそれ自体における存在 être en soi du pasé をベルクソンは「潜在的なもの le virtuel」と呼んだ。同様にプルーストも、記憶のシーニュによって帰納された状態について、「現勢的でないリアルなもの Réels sans être actuels、抽象的でない観念的なものidéaux sans être abstraits」と言っている。


【ベルクソンとプルーストの相違】
確かにそこを出発点として、プルーストとベルクソンとでは問題が同じではなくなる。ベルクソンにとっては、過去がそれ自体で保存されることを知れば足りる。(……)これに対してプルーストの問題は、それ自体において保存される過去、それ自体において生き残るような過去をどのように救うかという問題である。(……)この問題に対して、「無意志的記憶la Mémoire involontaire」のはたらきという考え方が解答を与える。


【無意志的記憶 La mémoire involontaire】
無意志的記憶 La mémoire involontaire は、まず第一に、ふたつの感覚、ふたつの時間の間の類似性 la ressemblance に依存しているように思われる。しかし、もっと深い段階では、類似性からわれわれは厳密な同一性 une stricte identité へと導かれる。それは、ふたつの感覚に共通な質の同一性か、あるいは、現勢性と過去性 l'actuel et l'ancienというふたつの時間に共通な感覚の同一性である。たとえば味であるが、味は、同時にふたつの時間に拡がる、或る量の持続を含んでいる。

しかしまた逆に、同一の質である感覚は、何か差異のあるものとのひとつの関係 un rapport avec quelque chose de différent を含んでいる。マドレーヌの味は、それに含まれたものの中に、コンブレーを閉じこめ、包んでいる emprisonné et enveloppé Combray。

われわれが意識的知覚 la perception conscienteに留まっている限り、マドレーヌはコンブレーと全く外的な隣接関係 un rapport de contiguïté tout extérieur avec Combray しか持たない。われわれが意志的記憶 la mémoire volontaire に留まる限り、コンブレーは、過去の感覚と分離したコンテクスト le contexte séparable de l'ancienne sensation. として、マドレーヌに対して外的なまま extérieur à la madeleine である。しかし、ここに無意志的記憶 la mémoire involontaireの特質がある。無意志的記憶はこのコンテクストを内在化 intériorise le contexteし、過去のコンテクストを現在の感覚と不可分なものにする l'ancien contexte inséparable de la sensation présente。


【内在化された差異 différence intériorisée】
ふたつの時間の間の類似性が、もっと深い同一性へとおのれを越えて行くのと同時に、過去の時間に属している隣接性は、もっと深い差異 une différence plus profonde へとおのれを越えて行く。コンブレーは現勢的な感覚の中に再現され Combray resurgit dans la sensation actuelle、過去の感覚とのその差異 sa différence avec l'ancienne sensationは、現在の感覚の中に内在化される intériorisée dans la sensation présente。したがって、現在の感覚はもはや、差異のある対象 objet différentとのこの関係と分離できない。

無意志的記憶における本質的なものは、類似性でも、同一性でさえもない。それらは、無意志的記憶の条件にすぎないからである L'essentiel dans la mémoire involontaire n'est pas la ressemblance, ni même l'identité, qui ne sont que des conditions 。本質的なものは、内的なものとなった、内在化された差異である L'essentiel, c'est la différence intériorisée, devenue immanente。

レミニサンスが芸術と類比的 la réminiscence est l'analogue de l'art で、無意志的記憶が隠喩と類比的 la mémoire involontaire, l'analogue d'une であるというのは、この意味においてである。

無意志的記憶 la mémoire involontaire における本質的なものは、《ふたつの差異のある対象 deux objets différents 》を、たとえば、その味をともなったマドレーヌと、色と気温という性質をともなったコンブレーを把握する。それは一方を他方のなかに包み enveloppe l'un dans l'autre、両者の関係を、何らかの内的なものにするelle fait de leur rapport quelque chose d'intérieur。


【純粋状態での短い時間 Un peu de temps à l'état pur】
マドレーヌの味、ふたつの感覚に共通な質、ふたつの時間に共通な感覚は、いずれもそれ自身とは別のもの、コンブレーを喚び起こすためにのみ存在している La saveur, la qualité commune aux deux sensations la sensation commune aux deux moments n'est là que pour rappeler autre chose: Combray。しかし、このように呼びかけられて再び現われるコンブレーは、絶対的に新しいフォルムになっている Combray resurgit sous une forme absolument nouvelle 。

コンブレーは、かつて現在であったような姿では現われない Combray ne surgit pas tel qu'il a été présent。コンブレーは過去として現われる Combray surgit comme passéが、しかしこの過去は、もはやかつてあった現在に対して相対するものではなく mais ce passé n'est plus relatif au présent qu'il a été、それとの関係で過去になっているところの現在に対しても n'est plus relatif au présent par rapport auquel il est maintenant passé 相対するものではない。

それはもはや知覚されたコンブレーでもなく Ce n'est plus le Combray de la perception、意志的記憶の中のコンブレーでもない ni de la mémoire volontaire.。コンブレーは、体験されえなかったような姿で、リアリティ réalité においてではなく、その真理 vérité において現われる。


【純粋過去】
コンブレーは、純粋過去 passé pur の中に、ふたつの現在と共存して coexistant avec les deux présents、しかもこのふたつの現在に囚われることなく mais hors de leurs prises、現勢的な意志的記憶 la mémoire volontaire actuelleと過去の意識的知覚 la perception consciente ancienne では到達しえないところで現われる。

それは、《純粋状態での短い時間 Un peu de temps à l'état pur》である。つまりそれは、現在と過去、現勢的なものである現在 présent qui est actuel と、かつて現在であった過去passé qui a été présent との単純な類似性 une simple ressemblance ではなく、ふたつの瞬間の同一性 une identité dans les deux momentsでさえもなく、その彼岸 au-delàの、かつてあったすべての過去、かつてあったすべての現在よりもさらに深い plus profond que tout passé qui a été, que tout présent qui fu、過去のそれ自体における存在〔即自存在〕 l'être en soi du passé である。《純粋な状態での短い時間 Un peu de temps à l'état pur》とは、局在化した時間のエッセンス l'essence du temps localisée. である。


【潜在的なもの】
《現勢的ではないリアルなもの、抽象的ではないイデア的なもの Réels sans être actuels, idéaux sans être abstraits 》(『見出された時』)――このイデア的なリアルなもの、この潜在的なものが本質である Ce réel idéal, ce virtuel, c'est l'essence。本質は、無意志的記憶の中に現実化または具現化される L'essence se réalise ou s'incarne dans le souvenir involontaire。ここでも、芸術の場合と同じく、包括と展開 l'enveloppement, l'enroulement は、本質のすぐれた状態として留まっている。そして、無意志的記憶は、本質の持つふたつの力を保持している。すなわち、過去の時間のなかの差異 la différence dans l'ancien momentと、現勢性のなかの反復 la répétition dans l'actuel。


ーーーー


◆ドゥルーズ『差異と反復』(1968年)より


【潜在的対象=純粋過去の破片 fragment de passé pur】
・潜在的対象は純粋過去の切片である。 L'objet virtuel est un lambeau de passé pur(ドゥルーズ 『差異と反復』)

・潜在的対象はひとつの部分対象である。L'objet virtuel est un objet partial(ドゥルーズ 『差異と反復』)



【潜在的対象x】
それら二つの現在 deux présents 〔古い現在と現勢的な現在〕が、もろもろの実在的 réels なものからなる系列 la série des réels のなかで可変的な間隔 une distance variable を置いて継起するということが真実であるとしても、それら二つの現在はむしろ、別の本性をもった潜在的対象 l'objet virtuel に対して共存する二つの現実的な系列 deux séries réellesを形成しているのである。しかもその別の本性をもった潜在的対象 l'objet virtuel は、それはそれでまた、それら二つの現実的な系列のなかで、たえず循環し遷移する。(…)反復は、ひとつの現在からもうひとつの現在へ向かって構成されるのではなく La répétition ne se constitue pas d'un présent à un autre、むしろ、潜在的対象(対象=x)に即してそれら二つの現在が形成している共存的な二つの系列のあいだで構成される mais entre les deux séries coexistantes que ces présents forment en fonction de l'objet virtuel (objet = x) 。(ドゥルーズ『差異と反復』財津理訳)
s'il est vrai que les deux présents sont successifs, à une distance variable dans la série des réels, ils forment plutôt deux séries réelles coexistantes par rapport à l'objet virtuel d'une autre nature, qui ne cesse de circuler et de se déplacer en elles(…)La répétition ne se constitue pas d'un présent à un autre, mais entre les deux séries coexistantes que ces présents forment en fonction de l'objet virtuel (objet = x).


【マドレーヌの味=純粋過去の破片 fragment de passé pur】
(プルーストの作品は)ジョイスの聖体顕現 épiphanies とはまったく異なった構造をもっている。しかしながらまた、それは二つの系列 deux séries の問いである。 すなわち、かつての現在 ancien présent (生きられたコンブレー)と現勢的な現在 présent actuel の系列。疑いもなく経験の最初の次元にあるのは、二つの系列(マドレーヌ、朝食)のあいだの類似性 ressemblanceであり、同一性 identité でさえある(質としての味、二つの瞬間における類似というだけでなく自己同一的な質としての味覚)。

しかしながら、秘密はそこにはない。味覚が力能をもつのは、それが何か=X を包含するときのみである La saveur n'a de pouvoir que parce qu'elle enveloppe quelque chose = x。その何かは、もはや同一性によっては定義されない。すなわち味覚は、それ自身のなか en soi にあるものとしてのコンブレー、純粋過去の破片 fragment de passé pur としてのコンブレーを包んでいる。それは、次の二つに還元されえない二重性のなかにある。すなわち、かつてあったものとしての現在(知覚)présent qu'il a été (perception)、そして意志的記憶 mémoire volontaire によって再現されたり再構成されたりし得るかもしれない現勢的な現在 l'actuel présent への二重の非還元性 double irréductibilité のなかにある。

それ自身のなかのこのコンブレー Combray en soi は、己れの本質的差異 différence essentielle によって定義される。「質的差異 qualitative difference」、それはプルーストによれば、「地球の表面 には à la surface de la terre」存在せず、固有の深さ une profondeur singulière のなかにのみ存する。この差異なのである、それ自身を包むことによって、諸々の系列のあいだの類似性を構成する質の同一性を生み出すのは。



【対象=X としてのそれ自身のなかのコンブレー】
したがって再びまた、同一性と類似性 Identité et ressemblance は「差異化するもの différenciant」の結果である。二つの系列が互いに継起するなら、それにもかかわらず、二つの系列に共鳴 résonance を引き起こすもの、すなわち対象=X としてのそれ自身のなかのコンブレー Combray en soi comme objet = x との関係において共存する。さらに、二系列の共鳴は、その系列をともに越えて占領する déborde 死の本能をもたらす。たとえば半長靴と祖母の記憶である。

エロスは共鳴 la résonance によって構成されている。だがエロスは、強制された運動の増幅 l'amplitude d'un mouvement forcé によって構成されている死の本能に向かって己れを乗り越える(この死の本能は、芸術作品のなかに、無意志的記憶のエロス的経験の彼岸に、その輝かしい核を見出す)。

プルーストの定式、《純粋状態での短い時間 un peu de temps à l'état pur》が示しているのは、まず純粋過去 passé pur 、過去のそれ自体のなかの存在、あるいは時のエロス的統合である。しかしいっそう深い意味では、時の純粋形式・空虚な形式 la forms pure et vide du temps であり、究極の統合である。それは、時のなかに永遠回帰を導く死の本能 l'instinct de mort qui aboutit à l'éternité du retour dans le tempsの形式である。(『差異と反復』)



【永遠回帰と起源の不在】
永遠回帰 L'éternel retourは、同じものや似ているものを環帰させることはなく、それ自身が純粋な差異 la pure différenceの世界から派生する。

・・・永遠回帰には、つぎのような意味しかない―――特定可能な起源の不在 l'absence d'origine assignable。それを言い換えるなら、起源は差異である l'origine comme étant la différence と特定すること。もちろんこの差異は、異なるもの(あるいは異なるものたち)をあるがままに環帰させるために、その異なるものを異なるものに関係させる差異である。

そのような意味で、永遠回帰はまさに、起源的で、純粋で、総合的で、即自的な差異 une différence originaire, pure, synthétique, en soi の帰結である(この差異はニーチェが『力の意志』と呼んでいたものである)。差異が即自であれば、永遠回帰における反復は、差異の対自である。(ドゥルーズ『差異と反復』1968年))

⋯⋯⋯⋯

◆プルースト『見出された時』より

単なる過去の一瞬、それだけのものであろうか? はるかにそれ以上のものであるだろう、おそらくは。過去にも、そして同時に現在にも共通であって、その二者よりもさらにはるかに本質的な何物かである。これまでの生活で、あんなに何度も現実が私を失望させたのは、私が現実を知覚した瞬間に、美をたのしむために私がもった唯一の器官であった私の想像力が、人は現にその場にないものしか想像できないという不可避の法則にしばられて、その現実にぴったりと適合することができなかったからなのであった。

ところが、ここに突然、そのきびしい法則の支配力が、自然のもたらした霊妙なトリックによって、よわまり、中断し、そんなトリックが、過去と現在とのなかに、同時に、一つの感覚をーーフォークとハンマーとの音、本のおなじ表題、等々をーー鏡面反射させたのであった。そのために、過去のなかで、私の想像力は、その感覚を十分に味わうことができたのだし、同時に現在のなかで、物の音、リネンの感触等々による私の感覚の有効な発動は、想像力の夢に、ふだん想像力からその夢をうばいさる実在の観念 l'idée d'existence を、そのままつけくわえたのであって、そうした巧妙な逃道のおかげで、私の感覚の有効な発動は、私のなかにあらわれた存在に、ふだんはけっしてつかむことができないものーーきらりとひらめく一瞬の持続 la durée d'un éclair、純粋状態にあるわずかな時間un peu de temps à l'état pur ――を、獲得し、孤立させ、不動化することをゆるしたのであった。

あのような幸福の身ぶるいでもって、皿にふれるスプーンと車輪をたたくハンマーとに同時に共通な音を私がきいたとき、またゲルマントの中庭の敷石とサン・マルコの洗礼堂との足場の不揃いに同時に共通なもの、その他に気づいたとき、私のなかにふたたび生まれた存在は、事物のエッセンスからしか自分の糧をとらず、事物のエッセンスのなかにしか、自分の本質、自分の悦楽を見出さないのである。私のなかのその存在は、感覚機能によってそうしたエッセンスがもたらさえない現在を観察したり、理知でひからびさせられる過去を考察したり、意志でもって築きあげられる未来を期待したりするとき、たちまち活力を失ってしまうのだ。意志でもって築きあげられる未来とは、意志が、現在と過去との断片から築きあげる未来で、おまけに意志は、そんな場合、現在と過去とのなかから、自分できめてかかった実用的な目的、人間の偏狭な目的にかなうものだけしか保存しないで、現在と過去とのなかの現実性を骨ぬきにしてしまうのである。

ところが、すでにきいたり、かつて呼吸したりした、ある音、ある匂が、現在と過去との同時のなかで、すなわち現勢的でないリアルなもの、抽象的でないイデア的なもの Réels sans être actuels, idéaux sans être abstraits である二者の同時のなかで、ふたたびきかれ、ふたたび呼吸されると、たちまちにして、事物の不変なエッセンス、ふだんはかくされているエッセンスが、おのずから放出され、われわれの真の自我がーーときには長らく死んでいたように思われていたけれども、すっかり死んでいたわけではなかった真の自我がーーもたらされた天上の糧を受けて、目ざめ、生気をおびてくるのだ。時間の秩序から解放されたある瞬間が、時間の秩序から解放された人間をわれわれのなかに再創造して、その瞬間を感じうるようにしたのだ。それで、この人間は、マドレーヌの単なる味にあのようなよろこびの理由が論理的にふくまれているとは思わなくても、自分のよろこびに確信をもつ、ということがわれわれにうなずかれるし、「死」という言葉はこの人間に意味をなさない、ということもうなずかれる。時間のそと hors du temps に存在する人間だから、未来について何をおそれることがありえよう? (プルースト『見出された時』井上究一郎訳だが、一部変更)

⋯⋯⋯⋯

ドゥルーズの『差異と反復』に戻る。


【潜在的なものと現勢的なもの】
潜在的なもの virtuel は、リアルなもの réel には対立しない。ただ現勢的なもの actuel に対立するだけである。潜在的なものは、潜在的なものであるかぎりにおいて、或る充溢したリアリティ réalité を保持している。潜在的なものについて、まさにプルーストが共鳴の諸状態について述定していたのと同じことを述定しなければならない。すなわち、《現勢的でないリアルなもの Réels sans être actuels、抽象的でないイデア的なもの idéaux sans être abstraits》(プルースト)ということ、そして、虚構でない象徴的なもの symboliques sans être fictifs である。(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)


【純粋多様体 multiplicité pureとしての潜在的なもの】
可能的なもの possible は、リアル réel に対立する。可能なもののプロセスは、「実現化 réalisation」である。

反対に、潜在的なもの virtuel は、リアル réel に対立しない。それ自体で充溢したリアリティpleine réalité を持っている。潜在的なもののプロセスは、「現勢化 actualisation」 である。(『差異と反復』)
可能的なものと潜在的なもの le possible et le virtuel は、次のように区別される。可能的なものは、「概念 concept」における同一性という形式を示す。潜在的なものは「イデア Idée」における純粋多様体 multiplicité pure を示す。この多様体は、先行条件としての同一的なものを根底的に排除する。(『差異と反復』)


⋯⋯⋯⋯

【精神分析における決定的な瞬間】
精神分析における決定的瞬間が起こったのは、フロイトが、ある点で、現実的な réels 幼児期の出来事の仮定を放棄した時である。Un moment décisif de la psychanalyse fut celui où Freud renonça sur certains points à l'hypothèse d'événements réels de l'enfance(ドゥルーズ『差異と反復』)


【1895年フロイト】
無意識のなかの現実にはどんな目安もない es im Unbewußten ein Realitätszeichem nicht gibt。したがって人は、真理、そして情動に備給された虚構とのあいだの区別をし得ない daß man die Wahrheit und die mit Affekt besetze Fiktion nicht unterscheiden kann。(フロイト、フリース宛書簡 1895 berichtet Freud in einem Brief an Fliess)


《潜在的リアルは象徴界に先立つ。しかしそれは象徴界によってのみ「遡及的に」現勢化されうる。》(ロレンゾ・チーサ、2007、Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa)

次のように言うことーー、「エネルギーは、河川の流れのなかに潜在態として、なんらかの形で既にそこにある l'énergie était en quelque sorte déjà là à l'état virtuel dans le courant du fleuve」--それは(精神分析にとって)何も意味していない。

なぜなら、我々に興味をもたせ始めるのは、エネルギーが蓄積された瞬間 moment où elle est accumulée からのみであるから。そして機械(水力発電所 usine hydroélectrique)が作動し始めた瞬間 moment où les machines se sont mises à s'exercer からエネルギーは蓄積される。(ラカン、セミネール4、1956)

ーー原初 primaireとは最初 premier のことではないーー《Il est évidemment primaire dès que nous commencerons à penser, mais il est certainement pas le premier. 》(ラカン、 S20)

すなわち、潜在的リアルとは、フロイトの遡及性 Nachträglichkeit 概念にかかわる。


⋯⋯⋯⋯

冒頭に掲げた穴のシニフィアンS(Ⱥ)とは、フロイトの固着と等価である。

「一」と「享楽」との接合としての固着 la fixation comme connexion du Un et de la jouissance。⋯⋯⋯

「一」Un と「享楽」jouissance との接合(つながり)が分析的経験の基盤であると私は考えて いる。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。⋯⋯

フロイトにとって抑圧 refoulement は、固着 fixation のなかに根がある。抑圧Verdrängung はフロイトが固着 Fixierung と呼ぶもののなかに基盤があるのである。(ミレール2011, L'être et l'un) 

そして、《S(Ⱥ)とは、欲動のクッションの綴じ目である。S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions》、《享楽は固着の対象である elle est l'objet d'une fixation》(ジャック=アラン・ミレール 2011, Première séance du Cours 2011)

このフロイトの固着S(Ⱥ)は、後期ラカン概念サントーム(原症状=身体の出来事)でもある。

ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書か れもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みで ある。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007 所収)

ーー《サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps 》(ミレール, L'être et l'un、XI . l'outrepasse、2011)    

実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、欲動の固着 (リビドーの固着 Fixierungen der Libido )点を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」、1916-1917



2018年3月26日月曜日

染みとモンタージュ

形式・イマージュ・無」の記述に依拠しつつ、もう一度、基本に戻って考えてみることにする。

確かにイマージュとは幸福なものだ。だがそのかたわらには無が宿っている。そしてイマージュのあらゆる力は、その無に頼らなければ、説明できない。(ゴダール『(複数の)映画史』「4B」)

ゴダールがヒッチコックのモンタージュに多大な影響を受けたことは、『(複数の)映画史』4Aの「奇跡」 (ヒッチコックの奇跡)の項で明瞭に示されている。

ここでは初期ジジェクから、ヒッチコックの『鳥』をめぐるジジェクの注釈を先ず掲げる。ーー過剰解釈、あるいはあまりにもラカン的過ぎると一部では評判が悪いが、その悪評は対象aの意味合いがほとんど理解されていないせいだとわたくしはみる。


◆ジジェク『斜めから見る』(1991)--既存訳からだが一部変更

まず最初に『鳥』の一場面を取り上げよう。主人公の母が、鳥たちに荒らされた部屋を覗き込み、両眼をえぐられたパジャマ姿の屍体を見る場面だ。



カメラはまず屍体全体を見せる。われわれはカメラが、魅惑的な細部、すなわち眼球をえぐりとられた血まみれの眼窩へとゆっくり接近していくのを期待する。ところがヒッチコックはわれわれの期待するプロセスをひっくり返してみせる。スローダウンの代わりにスピードアップしてみせるのだ。二つの唐突なショット、その各々がわれわれを主体へと急接近させるによって、彼はいきなり屍体の頭部を見せる。この急速に接近するショットは価値転倒的な効果を生み出す。というのも、そのショットは、ぞっとするような対象をもっと近くで見たいというわれわれの欲望を満たしているにもかかわらず、われわれを欲求不満に陥らせる。対象に接近する時間が短すぎて、われわれは、対象の残酷な知覚を統合し、「理解のための時間」、「消化」するための「間(マ pause)」を飛び越えてしまうのだ。



ふつうのトラッキング・ショットは、「正常な」速度を落とし、接近を引き延ばすことによって、対象=染みにある特定の重みをあたえる。ところがここでは、対象が「見失われる」。われわれがあまりに性急に、あまりに速く対象に接近してしまうからである。いうなれば、通常のトラッキング・ショットは強迫的であり、われわれをある細部へと無理やり固着させる。その細部はトラッキングの緩慢な速度のために染みとして機能せざるをえなくなる。一方、対象への性急な接近はヒステリー的な傾向を帯びており、われわれはあまりの速度によって対象を「見失う」。なぜならこの対象はすでにそれ自体が無であり空洞なのである。したがって、「あまりにも遅く」か「あまりにも速く」でないと呼び出すことができないのだ。なぜなら「適当な時間」をおいたとき、それは無でしかないのである。したがって、引き延ばしと性急さとは、欲望の対象=原因、<対象a>、純粋な見せかけ pure seeming の「空無性 nothingness」を捉えるための二つの方式なのである。かくして、ヒッチコックにおける「染み」の対象的次元が明らかになる。すなわち、その染みがいかなる意味作用をになっているかということである。それは二重の意味を生み出し、イマージュのあらゆる要素に、解釈活動を開始させるような補足的な意味を付け加えるのである。
だからといって、染みのもう一つの側面を見落としてはならない。それは、象徴的現実があらわれるためには落ちなければならない、あるいは沈まなけらばならない、不活性で不透明な対象としての側面である。つまり、牧歌的な風景の中に染みを出現させるヒッチコック的なトラッキング・ショットは、《現実の領域は対象a の除去の上になりたっているが、それにもかかわらず、対象a が現実 の領域を枠どっている。 le champ de la réalité ne se soutient que de l'extraction de l'objet a qui lui donne son cadre》(Lacan, E554, 1966)というラカンのテーゼをあたかも例証するかのようである。

ジャック=アラン・ミレールの厳密な注釈を引用しよう。

《〈現実界〉としての対象を密かに無視することが「ひとかけらの現実」としての現実の安定化の条件だ、とわれわれは理解している。だが、〈対象a〉があるべきところにないなら、〈対象a〉 はどうやって現実に枠をはめるのか。




〈対象a〉は、まさしく現実の領域から除去されることによって、現実に枠にはめるのである。 わたしがこの絵の表面から、絵から網がけになった長方形を取り除くなら、われわれが枠と呼ぶものを獲得する。すなわち穴にとっての枠でありながら、また残りの表面の枠である。こうした枠はどんな窓によっても作ることができる。

〈対象a〉というのはこのような表面の断片であり、それを現実から取り除くことが、現実に枠をはめることになるのである。主体とは、すなわち斜線を引かれた主体とは、…この穴のことである。存在としては、この除去されたかけらにほかならないのである。主体と〈対象a〉は等価である、とはそういうことなのである。》(ミレール,(Jacques-Alain Miller,Montré à Prémontré, 1984)

《我々は、言語の使用の結果としての、剰余享楽(対象a)から生まれた存在である。nous sommes des êtres nés du plus de jouir, résultats de l'emploi du langage. 》(Lacan, S17, 21 Janvier 1970)

ミレールの図式は、ヒッチコック的トラッキング・ショットの図式として読むことができる。すなわち、現実の全体的な眺めから、われわれは、現実に枠(斜線を引かれた長方形)を提供している染みへと接近していく。ヒッチコック的トラッキング・ショットの接近は、メビウスの環の構造のレミニサンスである(構造を思わせる reminiscent of the structure)。われわれは現実の側から離れていくうちに、ふいに、<現実界>(それの除去が現実を構成している)のすぐそばにいることに気づくのである。このプロセスはモンタージュの弁証法に裏返しである。モンタージュの課題は、カットの非連続性によって新たな意味作用、新たな現実の連続性を生み出すことであったが、ここでは連続的接近そのものが、異質な要素(絵の残りの部分が象徴的現実の一貫性を獲得するためには、この異物が不活性的で非意味な「染み」でありつづけなければならない)を見せることによって、断続、根源的非連続性の効果を生み出すのである。(ジジェク『斜めから見る』1991、既存訳一部変更)

⋯⋯⋯⋯

ミレールは1984年時点では、ラカンに準拠しつつ《主体と〈対象a〉は等価である》としているが、ジュパンチッチは、よりいっそう厳密に次のような言い方をしている。

主体とは、ネガティブなマルチチュードとしての裂け目である。…シニフィアン(=表象)とは、主体に対して対象を代表象する何ものかであるのではない。そうではなく、シニフィアンとは、他のシニフィアンに対して主体を代表象するものである。すなわち、主体とはシニフィアンの内的裂目である。…他方、対象aは、この動きのなかで生み出されたポジティブな残余である。ラカンはそれを剰余享楽と呼んだ。剰余享楽 のほかには享楽 jouissance はない。すなわち享楽はそれ自体として本質的にエントロピーとして現われる。 (ジュパンチッチ2006、Alenka Zupancic, When Surplus Enjoyment Meets Surplus Value)

これはラカンのマルクス価値形態論への言及を考慮すれば当然そうならなければならない(「最も基本的なところから始めよう」の後半を参照)。

(マルクスの価値形態論において)ひとつの商品は、他の商品の使用価値においてのみ、その(交換)価値を表現しうる。 というのは、一つのシニフィアンは、他のシニフィアンの現前においてのみ、その記銘の場ーーその潜在的不在 (斜線を引かれた主体$) ーーを代表象しうるから。(ジジェク『為すところを知らざれ ばなり』1991年、私訳)

ジジェクは『無以下のもの』(2012年)で、主体とは「要素なき場」、対象aとは「場なき要素」と言っている。これがジュパンチッチのいう「主体=シニフィアンの内的裂目」、そして次の文にある「対象a=彷徨える過剰」の意味である。

以下の文は、「表象と現象と仮象」で示したように、シニフィアン=表象として読もう。

……ラカンの公式、《シニフィアンは他のシニフィアンに対して主体を代表象する Le signifiant, c'est ce qui représente le sujet pour un autre signifiant 》。これは現代思想の偉大なブレイク スルーだった。…この概念化にとって、再現前(表象 representation)は、「現前の現前 presentation of presentation」、あるいは「ある状況の状態 the state of a situation」ではない。 そうではなく、むしろ「現前内部の現前 presentation within presentation」、あるいは「ある状況内部の状態 state within a situation 」である。

この考え方において、「表象」はそれ自体無限であり、構成的に非全体 pastoutである(あるいは非決定的である)。それはどんな対象も代表象しない。それ自身における絶え間ない「非関係 non-rapport」を妨げない。…ここでは表象そのものが、それ自身を覆う「彷徨える過剰 excès errant」である。すなわち表象は、「過剰なものへの無限の滞留」である。それは、代表象された対象、あるいは代表象されない対象から単純に湧きだす過剰ではない。そうではなく、この表象行為自体から生み出される過剰、あるいはそれ自身に内在的な「裂目」、「非一貫性」から生み出される過剰である。現実界は、表象の外部の何か、表象を超えた何かではない。そうではなく、表象のまさに裂目である。 (アレンカ・ジュパンチッチ Alenka Zupancic、The Fifth Condition、2004)

ラカンは次のように言っている。

…症状概念。注意すべき歴史的に重要なことは、フロイトによってもたらされた精神分析の導入の斬新さにあるのではないことだ。症状概念 la notion de symptôme は、…マルクス MARX を読むことによって、とても容易くその所在を突き止めるうる。(Lacan, S18, 16 Juin 1971)
人は症状概念の起源を、ヒポクラテスではなく、マルクスに探し求めなければならない。(Lacan, S22, 18 Février 1975)

ようは「表象」を考える上で、なにも格別にラカンに依拠しなくてもよい。マルクスの価値形態論に依拠したらよいのである。

もちろん、カントの「超越論的主観 transzendentales Subjekt」ーー柄谷が次のように言うとき、ラカンの「斜線を引かれた主体$」を想起しているに違いない、《カントのいう「超越論的主観X」とは、いわば「超越論的主観〔「主観」に×印を上書きする〕」である》--や、ドゥルーズ≒ベルグソンの《潜在的対象l'objet virtuel》、ドゥルーズ=プルーストの《内在化された差異 différence intériorisée》・《内的差異 différence interne》、あるいはニーチェ永遠回帰分析からもたらされた《純粋差異 pure différence》等に依拠する手もあるだろう。

だが表象をめぐる思考の核心は、マルクスの価値形態論である。なぜなら、無としての主体と同時に、剰余価値(剰余享楽=対象a)も含めて形式的に考え得るから。

根源にあるのは、使用価値(シニフィアン)と使用価値(シニフィアン)の任意の関係にほかならない。価値形態とは、いわば形象的な言語である。(柄谷行人『マルクスその可能性の 中心』p.35)

ラカン自身の発言を掲げよう。

冒頭の《主体は、他のシニフィアンに対する一つのシニフィアンによって代表象される》とは、《$は、S2に対するS1によって代表象される》として読もう。





主体は、他のシニフィアンに対する一つのシニフィアンによって代表象されうるものである Un sujet c'est ce qui peut être représenté par un signifiant pour un autre signifiant。しかしこれは次の事実を探り当てる何ものかではないか。すなわち交換価値 valeur d'échange として、マルクスが解読したもの、つまり経済的現実において、問題の主体、交換価値の主体 le sujet de la valeur d'échange は何に対して代表象されるのか? ーー使用価値 valeur d'usage である。

そしてこの裂け目のなかに既に生み出されたもの・落とされたものが、剰余価値 plus-valueと呼ばれるものである。この喪失 perte は、我々のレヴェルにおける重要性の核心である。

主体は己自身と同一化しえず、もはやたしかに享楽しえないne jouit plus 。何かが喪われているだ。それが剰余享楽 plus de jouir (対象a)と呼ばれるものである。(ラカン、セミネ ールⅩⅥ、D'un Autre à l'autre, 13 Novembre 1968)

やや難解な文だが、簡潔に言ってしまえば、《 常に「一」と「他」、「一」と「対象a」がある。il y a toujours l'« Un » et l'« autre », le « Un » et le (a) 》 (ラカン、S20、16 Janvier 1973)  である。「一」という表象(シニフィアン)には、つねに対象aが彷徨える過剰としてある。

ラカンの核心的テーゼ、《主体は、他のシニフィアンに対する一つのシニフィアンによって代表象されうるものである》を「表象」という用語を使って言い換えれば、「斜線を引かれた主体$は、他の表象に対する一つの表象によって代表象される」である。

もし、「形式・イマージュ・無」で示したように、ゴダールの表現(下図の最下段)の思考する形式とイマージュを併せて「イマージュ」と置いてみることが許されるなら(赤枠)、「無は、他のイマージュに対する一つのイマージュによって代表象される」となる。




そしてそこに「場なき要素」・「彷徨える過剰」として現われるのが剰余享楽(剰余価値)であり、ゴダール用語でいえば「分身」である。

厳密にいえば、ラカン派において「分身」とは、

・分身とは、私 moi プラス対象aーー私のイメージに付け加えられた不可視の部分ーーと同じものである。(ムラデン・ドラー1991, Lacan and the Uncanny、PDF

・分身とは i′(a) + a、想像的他者プラス対象aである(ロレンゾ・チーサ2007、Subjectivity and Otherness)

である。ゴダールが批評家時代から注目し『(複数の)映画史』4Aでも引用している、最も影響を受けたイマージュ、かつまたそのモンタージュの手法のひとつとされる、ヒッチコックの『間違えられた男』の次の分身イマージュは、まさに「 私 moi プラス対象a」であるだろう。





なにはともあれ、ラカン派でいう「表象は非全体」、あるいは「表象には、主体にとっての何ものかが「染み」として書き込まれている」とは、対象aにかかわる思考のもとにある。

染みは、構造的に喪われている表象の代役(喪われているシニフィアンのシニフィアン)である。表象の全領野は染みに依拠している。染みという代用品は、構造的に喪われているにもかかわらず、この代役は他の諸表象と同じ水準にあり、絶えず閉じ・脱境界化し・全体化する表象の領野の不可能性にとっての代役である。表象は「すべてではない」。表象は非全体 pas-tout である。表象が非全体なのは、主体の刻印のためである。表象自体の領野のなかに、主体にとっての何かが代理されているのである。(ムラデン・ドラ―2016, Mladen Dolar, Anamorphosis, pdf
主体の眼差しは、常に-既に、知覚された対象自体にシミとして書き込まれている。シミ、すなわち「対象以上の対象のなか」(対象a)に。その盲点から対象自体が主体を眼差し返す。《確かに絵は、私の目のなかにある。だが私自身、この私もまた、絵のなかにある。le tableau, certes est dans mon oeil, mais moi je suis dans le tableau. 》 (ラカン、S11) (ジジェク、パララックス・ヴュ―、私訳)

※参照:眼差しとしてのプンクトゥム

おそらくゴダールが『(複数の)映画史』で多様な引用ーーときにはハードコアポルノの引用まであるーー、そしてその編集(モンタージュ)をした手法とは、ラカン派観点からみれば、「美しい」イマージュに「染み」、あるいは空無としての対象aを種々の形式で表そうとした試みとして捉えうるのではないか。


(複数の)映画史


ロラン・バルトは染みをめぐって思考した作家である。

一人の立派なハジ(聖地巡礼をすませた回教徒の尊称)。短い灰色のひげをよく手入れし、手も同様に手入れし、真っ白い上質のジェラバを優雅にまとって、白い牛乳を飲む。

しかし、どうだ。鳩の排泄物のように、汚れが、きたないかすかなしみがある。純白の頭巾に。une tache, un léger frottis de merde, comme un besoin de pigeon, sur la capuche immaculée.(ロラン・バルト『偶景』1969年テキスト、死後出版1982)


(複数の)映画史

作家はいつもシステムの盲点(システムの目に見えない染み la tache aveugle des systèmes )にあって、漂流 dérive している。それはジョーカー joker であり、マナ manaであり、ゼロ度 degré zéroであり、ブリッジのダミー le mort du bridge、つまり、意味に(競技に)必要ではあるが、固定した意味は失われているものである。(『テクストの快楽』1973年)
プンクトゥム punctum とは、刺し傷 piqûre、小さな穴 petit trou、小さなシミ petite tache、小さな裂け目 petite coupureのことでもありーーしかもまた、骰子の一振りcoup de dés のことでもある…。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺すme point 偶然 hasard (それだけなく、私にあざをつけme meurtrit、私の胸をしめつけるme poigne)偶然なのである。(ロラン・バルト『明るい部屋』第10章)

ーー《バルトのストゥディウムとプンクトゥムは、ラカンのオートマン(シニフィアンのネットワーク)とテュケー(現実界との遭遇)への応答である。Les Studium et punctum de Barthes répondent à automaton et tuché》(ミレール2011, jacques-alain miller 2011,L'être et l'un)

シミが現れるとともに、欲望の領野(シニフィアンのネットワークの領野)において、その背後に隠されたものの蘇りの可能性が準備される。Avec la tache apparaît, se prépare la possibilité de résurgence, dans le champ du désir, de ce qu'il y a derrière d'occulte(ラカン、S10、5 Juin l963)

(複数の)映画史


ーーシツレイ! エロばっかりで。とはいえゴダールの『(複数の)映画史』をエロ抜きで語っている「学者さん」ーーバルト曰くの「父性原理の権化である論文形式」でーーのたぐいこそ、真なる「倒錯者」だよ。

倒錯とは、「父に向かうヴァージョン version vers le père」以外の何ものでもない。要するに、父とは症状である le père est un symptôme …これを「père-version」と書こう。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)

この「父の版 père-version」についてのコレット・ソレールの注釈は次の通り。

…結果として論理的に、最も標準的な異性愛の享楽は、父のヴァージョン père-version、すなわち倒錯的享楽 jouissance perverseの父の版と呼びうる。…エディプス的男性の標準的解決法、すなわちそれが父の版の倒錯である。(コレット・ソレール2009、Lacan, L'inconscient Réinventé)

いやあ、なんの話だったか? ーーもとに戻らねばならない。

⋯⋯⋯⋯

対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 void をあらわす。(ジジェク, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? ,2016)

もうひとつ、空虚・「最小の差異」としての対象aを理解する上で肝要なのは、「外密」概念である。

外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。それは、異物 corps étranger のようなものである(ミレール、Miller Jacques-Alain, 1985-1986, Extimitéーー「ひとりの女とは何か?」)

そして《対象a とは外密である。l'objet(a) est extime》(ラカン、S16、26 Mars 1969)

ラカンが、象徴空間の内部と外部の重なり合い(外密 Extimité)によって、象徴空間の湾曲・歪曲を叙述するとき、彼はたんに、対象a の構造的場を叙述しているのではない。剰余享楽は、この構造自体、象徴空間のこの「内に向かう湾曲」以外の何ものでもない。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)

これがドゥルーズ的な「起源の不在」のラカン派的捉え方である。

永遠回帰 L'éternel retourは、同じものや似ているものを環帰させることはなく、それ自身が純粋な差異 la pure différenceの世界から派生する。

・・・永遠回帰には、つぎのような意味しかない―――特定可能な起源の不在 l'absence d'origine assignable。それを言い換えるなら、起源は差異である l'origine comme étant la différence と特定すること。もちろんこの差異は、異なるもの(あるいは異なるものたち)をあるがままに環帰させるために、その異なるものを異なるものに関係させる差異である。

そのような意味で、永遠回帰はまさに、起源的で、純粋で、総合的で、即自的な差異 une différence originaire, pure, synthétique, en soi の帰結である(この差異はニーチェが『力の意志』と呼んでいたものである)。差異が即自であれば、永遠回帰における反復は、差異の対自である。(ドゥルーズ『差異と反復』1968)

くどくなるがもうひとつ付け加えておこう。

…対象a はカントの超越論的対象 transcendental object に近似している。なぜなら、対象a は「知られていないX」、仮象の彼方の対象の「ヌーメノンNoumenon」的核を表すから。それは《あなたのなかにあるあなた以上のもの quelque chose en toi plus que toi》である。

したがって対象a は、純粋視差対象 pure parallax objectとして定義される。…さらに厳密に言えば、対象a は、視差の裂目 parallax gapの「原因」である。

ここでのパラドクスは厳密なものである。まさにこの点にて、純粋差異が現れる。差異はもはや「二つの可能的に存在する対象 two positively existing objects」のあいだの差異ではない。そうではなく「「一」とそれ自体からの同じ対象を分割する divides one and the same object from itself」差異である。この差異「それ自体」は即座に測り知れない unfathomable 対象と一致する。

諸対象の間の単なる差異とは対照的に、純粋差異はそれ自体、対象である。(ジジェク、パララックス・ヴュー2006、私訳)

ーーというわけで、名前を挙げるつもりはないが、ここでの記述は「表象文化論」系譜の児戯に類するゴダール論への遠回しの嘲罵デアル・・・、そしてそれにふんふん頷いている日本ドゥルーズ村の研究者など糞デアル・・・

蚊居肢散人は成島柳北主義者になることもあるのでご用心を。
今余ガ思フマヽヲ書キ綴リテ、
世ノ好古家ニ質サントス。
定メテ其ノ心ニ逆カフコトモ有ランナレド、 ソハ余ガ一家言トシテ宥シ給ヒネ。(「好古小言」濹上漁史)

すなわち、

諸氏ノ美シキ魂ノ汗ノ果物ニ敬意ヲ表スレド
諸氏ノ誠実ナ重ミノナカノ堅固ナ臀ヲ敬ヘド
余少シバカリ窓ヲ開ケタシ。
にいちぇト共ニ「空気ヲ! モツト空気ヲ!」ト叫ビタシ。
余新鮮ノ空気ニ触ルヽコトヨリ暫シ隔タリ、
鼻腔ヲ見栄坊ニテ鵞鳥ノ屁屎尿ノ穢臭ニ穿タレ
身骨ヲ美シキ魂ニテ猫カブリノ垢衣汗物ノ腐臭ニ埋メルガ如シ。

芸能ハ固ヨリ有用ナレド、
務メテ雅致ヲ失ハズ、
空シク倒錯ニノミ流レザルヲ可トス。
コケッコリー先生少シク注意シ給フ可シ。

平成三十年三月二十六日深更、蚊居肢子斎戒沐浴シ、
恭シクにいちぇノ文ヲ具ヘテ自ラ其ノ舌ヲ祭ル。


⋯⋯⋯⋯

※付記

ラカンは「哲学はがらくた」だと言っている。

あなた方は焦らないようにしたらよろしい。哲学のがらくたに肥やしを与えるものにはまだしばらくの間こと欠かないだろうから。

Méfiez -vous donc de votre précipitation: pour un temps encore, l'aliment ne manquera pas à la broutille philosophique.(ラカン「哲学科の学生への返答 Réponses à des étudiants en philosophie」 1966)
対象a …この対象は、哲学的思惟には欠如しており、そのために自らを位置づけえない。つまり、自らが無意味であることを隠している。Cet objet est celui qui manque à la considération philosophique pour se situer, c'est à dire pour savoir qu'elle n'est rien. (……)

それはフェティシュとマルクスが奇しくも精神分析に先取りして同じ言葉で呼んでいたものだ。ce que Marx appelait en une homonymie singulièrement anticipée de la psychanalyse, le fétiche(同上)

マルクスの「自動的フェティッシュ」を引用しておこう(参照:「自動的フェティッシュautomatische Fetisch」と「自動的主体 automatisches Subjekt 」

利子生み資本では、自動的フェティッシュautomatische Fetisch、自己増殖する価値 selbst verwertende Wert、貨幣を生む貨幣 Geld heckendes Geld が完成されている。(⋯⋯)

ここでは資本のフェティッシュな姿態 Fetischgestalt と資本フェティッシュ Kapitalfetisch の表象が完成している。我々が G─G′ で持つのは、資本の中身なき形態 begriffslose Form、生産諸関係の至高の倒錯 Verkehrungと物件化 Versachlichung、すなわち、利子生み姿態 zinstragende Gestalt・再生産過程に先立つ資本の単純な姿態 einfache Gestalt des Kapitals である。それは、貨幣または商品が再生産と独立して、それ自身の価値を増殖する力能ーー最もまばゆい形態での資本の神秘化 Kapitalmystifikation である。(マルクス『資本論』第三巻)

ラカンに大きく学んでいる「哲学者」バディウは、ラカン曰くの「哲学のがらくた」をこう言い直している、《ラカンの後、どんな哲学もない、もしラカンの「反哲学」の試練を経ないなら there can be no philosophy after Lacan unless it has undergone the trial of Lacanian ‘anti-philosophy》(pdf)



2018年3月25日日曜日

自転車に乗る女



ーー「ゴダールの決別 Hélas pour moi」 (1993年)→ トリュフォー「あこがれ Les Mistons」(1958年)→ 「勝手に逃げろ/人生 Sauve Qui Peut (la vie) 」(1980年)


人々の妄想の鏡のなかですでにアリスの靴や靴下そして下着まで濡れているんだ(吉岡実「人工花園」 )




一台の自転車
その長い時間の経過のうちに
乗る人は死に絶え
二つの車輪のゆるやかな自転の軸の中心から
みどりの植物が繁茂する
美しい肉体を
一周し
走りつづける
旧式な一台の自転車
その拷問具のような乗物の上で
大股をひらく猫がいる
としたら
それはあらゆる少年が眠る前にもつ想像力の世界だ
禁欲的に
薄明の街を歩いてゆく
うしろむきの少女
むこうから掃除人が来る

ーー吉岡実「自転車の上の猫」




すこし前方に、べつの一人の小娘が自転車のそばにひざをついてその自転車をなおしていた。修理をおえるとその若い走者は自転車に乗ったが、男がするようなまたがりかたはしなかった。一瞬自転車がゆれた、するとその若いからだから帆か大きなつばさかがひろがったように思われるのだった、そしてやがて私たちはその女の子がコースを追って全速力で遠ざかるのを見た、なかばは人、なかばは鳥、天使か妖精かとばかりに。(プルースト「囚われの女」)




生きつづける欲望を自己の内部に維持したいとねがう人、日常的なものよりももっと快い何物かへの信頼を内心に保ちつづけたいと思う人は、たえず街をさまようべきだ、なぜなら、大小の通は女神たちに満ちているからである。しかし女神たちはなかなか人を近よせない。あちこち、木々のあいだ、カフェの入り口に、一人のウェートレスが見張をしていて、まるで聖なる森のはずれに立つニンフのようだった、一方、その奥には、三人の若い娘たちが、自分たちの自転車を大きなアーチのように立てかけたそのかたわらにすわっていて、それによりかかっているさまは、まるで三人の不死の女神が、雲か天馬かにまたがって、神話の旅の長途をのりきろうとしているかのようであった。(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」)

「ゴダールの決別 Hélas pour moi」


ああ、バッハのBWV230のモテットがきこえてくる。





ここには実に衝撃的な美女が歌っている、ゴダールの若い娘のような。








2018年3月24日土曜日

「愛の賛歌」への冷笑


いつもそうなのだが、わたしたちは土台を問題にすることを忘れてしまう。疑問符をじゅうぶん深いところに打ち込まないからだ。(ヴィトゲンシュタイン『反哲学的断章』)

⋯⋯⋯⋯



安永(安永浩)と、生涯を通じてのファントム空間の「発達」を語り合ったことがある。簡単にいえば、自極と対象極とを両端とするファントム空間軸は、次第に分化して、成年に達してもっとも離れ、老年になってまた接近するということになる。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収)

ゴダールの『愛の賛歌 Éloge de l'amour』(2001)は、彼が71才のとき。
バディウの『愛の賛歌 Éloge de l'amour』(2016)は、彼が79才のとき。

死に近づいて「愛」(エロス)を語り始めるようになるのは、ごく一般的なあり方である。

エロスの感覚は、年をとった方が深くなるものです。ただの性欲だけじゃなくなりますから。(古井由吉『人生の色気』2009年)

なぜか? ーー「究極のエロス・究極の享楽とは死のこと」だから(参照)。


エロスは接触 Berührung を求める。エロスは、自我と愛する対象との融合 Vereinigung をもとめ、両者のあいだの間隙 Raumgrenzen を廃棄(止揚Aufhebung)しようとする。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

ーー究極の融合とは、母なる大地との融合であり、死である。
この年齢になると死が近づいて、日常のあちこちから自然と恐怖が噴き出します。(古井由吉、「日常の底に潜む恐怖」 毎日新聞2016年5月14日)

中井久夫=安永浩の図式にもどれば、標準的な30代や40代の連中は、《土台を問題にすることを忘れて》いる。「詩人」という稀有の例外はある。

死とは、私達に背を向けた、私たちの光のささない生の側面である。(リルケ「ドゥイノの悲歌」)
死というのは一点ではない、生まれた時から少しずつ死んでいくかぎりで線としての死があり、また生とはそれに抵抗しつづける作用である。(ビシャーー、フーコー『臨床医学の誕生』より)

一般的にいえば、人がエロスとタナトスのどちらに傾くのかは、社会環境によるとともに、人の生の環境による。

疑いもなく、エゴイズム・他者蹴落し性向・攻撃性(タナトス)は人間固有の特徴である、ーー悪の陳腐さは、我々の現実だ。だが、愛他主義・協調・連帯(エロス)ーー善の陳腐さーー、これも同様に我々固有のものである。どちらの特徴が支配するかを決定するのは環境である。(Paul Verhaeghe What About Me? 2014)

「ファントム空間」の図式が示すように、老年期や幼年期は、エロスの時である。中年期はタナトスの時である。だが中年の人間にもエロス感情が強く生まれる「環境」がある。

たとえば大きな天災や戦争、あるいは個人的な強い不運に遭遇して「寄る辺なき状況」に陥ったとき。

現在の(寄る辺なき)状況がむかしに経験した外傷的状況を思い出させる die gegenwärtige Situation erinnert mich an eines der früher erfahrenen traumatischen Erlebnisse. (フロイト『制止、症状、不安』1926年)

フロイトにとっての「むかしに経験した外傷的状況」とは、原初の母子関係における《寄る辺なさ Hilflosigkeit と依存性 Abhängigkeit》にかかわる(参照)。

災害発生時(地震や津波など)にエロス的心情(「絆」等)が生れるのは、この原トラウマに関する《愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden》(参照)のせいである(表層的に先ず現れるのは愛することかもしれない。だが《愛することは、本質的に、愛されることを欲することである。l'amour, c'est essentiellement vouloir être aimé. 》(ラカン、S11, 17 Juin 1964)

天災に直面した人類が、おたがいのあいだのさまざまな困難や敵意など、一切の文化経験をかなぐり捨て、自然の優位にたいしてわが身を守るという偉大な共同使命に目覚める時こそ、われわれが人類から喜ばしくまた心を高めてくれるような印象を受ける数少ない場合の一つである。(……)

このようにして、われわれの寄る辺ない Hilflosigkeit 状態を耐えうるものにしたいという要求を母胎とし、自分自身と人類の幼児時代の寄る辺ない Hilflosigkeit 状態への記憶を素材として作られた、一群の観念が生まれる。これらの観念が、自然および運命の脅威と、人間社会自体の側からの侵害という二つのものにたいしてわれわれを守ってくれるものであることははっきりと読みとれる。(フロイト『あるイリュージョンの未来 Die Zukunft einer Illusion』1927年ーー旧訳邦題『ある幻想の未来』、新訳邦題『ある錯覚の未来』)

他方、満たされている人間、すくなくとも自分でそう感じている人間には、(一般的には)タナトスに占有される傾向がある。フロイトの定義におけるエロスとタナトスとは、融合と分離であり、分離とは、いいかえれば「独立」(独りで立つ・自立)である。

さらにいっそう基本的に言えば、母なる大地との融合(死=究極の享楽)に対する「引力/斥力」がエロスとタナトスの関係である。

人には二つのみの根本欲動 Grundtriebe がある。エロスと破壊欲動 den Eros und den Destruktionstriebである。…これは究極的には引力と斥力 Anziehung und Abstossung にかかわる。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
両者(エロスとタナトス)は、愛と憎悪 l'amour et la haine、構築と破壊 la construction et la destruction、引力と斥力 l'attraction et la répulsion として組み合わされている。(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)

このフロイトとドゥルーズの「引力と斥力」をいっそう鮮明に言えば、

エロス欲動は〈他者〉と融合して一体化することを憧れる。〈他者〉の欲望と同一化し同時に己れの欠如への応答を受け取ることを渇望する。ここでの満足は同時に緊張を生む。満足に伴う危険とは何か? それは、主体は己自身において存在することを止め、〈他者〉との融合へと消滅してしまうこと(主体の死)だ。ゆえにここでタナトス欲動が起動する。主体は〈他者〉からの自立と分離へと駆り立てられる。これによってもたらされる満足は、エロス欲動とは対照的な性質をもっている。タナトスの解離反応は、あらゆる緊張を破壊し主体を己自身へと投げ戻す。

ここにあるのはセクシャリティのスキャンダルである。我々は愛する者から距離をとることを余儀なくされる。極論を言えば、我々は他者を憎むことを愛する。あるいは他者を愛することを憎む。(ポール・バーハウ2005, Paul Verhaeghe ,Sexuality in the Formation of the Subject ,私訳ーー「愛の起源は腹が減ったである」)

したがって、「平和の国日本」における中年期の人間が、「愛の賛歌」を憎んだり、冷笑的であるのは、ある意味で当然といえば当然である、たとえば多くの「あなたがた」のように。

結局、「満たされていると錯覚」している人間、「死の恐怖」を経験したことのない人間には、エロス感覚はない。

我々は愛する、「私は誰?」という問いへの応答、あるいは一つの応答の港になる者を。

愛するためには、あなたは自らの欠如を認めねばならない。そしてあなたは他者が必要であることを知らねばならない。

ラカンはよく言った、《愛とは、あなたが持っていないものを与えることだ l'amour est donner ce qu'on n'a pas 》と。その意味は、「あなたの欠如を認め、その欠如を他者に与えて、他者のなかの場に置く c'est reconnaître son manque et le donner à l'autre, le placer dans l'autre 」ということである。あなたが持っているもの、つまり品物や贈物を与えるのではない。あなたが持っていない何か別のものを与えるのである。それは、あなたの彼方にあるものである。愛するためには、自らの欠如を引き受けねばならない。フロイトが言ったように、あなたの「去勢」を引き受けねばならない。

そしてこれは本質的に女性的である。人は、女性的ポジションからのみ真に愛する。愛することは女性化することである。この理由で、愛は、男性において常にいささか滑稽である。(ジャック=アラン・ミレール,2010、On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " Jacques-Alain Miller)

ラカン的にはフロイトの「去勢」とは、象徴的去勢であり、言語を使用する人間は必ず去勢される(参照:資本の言説と〈私〉支配の言説)。

ヘーゲルが何度も繰り返して指摘したように、人が話すとき、人は常に一般性のなかに住まう。この意味は、言語の世界に入り込むと、主体は、具体的な生の世界のなかの根を失うということだ。もっとパセティックな言い方をするなら、私は話し出した瞬間、もはや感覚的に具体的な「私」ではない。というのは、私は、非個人的メカニズムに囚われるからだ。そのメカニズムは、常に、私が言いたいこととは異なった何かを私に言わせる。前期ラカンが「私は話しているのではない。私は言語によって話されている」と言うのを好んだように。これは、「象徴的去勢」と呼ばれるものを理解するひとつの方法である。すなわち、主体が「聖餐式における全質変化 transubstantiation」のために支払わなければならない代価。ダイレクトな動物的生の代理人であることから、パッションの生気から引き離された話す主体への移行である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

他方、ラカンによれば、市場原理主義の時代・新自由主義の時代ーーラカン的には資本の言説の時代ーーとは、去勢の排除の時代である(現代ラカン派では、おおむね「去勢の否認」の時代と言い直されているが)。

資本の言説 discours du capitalisme を識別するものは、Verwerfung、すなわち象徴界の全領野からの「排除 rejet」である。…何の排除か? 去勢の排除である Le rejet de quoi ? De la castration。資本主義に歩調を合わせるどの秩序・どの言説も、平明に「愛の問題 les choses de l'amour」と呼ばれるものを脇に遣る。(Lacan, Le savoir du psychanalyste » conférence à Sainte-Anne- séance du 6 janvier 1972)


2018年3月23日金曜日

愛の賛歌

◆ゴダールの『愛の世紀』(原題:愛の賛歌 Éloge de l'amour、2001)より(一部編集有り)



思うに、映画と愛のあいだには密接な結びつきがある。その理由はまず、愛は、映画と同じように、実存のさなかでの奇跡の現れであるからだ。問題の一切は、この奇跡が持続的であるかどうかを知ることにある。「持続的ではない」と言ったとたん、シニカルで相対的な愛のとらえ方に落ち込んでしまうが、ポジティブな愛のとらえ方をしたいなら、永続する奇跡が存在すると主張しなければならない。愛の出会いは生における不連続性の象徴である。一方、結婚は連続性の象徴である。このことは哲学的かつ映画的な問いをつきつける。つまり、「分裂のなかにひとつの綜合を構築することは可能であろうか」という問いである。愛はつねに、<革命>と同じように、そしておそらく映画と同じように、この問題の特徴的な一事例なのだ……。映画が愛と似ている第二の理由は、映画が言葉の芸術ではないことである。

(⋯⋯)映画では言葉はきわめて重要ではあるが、本質的な要素ではない。映画は言葉の芸術であると同時に沈黙の芸術でもあり、感覚的なものの芸術なのだ。愛もまた黙している。愛のひとつの定義を提示してみるならば、「愛とは告白のあとに来る沈黙である」ということになろうか。「愛している」と言ったら、あとは黙るしかない。というのは、いずれにしても、愛の告白が[愛という]状況を創り出したからだ。沈黙へのこうした関係、身体の現前へのこうした関係は、映画で表現するのにうってつけである。映画はまた性的身体の芸術でもある。映画は裸体芸術だ。このことが映画と愛とのある親密な関係を創り出す。(アラン・バディウ『愛の賛歌 Eloge de l'amour』2016年)




人が愛するとき、それは性とは全く関係がない。 quand on aime, il ne s'agit pas de sexe(ラカン、S20, December 19, 1972)
愛することは、本質的に、愛されることを欲することである。l'amour, c'est essentiellement vouloir être aimé. (ラカン、S11, 17 Juin 1964)
愛だけである、享楽が欲望に恵みを与えてくれることを許したもうのは(愛だけが、享楽が欲望に身を落とす(腰をかがめる condescendre )ことを可能にする)。  Seul l'amour permet à la jouissance de condescendre au désir (Lacan,S10, l3 Mars l963)
愛は欲望の昇華である l'amour est la sublimation du désir(Lacan,S10, l3 Mars l963)
身体の享楽(=女性の享楽)は自閉症的である。愛と幻想のおかげで、我々はパートナーと関係を持つ。だが結局、享楽は自閉症的である。(Report on the ICLO-NLS Seminar with Pierre-Gilles Guéguen, 2013)


ーー《自分が愛するからこそ、その愛の対象を軽蔑せざるを得なかった経験のない者が、愛について何を知ろう》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部「創造者の道」)

ここでの記述における究極の「愛の対象」とは、もちろん「愛」である。

ブラックホールの映像作家ヒッチコック

ヒッチコックの染み(眼差し=対象a)は母なる超自我 maternal superego (S(Ⱥ))を物質化している。(ジジェク『斜めから見る』)



母なる超自我 Surmoi maternel…父なる超自我の背後にこの母なる超自我がないだろうか? 神経症においての父なる超自我よりも、さらにいっそう要求し、さらにいっそう圧制的、さらにいっそう破壊的、さらにいっそう執着的な母なる超自我が。 (ラカン, S5, 15 Janvier 1958)




母なる超自我 surmoi maternel・太古の超自我 surmoi archaïque、この超自我は、メラニー・クラインが語る「原超自我 surmoi primordial」 の効果に結びついているものである。…

最初の他者 premier autre の水準において、…それが最初の要求 demandesの単純な支えである限りであるが…私は言おう、泣き叫ぶ幼児の最初の欲求 besoin の分節化の水準における純粋で単純な要求、最初の欲求不満 frustrations…母なる超自我に属する全ては、この母への依存 dépendance の周りに分節化される。(Lacan, S.5, 02 Juillet 1958)




母なる超自我 surmoi mère ⋯⋯思慮を欠いた(無分別としての)超自我は、母の欲望にひどく近似する。その母の欲望が、父の名によって隠喩化され支配されさえする前の母の欲望である。超自我は、法なしの気まぐれな勝手放題としての母の欲望に似ている。(⋯⋯)我々はこの超自我を S(Ⱥ) のなかに位置づけうる。( ジャック=アラン・ミレール、THE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO,Leonardo S. Rodriguez)

ーーS(Ⱥ) 、すなわち穴Ⱥのシニフィアンである。

〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)




ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女性のある形態の光景、彼女のヴェールが落ちて、唯一ブラックホール un trou noir のみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。.(ラカン, « Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir »,Écrits, 1966)

ーー《あなたを吸い込むヴァギナデンタータ、究極的にはすべてのエネルギーを吸い尽すブラックホールとしてのS(Ⱥ) の効果。》(ポール・バーハウ1999、PAUL VERHAEGHE ,DOES THE WOMAN EXIST?,1999)

⋯⋯⋯⋯

イマージュは対象aを隠蔽している。l'image se cachait le petit (a).(ジャック=アラン・ミレール 『享楽の監獄 LES PRISONS DE LA JOUISSANCE』1994年)

ミレールがここで言っている対象aは見せかけ semblant としての対象aではなく、《対象aは、大他者自体の水準において示されるである。l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel》 (ラカン、S18, 27 Novembre 1968)

他方、見せかけとしての対象aとはイマージュに近似する。

ジャック=アラン・ミレールによって提案された「見せかけ semblant」 の鍵となる定式がある、「我々は、見せかけを無を覆う機能と呼ぶ。Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien」

これは勿論、フェティッシュとの繋がりを示している。フェティッシュは同様に空虚を隠蔽する、見せかけが無のヴェールであるように。その機能は、ヴェールの背後に隠された何かがあるという錯覚を作りだすことにある。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳)

《対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 void をあらわす。》(ジジェク, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? ,2016)

⋯⋯⋯⋯

ボクは高所恐怖症でね、

……外部(現実)の危険は、それが自我にとって意味をもつ場合は、内部化されざるをえないのであって、この外部の危険は無力さを経験した状況と関連して感知されるに違いないのである。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

この文に註がついている。

※註:そのままに正しく評価されている危険の状況では、現実の不安に幾分か欲動の不安がさらに加わっていることが多い。したがって自我がひるむような満足を欲する欲動の要求は、自分自身にむけられた破壊欲動であるマゾヒスム的欲動であるかもしれない。おそらくこの添加物によって、不安反応が度をすぎ、目的にそわなくなり、麻痺し、脱落する場合が説明されるだろう。高所恐怖症(窓、塔、断崖)はこういう由来をもつだろう。そのかくれた女性的な意味は、マゾヒスムに近いものである。(同『制止、症状、不安』)

《マゾヒズムはサディズムより古い。der Masochismus älter ist als der Sadismus 》(フロイト 1933、『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」)
享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, フロイトはこれを発見した。すぐさまというわけにはいかなかったが。il l'a découvert, il l'avait pas tout de suite prévu.(ラカン、S23, 10 Février 1976)=ー享楽という原マゾヒズム)

⋯⋯⋯⋯

昨晩、ゴダールの『(複数の)映画史』を眺めていたんだけど、こんな映像に行き当たるだけで、10分ぐらいは足が震えて冷や汗が出てしまうタイプなんだ。だからヒッチコックの映像の隠された意味合いがよく分かるという「錯覚に閉じこもる」ことができるよ。




最も愛された子供は、いつの日か不可解にも母が落ちるにまかせる子供であるl'enfant le plus aimé, c'est justement celui qu'un jour elle a laissé inexplicablement tomber …あなたがたは知っているだろう、ギリシャ悲劇において…我々はジロドゥーの洞察を見逃し得ない…これが、クリテムネストラ Clytemnestra についてのエレクトラ Electra の最も深刻な不満である。ある日、クリテムネストラはその腕からエレクトクラを落ちるにまかせたのだ…(ラカン、S10「不安セミネール」, 23 Janvier l963)

ーーなおここでの記述は、「母の三界」と「女に貪り喰われる恐怖」を前提としている。

⋯⋯⋯⋯

※付記

ラカンがイマジネール(想像的)な審級について語ったとき、彼は見られ得るイマージュについて語った。鳩は空虚に関心はない Le pigeon ne s'intéresse pas au vide。イマージュの場処に空虚があるなら、鳩はそこでは成長しない 。昆虫は繁殖しない 。

しかし、次の事実がある。すなわち、いったん象徴界が導入されたときでも、ラカンは想像界について話すことを止めない。彼はまだ想像界について頻繁に語っている。だが想像界の定義はまったく変貌したのである。ポスト象徴的想像界 L'imaginaire postsymbolique は、象徴界の審級が導入される以前の、前象徴的想像界 l'imaginaire présymbolique とはひどく異なる。

象徴界が導入された後、いかにして想像界の概念は移行したのか?  厳密に言おう。想像界の最も重要な部分は、見られ得ないものである ce qui ne peut pas se voir。とくに、例としてセミネールIV「対象関係」で展開された臨床実践の核を取り出すとすれば、女性のファルス le phallus féminin、母なるファルス le phallus maternel がある。それが想像的ファルス le phallus imaginaire と呼ばれるのは、パラドクスである。というのは人はまさに想像的ファルスを見ることができないのだから。それはほとんど、想像力 imagination の問題であるかのようである。

ラカンの名高い鏡像段階 le stade du miroir における観察と理論化において、イマジネールな審級は本質的に知覚 perception と繋がっていた。ところが象徴界が導入されたとき、想像界と知覚とのあいだの分離がある。…これが意味するのは、想像界と象徴界の接合であり、したがって知覚からの分離という命題である。すなわち、イマージュは見られ得ないものをスクリーンする(隠蔽する)l'image fait écran à ce qui ne peut pas se voir。(ジャック=アラン・ミレール『享楽の監獄』1994年)


女に貪り喰われる恐怖

いやあ、きみ! 女が怖いのはごく普通の「症状」だよ、

母へのエロス的固着の残余 Rest der erotischen Fixierung an die Mutter は、しばしば母への過剰な依存 übergrosse Abhängigkeit 形式として居残る。そしてこれは女への従属 Hörigkeit gegen das Weib として存続する。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版 1940 年)

で、症状のない主体はない、だよ

固着とは、フロイトが原症状と考えたものであり、ラカン的観点においては、一般的な性質をもつ。症状は人間を定義するものである。そしてそれ自体、修正も治療もできない。これがラカンの最後の結論、すなわち「症状なき主体はない」である。(ポール・バーハウ、他, Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way. Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq ,2002)

そして、すべての女に母の影が落ちているんだ。

母への依存性 Mutterabhängigkeit のなかに…パラノイアにかかる萌芽が見出される。というのは、驚くことのように見えるが、母に殺されてしまう(貪り喰われてしまう aufgefressen)というのはたぶん、きまっておそわれる不安であるように思われる。Denn dies scheint die überraschende, aber regelmäßig angetroffene Angst, von der Mutter umgebracht (aufgefressen?) zu werden, wohl zu sein.(フロイト『女性の性愛』1931年ーー母の三界



エロスは接触 Berührung を求める。エロスは、自我と愛する対象との融合 Vereinigung をもとめ、両者のあいだの間隙 Raumgrenzen を廃棄(止揚Aufhebung)しようとする。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)




ーー見てのとおり、ヒッチコックなんてそればっかり映画にしてるようなもんだよ(→ Alfred Hitchcock was traumatized by his mother)。

生物学的機能において、二つの基本欲動(エロス)は互いに反発 gegeneinander あるいは結合 kombinieren して作用する。食事という行為は、食物の取り入れ Einverleibung(エロス)という最終目的のために対象を破壊 Zerstörungすること(タナトス)である。性行為は、最も親密な結合 Vereinigung(エロス)という目的をもつ攻撃性 Aggression(タナトス)である。

この同化/反発化 Mit- und Gegeneinanderwirkenという 二つの基本欲動の相互作用は、生の現象のあらゆる多様化を引き起こす。二つの基本欲動のアナロジーは、非有機的なものを支配している引力 Anziehung と斥力 Abstossung という対立対にまで至る。(フロイト『精神分析概説』草稿、1940年)

これに不感症なんて、キミはよっぱど「幸運な」人生歩いてきたんじゃないか?

それともこっち系のセンモンカなんだろうか、貴君は?




ーーいやあ、若いうちはこれもワルくはないよ




とはいえキミは「幸運」なままなんだよ、きっと。こういったことを知らないようだから。

男女の関係が深くなると、自分の中の女性が目覚めてきます。女と向かい合うと、向こうが男で、こちらの前世は女として関係があったという感じが出てくるのです。それなくして、色気というのは生まれるものでしょうか。(古井由吉『人生の色気』)



2018年3月22日木曜日

母の三界



ーー「「形式・イマージュ・無」(ゴダール)」にて上の図を示したが、そこで記したことを繰返せば、この図はラカンのボロメオ結びに準拠している。






ボロメオ結びの最も基本的な読み方は、

緑の環(象徴界)は赤の環(想像界)を覆っている(支配しようとする)。
赤の環(想像界)は青の環(現実界)を覆っている(支配しようとする)。
青の環(現実界)は緑の環(象徴界)を覆っている(支配しようとする)。


現代ラカン派では、前回記したように、「象徴界+想像界」/「現実界」と捉えて語られることが多い。すなわち、「象徴界+想像界」は「現実界」に支配されている、と。

ラカンはセミネール18で、われわれの現実は「見せかけの世界 le monde du semblant」(S18)と要約できることを言っているが、これは「象徴界(+想像界)」としての「見せかけ semblant」である。

たとえば、次のミレール文における「見せかけ」とはその意味である。

すべてが見せかけ semblant ではない。或る現実界 un réel がある。社会的つながり lien social の現実界は、性的非関係である。無意識の現実界は、話す身体 le corps parlant(欲動の身体)である。象徴秩序が、現実界を統制し、現実界に象徴的法を課す知として考えられていた限り、臨床は、神経症と精神病とにあいだの対立によって支配されていた。象徴秩序は今、見せかけのシステムと認知されている。象徴秩序は現実界を統治するのではなく、むしろ現実界に従属していると。それは、性的非関係という現実界へ応答するシステムである。(ジャック=アラン・ミレール 2014、L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT)

とはいえ象徴界と想像界の区別が蔑ろにされているわけではない。

ここでジジェクの簡潔なラカンの三界(象徴界・想像界・現実界)の説明を掲げる。

ラカンによれば、人間存在の現実は、象徴界・想像界・現実界という、たがいに絡み合った三つの次元から構成されている。この三幅対はチェスに例えると理解しやすい。チェスをやる際に従わなければならない規則、それがチェスの象徴的次元である。純粋に形式的・象徴的な視点からみれば、「騎士(ナイト)」は、どういう動きができるかによってのみ定義される。この次元は明らかに想像的次元とは異なる。想像的次元では、チェスの駒はどれもその名前(王、女王、騎士)の形をしており、それにふさわしい性格付けがなされている。…最後に、現実界とは、ゲームの進行を左右する一連の偶然的で複雑な状況の全体、すなわちプレイヤーの知力や、一方のプレイヤーの心を乱し、時にはゲームを中断してしまうような、予想外の妨害などである。(ジジェク『ラカンはこう読め』)

この考え方は多くのシニフィアン(=表象Vorstellung)に適用可能である。

フロイトには、「語表象 Wortvorstellungen」、「事物表象 Sachvorstellungen」、「モノ表象 Dingvorstellungen」という表象をめぐる語彙があり、それぞれ象徴界、想像界、現実界にかかわるだろうことを「表象と現象と仮象」でみた。

ここで最も身近な「母」というシニフィアン(表象)の三界を考えてみよう。





この読み方は、上に記したのと同様である。すなわち、

・象徴的母(機能としての母)は想像的母を支配しようとする。
・想像的母(イメージとしての母)は、リアルな母を支配しようとする。
・だがリアルな全能の母は、機能としての象徴的母を支配しようとする。

以下、それぞれの項についていくらか詳しく記述する。


【象徴的母】

象徴的母とは、世話をする機能の母であり、現前‐不在の(言ったり来たりする)母である。

人間は二つの根源的な性対象、すなわち自己自身と世話をしてくれる女性の二つをもっている der Mensch habe zwei ursprüngliche Sexualobjekte: sich selbst und das pflegende Weib(フロイト『ナルシシズム入門』1914)

幼児にとって、まず原初にあるのは分離不安である。世話をしてくれる象徴的母は。いつも幼児のかたわらにいるわけではない。ゆえにラカンは、《行ったり来たりする母 cette mère qui va, qui vient》《現前-不在 présence-absence》の母(ラカン、S5)と言う。これはジジェクの云うチェスの駒の象徴的動きのようなものだろう。


【想像的母】

次は想像的母である。これはなによりもまず母のイメージである。優しかったり厳しかったり、執着的だったり怠慢だったり、美しかったり醜かったりする母である。すなわちチェスの駒のイメージ(女王や馬、歩兵)のようなものである。

われわれは、母性固着から逃れえていない人間をマザーコンプレクスと呼ぶだろう。

母へのエロス的固着の残余 Rest der erotischen Fixierung an die Mutter は、しばしば母 への過剰な依存 übergrosse Abhängigkeit 形式として居残る。そしてこれは女への従属 Hörigkeit gegen das Weib として存続する。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版 1940 年)

通常、マザコンとは、上に記した「母のイメージ」のコンプレクス(観念複合)として捉えられている筈である。

フロイト自身の記述においても「母のイメージ」として(基本的には)捉えうる。

娼婦愛 Dirnenliebe…娼婦のような対象を選択する愛の条件 Liebesbedingung は、直接的にマザーコンプレックス Mutterkomplex に由来する(フロイト『男性における対象選択のある特殊な型について Uber einen besonderen Typus der Objektwahl beim Manne』1910年、私訳ーー「最初の誘惑者 Verführerin」)

だが本来、マザーコンプレクスというときには、象徴的な母(あるいはリアルな母)についても考えねばならない。

母 mère に対する主人公の愛の中に、愛のセリーの起源 l'origine de la série amoureuse を見出すことは、常に許容される。だが⋯⋯恐らく、母のイメージ image de mère は、最も深いテーマではなく、愛のセリーの理由でもない(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)


【リアルな母】

最後に、リアルな母である。これは分かりにくい筈なので、いくらか豊富な引用をしてその意味するところを示そう(参照:愛の起源は腹が減ったである)。

(最初期の母子関係において)、母が幼児の訴えに応答しなかったらどうだろう?…母は崩落するdéchoit……母はリアルになる elle devient réelle、…すなわち権力となる devient une puissance…全能の母 omnipotence …全き力 toute-puissance …(ラカン、セミネール4、12 Décembre 1956)

まずこのようにして幼児にとっての全能の 「ファリックマザー la mère phallique」(ラカン、S4)が現われるのである。この全能の母、リアルな母とは、貪り喰う母でもある。

メデューサの首の裂開的穴は、幼児が、母の満足の探求のなかで可能なる帰結として遭遇しうる、貪り喰う形象である。Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante que l'enfant rencontre comme issue possible dans cette recherche de la satisfaction de la mère.(ラカン、S4,  27 Février 1957)

この「貪り喰う」という表現はペトロの手紙に起源がある。

身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを貪り喰おうと探し回っています。diabolus tamquam leo rugiens circuit quaerens quem devoret(『ぺトロの手紙,五八』)

フロイトも次のように記している。

母への依存性 Mutterabhängigkeit のなかに…パラノイアにかかる萌芽が見出される。というのは、驚くことのように見えるが、母に殺されてしまう(貪り喰われてしまう aufgefressen)というのはたぶん、きまっておそわれる不安であるように思われる。Denn dies scheint die überraschende, aber regelmäßig angetroffene Angst, von der Mutter umgebracht (aufgefressen?) zu werden, wohl zu sein.(フロイト『女性の性愛』1931年)

こうしてラカンは鰐の母(鰐の口の母)という隠喩を言い放つようになる。

精神分析家は益々、ひどく重要な何ものかにかかわるようになっている。すなわち「母の役割 le rôle de la mère」に。…母の役割とは、「母の惚れ込み le « béguin » de la mère」である。

これは絶対的な重要性をもっている。というのは「母の惚れ込み」は、寛大に取り扱いうるものではないから。そう、黙ってやり過ごしうるものではない。それは常にダメージを引き起こすdégâts。そうではなかろうか?

巨大な鰐 Un grand crocodile のようなもんだ、その鰐の口のあいだにあなたはいる。これが母だ、ちがうだろうか? あなたは決して知らない、この鰐が突如襲いかかり、その顎を閉ざすle refermer son clapet かもしれないことを。これが母の欲望 le désir de la mère である。(ラカン、S17, 11 Mars 1970)

ようするに、幼児の原不安は、誰もが思い当たるだろう「分離不安」だけではなく、フロイト・ラカン派においては「融合不安」がある。融合不安とは、最初の母なる大他者の原穴との遭遇にかかわる。「汝は何を欲するのか Che Vuoi?」(カゾット『悪魔の恋』)という不気味な「母の欲望」(母なる鰐の口)との遭遇に。

〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)

この遭遇において、主体は裂目を埋める機能へと還元される危険に陥る。つまり貪り喰われる恐怖、空虚に落ち込む恐怖、他者との混淆不安。要するに、大他者の享楽のなかに消滅する不安。

誤解してはならないのは、愛されれば愛されるほど「母なる悪魔」が顕現することであることである。

最も愛された子供は、いつの日か不可解にも母が落ちるにまかせる子供であるl'enfant le plus aimé, c'est justement celui qu'un jour elle a laissé inexplicablement tomber …あなたがたは知っているだろう、ギリシャ悲劇において…我々はジロドゥーの洞察を見逃し得ない…これが、クリテムネストラ Clytemnestra についてのエレクトラ Electra の最も深刻な不満である。ある日、クリテムネストラはその腕からエレクトクラを落ちるにまかせたのだ…(ラカン、S10「不安セミネール」, 23 Janvier l963)

なぜそうなのか。これはポール・バーハウが実に簡潔に記している。

構造的な理由により、女の原型は、危険な・貪り喰う大他者と同一である。それは起源としての原母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。したがって原母は純粋享楽という本源的状態を再創造しようとする。これが、セクシュアリティがつねに fascinans et tremendum(魅惑と戦慄)の混淆である理由だ。すなわちエロスとタナトスの混淆である。このことが説明するのは、セクシュアリティ自身の内部での本質的な葛藤である。どの主体も自らが恐れるものを恋焦がれる。熱望するものは、享楽の原初の状態と名づけられよう。(ポール・バーハウ, NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL、1995年ーー世界は女たちのものである

これはなにもラカン派的偏見ではない。すぐれた作家たちはとうに気づいている。

女は子供を連れて危機に陥った場合、子供を道連れにしようという、そういうすごいところがあるんです。(古井由吉「すばる」2015年9月号)

安吾を引用してもよい。

母。――異体の知れぬその影がまた私を悩ましはじめる。

私はいつも言ひきる用意ができてゐるが、かりそめにも母を愛した覚えが、生れてこのかた一度だつてありはしない。ひとえに憎み通してきたのだ「あの女」を。母は「あの女」でしかなかつた。(⋯⋯)

三十歳の私が、風をひいたりして熱のある折、今でもいちばん悲しい悪夢に見るのがあの時の母の気配だ。姿は見えない。だだつぴろい誰もゐない部屋のまんなかに私がゐる。母の恐ろしい気配が襖の向ふ側に煙のやうにむれてゐるのが感じられて、私は石になつたあげく気が狂れさうな恐怖の中にゐる、やりきれない夢なんだ。母は私をひきづり、窖のやうな物置きの中へ押しこんで錠をおろした。あの真つ暗な物置きの中へ私はなんべん入れられたらうな。闇の中で泣きつづけはしたが、出してくれと頼んだ覚えは殆んどない。ただ口惜しくて泣いたのだ。(⋯⋯)

 ところが私の好きな女が、近頃になつてふと気がつくと、みんな母に似てるぢやないか! 性格がさうだ。時々物腰まで似てゐたりする。――これを私はなんと解いたらいいのだらう!

 私は復讐なんかしてゐるんぢやない。それに、母に似た恋人達は私をいぢめはしなかつた。私は彼女らに、その時代々々を救はれてゐたのだ。所詮母といふ奴は妖怪だと、ここで私が思ひあまつて溜息を洩らしても、こいつは案外笑ひ話のつもりではないのさ。(坂口安吾「をみな」)

安吾はいっけん想像的母のみを語っているようにみえるが、最後に《母といふ奴は妖怪だ》とある。これこそ母のイメージ(想像的な母)と全能の母(リアルな母)との重なり箇所にある真の穴 JȺ (斜線を引かれた大他者の享楽)としての母である。




 JȺ (斜線を引かれた大他者の享楽)とは、上に引用したコレット・ソレール曰くの「原リアルの名 le nom du premier réel」「原穴の名 le nom du premier trou 」であり、ーーラカンの用語遣いにおいては、穴 trou=穴ウマ troumatisme=トラウマ traumatismeであり、原穴の名とは原トラウマの名のこことであるーー、S(Ⱥ)というマテームでも書かれる。S(Ⱥ)、すなわち穴Ⱥ のシニフィアンである。


ところで、ニーチェの《わたしの恐ろしい女主人》も安吾の妖怪の母と似た表現ではなかろうか?

きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻 stillste Stunde がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人 meiner furchtbaren Herrin の名だ。

……彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるだろうか。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部 「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」)

このニーチェの「最も静かな時刻」については、最晩年のデリダ(死の年)の注釈がすばらしい。

鳩が横ぎる。ツァラトゥストラの第二部のまさに最後で。「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」。

最も静かな時刻は語る。私に語る。私に向けて。それは私自身である。私の時間。私の耳のなかでささやく。それは、私に最も近い plus proche de moi。私自身であるかのようにcomme en moi。私のなかの他者の声のようにcomme la voix de l'autre en moi。他者の私の声のように comme ma voix de l'autre。

そしてその名、この最も静かな時刻の名は、《わたしの恐ろしい女の主人》である。

……今われわれはどこにいるのか? あれは鳩のようではない…とりわけ鳩の足ではない。そうではなく「狼の足で à pas de loup」だ…(Le souverain bien – ou l’Europe en mal de souveraineté La conférence de Strasbourg 8 juin 2004 JACQUES DERRIDA

ニーチェの「私の恐ろしき女主人」は、鳩の足(母のイメージ)のように近づいてくるようにみえて、実は狼の足(全能の母)で近づいてくるのである。

⋯⋯⋯⋯

さて実は真の問題は母にあるのではない。そうではなく《すべての女に母の影が落ちている》(ポール・バーハウ1999)ことである。

たとえば美しい女のイメージの背後には、貪り喰う母がいるはずなのである・・・

おどろおどろしいリアルな女は、ふとした弾みですぐに顕現しうる。

現実 réalité は象徴界によって多かれ少なかれ不器用に飼い馴らされた現実界 Réel である。そして現実界は、この象徴的空間に、傷、裂け目、不可能性の接点として回帰する。(François Balmès, Ce que Lacan dit de l'être,1999)

イメージとしての想像的女ではなく、母のように世話をしてくれる象徴的女を愛する諸君もいるだろう。だがその背後にはきっと「リアルな女」(そしてさらにその背後には鰐の口の女)がいるのである・・・

ゆえに男はおおむねーー「意識的」ではない場合があろうと、すくなくとも「無意識的」にはーー、女を憎むことを愛し、女を愛することを憎んでいるのである。

エロス欲動は〈他者〉と融合して一体化することを憧れる。〈他者〉の欲望と同一化し同時に己れの欠如への応答を受け取ることを渇望する。ここでの満足は同時に緊張を生む。満足に伴う危険とは何か? それは、主体は己自身において存在することを止め、〈他者〉との融合へと消滅してしまうこと(主体の死)だ。ゆえにここでタナトス欲動が起動する。主体は〈他者〉からの自律と分離へと駆り立てられる。これによってもたらされる満足は、エロス欲動とは対照的な性質をもっている。タナトスの解離反応は、あらゆる緊張を破壊し主体を己自身へと投げ戻す。

ここにあるのはセクシャリティのスキャンダルである。我々は愛する者から距離をとることを余儀なくされる。極論を言えば、我々は他者を憎むことを愛する。あるいは他者を愛することを憎む。(ポール・バーハウ2005, Paul Verhaeghe ,Sexuality in the Formation of the Subject ,私訳ーー「究極のエロス・究極の享楽とは死のことである」)

そもそも《女と猫は呼ぶ時にはやって来ず、呼ばない時にやって来る》(メリメ『カルメン』)のを経験していない男性諸君はいるのだろうか? しかも呼ばない時には狼の足でやってくる。これこそリアルな女である。

ああ、「世の中に絶えて女のなかりせばをとこの心のどけからまし」(大田南畝)

現実界とはただ、角を曲がったところで待っているもの、ーー見られず、名づけられず、だがまさに居合わせているものである。(ポール・バーハウ、Byond gender, 2001)

ゴダール、(複数の)映画史


とはいえ、人は、荷風が愛した至高の狂歌詩人蜀山人を誤解してはならない、「世の中は金と女がかたきなりどふぞかたきにめぐりあひたい」(大田南畝)でもある。それはゴダールとともに、である。


『コケティッシュな女 Une femme coquette)』


⋯⋯⋯⋯

※附記

母の三界の図を再掲する。




今、記していて気づいたが、この図はフロイトによるシェイクスピア小論『三つの小箱』と、それに依拠したドゥルーズのマゾッホ論のなかの記述を当てはめればーー象徴的母の箇所にやや違和がないでもないがーー、次のように図示できうる。




フロイトとドゥルーズの記述は次の通り。

ここ(シェイクスピア『リア王』)に描かれている三人の女たちは、生む女 Gebärerin、パートナー Genossin、破壊者としての女 Vẻderberin であって、それはつまり男にとって不可避的な、女にたいする三通りの関係なのだ。あるいはまたこれは、人生航路のうちに母性像が変遷していく三つの形態であることもできよう。

すなわち、母それ自身 Mutter selbstと、男が母の像を標準として選ぶ愛人Geliebte, die er nach deren Ebenbild gewähltと、最後にふたたび男を抱きとる母なる大地 Mutter Erde である。

そしてかの老人は、彼が最初母からそれを受けたような、そういう女の愛情をえようと空しく努める。しかしただ運命の女たちの三人目の者、沈黙の死の女神 schweigsame Todesgöttin のみが彼をその腕に迎え入れるであろう。(フロイト『三つの小箱』1913年)
マゾッホによる三人の女性は、母性的なるものの基本的イメージに符号している。すなわちまず原始的で、子宮としてあり古代ギリシャの娼妓を思わせる母親、不潔な下水溝や沼沢地を思わせる母親がある。―――それから、愛を与える女のイメージとしてのエディプス的な母親、つまりあるいは犠牲者として、あるいは共犯者としてサディストの父親と関係を結ぶことになろう女がある。―――だがその中間に、口唇的な母親がいる。ロシアの草原を思わせ、豊かな滋養を さずけ、死をもたらす母親である。(……)滋養をさずけ、しかも無言であることによって、彼女は他を圧する……。彼女は最終的な勝利者となる。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』蓮實重彦訳)


フロイトの文のなかに「母なる大地」「沈黙の死の女神」に抱かれることとあり、ドゥルーズの文のなかに「口唇的母=死をもたらす母」とある。

ラカンの享楽概念、ーー巷間で通常、流通している「享楽」とはじつは「剰余享楽」のことであるーー、究極の享楽とは、母なる大地に抱かれる死(生きる存在には不可能な享楽)のことである。

死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)

ーー《死は享楽の最後の形態である。death is the final form of jouissance》(ポール・バーハウ2006,「享楽と不可能性 Enjoyment and Impossibility」)




2018年3月21日水曜日

「形式・イマージュ・無」(ゴダール)

まず、ラカン・柄谷・ゴダールを並べる。

現実界 [ le réel ] は外立 [ ex-sistence ]
象徴界 [ le symbolique ] は穴 [ trou ]
想像界[ l'imaginaire ] は一貫性 [ consistance ]

ーーラカン、S22、18 Février 1975
仮象(想像的なもの)、形式(象徴的なもの)、物自体(リアルなもの)(柄谷行人『トランスクリティーク』)
・シネマトグラフ⋯⋯つまり、言葉へと通じてゆく形式⋯⋯。より正確を期すれば、思考する形式(une forme qui pense)。(ゴダール『(複数の)映画史』「3A」)

・確かにイマージュとは幸福なものだ。だがそのかたわらには無が宿っている。そしてイマージュのあらゆる力は、その無に頼らなければ、説明できない。(『(複数の)映画史』「4B」)

ーーいくらかの詳細は「表象と現象と仮象」を見よ。

次の図は、上からラカン、柄谷行人による三界の定義、そしてゴダールの発言から憶測すれば、おそらくこう捉えられるだろう、という定義に準拠する。





この図は、「表象と現象と仮象」で示したように、まず次のように読む。

象徴界は想像界を覆っている(支配しようとする)。
想像界は現実界を覆っている(支配しようとする)。
現実界は象徴界を覆っている(支配しようとする)。


ゴダール用語でいえば、「思考する形式」によって支配された「イマージュ」は、「無」を支配しようとするが、「思考する形式」は、「無」に支配されており、結局、《イマージュのあらゆる力は、その無に頼らなければ、説明できない》ということになる。





ラカンの「象徴界は穴」とは一見、奇妙な表現かもしれない。だがその意味するところは、象徴界は(現実界に支配されようとしていることにより)非一貫性、非全体だということである。

以下の文における「表象」は、「形式+仮象」(象徴界+想像界)として読もう。

「表象」はそれ自体無限であり、構成的に非全体 pastoutである(あるいは非決定的である)。それはどんな対象も代表象しない。それ自身における絶え間ない「非関係 non-rapport」を妨げない。…ここでは表象そのものが、それ自身を覆う「彷徨える過剰 excès errant」である。すなわち表象は、「過剰なものへの無限の滞留」である。それは、代表象された対象、あるいは代表象されない対象から単純に湧きだす過剰ではない。そうではなく、この表象行為自体から生み出される過剰、あるいはそれ自身に内在的な「裂目」、「非一貫性」から生み出される過剰である。現実界は、表象の外部の何か、表象を超えた何かではない。そうではなく、表象のまさに裂目である。 (アレンカ・ジュパンチッチ Alenka Zupancic、The Fifth Condition、2004)

そもそも仮象(想像界)は、象徴界に支配されている。表象が「形式+仮象」として(先ず)捉えられうるのはその意味である。

カントは、経験論者が出発する感覚データはすでに感性の形式によって構成されたものであると述べた。(柄谷行人『トランスクリティーク』)
彼(カント)が感性の形式や悟性のカテゴリーによって現象が構成されるといったのは、言語によって構成されるというのと同じことである。実際、それらは新カント派のカッシラーによって「象徴形式」といいかえられている。(同上)

ーーたとえば(位相幾何学の話を視野にいれずにいっても)、眼の前のコーヒーカップは、言葉があるせいでコーヒーカップなのであり、そうでなかったらドーナツと区別しえない。究極的には、《主体の生活の真のパートナーは、実際は、人物ではなく言語自体である》(Jean-Louis Gault)とさえ言える。

さて、「表象が非全体」であるのは、なによりもまず「斜線を引かれた主体$=無」が「表象」に書き込まれているせいである。

表象は「すべてではない」。表象は非全体 pastout である。表象が非全体なのは、主体の刻印のためである。(ムラデン・ドラ―2016, Mladen Dolar, Anamorphosis, pdf

ドゥルーズ=プルーストの、 《愛する理由は、人が愛する対象のなかにはけっしてない。les raisons d'aimer ne résident jamais dans celui qu'on aime》(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)とはこの意味(主体の刻印の為)である。

柄谷行人が「形式化の極限の内部崩壊」(参照)という意味合いのことを言うとき、それは「表象の非全体(非一貫性)」においての現実界の外立とほぼ等価であり(後述の「超越論的仮象」にもかかわる)、蓮實重彦が「表象の奈落」というときも、「表象の非全体」とほぼ等しい。

決定的な翻訳にたどりつくことなく、「厚顔無恥」に陥ることも避けながら、とりあえずの翻訳にとどまるしかない「批評」は、あるとき、その宿命として、「表象の奈落」を目にする。(蓮實重彦『表象の奈落』「あとがき」)

バルトのプンクトゥム概念自体、その定義のひとつにおいて、主体が書き込まれている(わたしが書き込まれている)ことを言っている。

「温室の写真」をここに掲げることはできない。それは私にとってしか存在しないのである。読者にとっては、それは関心=差異のない一枚の写真、《任意のもの》の何千という表われの一つにすぎないであろう。それはいかなる点においても一つの科学の明白な対象とはなりえず、語の積極的な意味において、客観性の基礎とはなりえない。時代や衣装や撮影効果が、せいぜい読者のストゥディウムをかきたてるかもしれぬが、しかし読者にとっては、その写真には、いかなる心の傷もないのである。(ロラン・バルト『明るい部屋』)

さて現実界としての「無」は本源的には女にかかわる。 より厳密に言えば、《すべての話す存在 être parlant にとっての、「女性 Lⱥ femme」のシニフィアンの排除》(参照:人はみな穴埋めする)にかかわるのである。

無とは、わかりやすく言えば次のようなものである。

「そのほかに何か、私の注意すべきことはないでしょうか」 「あの晩の、犬の不思議な行動に注意なさるといいでしょう」 「犬は何もしなかったはずですが」 「そこが不思議というのです」とホームズは言った。(シャーロックホームズ 白銀号事件)

無なのに機能する何ものかなのである。そして究極的には、女性のシニフィアンの排除とは、

「あなたの姉さんの裸について、そのほかに何か、私の注意すべきことはないでしょうか?」 「姉の足のあいだに僕は奇妙なことに気づいたんだ」 「彼女の足の間には何もなかったはずですが」 「そこが不思議なんだ」(ジジェク、無以下のもの、2012)

だが今はこの話題はやめよう、あまりにもラカン派の壺にはまりこみ過ぎるから。ここでは20年前の穏やかなミレールーー、一般にも受け入れやすいだろうーーを引用しよう。

我々は、「無 le rien」と本質的な関係性を享受する主体を、女たち femmes と呼ぶ。私はこの表現を慎重に使用したい。というのは、ラカンの定義によれば、どの主体も、無に関わるのだから。しかしながら、ある一定の仕方で、女たちである主体が「無」を享受する関係性は、(男に比べ)より本質的でより接近している。 (ジャック=アラン・ミレール、1992, Des semblants dans la relation entre les sexes)

ーーここでは説明抜きで言い放ってしまえば、無としての主体$とは「暗闇のなかに蔓延る異者としての女」(異物としての身体 un corps qui nous est étranger)にかかわるのである(参照:ひとりの女は異者として暗闇のなかに蔓延る)。これが究極の結論である。

 とはいえラカン的な「無」について、もういくらかの注釈をつけ加えておこう。

ラカンは現実界≒ゼロだと言っている。

現実界は全きゼロの側に探し求められるべきである。Le Reel est à chercher du côté du zéro absolu(ラカン、S23)

ーーこのゼロが無であり、柄谷行人は、このゼロに相当する「ゼロ記号」--《ゼロ記号とは、それ自身は無でありながら体系性を成立させるような「超越論的主観」の言い換え》としている。やや長くなるが核心的な文のひとつであり、そのまま引用しよう。

……「構造」はそれを統合する超越論的主観を暗黙に前提としている。しかし、構造主義者がこうした「主観」なしにすませうるのみならずそれを否定しうると考えたのは、彼らが、存在しないが体系を体系たらしめるものを想定したからである。それが、ゼロ記号である。たとえば、ヤーコプソンは音韻の体系を完成させるためにゼロの音素を導入した。

《ゼロの音素は、……それが何らかの示差的性格をも、恒常的音韻価値をも内包しないという点において、フランス語の他のすべての音素に対立する。そのかわり、ゼロの音素は、音素の不在を妨げることを固有の機能とするのである》(R.Jakobson、……1971)。

このようなゼロ記号はむろん数学から来ている。ブルバキによって定式化された数学的「構造」とは、変換の規則である。それは形のように見えるものではなく、見えていない働きである。変換の規則においては、変換しないという働きが含まれなければならない。ヤーコブソンによって設定されたゼロの音素は数学的な可変群における単位元に対応するものだといってよい。それによって、音素の対立関係の束は構造となりうる。レヴィ=ストロースがヤーコブソンの音韻論に震撼されたのは、それによって多様で混沌としたものが秩序的であることを示すことが可能だと考えたからである。

《音韻論は種々の社会科学に対して、たとえば核物理学が精密科学の全体に対して演じたのと同じ革新的な役割を演ぜずにはいない》(『構造人類学』)。

レヴィ=ストロースは、クライン群(代数的構造)を未開社会の多様な親族構造の分析に適用した。ここに、狭義の構造主義が成立したのである。

だが、ゼロ記号とは、それ自身は無でありながら体系性を成立させるような「超越論的主観」の言い換えなのであって、それを取り除くことではない。ゼロは紀元前のインドで、算盤において、珠を動かさないことに対する命名として、実践的・技術的に導入された。ゼロがないならば、たとえばニ○五と二五は区別できない。つまりゼロは、数の「不在をさまたげることを固有の機能とする」(レヴィ=ストロース)のである。ゼロの導入によって、place-value-system(位取り記数法)が成立する。だが、ゼロはたんに技術的な問題ではありえない。それはサンスクリット語においては、仏教における「空」(emptiness)と同じ語であるが、仏教的な思考はそれをもとに展開されたといっても過言ではない。ドゥルーズは、「構造主義は、場所がそれを占めるものに優越すると考える新しい超越論的哲学と分かちがたい」(「構造主義はなぜそうよばれるか」)といったが、place-value-system(位取り記数法)において、すでにそのような「哲学」が文字通り先取られているといってもよい。この意味で構造主義はゼロ記号の導入とともにはじまったのだが、構造主義者自身はその哲学的含意について考えなかった。たんに、彼らはそのことによって、主観から始まる近代的思考を払拭しえたと信じた。だが、主観なしにすませると思いこんだとき、彼らは暗黙に主観を前提としていることを忘れたのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

《ゼロ記号とは、それ自身は無でありながら体系性を成立させるような「超越論的主観」の言い換え》という表現における「無」、あるいは現実界としての「無」について、さらにラカンの引用をしよう。

無、たぶん? いや、ーーたぶん無でありながら、無ではないもの
Rien, peut-être ? non pas – peut-être rien, mais pas rien(ラカン、S11, 12 Février 1964)

ーーBarbara Cassinはこのラカンにこう言わせたかったとしている、《無ではなく、無以下のもの Pas rien, mais moins que rien (Not nothing, but less than nothing)》

ーージジェクの2012年の書名はここから来ている。「無以下のもの」とは、ジジェクにとって空虚としての対象aである。 

ただし対象aとは両義的な意味をもっていることに注意しなければならない。

対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 void をあらわす。(ジジェク, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? ,2016)

さてここまでは実は、前段である。ゴダールの「イマージュと無」ーーイマージュのかたわらの無ーーについての。

とはいえ、ゴダールは、「暗闇のなかに蠢く異者としての女」にひどく敏感な映像作家であり、それが彼の映像の強度を生んでいる、と断言してしまえば、それでよいのかもしれない。ーー《魂の調子は強度の波動である。La tonalité d'âme est une fluctuation d'intensité》(クロソウスキー『ニーチェと悪循環』)

ある種の写真に私がいだく愛着について(……)自問したときから、私は文化的な関心の場(ストゥディウム le studium)と、ときおりその場を横切り traverser ce champ やって来るあの思いがけない縞模様 zébrure とを、区別することができると考え、この後者をプンクトゥム le punctum と呼んできた。さて、いまや私は、《細部》とはまた別のプンクトゥム(別の《傷痕 stigmate》)が存在することを知った。もはや形式ではなく、強度 intensité という範疇に属するこの新しいプンクトゥムとは、「時間 le Temps」である。「写真」のノエマ(《それは = かつて = あった ça—a-été》)の悲痛な強調であり、その純粋な表象 représentation pure である。(ロラン・バルト『明るい部屋』)

ゴダールの最も美しい映像の一つ(最も美しい映像の「一つ」、ーー彼は『(複数の)映画史』でも自ら引用しているーーは、アンナ・カリーナのダンス姿(『はなればなれに』1964年)である(1964年末、ふたりは破局をむかえた)。




ーーこのシーンは、《それは = かつて = あった ça—a-été》)の悲痛な強調、その叫びでなくてなんだろう(すくなくともゴダールにとって)。

⋯⋯⋯⋯

コトバとコトバの隙間が神の隠れ家(谷川俊太郎「おやすみ神たち」2012)

ゴダールのモンタージュ(編集)とは、 イマージュとイマージュの隙間の魂の隠れ家、神の隠れ家を生み出す作業であるにちがいない。

ゴダール(Godard)の中には神(God)がいると平然といってのけたりもする映像作家⋯⋯(蓮實重彦『ゴダール マネ フーコー 思考と感性をめぐる断片的な考察』2008年)

これは、巷間の「シニフィアンのネットワーク」(ストゥディウム)に終始する学者たちへの挑発と読みうる言説であり、《神の外立 l'ex-sistence de Dieu》、《現実界は外立する Le Réel ex-siste》(S22)の「隠喩」と読みたいところである。

そしてラカン派にとっての「神」とは?

「大他者の(ひとつの)大他者はある il y ait un Autre de l'Autre」という人間のすべての必要(必然)性。人はそれを一般的に〈神〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に〈女 〉« La femme » だということである。

La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ».(S23、16 Mars 1976)
〈女〉が存在するのなら、彼女は大他者の大他者である。⋯⋯この不可能の〈女〉は、象徴的フィクションではなく、幻想的幽霊 fantasmatic specter であり、対象a である」(ジジェク、LESS THAN NOTHING 2012)

というわけで、そのうちもうすこし詳しく、ゴダールの「イマージュと無」について(ミナさんにもワカルヨウニ)示したいという野望をもっていないでもないがーーとはいえ、わたくしはゴダールに「真の」愛を捧げ始めた(ようするにわたくしのプンクトゥムを彼のなかに見出した)のはようやくこのひと月前なので、まったくエラそうなことを言えないーー、そんなことをしていったい何の役にたつのだろうか・・・

ゴダールはひと月前の「ある出来事」にめぐりあう前までは、わたくしにとってストゥディウムの映像作家だった。

遺憾なことに、多くの写真は、私の視線のもとでは、生気を失っている。しかし、私の目から見ていくらか生きているように見える写真も、たいていは私の心に、ある一般的な関心、もしこう言ってよければ礼儀正しい関心しか呼びおこさない。それらの写真には、いかなるプンクトゥムもないのだ。そうした写真は、私の気にいることもあれば気に入らぬこともあるが、私を突き刺しはしない。そこに充当されているのは、ただストゥディウム(一般的関心)だけである。ストゥディウムというのは、気楽な欲望と、種々雑多な興味と、とりとめのない好みを含む、きわめて広い場のことである。それは好き/嫌い(I like/ I don’t)の問題である。ストゥディウムは、好き(to like)の次元に属し、愛する(to love)の次元には属さない。ストゥディウムは、中途半端な欲望、中途半端な意志しか動員しない。それは、人が《すてき》だと思う人間や見世物や衣服や本に対していだく関心と同じたぐいの、漠然とした、あたりさわりのない、無責任な関心である。(ロラン・バルト『明るい部屋』第11章)

ーー《バルトのストゥディウムとプンクトゥムは、オートマンとテュケーへの応答である。Les Studium et punctum de Barthes répondent à automaton et tuché》( jacques-alain miller 2011,L'être et l'un)

セミネール11のラカンの定義によれば、オートマンとは、《シニフィアンのネットワーク réseau de signifiants》(表象のネットワーク)にかかわり、テュケーとは《現実界との遭遇rencontre du réel》である。

プンクトゥム(punctum)、――、ストゥディウムを破壊(または分断)しにやって来るものである。(……)プンクトゥムとは、刺し傷 piqûre、小さな穴 petit trou、小さな斑点 petite tache、小さな裂け目 petite coupureのことであり――しかもまた骰子の一振り coup de dés のことでもあるからだ。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然 hasard なのである。(ロラン・バルト『明るい部屋』)


《ストゥディウム studium は、つねにコード化されているが、プンクトゥム punctum は、そうではない。》(同、バルト)


・それは鋭いが覆い隠され、沈黙のなかで叫んでいる。奇妙に矛盾した言い方だが、それはゆらめく閃光 un éclair qui flotte なのである。

・ある一つの細部が、私の読み取りを完全に覆してしまう。それは関心の突然変異であり、稲妻 fulgurationである。(ロラン・バルト『明るい部屋』1980年)

ああ、ようやくいまごろになって、この「ゆらめく閃光」を、ゴダールのなかに見出したとは。なんという不感症!  《あゝ おまへはなにをして来たのだと……/吹き来る風が私に云ふ》。

なにはともあれ一月前に、「関心の突然変異」が生じたのである。

さて、何の話だったか・・・

ーーゴダールの「イマージュと無」だ。だがそんなものはどうでもよろしい。そしてわたくしのみのゴダールのなかにあるプンクトゥム、それもどうでもよろしい。バルトが言うように、である。《「温室の写真」をここに掲げることはできない。それは私にとってしか存在しないのである。》