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2018年1月4日木曜日

異性愛とは、女性を愛することである

◆異性愛をめぐる簡潔版

定義上異性愛とは、おのれの性が何であろうと、女性を愛することである。それは最も明瞭なことである。Disons hétérosexuel par définition, ce qui aime les femmes, quel que soit son sexe propre. Ce sera plus clair. (ラカン、L'étourdit, AE.467, le 14 juillet 72)
「他の性 Autre sexs」は、両性にとって女性の性である。「女性の性 sexe féminin」とは、男たちにとっても女たちにとっても「他の性 Autre sexs」である(ミレール、The Axiom of the Fantasm)
性関係において、二つの関係が重なり合っている。両性(男と女)のあいだの関係、そして主体と⋯その「他の性」とのあいだの関係である。(ジジェク 、LESS THAN NOTHING、2012)

ラカンによる異性(hétéro)の定義とは?

幼児性愛は自体愛的 autoérotique ではなく、ヘテロ的 hétéro である(ラカン、1975、ジュネーヴ)

ここでのヘテロ hétéro とは、「奇妙な、異物の、異者の、エイリアンの」という意味。

→《われわれにとって異者の身体 un corps qui nous est étranger》(ラカン、S23、11 Mai 1976)

※参照:「ひとりの女とは何か?

ひとりの女は…他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)



女性性をめぐって問い彷徨うなか、ラカンは症状としての女 une femme comme symptôme について語る。その症状のなかに、他の性 l'Autre sexe がその支えを見出す。後期ラカンの教えにおいて、症状と女性性とのあいだの近接性 rapprochement entre le sinthome et le féminin が見られる。

女la femme は「他の身体の症状 le symptôme d'un autre corps」であることに同意する。…彼女の身体を他の身体の享楽に貸し与えるのである elle prête son corps à la jouissance d'un autre corps。他方、ヒステリーはその身体を貸さない l'hystérique ne prête pas son corps。(Florencia Farìas 「ヒステリー的身体と女の身体 Le corps de l'hystérique – Le corps féminin」(2010.PDF

※参照: 女性の享楽と身体の出来事

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……男と女を即座に対照させるのは、間違っている。あたかも、男は対象を直ちに欲望し、他方、女の欲望は、「欲望することの欲望」、〈他者〉の欲望への欲望とするのは。(……)

真実はこうだ。男は自分の幻想の枠組みにぴったり合う女を直ちに欲望する。他方、女は自分の欲望をはるかに徹底して一人の男のなかに疎外する。彼女の欲望は、男に欲望される対象になることだ。すなわち、男の幻想の枠組みにぴったり合致することであり、この理由で、女は自身を、他者の眼を通して見ようとする。「他者は彼女/私のなかになにを見ているのかしら?」という問いに絶えまなく思い悩まされている。

しかしながら、女は、それと同時に、はるかにパートナーに依存することが少ない。というのは、彼女の究極的なパートナーは、他の人間、彼女の欲望の対象(男)ではなく、裂け目自体、パートナーからの距離自体なのだから。その裂け目自体に、女性の享楽の場所がある。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)

なぜこういったことが起こるのかといえば、ラカン派では次のように言われることが多い。

①男女とも最初の愛の対象は女である。つまり最初に育児してくれる母=女である。

②男児は最初の愛のジェンダーを維持できる。つまり母を他の女に変えるだけでよい。

③女児は愛の対象のジェンダーを取り替える必要がある。その結果、母が彼女を愛したように、男が彼女を愛することを願う。

つまり少女は少年に比べて、対象への愛ではなく愛の関係性がより重要視される傾向をもつようになる。

ーー男性の愛の《フェティッシュ形式 la forme fétichiste》 /女性の愛の《被愛妄想形式 la forme érotomaniaque》(Lacan, E733)

女性の愛の形式は、フェティシスト fétichiste 的というよりもいっそう被害妄想的érotomaniaqueです。女たちは愛され関心をもたれたいのです。 (ジャック=アラン・ミレール、2010、On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? "

以上より「ラカン派的には」、女性にとって男性はそれほど必要ない(標準的な男性が女性を必要とするようには)。必要なのは、誰かにーー男からでも女からでもーー愛されることである。

巷間での名言、「男性の恋愛は名前をつけて保存、女性の恋愛は上書き保存」は、この文脈で理解しうる。

もっとも愛すること自体が、男女とも、本来は愛されることを望むことではないか、と捉えうるーーすくなくともある時期のーーフロイト・ラカンの観点もある。

愛することは、本質的に、愛されることを欲することである。l'amour, c'est essentiellement vouloir être aimé. (ラカン、S11, 17 Juin 1964)
愛するということには、一つだけではなく、三つの対立関係が可能である。愛するーー憎むという対立関係の他に、愛するーー愛されるという対立関係があり、さらに、愛すると憎むとをいっしょにしたものが、無頓着あるいは無関心という状態に対立する。以上三つの対立関係のうち、愛するーー愛されるという対立関係は、能動性から受動性への転換に全面的に対応している。…その基本的状況とは、自分自身を愛する sich selbst lieben ことであり、これはナルシシズムの特性にほかならない。(フロイト『欲動とその運命』1915)

ただしーー念押しておけばーー、20世紀のある時期以降(「父の死」の世代以降)、男性における「女性への推進力」、女性における「男性への推進力」という現象がある範囲で見られ、男女の愛について断言的なことをいうつもりは毛頭ない(参照)。

女であること féminité と男であること virilité の社会文化的ステレオタイプが、劇的な変容の渦中です。男たちは促されています、感情 émotions を開き、愛することを。そして女性化する féminiser ことさえをも求められています。逆に、女たちは、ある種の《男性への推進力 pousse-à-l'homme》に導かれています。法的平等の名の下に、女たちは「わたしたちも moi aussi」と言い続けるように駆り立てられています。…したがって両性の役割の大きな不安定性、愛の劇場における広範囲な「流動性 liquide」があり、それは過去の固定性と対照的です。現在、誰もが自分自身の「ライフスタイル」を発明し、己自身の享楽の様式、愛することの様式を身につけるように求められているのです。(ジャック=アラン・ミレール、2010、On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? "

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※附記

ーーわたくしの好きな初期ラカンの文を付記しておく。

イマジネールな情念 passion imaginaire としての愛を、愛が象徴的平面で構成する能動的贈与 don actif とを区別することを学んでください。愛、愛されることを欲望 désir d'être aimé する人の愛は本質的に、対象としての自分自身の中に他者を捕獲する capture 試みなのです。

愛されたい欲望 désir d'être aimé、それは、愛してくれる対象 objet aimant がそれとして捉えられて、対象としての自分自身の絶対的個別性のうちに鳥もちづけられ englué,、隷属させられる asservi 欲望です。愛されることを熱望する人は、自分の美点 bien のため愛されることにはほとんど満足しません。その主体が求めていることは、主体が個別性への完全な subversion に行くほど愛されること、つまりその個別性が持っているかもしれない、最も不透明で最も考えることもできないものにまで主体が完全に逆転されるほど愛されることです。人は自己のすべてのために愛されることを望むのです。デカルトが言うように、単にその自我のためだけでなく、髪の色とか、癖とか、弱さとか、全てのことのために愛されたいと望むのです。On veut être aimé pour tout.

しかし逆に、私としては相関的にと言いますが、まさしくこのために、愛することはそう見えるものの彼岸で au-delà de ce qu'il apparaît être 存在を愛することです。愛の能動的贈与 Le don actif de l'amour は他者を、その特殊性ではなく、その存在において他者を狙います。

愛、 情念 passion としての愛ではなく、 能動的贈与としての愛はつねに、 想像的捕縛の彼岸 au-delà de cette captivation imaginaire、愛される主体 sujet aimé の存在、彼の個別性に狙いを定めます。だからこそ愛は、かなりのところまで、愛される主体の弱点、迂回 détours を受け入れることができます。愛は(相手の)誤謬を認めることもできます。(ラカン、S1、07 Juillet 1954)