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2018年1月6日土曜日

ああ、それね、

ああ、それね、「予感」っていうけどさ、そればっかりだよ、もとから

他者の欲望の対象として自分自身を認めたら、常にマゾヒスト的だよ⋯⋯que se reconnaître comme objet de son désir, …c'est toujours masochiste. (ラカン、S10, 16 janvier l963)
(すくなくとも最晩年のある時期までの)フロイトが気づいていなかったことは、最も避けられることはまた、最も欲望されるということである。不安の彼方には、受動的ポジションへの欲望がある。他の人物、他のモノに服従する欲望である。そのなかに消滅する欲望……。(ポール・バーハウ1998, Paul Verhaeghe 、THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE )

始原(世界の夜)に退行したら「享楽という原マゾヒズム」が現われるのさ。

マゾヒズムはサディズムより古い。der Masochismus älter ist als der Sadismus (フロイト 1933、『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」)

女に限らない、これは。

男女の関係が深くなると、自分の中の女性が目覚めてきます。女と向かい合うと、向こうが男で、こちらの前世は女として関係があったという感じが出てくるのです。それなくして、色気というのは生まれるものでしょうか。(古井由吉『人生の色気』)

もっとも始原に退行しなくても次のような幻想はある(ラシイ・・・)。

――ファンタジー(幻想)の役割はどうなのでしょう?

女性の場合、ファンタジーは、愛の対象の選択よりもジュイサンス(享楽)の立場のために決定的なものです。それは男性の場合と逆です。たとえば、こんなことさえ起りえます。女性は享楽――ここではたとえばオーガズムとしておきましょうーーその享楽に達するには、性交の最中に、打たれたり、レイプされたりすることを想像する限りにおいて、などということが。さらには、彼女は他の女だと想像したり、ほかの場所にいる、不在だと想像することによってのみ、オーガズムが得られるなどということが起りえます。(Jacques-Alain Miller: On Love:We Love the One Who Responds to Our Question: “Who Am I?”

(この文って神サマの検閲ダイジョウブかな・・・)