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2017年12月16日土曜日

二つの現実界

ラカンは必然性 Le nécessaire、偶然性 le contingent、不可能性 l'impossibleについて、次のような言い方をしている(ここでは直接ラカンからではなく、Du « réel contingent »  Chantal Bonneau、2014、pdfから引く)。

①Le nécessaire c'est ce qui ne cesse pas de s'écrire
②le contingent c'est ce qui cesse de ne pas s'écrire
③l'impossible c'est ce qui ne cesse pas de ne pas s'écrire 

③の l'impossibleとは、いわゆる現実界のことである(究極的には性的非関係のこと)

私の定式: 不可能性、それはリアルである ma formule : l'impossible, c'est le réel. (ラカン、RADIOPHONIE、AE431、1970)

この現実界、ne cesse pas de ne pas s'écrireは、英訳では次のように訳される。

・which does not stop not writing itself
・it does not stop not being written

すなわち、

・己を書かないことを止めないもの
・それ(現実界)は書かれないことを止めない

とすれば冒頭の文は次のように訳せる

①必然性 nécessaire :ne cesse pas de s'écrire 書かれ事を止め
②偶然性 contingent :cesse de ne pas s'écrire 書かれ事を止め
③不可能性 impossible:ne cesse pas de ne pas s'écrire 書かれ事を止め

ーーいやあ、自分で訳していても何のことか分からなくなる。

ところで②の偶然性について、ラカンは次のように言っている。

偶然性 la contingence を、わたしは、書かれぬ事をを止める cesse de ne pas s'écrire で示した。というのも、そこにはまさに出会い rencontre があるからである。(Lacan, S20、26 Juin 1973)

この出会いとは、テュケーのことである。

テュケー tuché の機能、出会いとしての現実界の機能ということであるが、それは、出会いとは言っても、出会い損なうかもしれない出会いのことであり、本質的には、「出会い損ね rencontre manquée 」としての「現前 présence」である。このような出会いが、精神分析の歴史の中に最初に現われたとき、それは、トラウマ traumatisme という形で出現してきた。そんな形で出てきたこと自体、われわれの注意を引くのに十分であろう。(ラカン、S11、12 Février 1964)

このセミネール11でラカンは、アリストテレスのテュケー/オートマン(αύτόματον [ automaton ]/τύχη [ tuché ])を参照しつつ、「現実界との出会い rencontre du réel/シニフィアンのネットワーク réseau de signifiants」としている。

この考え方に依拠しつつ、上に示した必然性、偶然性、すなわち

①必然性 nécessaire :ne cesse pas de s'écrire 書かれる事を止めぬ
②偶然性 contingent :cesse de ne pas s'écrire 書かれぬ事を止める

は、次のように解釈されてきた(わたくしの知る限り)。

すなわち①は「シニフィアンのネットワーク」 、②は「現実界との出会い」と。

①は「シニフィアンのネットワーク」であるゆえに、「象徴界について、書かれる事を止めぬ」 とすることが、おそらくできる。たとえばフロイトの「自由連想」はこの領域にある(ポール・バーハウ,2001による)。

だがあるときその行き詰まりとして、③の「不可能性 impossible:ne cesse pas de ne pas s'écrire 書かれぬ事を止めぬ」に出会う。そのとき「書かれぬ事を止めぬ」ものである現実界は「書かれぬ事を止める」。

これが現実界との「出会い損ね rencontre manquée 」としての「現前 présence」である。

こういう解釈をとると、ラカンの次の文とピッタリくる。

現実界は形式化の行き詰まりに刻印される以外の何ものでもない le réel ne saurait s'inscrire que d'une impasse de la formalisation(LACAN, S20、20 Mars 1973)

すなわちシニフィアンのネットワークの形式化の行き詰まりに現れるものが、現実界である、とすることができる。

例えば、ジジェク の現実界の定義は、こういった解釈のもとにある。

現実界 The Real は、象徴秩序と現実 reality とのあいだの対立が象徴界自体に内在的なものであるという点、内部から象徴界を掘り崩すという点にある。すなわち、現実界は象徴界の非全体 pas-tout である。一つの現実界 a Real があるのは、象徴界がその外部にある現実界を把みえないからではない。そうではなく、象徴界が十全にはそれ自身になりえないからである。

存在(現実) [being (reality)] があるのは、象徴システムが非一貫的で欠陥があるためである。なぜなら、現実界は形式化の行き詰りだから。この命題は、完全な「観念論者」的重みを与えられなければならない。すなわち、現実 reality があまりに豊かで、したがってどの形式化もそれを把むのに失敗したり躓いたりするというだけではない。現実界 the Real は形式化の行き詰り以外の何ものでもないのだ。濃密な現実 dense reality が「向こうに out there」にあるのは、象徴秩序のなかの非一貫性と裂け目のためである。 現実界は、外部の例外ではなく、形式化の非全体 pas-tout 以外の何ものでもない。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012、私訳)


ところが、である。

ラカン臨床派の代表的二人はジジェクとは異なったことをいっている。その二人とは、ラカンの娘婿でもあるラカン主流派の首領ジャック=アラン・ミレール、そして女流分析家の第一人者コレット・ソレールである。二人とも、ラカンの現実界は1973年、セミネール20「アンコール」のある時期からラカンの現実界は変貌した、と。

とくに次の文が現代(臨床)ラカン派では注目されている(参照)。

現実界、それは「話す身体」の神秘、無意識の神秘である Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient(Lacan,S20, 15 mai 1973 )


ところでジジェクは、最近になってかつての師匠ミレールーー2004年には「私のラカンはミレールのラカンである」といったーーの現実界の捉え方を罵倒している(参照:「何かが途轍もなく間違っている(ジジェク 2016→ ミレール)」)。

ミレールが「途方もなく間違っている」とジジェクがいうのなら、ジジェクが「途方もなく間違っている」可能性を疑わねばならない。

ミレールとソレールの解釈が依拠しているだろう、ひとつの核心的な文は、

症状は、現実界について書かれる事を止めぬ le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン、三人目の女La Troisième、1974)

である。

とすれば、

①必然性 le nécessaire :ne cesse pas de s'écrire 書かれ事を止め
②偶然性 le contingent :cesse de ne pas s'écrire 書かれ事を止め
③不可能性 l'impossible:ne cesse pas de ne pas s'écrire 書かれ事を止め
④症状 le symptôme: ne cesse pas de s’écrire du réel 現実界について書かれ事を止め

となる。④は①の必然性の表現と同じである。

ただし、わたくしの理解するかぎりでは、上にも示したように、

①は象徴界について、書かれ事を止め
④は現実界について、書かれ事を止め

であると思う。だが必然性はテュケーではなくオートマンであるには相違ない。

ゆえにミレールは次の図を示している(Orientation lacanienne III, 8. Jacques-Alain Miller Première séance du Cours (mercredi 9 septembre 2005、PDF)




ーーこの図は、「いままでの常識的な解釈なら」、テュケーとオートマンの位置が逆になるはずである。

コレット・ソレールも2009年の書でしきりに強調している。象徴界内部の「形式化の行き詰まり」とは異なった、象徴界外にあるもうひとつの現実界を。

ここでは敢えて英訳のまま掲げる。

As for the Real, it ex-sists. Ex-sistence outside. This is very different from knocking up against a limit to formalisation in the symbolic combinatory, against an impossible to write. This latter limit, according to Lacan's expression, is a “function of the real” in the Symbolic, and to be distinguished from the Real outside the Symbolic, which is rather on the side of the living being. This is a living being about which we have no idea, which cannot be imagined and about which the Symbolic knows nothing—despite the life sciences.(Colette Soler 2009、L'inconscient Réinventé)

ソレールのいう「象徴界外」とは、たとえばラカンの次の文にある。

ファルス享楽 jouissance phallique とは身体外 hors corps のものである。 (ファルスの彼岸にある)他の享楽 jouissance de l'Autre とは、言語外 hors langage、象徴界外 hors symbolique のものである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

この文にある他の享楽とは、女性の享楽のことである(参照:女性の享楽と身体の出来事

身体の出来事は、トラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。événement de corps…est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard

…この享楽は、固着の対象である。elle est l'objet d'une fixation

…女性の享楽は、純粋な身体の出来事である。la jouissance féminine est un pur événement de corps ジャック=アラン・ミレール 、Miller, dans son Cours L'Être et l'Un 、2011、pdf

身体の出来事とは次の文に依拠する。

症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)

ーーこの文における「症状 symptôme」は、「サントーム sinthome」のことである。《サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps》  (miller, Fin de la leçon 9 du 30 mars 2011)

そもそもトラウマ的な身体の出来事、その刻印の反復強迫が、象徴界の形式化の行き詰まりに現れるなどという定義には当てはまり難いのは確かであろう(典型的にはPTSD)。あの症状は「現実界について書かれる事を止めぬ」ものである。

フロイトの命題ーー『制止、症状、不安』のフロイトーー、それは断言している、すべての主体にとって、症状は不安から来ると。未知の享楽の出現、見られ聞かれ感じらた享楽の顕現、それとのトラウマ的、不意打ちの遭遇によって生み出された不安から来ると。すなわち「身体の出来事」である。この理由で私は信じている、フロイトは、症状的享楽を説明するなかで、決して大他者に有罪を着せていない、と。フロイトのあらゆるエディプス構築にもかかわらず、である。(コレット・ソレール2009、L'inconscient Réinventé)


※付記

上の文はかなり曖昧なまま書いているので要注意。ジジェクの現実界の定義を信用してきた者としては、なんとかあの定義文におさまる範囲で(あるいはいくらかの微調整で?)解釈できないものか、との思いがいまだある。二つの現実界などといわずに。