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2017年11月7日火曜日

女ふんどしの来るべき未来のために

終戦後は諸事解禁で、ストリップ、女相撲は御承知のこと、その他善男善女の立ち入らぬところで何が行われているか、何でもあると思うのが一番手ッとり早くて確実らしいというゴサカンな時世でしたが、明治維新後の十年間ほどもちょうど今と同じように諸事解禁でゴサカンな時世でした。ソレ突ケヤレ突ケなどというのは上の部で、明治五年には房事の見世物小屋まで堂々公開されたという。女の子のイレズミもはやったし、男女混浴という同権思想も肉体の探究もはやり、忙しく文明開化をとりいれて今にもまさる盛時であった。当時は南蛮渡来のストリップのモデルがなかったせいか、または西洋音楽も楽隊も普及しておらぬせいか、ハダカの西洋踊りは現れなかったが、今のストリップと同じ意味で流行したのが女相撲であった。号砲一発の要領でチョッキリ明治元年から各地に興行が起ってみるみる盛大に流行し、明治二十三年に禁止された。(坂口安吾『明治開化 安吾捕物 その十九 乞食男爵』)

ははあ、そうだったのかと、「明治、女相撲」で画像検索してみたが、たいしたものは出てこない。これぐらいか→「女相撲」。

どちらかというと、わたくしは次のような画像のほうが好みである。



ーーいやあ女褌姿とは実に美しい。ふんどしの美とは腰つきの美である。喰い込みの美である。ハイデガーの Abgrund[深淵]、 Zerklüftung[裂開]、Riß[断裂]、Lichtung[存在の開け]の美であり、ラカンの béance[裂口]、coupure[切れ目]、fente[裂け目]、refente[裂割]、faille[断層]、trou[穴]の美である。




そして《おまえが長く深淵 Abgrund を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返す》 (ニーチェ『善悪の彼岸』146節)

わたくしは腰パン好みであるが、それよりもふんどしのほうがずっとよい。





なにはともあれ安吾の文は、探偵小説のなかの叙述である。実際の事実関係はわからない(司馬遼太郎に先行する偉大な歴史小説家安吾は、探偵小説においてもいい加減なことを書く作家ではないが)。

wikiの女相撲の項目を眺めてみると、こうある。

江戸中期18世紀中ごろから流行した。当初女同士の取り組みで興行したが、美人が少なく飽きられたため、男の盲人との取り組みを始めて評判になった。大関・関脇などのシステムは男の相撲に準じており、しこ名には「姥が里」「色気取」「玉の越(玉の輿の洒落)」「乳が張」「腹櫓(はらやぐら)」などの珍名がみられる。

明治5年には、男女の取り組み・女力士の裸体が禁止されたため、シャツや水着が使われることもあった(それまで男同様全裸にまわしなど、少なくとも上半身は裸だった)。明治中期以降現れた複数の女相撲の一座には全国興行を行う興行団もあったという。その後昭和30年代後半まで九州に女相撲の興行団が残っていたらしい。また第二次大戦後に生まれた「女子プロレス」はこれら女相撲と同系統のものだという。

とはいえ安吾のいうようなことはあったのだろう。つまり《終戦後は諸事解禁で、ストリップ、女相撲は御承知のこと、その他善男善女の立ち入らぬところで何が行われているか、何でもあると思うのが一番手ッとり早くて確実らしいというゴサカンな時世》となるということは。

森山大道の女褌写真はいつ頃撮られたのだったか?





ーーこっちの褌はたいして好みではない。なにか饐えたにおいがしてきそうである。わたくしは冒頭近くにかかげた「健康的で解放的な」褌姿のほうがずっといい。

というわけで(?)、女褌で検索してみると、スバラシイ写真が出現する。







ーーすばらしい、見事である。「かなまら祭り」は偉大である(陽根のちゃちさはこの際許容せねばならぬ)。

とはいえこんな画像もある(これは「かなまら」ではない筈)。






ーー幼い頃からこうやって鍛えておけば、女たちはいっそう美しい腰つきになるはずである。

なぜこの至高の美をもっと流行らせないのだろうか、とてつもない日本文化の美である。

人は腰あるいはお尻の美を侮ってはならない。「お葬式」の悲哀も腰とお尻で吹き飛ばすことが可能なのである。




伊丹十三の不幸は、いや時代の不幸は、当時は女ふんどしが流行せず、パンティやらストッキングやらというやっかいなしろものしか活用できなかったことである。





さて安吾の言うように「終戦後は諸事解禁」になるはずである。ふたつの「終戦」1868年、1945年とは77年を隔てている。そろそろ「口にしちゃいけないこと」ことが起こってもいいはずである。

本当のことを言うとね、空襲で焼かれたとき、やっぱり解放感ありました。震災でもそれがあるはずなんです。日常生活を破られるというのは大変な恐怖だし、喪失感も強いけど、一方には解放感が必ずある。でも、もうそれは口にしちゃいけないことになっているから。(古井由吉「新潮」2012年1月号又吉直樹対談) 

1945年から77年後とは2022年である。財政破綻(経済終戦)はちょうとその頃起りそうである。みなさん、もうすこしである! 女褌が盛大に流行るようになるのはオソラク間近デアル!! 多くの皆さんはそれを無意識的に希求して安倍政権を選択し続けている筈ずである・・・




非日常の世界では女たちが「祟る」のである。

たゝりはたつのありと複合した形で、後世風にはたてりと言ふところである。「祟りて言ふ」は「立有而言ふ」と言ふ事になる。神現れて言ふが内化した神意現れて言ふとの意で、実は「言ふ」のでなく、「しゞま」の「ほ」を示すのであつた。(折口信夫『「ほ」・「うら」から「ほかひ」へ』)




まさに女の「Ek-sistenz」(外立)である。《神の外立 l'ex-sistence de Dieu》(ラカン)である。

”Helle Nacht des Nichts der Angst”(「不安の無の明るい夜」)あるからこそ、”Seiendes ist”(すべてあるものがある)ということができるのである。無に包み込まれた現存在は無を越え出て、存在の明るみに照らされて実存する。ハイデガーは”Ek-sistenz”という言葉を 独自に脱我的実存、存在の明るみに立つという意味で使う。存在者を越え出た存在をハイデ ガーは超越と名づける。超越には、本来的な、最高の存在の意味がある。最高の存在の真理は人間が祝祭のときに故郷へ帰ってくる(ヘルダーリンの”Wie wenn man am Feiertag kehrt”)と同じように、人間の方へ帰ってきて、輝き出る。(西田幾太郎 -ハイデガーの実存主義と仏教をつなぐ橋- カラディマ・クリスティーナ、pdf)

人間が故郷へ帰ってくるためには、女性からパンティなどという厄介なものは取り払うべきである! 



もっともパンティなどは取り払うべきだ、とはレトリックであって、真っ裸のお尻よりは喰い込みパンティのほうがずっとエロス的であるのは周知であろう。

身体の中で最もエロティックなのは衣服が口を開けている所ではないだろうか。倒錯(それがテクストの快楽のあり方である)においては、《性感帯》(ずい分耳ざわりな表現だ)はない。精神分析がいっているように、エロティックなのは間歇である。二つの衣服(パンタロンとセーター)、二つの縁(半ば開いた肌着、手袋と袖)の間にちららと見える肌の間歇。誘惑的なのはこのちらちら見えることそれ自体である。更にいいかえれば、出現ー消滅の演出である。

それはストリップ・ショーや物語のサスペンスの快楽ではない。この二つは、いずれの場合も、裂け目もなく、縁もない、順序正しく暴露されるだけである。すべての興奮は、セックスを見たいという(高校生の夢)、あるいは、ストーリーの結末を知りたいという(ロマネスクな満足)希望に包含される。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)

これは安吾も同様なことを言っている。

むかし、日本政府がサイパンの土民に着物をきるように命令したことがあった。裸体を禁止したのだ。ところが土民から抗議がでた。暑くて困るというような抗議じゃなくて、着物をきて以来、着物の裾がチラチラするたび劣情をシゲキされて困る、というのだ。

ストリップが同じことで、裸体の魅力というものは、裸体になると、却って失われる性質のものだということを心得る必要がある。

やたらに裸体を見せられたって、食傷するばかりで、さすがの私もウンザリした。私のように根気がよくて、助平根性の旺盛な人間がウンザリするようでは、先の見込みがないと心得なければならない。(坂口安吾「安吾巷談 ストリップ罵倒」)

この意味で女ふんどしは至高のエロスである。




ああ、ディオニュソスの祝祭! ひとは皆それを待ち望んでいるはずである、《祝祭、競闘、冒険、勝利、あらゆる極端な運動の陶酔。残酷さの陶酔。破壊における陶酔。》(ニーチェ『偶像の黄昏』)