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2017年11月5日日曜日

人間の実相

私が信頼を寄せれば、彼は正直な人間でいる。私が心のうちで彼をとがめていると、彼は私のものを盗む。どんな人間でも、私のあり方次第で私にたいする態度をきめるのである。(アラン「オプチミスム」)

いやあスバラシイ! 至高のモラリスト、わが青春のたぐいまれなる教師!《チョークの粉がつくる雲の中で教師然としているアラン!》(ラカン)

ひとはフロイトなど読んではならないのである。

われわれにとって隣人は、たんにわれわれの助手や性的対象たりうる存在であるばかりでなく、 われわれを誘惑して、 自分の攻撃欲動を満足させ、相手の労働力をただで利用し、相手をその同意をえずに性欲の道具として使用し、相手の持物を奪い、相手を貶め、苦しめ、虐待し、殺害するようにさせる存在でもある。 (フロイト『文化のなかの居心地の悪さ』1930年)

 ーー実にフロイトはヒドイことを言う。まるでマルキ・ド・サドみたいである。

我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊欲動傾向から逃れるために、他の物や他者を破壊する必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい暴露だろうか!(フロイト 1933、『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」)

われわれは通俗道徳の鑑、アランに従うべきである! 

これらの徳目(通俗道徳)の否定を口にするものに対してわれわれは自由人として敬意を表するにしても、否定の端的な実践者との交友は危険だと感じやすい。したがってわれわれの側も、この通俗道徳を一種の通行証として提出し、みずからの対人的安全保障を得る。(中井久夫『分裂病と人類』)

自由人、いわゆる青鬼の作品など読んではならぬ! 《人は幸福だから笑うのではない、笑うから幸福なのである》(アラン)。これこそ(旧?)モラリスト蚊居肢散人による、善人の皆さんへの至高の教訓である。

善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んで行く。だが堕落者は常にそこからハミだして、ただ一人曠野を歩いて行くのである。悪徳はつまらぬものであるけれども、孤独という通路は神に通じる道であり、善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや、とはこの道だ。キリストが淫売婦にぬかずくのもこの曠野のひとり行く道に対してであり、この道だけが天国に通じているのだ。何万、何億の堕落者は常に天国に至り得ず、むなしく地獄をひとりさまようにしても、この道が天国に通じているということに変りはない。(坂口安吾『続堕落論』初出1946年ーー安吾の「無頼・アモラル・非意味」

ーーこっちのほうは、反面教師の言葉であるのは、皆さんはすぐお分りになったことであろう。

ホンモノの悪党は、悲痛なものだ。人間の実相を見ているからだ。人間の実相を見つめるものは、鬼である。悪魔である。この悪魔、この悪党は神に参じる道でもある。ついにアリョーシャの人格を創造したドストエフスキーは、そこに参ずる通路には、悪党だけしか書くことができなかったではないか。(坂口安吾『織田信長』初出1948年)

とはいえアリョーシャである、悪魔を知らねばアリョーシャは生まれないらしい・・・もちろん安吾によれば、であるが。いや小林秀雄も《悪魔が信じられないような人に、どうして天使を信ずる力があろう。諸君の怠惰な知性は、幾百万の人骨の山を見せられた後でも、「マイン・カンプ」に怪しげな逆説を読んでいる》(「ヒットラーと悪魔」)などとオッシャッテオラレル。

ヘーゲルも似たようなことを言っている・・・

精神は、否定的なものを見据え Negativen ins Angesicht schaut、否定的なもの Negativen に留まる verweilt からこそ、その力をもつ。このように否定的なものに留まることが、否定的なものを存在に転回する魔法の力 Zauberkraft である。(ヘーゲル『精神現象学』「序論」、1807年ーー血みどろになつた處

ーー「否定的なもの」とは、善人のみなさんの禁断の書き手ジジェクによれば、「死の欲動」であるが、ま、これを承諾しても、みなさんには何の問題もない。否定的なもの、人生のネガなど見て見ないふりをして人生を送ったらいいのである。皆さんには精神の魔法の力など毛筋ほども必要ない。

ラカンによれば哲学者でさえ目をそらしているそうだから、巷間の善人の皆さんにどうしてそんなことを求められようか?

真理における唯一の問い、フロイトによって名付けられたもの、「死の本能 instinct de mort」、「享楽という原マゾヒズム masochisme primordial de la jouissance」 …全ての哲学的パロールは、ここから逃げ出し、視線を逸らしている。(ラカン、S13, 08 Juin 1966ーー享楽という原マゾヒズム

もちろん瞳を逸らすことが必要なだけではない。耳にも栓をしなければならない。

世論と共に考えるような人は、自分で目隠しをし、自分で耳に栓をしているのである。(ニーチェ『反時代的考察』)

ようするに善人のみなさんは、ほどよく善人であればよいのである。つまりは美しき魂に専念せねばならぬ、《完全に不埒な「精神」たち、いわゆる「美しい魂」ども、すなわち根っからの猫かぶりども》(ニーチェ)ーー気楽に、《父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んで行》けばよいのである。

われわれ現代日本人は、戦争もしらず、シリアに住んでもおらず、ユダヤ人でもない。安吾のいう「人間の実相」など知らんぷりでよいのである!

あのころは、まるでもう配給量が人間の値打を規定していたようなものだ。老人が孫の特配を盗んで野良猫のような罵倒をうける例は近隣でしばしば見かける風景であった。(坂口安吾「親が捨てられる世相」)

中井久夫は不幸にも「人間の実相」を知ってしまったらしい。 《最晩年の祖父は私たち母子にかくれて祖母と食べ物をわけ合う老人となって私を失望させた》。

ここでは父方であるが、多くを語るのがためらわれるのは、私の世代、つまり敗戦の時、小学五、六年から中学一年生であった人で「オジイサンダイスキ」の方が少なくないからである。明治人の美化は、わが世代の宿痾かもしれない。私もその例に漏れない。大正から昭和初期という時代を「発見」するのが実に遅かった。祖父を生きる上での「モデル」とすることが少なくなかった。

精神分析的にみれば、これは、子どもは父に対抗するために、弱い自我を祖父で補強するということになる。これは一般的には「祖先要求性」(Ahnenanspruch)というのであるが、祖先といっても実際に肌のぬくもりとともに思い出せるのは祖父母どまりであろう。「明治」を楯として「大正」に拮抗するといえようか。

最晩年の祖父は私たち母子にかくれて祖母と食べ物をわけ合う老人となって私を失望させた。昭和十九年も終りに近づき、祖母が卒中でにわかに世を去った後の祖父は、仏壇の前に早朝から坐って鐘を叩き、急速に衰えていった。食料の乏しさが多くの老人の生命を奪っていった。二十年七月一八日、米艦船機の至近弾がわが家をゆるがせた。超低空で航下する敵機は実に大きく見えた。祖父は突然空にむかって何ごとかを絶叫した。翌日、私に「オジイサンは死ぬ。遺言を書き取れ」と言い、それから食を絶って四日後に死んだ。(中井久夫「Y夫人のこと」初出1993『家族の深淵』所収)

われわれ幸福な現代日本人は、こんな風に人間の実相を知ることはない。またサラエボにも住んでいない。

耐え難いのは差異ではない。耐え難いのは、ある意味で差異がないことだ。サラエボには血に飢えたあやしげな「バルカン人」はいない。われわれ同様、あたりまえの市民がいるだけだ。この事実に十分目をとめたとたん、「われわれ」を「彼ら」から隔てる国境は、まったく恣意的なものであることが明らかになり、われわれは外部の観察者という安全な距離をあきらめざるをえなくなる。(ジジェク『快楽の転移』)

現代日本人は、稀には「もっぱら奥歯の小さな洞のなかに逗留している」病人に出会うだろうが、ま、この程度の「人間の実相」ならなんとかやりすごせる筈である。善人のみさなん、ぜひとも通俗道徳に徹して生きながらえるべきである! 

器質的な痛苦や不快に苦しめられている者が外界の事物に対して、それらが自分の苦痛と無関係なものであるかぎりは関心を失うというのは周知の事実であるし、また自明のことであるように思われる。これをさらに詳しく観察してみると、病気に苦しめられているかぎりは、彼はリピドー的関心を自分の愛の対象から引きあげ、愛することをやめているのがわかる。(……)W・ブッシュは歯痛に悩む詩人のことを、「もっぱら奥歯の小さな洞のなかに逗留している」と述べている。リビドーと自我への関心とがこの場合は同じ運命をもち、またしても互いに分かちがたいものになっている。周知の病人のエゴイズムなるものはこの両者をうちにふくんでいる。われわれが病人のエゴイズムを分かりきったものと考えているが、それは病気になればわれわれもまた同じように振舞うことを確信しているからである。激しく燃えあがっている恋心が、肉体上の障害のために追いはらわれ、完全な無関心が突然それにとってかわる有様は、喜劇にふさわしい好題目である。(フロイト『ナルシシズム入門』1914年)

ところで最近柄谷行人はこう言っている、《人間には無機質の状態に回帰しようとする欲動があり、これをフロ イトは「死の欲動」と名付けた。安吾を動かしているのは、この死の欲動です。》(柄谷行人氏ロングインタビュー <すべては坂口安吾から学んだ>、2017年10月26日

この死の欲動の解釈については、ラカンはやや異なるのだが(「「死の欲動」という「不死の欲動」」)、ま、それはこの際どうでもよろしい。

フロイトは最晩年まで確かに柄谷の言うように言ってるんだから。

破壊欲動の最終的な目標は、生きた物 das Lebende を無機的状態 anorganischen Zustand へ還元することだと想定しうる。この理由で、破壊欲動を死の欲動 Todestrieb とも呼ぶ。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

というわけで(?)、死の欲動に衝き動かされた坂口安吾などという作家は、善人の皆さんはけっして読んではならぬ、ここでの論旨はこれに尽きる! もちろん「作家」などという種族の書き物を読むべきではない、と言ってもよいが、とはいえ善人向きの「作家」もいるそうであるから、本を読むな、と言っているわけではない。

流行におもねり、支配的な党派のご機嫌をうかがって、自然から授かったエネルギーを捨てて、提灯持ちばかりやっている、卑しいごますり作家どもに災いあれ。(マルキ・ド・サド「文学的覚書」『ガンジュ侯爵夫人』所収)

ことさら支配的党派の「作家」でなくてもよい。善人の皆さんのうちでも支配党派に背を向けて小党派の高踏趣味に耽りたい方々もいるだろう、そういう方々は秘教的芸術集団に属する「作家」を読めばよいのである。

⋯⋯仲間の作品批評になると点が甘くなる。党派に依存するさもしさで、文学は常に一人一党だ。(坂口安吾『感想家の生れでるために』1948年)