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2017年11月25日土曜日

ロードス島の先の「享楽」

剰余価値[Mehrwert]、それはマルクス的快[Marxlust]、マルクスの剰余享楽 le plus-de-jouir de Marx である。(ラカン、ラジオフォニー、AE434、1970年)

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以下、マルクスの剰余価値とラカンの剰余享楽との相同性を可能なかぎり簡潔に記す。

一商品の価値は他の商品の使用価値で表示される。(マルクス『資本論』)
一つのシニフィアンが他のシニフィアンに対して主体を代表象する un signifiant représente un sujet pour un autre signifiant (ラカン、E819)



主体 $ は、他のシニフィアン S2 に対する一つのシニフィアンS1によって代表象されうるものである Un sujet c'est ce qui peut être représenté par un signifiant pour un autre signifiant。しかしこれは次の事実を探り当てる何ものかではないか。すなわち交換価値 valeur d'échange として、マルクスが解読したもの、つまり経済的現実において、問題の主体、交換価値の主体 le sujet de la valeur d'échange は何に対して表象されるのか? ーー使用価値 valeur d'usage である。

そしてこの裂け目のなかに既に生み出されたもの・落とされたものが、剰余価値 plus-valueと呼ばれるものである。この喪失 perte は、我々のレヴェルにおける重要性の核心である。

主体は己自身と同一化しえず、もはやたしかに享楽しえない ne jouit plus 。何かが喪われているだ。それが剰余享楽 plus de jouir (対象a)と呼ばれるものである。(ラカン、S16, 13 Novembre 1968)

マルクスの価値形態論の基本を、ラカンの言説理論の図を援用して記すなら、次のように書きうる。



◆柄谷行人によるマルクス価値形態論注釈のさわり(『トランスクリティーク』2001)

ーーより詳しくは「価値形態論と例外の論理」を参照のこと

価値形態論は次のように展開されている。先ず、「単純な価値形態」において、商品Aの価値は商品Bの使用価値によって表示される。そのとき、商品Aは相対的価値形態、商品Bは等価形態におかれている。マルクスは単純な価値形態を次のような例で示している。

(相対的価値形態)    (等価形態)
二〇エレのリンネル =  一着の上衣

この等式が示すのは、二〇エレのリンネルは、自らに価値があるということができず、一着の上衣と等値されたあとで、はじめてその自然形態によって価値を示されるほかない、ということである。一方、一着の上衣は、いつでも前者と交換できる位置にいる。等価形態が、一枚の上衣にあたかもそれ自身のなかに交換価値(直接的交換可能性)が内在しているかのように見えさせるのだ。《商品が等価形態にあるということは、その商品が他の商品と直接に交換されうるという形態にあるということなのである》(『資本論』第一巻第一篇第一章第三節)。


ラカンの「言説」とは、「社会的つながり lien social」という意味である。これは社会的交換(コミュニケーション)と言い換えても何もおかしくない。

広い意味で、交換(コミュニケーション)でない行為は存在しない。(……)その意味では、すべての人間の行為を「経済的なもの」として考えることができる。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)

マルクス的に考えようが、ラカン的に考えようが、すべての人間の行為の「構造」は、「「分離タナトス」と「循環タナトス」」にてしめした次の図をベースにして捉えうる、とわたくしは思う(もっともこれは基盤図であり、この上に四つの言説+資本の言説が乗るが、いまは詳細を省く)。




人間の行為がこの図に収斂してしまうのは、仮象としての言語記号を使う人間の宿命である。

見せかけ(仮象)、それはシニフィアン自体のことである! Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! (Lacan,S18, 13 Janvier 1971)
ヘーゲルが何度もくり返して指摘したように、人が話すとき、人は常に一般性のなかに住まう。この意味は、言語の世界に入り込むと、主体は、具体的な生の世界のなかの根を失うということである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)


ここでもうひとつマルクスの名高い《ここがロードス島だ、ここで跳べ!》を引こう。

資本(剰余価値)は流通において発生しなければならぬと同時に、流通において発生してはならない。 ……幼虫から成虫への彼の発展は、流通部面で行われねばならず、しかも流通部面で行われてはならぬ。ここがロードス島だ、ここで跳べ!(マルクス『資本論』)

ロードス島とは、相対的価値形態というシニフィアンと等価形態というシニフィアンとのあいだの完全なる交換の不可能性のことである。




これは仮象の欲望の主体が、他者との融合という享楽(究極のエロス)に至ることの不可能性と相同的である。




エロスは接触 Berührung を求める。エロスは、自我と愛する対象との融合 Vereinigung をもとめ、両者のあいだの間隙 Raumgrenzen を廃棄(止揚Aufhebung)しようとする。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
大他者の享楽 jouissance de l'Autre について、だれもがどれほど不可能なものか知っている。そして、フロイトが提起した神話、すなわちエロスのことだが、これはひとつになる faire Un という神話だろう。…だがどうあっても、二つの身体 deux corps がひとつになりっこない ne peuvent en faire qu'Un、どんなにお互いの身体を絡ませても。

…ひとつになることがあるとしたら、ひとつという意味が要素 élément、つまり死に属するrelève de la mort ものの意味に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

究極の等置・融合の不可能性のゆえに、常に剰余価値・剰余享楽がうまれ、endless はてしない、 end-less 無目的的なーー享楽欠如のーー循環運動を続ける。

剰余価値、それはひとつの経済が自らの原理をつくるための欲望の原因である。この原理とは、「享楽欠如 manque-à-jouir」の拡張的生産の、つまり飽くことをしらないものとしてのそれである。(ラカン、ラジオフォニー、1970年)

もっともここでラカンの言っているのはやや誇張であり、おおくの人はそれぞれ何らかの「享楽の欠片」を楽しんでいるはずである。

剰余享楽 plus de jouirは……享楽の欠片…lichettes de la jouissance である。 (ラカン、S17、11 Mars 1970)
欲望に関しては、それは定義上、不満足であり、享楽欠如 manque à jouir です。欲望の原因は、フロイトが「原初に喪失した対象」と呼んだもの、ラカンが欠如しているものとしての「対象a」と呼んだものです。それにもかかわらず、複合的ではあるけれど、人は享楽欠如を享楽する jouir du manque à jouir ことが可能です。それはラカンによって提供されたマゾヒズムの形式のひとつです。(コレット・ソレール、2013、Interview de Colette Soler pour le journal « Estado de minas »

とはいえ、享楽欠如の享楽とは、《飲めば飲むほど渇く》ことでもありうる。