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2017年11月24日金曜日

「分離タナトス」と「循環タナトス」




①「見せかけ semblant・欲望の主体」の真理は、隠蔽された「性的非関係・欲動の身体」である。この真理は「見せかけ・欲望の主体」を無意識的に駆り立てる。

②「見せかけ・欲望の主体」は「享楽・大他者」を目指す。これがエロス(融合欲動)である(だが「享楽・大他者」との融合は不可能である。完全なる融合は「主体の消滅・主体の死」を意味する)。

③真理である「性的非関係・欲動の身体」は②の動きに介入し、融合欲動の邪魔をする。これがタナトス(分離欲動)である。この介入は、「非関係 non-rapport」という他者との関係の無根拠性あるいは非一貫性(非全体 pastout)、そして自閉的な「身体 corps」によって、である。

(この融合/分離は、フロイトが《同化/反発化 Mit- und Gegeneinanderwirken という二つの基本欲動 Grundtriebe の相互作用》、あるいは《引力と斥力 Anziehung und Abstossung 》と記したものである。)

④融合の不可能性のゆえに「剰余享楽 plus de jouir・喪失 perte」という残滓が生み出される。

⑤「剰余享楽・喪失」は「見せかけ・欲望の主体」を促し刺激する。こうして無限の循環運動が生じる。この循環運動自体がより深い意味でのタナトスであり享楽回帰運動(享楽の漂流 dérive de la jouissance)である。

こうして、いわば「分離タナトス」と「循環タナトス」(享楽の漂流)という二種類のタナトスがあることになる。

以上は、フロイト・ラカンのエロス/タナトスをめぐる考え方をベースにして、ドゥルーズ(1967,1968)の際立ってすぐれた解釈を(わたくしなりに)表現し直したものである。

ドゥルーズは《生の欲動と死の欲動 les pulsions de vie et les pulsions de mort》の二区分を支える《純粋状態のタナトス Thanatos à l'état pur》を叙述している(参照:エロスとタナトスをめぐる基本文献)。前者の「死の欲動」が、分離タナトス(破壊タナトス)であり、後者の「純粋状態のタナトス」が循環タナトスである。

なお冒頭の図は、時期によって異なった形であらわれる、ラカン理論の華である「四つの言説」の基盤図を混淆させ且つまたいくらか編集したものであり、ラカン自身のものではない。





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以下、資料。

私は…欲動Triebを、享楽の漂流 la dérive de la jouissance と翻訳する。(ラカン、S20、08 Mai 1973)
死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S.17、26 Novembre 1969)
反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている・・・それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる・・・享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
剰余享楽は……享楽の欠片である。 plus de jouir…lichettes de la jouissance (ラカン、S17、11 Mars 1970)
人は循環運動をする on tourne en rond… 死によって徴付られたもの marqué de la mort 以外に、どんな進展 progrèsもない 。

それはフロイトが、« trieber », Trieb という語で強調したものだ。仏語では pulsionと翻訳される… 死の欲動 la pulsion de mort、…もっとましな訳語はないもんだろうか。「dérive 漂流」という語はどうだろう。(S23, 16 Mars 1976)

《エロスは接触 Berührung を求める。エロスは、自我と愛する対象との融合 Vereinigung をもとめ、両者のあいだの間隙 Raumgrenzen を廃棄(止揚Aufhebung)しようとする。》(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

大他者の享楽 jouissance de l'Autre について、だれもがどれほど不可能なものか知っている。そして、フロイトが提起した神話、すなわちエロスのことだが、これはひとつになる faire Un という神話だろう。…だがどうあっても、二つの身体 deux corps がひとつになりっこない ne peuvent en faire qu'Un、どんなにお互いの身体を絡ませても。

…ひとつになることがあるとしたら、ひとつという意味が要素 élément、つまり死に属するrelève de la mort ものの意味に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)
我々はあまりにもしばしば混同している、欲動が接近する対象について。この対象は実際は、空洞・空虚の現前 la présence d'un creux, d'un vide 以外の何ものでもない。フロイトが教えてくれたように、この空虚はどんな対象によっても par n'importe quel objet 占められうる occupable。そして我々が唯一知っているこの審級は、喪われた対象a (l'objet perdu (a)) の形態をとる。対象a の起源は口唇欲動 pulsion orale ではない。…「永遠に喪われている対象objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)

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すべてが見せかけ semblant ではない。或る現実界 un réel がある。社会的つながり lien social の現実界は、性的非関係である。無意識の現実界は、話す身体 le corps parlant(欲動の身体)である。象徴秩序が、現実界を統制し、現実界に象徴的法を課す知として考えられていた限り、臨床は、神経症と精神病とにあいだの対立によって支配されていた。象徴秩序は今、見せかけのシステムと認知されている。象徴秩序は現実界を統治するのではなく、むしろ現実界に従属していると。それは、性的非関係という現実界へ応答するシステムである。(ミレー 2014、L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT

ーー真理としての《穴、それは非関係によって構成されている。un trou, celui constitué par le non-rapport》(Lacan, S22, 17 Décembre 1974)

身体の享楽は自閉症的である。愛と幻想のおかげで、我々はパートナーと関係を持つ。だが結局、享楽は自閉症的である。(Report on the ICLO-NLS Seminar with Pierre-Gilles Guéguen, 2013)