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2017年11月13日月曜日

仮面の背後には仮面しかないのか?

①仮面の背後には仮面しかない。


仮面の背後にはさらなる仮面がある。最も隠されたものでさえ未だ隠し場所なのである。何かの、あるいは誰かの仮面をはがして正体を暴くというのは、錯覚に過ぎない。

Derrière les masques il y a donc encore des masques, et le plus caché, C'est encore une cachette, à l'infini. Pas d'autre illusion que celle de démasquer quelque chose ou quelqu'un.Pas d'autre illusion que celle de démasquer quelque chose ou quelqu'un.(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)


②エディプス的顰め面の背後には分裂的笑いがある。


オイディプス的顰め面の背後で derrière la grimace œdipienne プルーストとカフカをゆさぶる分裂的笑いーー蜘蛛になること、あるいは虫になること。

le rire schizo qui secoue Proust ou Kafka derrière la grimace œdipienne - le devenir-araignée ou le devenir-coléoptère. (ドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オイディプス L'ANTI-ŒDIPE』1972年)

ーーエディプスとはファルス秩序、象徴秩序、言語による秩序にかかわる。

さて①と②をどう読んだらいいのだろう。一読だけでは矛盾しているようにも見えるーー、仮面の背後には仮面しかないが、仮面の皺(顰め面)の背後には分裂的笑いがある?

まず①とは次のような文脈内の表現である。


「プラトニズムの転倒」は次のことを意味する。すなわち 、コピーに対するオリジナルの優位を否認すること、イマージュに対するモデルの優位を否認すること、見せかけ(シミュラークル)と反映の君臨を賛美すること。

Renverser le platonisme signifie ceci : dénier le primat d'un original sur la copie, d'un modèle sur l'image. Glorigier le règne des simulacres et des reflets. (ドゥルーズ『差異と反復』)

ニーチェに遡れば、こうである。


「仮象の scheinbare」世界が、唯一の世界である。「真の世界 wahre Welt」とは、たんに嘘 gelogenによって仮象の世界に付け加えられたにすぎない。(ニーチェ『偶像の黄昏』1888年)

確かにことばの仮面の背後にはことばの仮面しかない、とは言いうる。

すべての哲学はさらに一つの哲学を隠している。すべての意見はまた一つの隠れ家であり、すべてのことばはまた一つの仮面である。Jede Philosophie verbirgt auch eine Philosophie; jede Meinung ist auch ein Versteck, jedes Wort auch eine Maske.(ニーチェ『善悪の彼岸』289番)


だが②はどうだろう?  すくなくとも仮面の顰め面、仮面の皺の背後には、分裂的笑い、ニーチェ的笑いがある。ことばの外、象徴界外の笑いが。そうではなかろうか?


ファルスの彼岸 au-delà du phallus には、身体の享楽 jouissance du corps がある。(ラカン、S20、20 Février 1973)
ファルス享楽 jouissance phallique とは身体外 hors corps のものである。 (ファルスの彼岸にある)他の享楽 jouissance de l'Autre とは、言語外 hors langage、象徴界外 hors symbolique のものである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

ーーいま、通常は「大他者の享楽」と訳される jouissance de l'Autre を「他の享楽」と訳した。この理由は、「ラカンの「大他者の享楽」」を見よ。

さて言語外、象徴界外には、分裂病的享楽、自閉症的享楽、身体の(=他の享楽)楽がある。これが現在のラカン派の考え方である。


ラカンは言語の二重の価値を語っている。無形の意味 sens qui est incorporel と言葉の物質性 matérialité des mots である。後者は器官なき身体 corps sans organe のようなものであり、無限に分割されうる。そして二重の価値は、相互のあいだの衝撃 choc によってつながり合い、分裂病的享楽 jouissance schizophrèneをもたらす。こうして身体は、シニフィアンの刻印の表面 surface d'inscription du signifiantとなる。そして(身体外の hors corps)シニフィアンは、身体と器官のうえに享楽の位置付け localisations de jouissance を切り刻む。(LE CORPS PARLANT ET SES PULSIONS AU 21E SIÈCLE、 « Parler lalangue du corps », de Éric Laurent Pierre-Gilles Guéguen,2016, PDF

ーー《シニフィアンは享楽の原因である。Le signifiant c'est la cause de la jouissance》(ラカン、S20、19 Décembre 1972)

言存在の身体 Le corps du parlêtre は、主体の死んだ身体ではない。生きている身体、《自ら享楽する身体 se jouit 》である。この観点からは、身体の享楽 jouissance du corps は、自閉症的享楽 jouissance autiste である。(L’HISTOIRE, C’EST LE CORPS

ラカンの身体の享楽(他の享楽)とは、現実界の審級に属するものであり、現実界は象徴秩序の非一貫性(非全体 pastout)、その裂目に外立するのである。《現実界は外立する Le Réel ex-siste》(ラカン、S22)

エク・スターシス(あるいはEk-sistenz )とは本来、自身の外へ出てしまう、ということです。忘我、恍惚、驚愕、狂気ということでもある。…また一方では、開けてしまうということから、中世の神秘主義者たちが繰り返し言っている赤裸という観念を思い出す。すべてから赤裸にならなくてはならない。極端まで行けば、「神」 という観念までも捨てなければならない…(古井由吉・木田元「ハイデガ ーの魔力」、2001 年)

ラカンは、この外立( 自身の外へ出てしまう)を考えるなかで、神とは女のことだと言い放った。

⋯⋯一般的に人が神と呼ぶもの。だが精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に《女 La femme 》だということである。

on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme »(ラカン、S23、16 Mars 1976)

ーーラカンの〈女〉とは、「異物としての身体」のことである(参照)。

ここでドゥルーズに戻ろう。

象徴界レヴェルでは、仮面の背後には仮面しかないと言いうる。だが現実界レヴェルまでを視野におけば、仮面の背後には、やはり何ものかがある。潜在的なものがあるのである。


反復は、ひとつの現在からもうひとつの現在へ向かって構成されるのではない。そうではなく、潜在的対象(対象=x)の機能のなかで二つの現在が形成している共存的な二つの系列のあいだで構成されている。

La répétition ne se constitue pas d'un présent à un autre, mais entre les deux séries coexistantes que ces présents forment en fonction de l'objet virtuel (objet = x).(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)

もっともここで誤解のないように、こう付け加えておかねばならない。

潜在的リアルは象徴界に先立つ。しかしそれは象徴界によってのみ現勢化されうる。(ロレンゾ・チーサ Lorenzo Chiesa、2007、Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan)

すなわち発達段階的ではなく、すでに象徴秩序の住う人間の観点からみれば、《原初primaire は最初premier ではない》(ラカン、 S.20、13 Février 1973)

さて話を戻そう。

たとえばニーチェは次のように言っている。


もし人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する己れの典型的経験 typisches Erlebniss immer wiederkommt を持っている。(ニーチェ『善悪の彼岸』70番)

この「己れの典型的経験」は、フロイト・ラカン用語に置きかえれば、フロイトの反復強迫を促す原抑圧ーー実質上は原「抑圧」ではなく、原刻印としての「原固着 Urfixierung」ーー、ラカンの「身体の出来事 événement de corps」(原症状=サントーム)である。

症状(原症状=サントーム)は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps》(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME, AE.569、1975ーー「真珠貝と砂粒」)

原固着(原抑圧)とは、潜在的対象(対象=x)[ l'objet virtuel (objet = x)]にかかわる。

事実、ドゥルーズは上に引用した文のあとしばらくして次のように記している。

⋯⋯こうしたことをフロイトは、抑圧 refoulement という審級よりもさらに深い審級 instance plus profonde を追究していたときに気づいていた。もっとも彼は、そのさらに深い審級を、またもや同じ仕方でいわゆる〈「原」抑圧 refoulement dit « primaire »〉と考えてしまってはいたのだが。(ドゥルーズ『差異と反復』)

ーードゥルーズがここで言いたいのは、《純粋差異 pure différence》としての原固着(対象a)であるとわたくしは考えるが、今はその議論は割愛する。

かわりにジャック=アラン・ミレールによるサントーム(身体の出来事)が固着であるとする説明を掲げる。

ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)
「一」と「享楽」との関係が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。

Je le suppose, c'est que cette connexion du Un et de la jouissance est fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation.(ジャック=アラン・ミレール2011, Jacques-Alain Miller Première séance du Cours、PDF)

そして《女性の享楽(身体の享楽)は、純粋な身体の出来事である。la jouissance féminine est un pur événement de corps 》(ミレール、2011, L'Etre et L'Un)

⋯⋯⋯⋯

繰返せば、こうして、仮面の背後には仮面しかない、とは象徴界(ファルス秩序)の水準、欲望の水準でしか言い得ないことが判然とする。現実界の水準、欲動の水準においては原固着、ーー欲動の身体(原抑圧にかかわる《欲動の現実界 le réel pulsionnel》--(ラカン、1975)、《自ら享楽する身体 corps qui jouit》ーーがあるのである。

ニーチェの表現なら《欲動の飼い馴らされていない暴力 unbändigen Gewalt dieses Triebs》である。


私は、ギリシャ人たちの最も強い本能 stärksten Instinkt、権力への意志 Willen zur Macht を見てとり、彼らがこの「欲動の飼い馴らされていない暴力 unbändigen Gewalt dieses Triebs」に戦慄するのを見てとった。(ニーチェ「私が古人に負うところのもの Was ich den Alten verdanke」1889

⋯⋯⋯⋯

※付記

より基本的な資料を付記しておこう。ニーチェの仮面をめぐる叙述である。ニーチェはここでは、決して仮面の背後には仮面しかないとは言っていない。

現代の者たちよ、顔に手足に五十の絵の具のしみをつけて、おまえたちはそこにすわっていた。そしてわたしを驚かせ、あきれさせた。

そしておまえたちのまわりには五十の鏡が置かれていた。それがおまえたちの色の叫喚に媚び、それをまねて叫び声をあげている。

まことに、現代の者たちよ、おまえたちの顔貌こそ、何にもまさる仮面なのだ ihr könntet gar keine bessere Maske tragen。だれにできよう、おまえたちが何者かを見分けることが。

過去の生んだ記号をからだいちめんに書きつけ、さらにその記号を新しい記号で上塗りしている。このようにしておまえたちは、あらゆる記号解読者も読み解けないほどに、巧みに自分自身を隠したのだ。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部「教養の国」)
サント・ブーヴ…すべての主要問題において裁くという課題を拒否し、「客観性」という仮面 die »Objektivität« als Maske をかぶっている。(ニーチェ『偶像の黄昏』「或る反時代的人間の遊撃」)