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2017年10月18日水曜日

オッカサマという「ふるさと」

いやあ、なにか言ってくるヤツがいるかなと心配したが、すぐに言ってくるんだな、どうせファルス秩序の囚人だろ

十六日には禁断症状の最初の徴候が現われ始めた。なぜ十六日と云う日をはっきり覚えているかと云うと二月十六日が彼の母の命日で、十六日の朝、彼が泣いていたからだった。ふとんの衿をかみしめるようにして彼が涙をこぼし、泣いていたからだった。

「今日はオッカサマの命日で、オッカサマがオレを助けに来て下さるだろう」

そう言って、懸命に何かをこらえているような様子であった。(坂口三千代『クラクラ日記』ーーオッカサマがオレを助けに来て下さる

で、なにが問題なんだい? こんなことはまともに「深淵」を見詰めたものには誰にでもある、《おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返す。》(ニーチェ『善悪の彼岸』146節)

たとえば終生「知的」であった小林秀雄にもな、《おっかさんという蛍が飛んでいた》

終戦の翌年、母が死んだ。母の死は、非常に私の心にこたえた。それに比べると、戦争という大事件は、言わば、私の肉体を右往左往させただけで、私の精神を少しも動かさなかった様に思う。(……)

母が死んだ数日後の或る日、妙な体験をした。仏に上げる蝋燭を切らしたのに気付き、買いに出かけた。私の家は、扇ヶ谷の奥にあって、家の前の道に添うて小川が流れていた。もう夕暮であった。門を出ると、行手に蛍が一匹飛んでいるのを見た。この辺りには、毎年蛍をよく見掛けるのだが、その年は初めて見る蛍だった。今まで見た事もないような大ぶりのもので、見事に光っていた。おっかさんは、今は蛍になっている、と私はふと思った。蛍の飛ぶ後を歩きながら、私は、もうその考えから逃れる事が出来なかった。

ところで、無論、読者は、私の感傷を一笑に付する事が出来るのだが、そんな事なら、私自身にも出来る事なのである。だが、困った事がある。実を言えば、私は事実を少しも正確には書いていないのである。私は、その時、これは今年初めて見る蛍だとか、普通とは異って実によく光るとか、そんな事を少しも考えはしなかった。私は、後になって、幾度か反省してみたが、その時の私には、反省的な心の動きは少しもなかった。おっかさんが蛍になったとさえ考えはしなかった。何も彼も当り前であった。従って、当り前だった事を当り前に正直に書けば、門を出ると、おっかさんという蛍が飛んでいた、と書く事になる。つまり、童話を書く事になる。

以上が私の童話だが、この童話は、ありのままの事実に基いていて、曲筆はないのである。妙な気持になったのは後の事だ。妙な気持は、事実の徒らな反省によって生じたのであって、事実の直接か経験から発したのではない。では、今、この出来事をどう解釈しているかと聞かれれば、てんで解釈なぞしていないと答えるより仕方がない。という事は、一応の応答を、私は用意しているという事になるかも知れない。寝ぼけないでよく観察してみ給え。童話が日常の実生活に直結しているのは、人生の常態ではないか。何も彼もが、よくよく考えれば不思議なのに、何かを特別に不思議がる理由はないであろう。(小林秀雄「感想」)

小林秀雄が「童話」という言葉を出してるようにおっかさんに「文学のふるさと」があるのさ→冥府という「ふるさと」、わかんねえだろうよ、お前さんには。

もちろん真顔でいえば「おっかさん」とはイマジネールなおっかさんではない。安吾や小林の発言はその隠された「真意」を読みとらねばならない。

〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。

Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier trou produit par l’opération de vidage par le signifiant. (コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)

ま、世界には三人目の女のことにまったく関知しない木瓜が跳梁跋扈しているのは知ってるさ、

ここに描かれている三人の女たちは、男にとって不可避的な、女にたいする三通りの関係である。すなわち、生む女、性的対象としての女、破壊者としての女 Die Gebärerin, die Genossin und die Verderberin である。

あるいはまた、人生航路のうちに母の形象が変遷していく三つの形態であることもできよう。すなわち、母それ自身 Die Mutter selbst、男が母の像を標準として選ぶ愛人 die Geliebte, die er nach deren Ebenbild gewählt、最後にふたたび男を抱きとる母なる大地 die Mutter Erde, die ihn wieder aufnimmt である。

そしてかの老人は、彼が最初母からそれを受けたような、女の愛 Liebe des Weibes をえようと空しく努める。しかしただ運命の女たちの三人目の者 die dritte der Schicksalsfrauen、沈黙の死の女神 die schweigsame Todesgöttin のみが彼をその腕に迎え入れるであろう。(フロイト『小箱選びのモティーフ』、1913)

ま、巷間の学者だって大半三人目の女に関知してないから、どこかの馬の骨がそうであっても仕方がないがね、

学者というものは、精神上の中流階級に属している以上、真の「偉大な」問題や疑問符を直視するのにはまるで向いていないということは、階級序列の法則から言って当然の帰結である。加えて、彼らの気概、また彼らの眼光は、とうていそこには及ばない。(ニーチェ『悦ばしき知識』)

いずれにせよ「最も静かな時刻」を知らない連中とかかわりあいたくはないね、正午の刻限を知らないヤツとはな、《正午にそれは起こった。「一」は「二」となったのである。Um Mittag war's, da wurde Eins zu Zwei...》(ニーチェ『善悪の彼岸』1886年「高き山々の頂きから Aus hohen Bergen」)

だいたいオレが《触らないで、というものを身に纏っている 処女》(ケベード)なのがわかんねえのかな、それを不感症だっていうんだよ

36歳のとき、わたしは、わたしの活力の最低点に落ちこんだーーまだ生きてはいたものの、三歩先を見ることもできなかった。当時――1879年のことだったーーわたしは、バーゼルの教授職を退いて、夏中まるで影のようにサン・モーリッツで過ごした。が、それにつづく、わたしの生涯でもっとも日光の希薄であった冬には、ナウムブルクで影そのものとして生きた。これがわたしの最低の位置だった。『さすらい人とその影』が、その間に生まれた。疑いもなく、わたしは当時、影とは何かをよく知っていたのである……(ニーチェ『この人を見よ』)
人生の真昼時に、ひとは異様な安静の欲求におそわれることがある。まわりがひっそりと静まりかえり、物の声が遠くなり、だんだん遠くなっていく。彼の心臓は停止している。彼の目だけが生きている、--それは目だけが醒めている一種の死だ。それはほとんど不気味で病的に近い状態だ。しかし不愉快ではない。(ニーチェ『さすらい人とその影』308番)
きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻 stillste Stunde がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人 meiner furchtbaren Herrin の名だ。

……彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるだろうか。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部 「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」1884年)