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2017年10月17日火曜日

『青鬼の褌を洗う女』のモデル

以下、ほぼ引用の列挙である。

まず『クラクラ日記』と『青鬼の褌を洗う女』から二つの文を並べる。

私くらいお前を愛してやれる者はいないよ。お前は今より人を愛す事があるかも知れないけど、今よりも愛される事はないよ」それは説得するような調子であった。私はしかし、それが本当の事だろうと思う。彼よりも私を愛してくれる人に再び会う事はないだろうと思う。 (坂口三千代『クラクラ日記』)
終戦後、久須美は私に家をもたせてくれたが、彼はまったく私を可愛がってくれた。そしてあるとき彼自身私に向って、君は今後何人の恋人にめぐりあうか知れないが、私ぐらい君を可愛がる男にめぐりあうことはないだろうな、といった。 

私もまったくそうだと思った。久須美は老人で醜男だから、私は他日、彼よりも好きな人ができるかも知れないけれども、しかしどのような恋人も彼ほど私を可愛がるはずはない。(⋯⋯)

私は誰かを今よりも愛すことができる、しかし、今よりも愛されることはあり得ないという不安のためかしら。(坂口安吾『青鬼の褌を洗う女』 初出:1947年10月5日)

坂口三千代さんが安吾の小説の叙述に引き摺られて回想録を書いたという可能性をまったく否定するつもりはないが、(ここでは素直に読めば)『クラクラ日記』の上の文は、『青鬼』とそっくりである。

『クラクラ日記』には、『青鬼』のモデルは三千代さん自身だという示唆がある(30年ほどまえにざっと読んだだけで手元にこの書がなく、殆どその内容を失念しているが、ネット上で探る範囲ではそうらしい)。

作中、安吾が新作の自著短篇小説『青鬼の褌を洗う女』の掲載された雑誌を三千代に差し出し、主人公は三千代がモデルであることを安吾が示唆する場面がある。掲載誌の発行日(1947年10月5日)から、1947年10月初旬のできごとである。同年、安吾と三千代は正式に結婚する。(WIKI「クラクラ日記」の項

だが安吾は次のように書いている。

「青鬼の褌を洗う女」は昨年中の仕事のうちで、私の最も愛着を寄せる作品であるが、発表されたのが、週刊朝日二十五週年記念にあまれた「美と愛」という限定出版の豪華雑誌であったため、殆ど一般の目にふれなかったらしい。私の知友の中でも、これを読んだという人が殆どなかったので、淋しい思いをしたのであった。(……)

「青鬼の褌を洗う女」は、特別のモデルというようなものはない。書かれた事実を部分的に背負っている数人の男女はいるけれども、あの宿命を歩いている女は、あの作品の上にだけしか実在しない。(坂口安吾「わが思想の息吹」1948)

基本的には安吾のいうのが「正しい」だろう。たとえばプルーストは次のように記している。

文学者はひとたび書けば、その作中の諸人物の、身ぶり、独特のくせ、語調の、どれ一つとして、彼の記憶から彼の霊感をもたらさなかったものはないのである。つくりだされた人物の名のどれ一つとして、実地に見てきた人物の六十の名がその下敷きにされていないものはなく、実物の一人は顔をしかめるくせのモデルになり、他の一人は片めがねのモデルになり、某は発作的な憤り、某はいばった腕の動かしかた、等々のモデルになった。 (プルースト「見出された時」)

とはいえ、『青鬼の褌を洗う女』には、三千代さんのことが直接的に書かれていると思われる叙述がふんだんにある。

私は病気の時ですら、そうだった。私は激痛のさなかに彼を迎え、私は笑顔と愛撫、あらゆる媚態を失うことはなかった。長い愛撫の時間がすぎて久須美が眠りについたとき、私は再び激痛をとりもどした。それはもはや堪えがたいものであったが、私はしかし愛撫の時間は一言の苦痛も訴えず最もかすかな苦悶の翳によって私の笑顔をくもらせるようなこともなかった。それは私の精神力というものではなく、盲目的な媚態がその激痛をすら薄めているという性質のものであった。七転八倒というけれども、私は至極の苦痛のためにある一つの不自然にゆがめられた姿勢から、いかなる身動きもできなくなり、生れて始めて呻く声をもらした。久須美は目をさまし、はじめは信じられない様子であったが、慌てて医師を迎えたときは手おくれで、なぜなら私はその苦痛にもかかわらず彼が自然に目をさますまで彼を起さなかったから、すでに盲腸はうみただれて、腹の中は膿だらけであり、その手術には三時間、私は腹部のあらゆる臓器をいじり廻されねばならなかった。(坂口安吾『青鬼の褌を洗う女』1947年)

この文は、1950年に書かれた次のエッセイ風文とともに読むことができる。
 
私は元々、女房と一しょに住むつもりではなかったのである。私はどのような女とでも、同じ家に住みたいと思っていなかった。 

私は彼女に云った。

「家をかりてあげる。婆やか女中をつけてあげる。私は時々遊びに行くよ」 

彼女はうなずいた。私たちは、そうするツモリでいたのである。

ところが、彼女をその母の家から誘いだして、銀座で食事中に、腹痛を訴えた。医者に診てもらうようにすすめたが、イヤがるので、私の家につれてきて、頓服をのませて、ねかせた。一夜苦しんでいたのだが、苦しいかときくと、ニッコリしてイイエというので、私は未明まで、それほどと思わなかった。超人的なヤセ我慢を発揮していたのである。私が未明に気附いた時には、硬直して、死んだようになっていた。
女房は腹膜を併発して一月余り入院し、退院後も歩行が不自由なので、母のもとへ帰すわけにいかず、私の家へひきとって、書斎の隣室にねかせて、南雲さんの往診をうけた。やがて、人力車で南雲さんへ通うことができるようになったが、部屋の中で靴をはいて纏足の女のような足どりで、壁づたいに一周したり、夜更けに靴をだきしめて眠っているのを見ると、小さな願いの哀れさに打たれもしたが、それに負けてはいけないのだ、という声もききつづけた。
 
しかし、こういう偶然を機会に、女房はズルズルと私の家に住みつくことゝなったのである。(坂口安吾『我が人生観 (一)生れなかった子供』1950年)

次の文は、三千代さんが安吾に向けて似たような形で言ったのかどうかは判然としないが、すくなくとも安吾が青鬼の主人公になりかわって自己批評しているという風に読めないでもない。

私は知っている。彼は恋に盲いる先に孤独に盲いている。だから恋に盲いることなど、できやしない。彼は年老い涙腺までネジがゆるんで、よく涙をこぼす。笑っても涙をこぼす。しかし彼がある感動によって涙をこぼすとき、彼は私のためでなしに、人間の定めのために涙をこぼす。彼のような魂の孤独な人は人生を観念の上で見ており、自分の今いる現実すらも、観念的にしか把握できず、私を愛しながらも、私をでなく、何か最愛の女、そういう観念を立てて、それから私を現実をとらえているようなものであった。 

私はだから知っている。彼の魂は孤独だから、彼の魂は冷酷なのだ。彼はもし私よりも可愛いい愛人ができれば、私を冷めたく忘れるだろう。そういう魂は、しかし、人を冷めたく見放す先に自分が見放されているもので、彼は地獄の罰を受けている、ただ彼は地獄を憎まず、地獄を愛しているから、彼は私の幸福のために、私を人と結婚させ、自分が孤独に立去ることをそれもよかろう元々人間はそんなものだというぐらいに考えられる鬼であった。

しかし別にも一つの理由があるはずであった。彼ほど孤独で冷めたく我人ともに突放している人間でも、私に逃げられることが不安なのだ。そして私が他日私の意志で逃げることを怖れるあまり、それぐらいなら自分の意志で私を逃がした方が満足していられると考える。鬼は自分勝手、わがまま千万、途方もない甘ちゃんだった。そしてそんなことができるのも、彼は私を、現実をほんとに愛しているのじゃなくて、彼の観念の生活の中の私は、ていのよいオモチャの一つであるにすぎないせいでもあった。(坂口安吾『青鬼の褌を洗う女』)

ーー《鬼は自分勝手、わがまま千万、途方もない甘ちゃんだった》という表現があるのに注目しておこう。

安吾は、矢田津世子を理想化した(参照:「ふたつの理想化(菊乃と津世子)」)。

男性作家たちは女に勝手な夢を託したり、女を勝手に解釈したりしてきたが、彼らが描いた 夢の女と現実の女性との距離の大きさこそが、男の内面の風景を絢爛たるものにしたのだ。( 水田宗子『物語と反物語の風景─文学と女性の想像力』1993 年)

『青鬼』の一か月前に『理想の女』というエッセイが発表されている。

⋯⋯私が理想の人や理想の女を書かうと思つて原稿紙に向つても、いざ書きだすと、私はもうさつきまでの私とは違ふ。私は鬼の審判官と共に言葉をより分け、言葉にこもる真偽を嗅ぎわけてをるので、かうして架空な情熱も思想もすべて襟首をつまんで投げやられてしまふ。 

私はいつも理想をめざし、高貴な魂や善良な心を書かうとして出発しながら、今、私が現にあるだけの低俗醜悪な魂や人間を書き上げてしまふことになる。

私といへども、私なりに、ともかく、理想の女を書きたいのだ。否、理想の人間を、人格を書きたいのだ。たゞ、それを書かうと希願しながら、いつも、醜怪なものしか書くことができないだけなのだ。 

虚しい一つの運動であるか。死に至るまで、徒に虚しい反覆にすぎないのか。書き現したいといふこと、意慾と、そして、書きつゞけるといふ運動を、ともかく私は信じてゐるのだ。それが私のものであるといふことを。(坂口安吾『理想の女』 初出:1947年(昭和22)年9月1日発行「民主文化 第二巻第六号」中外出版)

安吾は最後まで最も気に入った作品は『青鬼』だったそうだが、矢田津世子の理想化から逃れる試みとしてこの作品はあったとすることができるかもしれない。いや「青鬼の褌を洗う女」こそ真の「理想の女」を書く試みだったかも。

このまま、どこへでも、行くがいい。私は知らない。地獄へでも。私の男がやがて赤鬼青鬼でも、私はやっぱり媚をふくめていつもニッコリその顔を見つめているだけだろう。私はだんだん考えることがなくなって行く、頭がカラになって行く、ただ見つめ、媚をふくめてニッコリ見つめている、私はそれすらも意識することが少くなって行く。

私は谷川で青鬼の虎の皮のフンドシを洗っている。私はフンドシを干すのを忘れて、谷川のふちで眠ってしまう。青鬼が私をゆさぶる。私は目をさましてニッコリする。カッコウだのホトトギスだの山鳩がないている。私はそんなものよりも青鬼の調子外れの胴間声が好きだ。私はニッコリして彼に腕をさしだすだろう。すべてが、なんて退屈だろう。しかし、なぜ、こんなに、なつかしいのだろう。(坂口安吾『青鬼の褌を洗う女』)

数年後のエッセイには次のようにある。

私の女房は(⋯⋯)私と一緒のうちも浮気をしない、浮気をする時は、別れる時だ、ということを、かなりハッキリ覚悟している女であった。
彼女の魂は比類なく寛大で、何ものに対しても、悪意が希薄であった。私ひとりに対してなら、私は苦痛を感じ、その偏った愛情を憎んだであろうが、他の多くのものにも善意と愛情にみちているので、身辺にこのような素直な魂を見出すことは、時々、私にとっては救いであった。 

私のようなアマノジャクが、一人の女と一しょに住んで、欠点よりも、美点に多く注意をひかれて、ともかく不満よりも満足多く暮すことができたというのは、珍しいことかも知れない。(坂口安吾『我が人生観 (一)生れなかった子供』1950年
浮気っぽい私のことで、浮気は人並以上にやるだろうが、私が私の家へ回帰する道を見失うことは決してあり得ない。私は概ねブッチョウ面で女房に辛く対することはシキリであるし、茶ノミ友だち的な対座で満足し、女房と一しょに家にいて時々声をかけて用を命じる程度の交渉が主で、肉体的な交渉などは忘れがちになっているが、それは私の女房に対する特殊な親愛感や愛情が、すでに女というものを超えたところまで高まっているせいだろうと私は考えている。私はとッくに女房に遺言状すらも渡しているのだ。どの女のためよりも、ただ女房の身を思うのが私の偽らぬ心なのである。それはもう女という観念と質のちごうものだ。そして女房に献身のある限り、私の気質に変ることは有りえない。つまり私は決して私と女房とを平等には見ておらぬ証拠で、女房とは女房という職業婦人であるが、すでにカケガエのない唯一の職業婦人として他の女たちと質のちごう存在になっていることが確かなのである。(坂口安吾「安吾人生案内 その八 安吾愛妻物語」1951年

ーー愛妻物語の記述には、21世紀の現在なら大いに反撥が(なかんずくフェミニストたちなら)ありうるだろう。

歴史的に見れば、不在のディスクールは「女 la Femme」によって語りつがれてきている。「女」は家にこもり、「男」は狩をし、旅をする。女は貞節であり(女は待つ)、男は不実である(世間を渡り、女を漁る)。不在に形を与え、不在の物語を練り上げるのは女である。女にはその暇があるからだ。女は機を織り、歌をうたう。「糸紡ぎの歌」、「機織りの歌」は、不動を語り(「紡ぎ車」のごろごろという音によって)、同時に不在を語っているのだ(はるかな旅のリズム、海原の山なす波)。そこで、女ではなくて男が他者の不在を語るとなると、そこでは必ず女性的 féminin なところがあらわれることになる。待ちつづけ、そのことで苦しんでいる男は、驚くほど女性化 féminisé するのだ。男が女性化するのは、倒錯的になるinverti からでなく、恋をしている amoureux からである。(神話とユートピア、その起源は、女性的なところをそなえた主体 sujets en qui il y a du féminin のものであったし、未来もそうした人びとのものとなるだろう。)(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』)「不在の人」)

矢田津世子との恋愛においては、安吾は《驚くほど女性化 féminisé 》している。それは滑稽なほどである(参照)。《愛は、男性において常にいささか滑稽である》。

我々は愛する、「私は誰?」という問いへの応答、あるいは一つの応答の港になる者を。

愛するためには、あなたは自らの欠如を認めねばならない。そしてあなたは他者が必要であることを知らねばならない。

ラカンはよく言った、《愛とは、あなたが持っていないものを与えることだ l'amour est donner ce qu'on n'a pas 》と。その意味は、「あなたの欠如を認め、その欠如を他者に与えて、他者のなかの場に置く c'est reconnaître son manque et le donner à l'autre, le placer dans l'autre 」ということである。あなたが持っているもの、つまり品物や贈物を与えるのではない。あなたが持っていない何か別のものを与えるのである。それは、あなたの彼方にあるものである。愛するためには、自らの欠如を引き受けねばならない。フロイトが言ったように、あなたの「去勢」を引き受けねばならない。

そしてこれは本質的に女性的である。人は、女性的ポジションからのみ真に愛する。愛することは女性化することである。この理由で、愛は、男性において常にいささか滑稽である。(ミレール、2010, On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " Jacques-Alain Miller)

だが1947年以降の安吾はどうだっただろう?

わたくしは今なんらかの判断をするつもりはない。だが安吾にさえ「流行作家の宿命」の気配を読む人があっても不思議ではない・・・

文学作品をつくる場合、追究するテーマというものがあり、もちろんそれを追究する情熱というものがあるわけだが、これはいわば「近因」である。一方、その作者がむかし文学をつくるという場所に追い込まれたこと、そのときの激しい心持ち、それが「遠因」といえるわけで、その遠因がいつまでもなまなましく、一種の情熱というかたちで残っていないと、作品に血が通ってこない。追い込まれたあげくに、一つの世界が開かれるのを見るのである。だが(⋯⋯)一人前の作家として世間に認められたとき、『遠因』が消え失せてしまう、とおもわせるところがある。(吉行淳之介『「復讐」のために ─文学は何のためにあるのか─』

いずれにせよ、わたくしの偏った読み方からは、《二十七と三十一のバカらしさはすでにバカげた記録を綴っておいたが、これもそのうち静かに書き直す必要があろう》が(おそらく流行作家の多忙のせいもあったのだろう)実現されなかったのが残念である。

六ツ七ツ、十五六、二十一、二十七、三十一、四十四が手痛い出来事があった意味では特筆すべき年で、しかしジリ〳〵ときたものについて云えば全半生に通じていると申せましょう。(安吾人生案内 その八 安吾愛妻物語、初出1951年)
六ツ七ツというのは、私が私の実の母に対して非常な憎悪にかられ、憎み憎まれて、一生の発端をつくッた苦しい幼年期であった。どうやら最近に至って、だんだん気持も澄み、その頃のことを書くことができそうに思われてきた。

十五六というのは、外見無頼傲慢不屈なバカ少年が落第し、放校された荒々しく切ない時であった。

二十七と三十一のバカらしさはすでにバカげた記録を綴っておいたが、これもそのうち静かに書き直す必要があろう。

二十一というのは、神経衰弱になったり、自動車にひかれたりした年。

四十四が精神病院入院の年。(同上、1951年)

ーーもちろんたとえば1952年に書かれた『夜長姫と耳男』という「文学のふるさと」的傑作があるではないか、という安吾ファンがいるのを知らないわけではない。

⋯⋯⋯さてエッセイ『理想の女』に戻る。

批評家は、作家のめざしてゐるものを見よ。最高の理想をめざして身悶えながら、汚辱にまみれ、醜怪な現実に足をぬき得ず苦悶悪闘の悲しさに一掬の涙をそゝぎ得ぬのか。然り。そゝぎ得ぬ筈だ。おん身らは、かゝる苦闘を知らないのだから。日本文学の伝統などといふものを表面の字づらの上で読みとり、綴り合せて、一文を草することしか知らないのだから。 

島崎藤村や夏目漱石がロマンだなどゝは大間違ひです。彼らは、理想の女を書かうともしてゐないではないか。理想の女をもとめる魂、はげしい意慾のないロマンなどがあるものか。 

永井荷風が戯作者などゝは大嘘です。彼は理想の女をもとめてはゐない。現実の女を骨董品の如き好色慾をもつて紙上に弄んでゐるだけで、理想の女をもとめるために希願をこめて書きつゞけられた作品ではない。まだしも西鶴は八百屋お七を書いてゐる。(坂口安吾『理想の女』1947年)

安吾にとっての1947年ーー梶三千代との恋愛と結婚の年ーーは精神の高揚期である。

まことに、昭和二十二年は、坂口にとって画期的な年であった。長短あわせて六十余りの作品を書くという、彼の生涯の最も多産の年であり、また小説集八冊、評論集二冊(もちろん、それらに収められているのが、すべてこの年の作ではないにしても)の刊行も、彼の旺盛な創造のあとをしのばせるに十分だ。(兵藤正之助「坂口安吾論」)

ーーたしかに1947年は突出している。短いものだけではない。六十余りの作品のなかには探偵小説『不連続殺人事件』というひどく長い作品も含まれている( 参照:坂口安吾 全作品(小説・探偵小説・エッセイその他(発表年順)。

梶三千代とは1947年3月(あるいは4月)に出会っているそうだ(於新宿闇市のバー「チトセ」)。

今まで見た事もない顔だった。厳しい爽やかさ、冷たさ、鋭く徹るような、胸をしめつけられるような、もののいえなくなるような顔(『クラクラ日記』)

おそらく三千代さんとの出会いが安吾を支えたのだろう。

彼は亡くなるまで「青鬼の褌を洗う女」という作品を大切にしていた。それは作品の出来、不出来に関係はない。人に聞かれてあなたは御自分の作品中代表作はといわれると、「代表作などというものはないです。人が決めるものです」という。

ではお好きなのはと聞くと、「青鬼の褌を洗う女」という風に答える。

彼が時たま彼の部屋で仰向けに寝て「青鬼の褌」を読んでいるのを見た。

私はそんな時、私を愛しているからだろうか、と思ったりするのだが、違うかも知れないと思ったりもする。彼があの小説を愛するのは彼のあの当時の感動を愛しんでいるのかも知れないと思う。(坂口三千代「クラクラ日記」)

安吾は「魂の孤独」を語り続けて来た。

人性の孤独ということに就て考えるとき、女房のカツレツがどんなに清潔でも、魂の孤独は癒されぬ。世に孤独ほど憎むべき悪魔はないけれども、かくの如く絶対にして、かくの如く厳たる存在も亦すくない。僕は全身全霊をかけて孤独を呪う。全身全霊をかけるが故に、又、孤独ほど僕を救い、僕を慰めてくれるものもないのである。この孤独は、あに独身者のみならんや。魂のあるところ、常に共にあるものは、ただ、孤独のみ。 

魂の孤独を知れる者は幸福なるかな。そんなことがバイブルにでも書いてあったかな。書いてあったかも知れぬ。けれども、魂の孤独などは知らない方が幸福だと僕は思う。女房のカツレツを満足して食べ、安眠して、死んでしまう方が倖せだ。僕はこの夏新潟へ帰り、たくさんの愛すべき姪達と友達になって、僕の小説を読ましてくれとせがまれた時には、ほんとに困った。すくなくとも、僕は人の役に多少でも立ちたいために、小説を書いている。けれども、それは、心に病ある人の催眠薬としてだけだ。心に病なき人にとっては、ただ毒薬であるにすぎない。僕は僕の姪たちが、僕の処方の催眠薬をかりなくとも満足に安眠できるような、平凡な、小さな幸福を希っているのだ。(坂口安吾「青春論」初出1942年)
堕落自体は常につまらぬものであり、悪であるにすぎないけれども、堕落のもつ性格の一つには孤独という偉大なる人間の実相が厳として存している。即ち堕落は常に孤独なものであり、他の人々に見すてられ、父母にまで見すてられ、ただ自らに頼る以外に術のない宿命を帯びている。 

善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んで行く。だが堕落者は常にそこからハミだして、ただ一人曠野を歩いて行くのである。悪徳はつまらぬものであるけれども、孤独という通路は神に通じる道であり、善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや、とはこの道だ。キリストが淫売婦にぬかずくのもこの曠野のひとり行く道に対してであり、この道だけが天国に通じているのだ。何万、何億の堕落者は常に天国に至り得ず、むなしく地獄をひとりさまようにしても、この道が天国に通じているということに変りはない。(坂口安吾「続堕落論」初出1946年)

名高い「文学のふるさと」ももちろん魂の孤独にかかわるだろう(参照:冥府という「ふるさと」)。

彼の孤独と向き合っていると、その淵の深さに身ぶるいすることがある。誰もひとを寄せ付けない。彼はいつもたった独りでいるような心のありさまで、お酒を飲んでわあわあと言ってる時でも、その奥にたった独りの彼が坐っている。私はそれをちゃんと見抜くことができる。私はいったい彼の何なんだろう。(坂口三千代『クラクラ日記』)


・彼の孤独と向き合っている私はやはり孤独であるのが当然だった。不思議なのは彼が悪鬼のように猛り狂う時、私のこの孤独感がふりおとされることだった。彼が私をののしりわめいている時、私はいつだって動転するが孤独ではなかった。

・彼が暴れ始めると相変わらず私は体が震えて足が変に軽くなってフワフワして来てしまう。もう、涙がふきこぼれてものも言えないということはなくなったが、馴れるということは絶対にできなかった。そのたびに私の心は宙に飛びあがってしまうのだ。

・彼が暴れる原因が何なのか、私にはわからなかった。 人間の心理としてはごく卑近なところのつまらないことに何か原因があったとしても不思議ではないから、あるいは私の故だろうかと思わずにいられない。

・いま考えれば貴方は死ぬためにもどられたようなものですね。十五日の晩おそくお勝手口の方からもどられて、「オーイ」と云ったのであわてて私はとび出して行きました。

そしておどろいたのは顔がちいさく茶いろく見えたことでした。つかれているなと思いました。鞄をあわてて受取ると「坊やは」とお聞きになった。「ええ起きておりますよ、待たしておいたのよ」と答えると、よほど嬉しかったらしく、何遍も坊やを抱きあげながら「よかった、よかった」とくりかえしおっしゃった。(坂口三千代『クラクラ日記』)


ーーこの写真は最晩年のものである(1954年(昭和29年)1月に二人のあいだに子供が出来ている。そして、安吾は1955年2月17日に脳出血で死んでいる)。

最後に中井久夫の二文を掲げておく。

作家の伝記における孤独の強調にもかかわらず、完全な孤独で創造的たりえた作家を私は知らない。もっとも不毛な時に彼を「白紙委任状」を以て信頼する同性あるいは異性の友人はほとんど不可欠である。多くの作家は「甘え」の対象を必ず準備している。(中井久夫「創造と癒し序説」)
おそらく、諸外国の作家よりもわが国の、特に現代の作家の、自己破壊(自殺、中毒など)が少ないとすれば編集者との関係がより治療的であることもあるのではなかろうか。他方、わが国の著者はいささか幼児的ではないかという気もしないではないが、何人〔じん〕であろうと、「デーモン」が熾烈に働いている時には、それに「創造的」という形容詞を冠しようとも「退行」すなわち「幼児化」が起こることは避けがたい。実際、著者の「創造的退行」の「創造性」をどのように維持するかが、唯一人「現場に関与する者」である編集者の役割である。(中井久夫「執筆過程の生理学」)

《鬼は自分勝手、わがまま千万、途方もない甘ちゃんだった》という安吾の『青鬼』のなかの文章と、中井久夫の《多くの作家は「甘え」の対象を必ず準備している》とともに、あるいは《著者の「創造的退行」の「創造性」をどのように維持するかが、唯一人「現場に関与する者」である編集者の役割》における「編集者」を《青鬼の褌を洗う女》に置き換えて読んでみたくなる誘惑にかられないでもない。