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2017年10月13日金曜日

前夫とのあいだの子供(坂口三千代)

あとで泣くなというけれども私は泣くことは覚悟している。人を愛して泣かないで済むことを想像する方が難しい。まして坂口のような人と暮して泣かないで済むだろうとは思わない。彼は好きなように生きる人だ。(坂口三千代『クラクラ日記』)

坂口三千代さんの『クラクラ日記』は、わたくしの手元にない(上の文はネット上から拾ったものである)。30年ほど前に、この1967年に出版された書を読んだことはある。序文は石川淳が書いており、『夷斎小識』に所収されているその文章だけがわたくしの手元にある。

生活に於て家といふ觀念をぶちこわしにかかつた坂口安吾にしても、この地上に四季の風雨をしのぐ屋根の下には、おのづから家に似た仕掛にぶつかる運命をまぬがれなかつた。ただこれが尋常の家のおもむきではない。風神雷神はもとより當人の身にあつて、のべつに家鳴振動、深夜にも柱がうなつてゐたやうである。ひとは安吾の呻吟を御方便に病患のしわざと見立てるのだらうか。この見立はこせこせして含蓄がない。くすりがときに安吾を犯したことは事實としても、犯されたのは當人の部分にすぎない。その危險な部分をふぐの肝のやうにぶらさげて、安吾といふ人閒は强烈に盛大に生き拔いて憚らなかつたやつである。

家の中の生活では、さいはひに、安吾は三千代さんといふ好伴侶に逢着する因緣をもつた。生活の機械をうごかすために、亭主の大きい齒車にとつて、この瘦せつぽちのおくさんは小さい齒車に相當したやうに見える。亭主と呼吸を一つにして噛み合つてゐたものとすれば、おこりえたすべての事件について、女房もまた相棒であつたにひとしい。亭主が椅子を投げつけても、この女房にはぶつかりつこない。そのとき早く、女房は亭主から逃げ出したのではなくて、亭主の内部にかくれてゐたのだろう。安吾がそこにゐれば、をりをりはその屬性である嵐が吹きすさぶにきまつてゐる。しかし、その嵐の被害者といふものはなかつた。すなはち、家の中に悲劇はおこりえなかつた。それどころか、たちまち屋根は飛んで天空ひろびろ、安吾がいかにあばれても、ホームドラマにはなつて見せないといふあつぱれな實績を示してゐる。たくまずして演出かくのごときに至つたについては、相棒さんもまたあづかつて力ありといはなくてはならない。

安吾とともにくらすこと約十年のあとで、さらに安吾沒後の約十年といふ時閒の元手をたつぷりかけて、三千代さんは今やうやくこの本を書きあげたことに於て安吾との生活を綿密丁寧に再經驗して來てゐる。その生活の意味がいかなるものか、今こそ三千代さんは身にしみて會得したにちがひない。會得したものはなほ今後に持續されるだらう。この本の中には、亡き亭主の證人としての女房がゐるだけではない。安吾の生活と近似的な價値をもつて、當人の三千代さんの生活が未來にむかつてそこに賭けてある。この二重の記錄が今日なまなましい氣合を發してゐ所以である。(石川淳「坂口三千代著「クラクラ日記」序」)

ところで「坂口三千代」のWikiの項には次の記述がある。

1923年2月7日、千葉県銚子市に生まれる。千葉県立銚子高等女学校に通う。1943年、当時学生であった政治家の子息鈴木正人と結婚し、一女をもうける。のちに離婚した(『クラクラ日記』)。実家は向島で料亭を営む。

1947年3月初め、24歳のとき新宿のバー「チトセ」で坂口安吾と出逢い、毎週水曜日に荏原郡矢口町字安方127番地(現・大田区東矢口)の坂口家に通う秘書となる。4月に三千代が盲腸炎から腹膜炎となり緊急入院。一か月間病院で安吾が付きっきりで看病し、退院後も坂口家で養生し続け、そのまま9月頃から結婚生活に入る(岩波文庫年譜『風と私と二十の私・いづこへ他十六編』2008年)。

同年10月5日、雑誌『愛と美』(『週刊朝日』25周年記念号)において、安吾が発表した短篇小説『青鬼の褌を洗う女』は、三千代をモデルにしたとされているが(『クラクラ日記』)、作者の安吾自身は、「『青鬼の褌を洗う女』は、特別のモデルといふやうなものはない。書かれた事実を部分的に背負つてゐる数人の男女はゐるけれども、あの宿命を歩いてゐる女は、あの作品の上にだけしか実在しない」と語っている(『わが思想の息吹』)。

《当時学生であった政治家の子息鈴木正人と結婚し、一女をもうける》とある。わたくしも長い間そう思っていた。ところが最近いくらか安吾をまとめて読んでいるなかで、安吾自身が《私の女房は前夫との間に二人の子供がある》と記している文に行き当たった。さてどちらが本当なのだろう? ネット上をいくらか探る範囲では判然としない。

私の女房は前夫との間に二人の子供がある。又、前夫と私との中間には、幾人かの男と交渉があった。それを女房はある程度までは(と私は思うが)打ち開けていたが、私もそれを気にしなかったし、女房も前夫と結婚中は浮気をしなかった、私と一緒のうちも浮気をしない、浮気をする時は、別れる時だ、ということを、かなりハッキリ覚悟している女であった。
私は、一度だけ、女房に云った。「オレの子供じゃないだろうと疑っているのだ」「疑ってるの、知ってたわ。疑るなら、生まないから。ダタイするわ」「ダタイするには及ばないさ。生れてくるものは、育てるさ」「誰の子かってこと、証明する方法がある?」「生れた後なら判るだろう。血液型の検査をすればね」 私はこう云い残して、催眠薬をのんで眠ってしまったから、女房が泣いたか怒ったか、一切知らない。
私は半年ほど前にも、女房の前夫の子供をひきとるか否か、一週間ぐらい考えたことがあった。その子供は女房の母のもとに育っていた。五ツぐらいだろう。別に女房がひきとってくれと頼んだワケではないが、折にふれ子供を忘れかねている様子がフビンであったからである。

しかし、一日、遊びにきた子供を観察して、愛す自信がなかったので、やめることにした。「愛す自信があれば育てるつもりだったが、自信がないから、やめた」「頼みもしないのに。何を云うのよ」「人手に加工された跡が歴然としていて、なじめないし、可愛げが感じられないのだ。コマッチャクレているよ」「そんなこと云うのは、可哀そうよ。あの子の罪じゃなくってよ」 女房は、いささか、色をなして叫んだ。
私は元々、女房と一しょに住むつもりではなかったのである。私はどのような女とでも、同じ家に住みたいと思っていなかった。 

私は彼女に云った。

「家をかりてあげる。婆やか女中をつけてあげる。私は時々遊びに行くよ」 

彼女はうなずいた。私たちは、そうするツモリでいたのである。

ところが、彼女をその母の家から誘いだして、銀座で食事中に、腹痛を訴えた。医者に診てもらうようにすすめたが、イヤがるので、私の家につれてきて、頓服をのませて、ねかせた。一夜苦しんでいたのだが、苦しいかときくと、ニッコリしてイイエというので、私は未明まで、それほどと思わなかった。超人的なヤセ我慢を発揮していたのである。私が未明に気附いた時には、硬直して、死んだようになっていた。
女房は腹膜を併発して一月余り入院し、退院後も歩行が不自由なので、母のもとへ帰すわけにいかず、私の家へひきとって、書斎の隣室にねかせて、南雲さんの往診をうけた。やがて、人力車で南雲さんへ通うことができるようになったが、部屋の中で靴をはいて纏足の女のような足どりで、壁づたいに一周したり、夜更けに靴をだきしめて眠っているのを見ると、小さな願いの哀れさに打たれもしたが、それに負けてはいけないのだ、という声もききつづけた。 

しかし、こういう偶然を機会に、女房はズルズルと私の家に住みつくことゝなったのである。
私は、しかし、不満ではなかったと言えよう。彼女の魂は比類なく寛大で、何ものに対しても、悪意が希薄であった。私ひとりに対してなら、私は苦痛を感じ、その偏った愛情を憎んだであろうが、他の多くのものにも善意と愛情にみちているので、身辺にこのような素直な魂を見出すことは、時々、私にとっては救いであった。 

私のようなアマノジャクが、一人の女と一しょに住んで、欠点よりも、美点に多く注意をひかれて、ともかく不満よりも満足多く暮すことができたというのは、珍しいことかも知れない。 

女房は遊び好きで、ハデなことが好きであったが、私に対しては献身的であった。 ふだんは私にまかせきって、たよりなく遊びふけっているが、私が病気になったりすると、立派に義務を果し、私を看病するために、覚醒剤をのんで、数日つききっている。私はふと女房がやつれ果てていることに気附いて、眠ることゝ、医者にみてもらうことをすすめても、うなずくだけで、そんな身体で、日中は金の工面にとびまわったりするのであった。そして精魂つき果てた一夜、彼女は私の枕元で、ねむってしまう。すると、彼女の疲れた夢は、ウワゴトの中で、私ではない他の男の名をよんでいるのであった。 

私は女房が哀れであった。そんなとき、憎い奴め、という思いが浮かぶことも当然であったが、哀れさに、私は涙を流してもいた。
しかし一人の女と別れて、新しい別な女と生活したいというような夢は、もう私の念頭に九分九厘存在していない。残る一度に意味を持たせているワケではなく、多少の甘さは存在しているというだけのことだ。 

恋愛などは一時的なもので、何万人の女房を取り換えてみたって、絶対の恋人などというものがある筈のものではない。探してみたい人は探すがいゝが、私にはそんな根気はない。

私の看病に疲れて枕元にうたたねして、私ではない他の男の名をよんでいる女房の不貞を私は咎める気にはならないのである。咎めるよりも、哀れであり、痛々しいと思うのだ。 

誰しも夢の中で呼びたいような名前の六ツや七ツは持ち合せているだろう。一ツしか持ち合せませんと云って威張る人がいたら、私はそんな人とつきあうことを御免蒙るだけである。
女房よ。恋人の名を叫ぶことを怖れるな。(坂口安吾『我が人生観 (一)生れなかった子供』1950年)

三千代さんの前夫とのあいだの子供が何人あろうが、それは実のところどうでもいい。だがもしwikiの記述が正しいとしたら、上に引用したエッセイ風に書かれている文もフィクションの要素が混じり込んでいる書き物として読むべきか否かは(今のわたくしにとっては)どうでもよくはない・・・

ーーということのメモで、ここは終わろう。ネット上から拾った『クラクラ日記』の文の引用のいくらかは、またそのうち投稿することにする。