このブログを検索

2017年10月10日火曜日

冥府という「ふるさと」

冥府とは、「文学のふるさと」のことだよ。「人間のふるさと」と言ってもいい。

シャルヽ・ペローの童話に「赤頭巾」といふ名高い話があります。既に御存知とは思ひますが、荒筋を申上げますと、赤い頭巾をかぶつてゐるので赤頭巾と呼ばれてゐた可愛い少女が、いつものやうに森のお婆さんを訪ねて行くと、狼がお婆さんに化けてゐて、赤頭巾をムシャ〳〵食べてしまつた、といふ話であります。まつたく、たゞ、それだけの話であります。 

童話といふものには大概教訓、モラル、といふものが有るものですが、この童話には、それが全く欠けてをります。それで、その意味から、アモラルであるといふことで、仏蘭西では甚だ有名な童話であり、さういふ引例の場合に、屡々引合ひに出されるので知られてをります。

愛くるしくて、心が優しくて、すべて美徳ばかりで悪さといふものが何もない可憐な少女が、森のお婆さんの病気を見舞に行つて、お婆さんに化けて寝てゐる狼にムシャ〳〵食べられてしまふ。 

私達はいきなりそこで突き放されて、何か約束が違つたやうな感じで戸惑ひしながら、然し、思はず目を打たれて、プツンとちよん切られた空しい余白に、非常に静かな、しかも透明な、ひとつの切ない「ふるさと」を見ないでせうか。

そこで私はかう思はずにはゐられぬのです。つまり、モラルがない、とか、突き放す、といふこと、それは文学として成立たないやうに思はれるけれども、我々の生きる道にはどうしてもそのやうでなければならぬ崖があつて、そこでは、モラルがない、といふこと自体がモラルなのだ、と。(坂口安吾「文学のふるさと」初出1941年)

1906年生れの安吾だから、こう書いたのは、35歳のとき。わたくしの偏った視点からは、矢田津世子との「性的非関係 non-rapport sexuel」の出来事の経験が、大きくこのすぐれた認識を促した。 もちろんその背後には母との関係がある。

たとえば、「をみな」、「石の思ひ」には次のような叙述がある(自伝ではあるが、あくまでも自伝「小説」の記述として読まなければならない)。

あれほど残酷に私一人をいぢめぬくためには、よほど重大な原因があつたのだらう。私の生れた時は難産で、私が死ぬか、母が死ぬかの騒ぎだつたと母の口からよくきいたが、それが原因の一つだらうか。原因はなんでもいいさ。私を大阪の商人に養子にやると母が憎々しげに嘘をついて私をからかつたときのこと、私がまにうけて本気に喜んでしまつたので、母が流石にまごついた喜劇もある。それから、実は私が継子で、私のほんとの母親は長崎にゐると嘘を語つて、母は私をからかうことが好きだつたが、その話の嘘らしいのが私に甚だ悲しかつた。私は七つ八つから庭の片隅の物陰へひとりひそんで、見も知らぬふるさと長崎の夢を見るのが愉しかつた。(坂口安吾「をみな」初出1935年)
八ツぐらゐの時であつたが、母は私に手を焼き、お前は私の子供ではない、貰ひ子だと言つた。そのときの私の嬉しかつたこと。この鬼婆アの子供ではなかつた、といふ発見は私の胸をふくらませ、私は一人のとき、そして寝床へはいつたとき、どこかにゐる本当の母を考へていつも幸福であつた。私を可愛がつてくれた女中頭の婆やがあり、私が本当の母のことをあまりしつこく訊くので、いつか母の耳にもはいり、母は非常な怖れを感じたのであつた。それは後年、母の口からきいて分つた。(坂口安吾「石の思ひ」初出1946年)


これらのいわゆる「外傷的出来事」をめぐる晩年の安吾自身の叙述には次のようなものがある。

六ツ七ツ、十五六、二十一、二十七、三十一、四十四が手痛い出来事があった意味では特筆すべき年で、しかしジリ〳〵ときたものについて云えば全半生に通じていると申せましょう。(安吾人生案内 その八 安吾愛妻物語、初出1951年)
六ツ七ツというのは、私が私の実の母に対して非常な憎悪にかられ、憎み憎まれて、一生の発端をつくッた苦しい幼年期であった。どうやら最近に至って、だんだん気持も澄み、その頃のことを書くことができそうに思われてきた。

十五六というのは、外見無頼傲慢不屈なバカ少年が落第し、放校された荒々しく切ない時であった。

二十七と三十一のバカらしさはすでにバカげた記録を綴っておいたが、これもそのうち静かに書き直す必要があろう。

二十一というのは、神経衰弱になったり、自動車にひかれたりした年。

四十四が精神病院入院の年。(同上、1951年)

これ以外にも「いづこへ」との女の性関係(あの経験ーー貪りつつ貪れれる姉妹との関係ーーも、ラカン的には「性関係はない」の出来事である)も、安吾の「ふるさと」の認識を促した核心のひとつであるだろう。

いまはその内容は引用せず、附記として書かれた文だけ抜き出す。

(附記 私はすでに「二十一」といふ小説を書いた。「三十」「二十八」「二十五」といふ小説も予定してゐる。そしてそれらがまとめられて一冊の本になるとき、この小説の標題は「二十九」となる筈である)(坂口安吾「いづこへ 」初出1946年)

さて「文学のふるさと」に戻る。

⋯⋯⋯なにか、絶対の孤独――生存それ自体が孕んでゐる絶対の孤独、そのやうなものではないでせうか。

それならば、生存の孤独とか、我々のふるさとゝいふものは、このやうにむごたらしく、救ひのないものでありませうか。私は、いかにも、そのやうに、むごたらしく、救ひのないものだと思ひます。この暗黒の孤独には、どうしても救ひがない。我々の現身は、道に迷へば、救ひの家を予期して歩くことができる。けれども、この孤独は、いつも曠野を迷ふだけで、救ひの家を予期すらもできない。さうして、最後に、むごたらしいこと、救ひがないといふこと、それだけが、唯一の救ひなのであります。モラルがないといふこと自体がモラルであると同じやうに、救ひがないといふこと自体が救ひであります。

私は文学のふるさと、或ひは人間のふるさとを、こゝに見ます。文学はこゝから始まる――私は、さうも思ひます。(同上「文学のふるさと」初出1941年)

柄谷行人はかつてこう書いた。

彼がいう「ふるさと」は、普通の意味でのふるさとではない。たとえば、小林秀雄が「故郷喪失」という場合の「故郷」ではない。それは、われわれをあたたかく包み込む同一性ではなく、われわれを突き放す「他なるもの」である。それは意味でもなく無意味でもなくて、非意味である。(柄谷行人『終焉をめぐって』)

ラカン派において頻出する用語「ab-sens 非意味」という表現が使われている。

フロイトはわれわれを ab-sens [非意味]が性を指し示すということに同意させる。このsens-absexe のふくらみにおいて、語が決するところで一つのトポロジーが展開する。(Il n'y a pas de rapport sexuel ---Deux leçons sur <<L'Étourdit>> de Lacan  Fayard, 2010)

で、冥府下りとは、フロイトの「徹底操作 durcharbeiten」、ラカンの「主体の解任 destitution subjective」、「幻想の横断 traversée du fantasme」のことだよ(参照)。これもわたくしの偏った観点から、と断っておかなくちゃいけないが。

ここで、フロイトが文学や芸術作品をめぐって書いた最初期に属する論から引用してみよう。

精神分析療法とはすべて、ある症状に憫むべき妥協という逃道を見出して抑圧されたままでいる愛を解放する試みである。

Jede psychoanalytische Behandlung ist ein Versuch, verdrängte Liebe zu befreien, die in einem Symptom einen kümmerlichen Kompromißausweg gefunden hatte. (フロイト「W・イェンゼンの小説『グラディーヴァ』にみられる妄想と夢」1907)

これがすべての精神分析療法とは、現在では言い難いだろうが(たとえば精神病、なかんずく分裂病、自閉症に対してはこうは言い難い)、すくなくとも神経症であれば、ほぼこのフロイトの叙述が今でも生きている筈である。これが「幻想の横断」であり「徹底操作」である。それは「主体の解任」とも呼ばれる。

その作用において精神分析主体を支えてきた欲望が解消されてしまうと、彼は最後にはもはや欲望の選択、すなわち欲望の残余を格上げしたいとは望まなくなる。この残余とは、彼の分割を決定づけているものであり、彼の幻想を失墜させ、主体である彼の地位を解任する。

…quand le désir s'étant résolu qui a soutenu dans son opération le psychanalysant, il n'a plus envie à la fin d'en lever l'option, c'est-à-dire le reste qui comme déterminant sa division, le fait déchoir de son fantasme et le destitue comme sujet. (Lacan,Autres écrits,p.252、1967)

幻想の主体(欲望の主体)、つまり「見せかけの主体」の底には、何があるのか。この時期のラカンは裸の欲動が現われると言っているが、ここでジャック=アラン・ミレールの最近の注釈を掲げる。

すべてが見せかけではない。ひとつの現実界がある。社会的つながりの現実界は、性関係の不在であり、無意識の現実界は話す身体である。

tout n'est pas semblant, il y a un réel. Le réel du lien social, c'est l'inexistence du rapport sexuel. Le réel de l'inconscient, c'est le corps parlant(ミレール、2014、L'inconscient et le corps parlant par JACQUES-ALAIN MILLERーー三人目の女

「話す身体」とは、身体の欲動(欲動の現実界 le réel pulsionnel)のことである。そしてもう一つの社会的関係にかかわる現実界は「性関係の不在」があると言っている。

ーー話が前後するが、上に引用した「グラディーヴァ」の文には《抑圧された愛を解放する試み Versuch, verdrängte Liebe zu befreien》とあった、この「愛 Liebe 」について前段に、《性欲動 Sexualtriebes の多様な成分をすべて「愛 Liebe」としてひとまとめに呼ぶとすれば》云々と記されている。この愛=性欲動は、『ナルシシズム入門』の叙述とともに読まねばならない。

人間は二つの根源的な性対象、すなわち自己自身と世話をしてくれる女性の二つをもっている der Mensch habe zwei ursprüngliche Sexualobjekte: sich selbst und das pflegende Weib(フロイト『ナルシシズム入門』1914

性欲動、性対象とされるものは、原初の大他者(母なる大他者)との融合欲動(エロス欲動)にかかわり、具体的な性行為の欲動(たとえば近親相姦)として捉えてはならない(参照:三人目の女)。

さて話を元に戻せば、人は「幻想の横断」をしたとき、人間関係の「非関係 non-rapport」に出会う。ラカンの「性関係はない」(参照)、あるいは柄谷行人=マルクスの言い方なら《社会的な、すなわち無根拠であり非対称的な交換関係》(『マルクスその可能性の中心』)に出会う。

これをラカンは穴と呼ぶ。《穴、それは非関係によって構成されている。un trou, celui constitué par le non-rapport》(S22, 17 Décembre 1974)。

ミレールによる穴Ⱥの定義は次の通り。

Ⱥの最も重要な価値は、ここで(以前のラカンと異なって)、大他者のなかの欠如を意味しない。そうではなく、むしろ大他者の場における穴、組み合わせ規則の消滅である。 (ジャック=アラン・ミレール,Lacan's Later Teaching、2002、私訳)
欠如とは空間的で、空間内部の空虚 void を示す。他方、穴はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す。(ミレール、2006,Jacques‐Alain Miller, “Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir,”ーー偶然/遇発性(Chance/Contingency)

穴とは、また「穴ウマ troumatisme」とも呼ばれる。

我々は皆知っている。というのは我々すべては現実界のなかの穴を埋めるために何かを発明するのだから。現実界には「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」を生む。

nous savons tous parce que tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. Là où il n'y a pas de rapport sexuel, ça fait « troumatisme ». (ラカン、S21、19 Février 1974 )

こうして、「文学のふるさと」、「芸術のふるさと」は、この穴ウマ(トラウマ)にしかない、ということになる。

以下のすぐれた二人の作家における「傷 blessure」とは、ラカンの「穴ウマtroumatisme」とほぼ等価だろう、とわたくしは判断している。

美には傷 blessure 以外の起源はない。どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、その人が世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。(ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』宮川淳訳)
ある本質(心の傷のそれ)une essence (de blessure) である。それは変換しうるものではなく、ただ固執する(執拗な視線によって)l'insistance (du regard insistant) という形で反復されるだけである。(ロラン・バルト『明るい部屋』)

最後に、ここでの記述は、すくなくとも今のわたくしはこう考えている、ということであり、そのうち悟り直すかもしれないということを断っておこう。