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2017年9月21日木曜日

Tristis post Coitum

なんだか燃料が切れた気分だな、以下、日毎の惰性で記す。

Post coitum omne animalium triste est (性交後、すべての動物は悲しくなる)という文句は知っていたのだが、これが簡略版であるのを(今頃)知ったので、その次い手のメモ。

…………

暖炉の火が穏やかな気配の弱さになっていたのを、僕は立て直そうとした。(……)

炎の起こったところでふりかえると、スカートをたくしあげている紡錘形の太腿のくびれにピッチリはまっているまり恵さんのパンティーが、いかにも清潔なものに見えた。マニ教の秘儀ではないが、切磋琢磨する性交をつうじて、生ぐさい肉体に属するものは、根こそぎアンクル・サムに移行し、まり恵さんには精神の属性のみが残ったようだ……(大江健三郎『人生の親戚』)

※アンクル・サムとはまり恵さんの米人セックスフレンドのこと。



…………

「賢者タイム」とは、性交後の賢人モードをいうらしいが、主に男性における現象である。英語では post-cum clarity(イッタ後の清澄さ)がそれに当たる。上の大江の表現なら「精神の属性のみが残る」である。

ただし女性側からは、男性の次のような態度に遭遇したときに「賢者タイム」という語が使われることが多いらしい。

女性からすると要するに「今まであんなに盛り上がっていたのに終わった途端スンっと引くってどういうこと?」という状態(……)。

「たいてい、『触るな!』という無言の圧力がかかります。具体的に言葉にはしてきませんが、俺に構うなオーラがすごい……これで冷めてしまったこともありました」(「性行為後に「賢者タイム」にはいる男性。みんなはどう対応してる?」)

冒頭に掲げた大江健三郎の『人生の親戚』におけるまり恵さんも「賢者タイム」のはずだが、女性の場合、男に「あっちいけ、シッシ!」とはならない場合が多いように思う(ーーとはもちろん憶測である)。

先の大江文は次のように次のように続く。

もっともまり恵さんは、僕がスカートの奥に眼をひきつけられているのに気づくと、両腿を狭める動作をするかわりに、あらためて疲れと憂いにみちているが、ベティさん式の派手な顔に微笑を浮べ、かならずしも精神プロパーではない提案をした。さりとて肉体プロパーでもなかったはずだが……

ーー今後もう私には、あなたと一緒に夜をすごすことはないのじゃないかしら? それならば、元気をだして一度ヤリますか? 光さんが眠ってから、しのんで来ませんか?

――……ずっと若い頃に、かなり直接的に誘われながらヤラなかったことが、二、三人についてあったんだね。後からずっと悔やんだものだから、ある時から、ともかくヤルということにした時期があったけれども…… いまはヤッテも・ヤラなくても、それぞれに懐かしさがあって、ふたつはそうたいしたちがいじゃないと、回想する年齢だね。

ーーつまりヤラなくていいわけね。……私も今夜のことを、懐かしく思い出すと思うわ、ヤッテも、ヤラなくても、とまり恵さんはむしろホッとして様子を示していった。(大江健三郎『人生の親戚』)



ところで、上に女性の場合は「あっちいけ、シッシ!」とはならないだろう、と憶測したのは、上の大江の小説からではなく、なによりもまず、偉大なるモンテーニュに依拠している。

われわれは次のように、女性の扱い方に分別を欠いている。すなわち、われわれは、彼女らがわれわれと比較にならないほど、愛の営みに有能で熱烈であることを知っている。このことは……かつて別々の時代に、この道の達人として有名なローマのある皇帝(ティトゥス)とある皇后(メッサリナ)自身の口からも語られている。この皇帝は一晩に、捕虜にしたサルマティアの十人の処女の花を散らした。だが皇后の方は、欲望と嗜好のおもむくままに、相手を変えながら、実に一晩に二十五回の攻撃に堪えた。……以上のことを信じ、かつ、説きながらも、われわれ男性は、純潔を女性にだけ特有な本分として課し、これを犯せば極刑に処すると言うのである。(モンテーニュ『エセー』)

もっともモンテーニュのような考え方は、古代の男性軍がすでに「悟達」していたようである。

たとえば、Post coitum omne animalium triste est (性交後、すべての動物は悲しくなる)というラテン語格言(ギリシャ人医師兼哲学者Galenによる)がある。だがこれは簡略版であり、正式版は、post coitum omne animal triste est sive gallus et mulier(性交後、雄鶏と女を除いて、すべての動物は悲しくなる)だそうだ。

西脇のTristis post Coitum(性交後の悲しみ)も正式版の意味で読む必要がある。

原始的淋しさは存在という情念から来る。
Tristis post Coitumの類で原始的だ。
孤独、絶望、は根本的なパンセだ。
生命の根本的情念である。
またこれは美の情念でもある。

ーー西脇順三郎『梨の女「詩の幽玄」』より