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2017年9月15日金曜日

産湯の記憶

いやあ まじでとられたらこまるね、「子宮の声」の話を。だいたい人の話ってのはたいがいはフィクションと思った方がいいよ。

たとえば三島由紀夫の「産湯の記憶」の話を信じるかい?

永いあいだ、私は自分が生れたときの光景を見たことがあると言い張っていた。それを言い出すたびに大人たちは笑い、しまいには自分がからかわれているのかと思って、この蒼ざめた子供らしくない子供の顔を、かるい憎しみの色さした目つきで眺めた。それがたまたま馴染の浅い客の前で言い出されたりすると、白痴と思われかねないことを心配した祖母は険のある声でさえぎって、むこうへ行って遊んでおいでと言った。

笑う大人は、たいてい何か科学的な説明で説き伏せようとしだすのが常だった。そのとき赤ん坊はまだ目が明いていないのだとか、たとい万一明いていたにしても記憶に残るようなはっきりした観念が得られた筈はないのだとか、子供の心に呑み込めるように砕いて説明してやろうと息込むときの多少芝居がかった熱心さで喋りだすのが定石だった。…

どう説き聞かされても、また、どう笑い去られても、私には自分の生れた光景を見たという体験が信じられるばかりだった。おそらくはその場に居合わせた人が私に話してきかせた記憶からか、私の勝手な空想からか、どちらかだった。が、私には一箇所だけありありと自分の目で見たとしか思われないところがあった。産湯を使わされた盥のふちのところである。下したての爽やかな木肌の盥で、内がわから見ていると、ふちのところにほんのりと光りがさしていた。そこのところだけ木肌がまばゆく、黄金でできているようにみえた。ゆらゆらとそこまで水の舌先が舐めるかとみえて届かなかった。しかしそのふちの下のところの水は、反射のためか、それともそこへも光りがさし入っていたのか、なごやかに照り映えて、小さな光る波同士がたえず鉢合せをしているようにみえた。

--この記憶にとって、いちばん有力だと思われた反駁は、私の生れたのが昼間ではないということだった。午後九時に私は生れたのであった。射してくる日光のあろう筈はなかった。では電燈の光りだったのか、そうからかわれても、私はいかに夜中だろうとその盥の一箇所にだけは日光が射していなかったでもあるまいと考える背理のうちへ、さしたる難儀もなく歩み入ることができた。そして盥のゆらめく光りの縁は、何度となく、たしかに私の見た私自身の産湯の時のものとして、記憶のなかに揺曳した。(三島由紀夫『仮面の告白』)

ーー《三島由紀夫には、誕生の際の産湯の記憶があったという。たらいに湯が張られさざなみが立って陽の光にゆらめいているという記憶映像があるのであろう。しかし、この映像が誕生の時であり産湯であるという証拠は、この映像の中にはないといってよいであろう。》(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収)