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2017年9月22日金曜日

ヒロ美と掘スケ

あたしは便器か
いつから
知りたくは、なかったんだが
疑ってしまった口に出して
聞いてしまったあきらかにして
しまわなければならなくなった

ーー伊藤比呂美「きっと便器なんだろう」





◆On Women and the Phallus Pierre-Gilles Guéguen, 2010
若く美しい、そして情熱的なヒロ美 Hermioneは、掘スケ Oresteを「見ている」。掘スケはヒロ美をじっと「見つめたまま」でいるべきなのに、そうでない。ヒロ美には不満が湧き起こる。というのは彼らは短く荒々しい性交をしただけなのだから。

ヒロ美はこの若い男と信頼関係をもちたいと願っている。しかし、掘スケが雄々しさを証明してみせ、ヒロ美が性的享楽に満たされた夜々の次の朝、そのときにはことさら、なんとしても掘スケと諍いを起こさねばならなかった。ヒロ美はそうせざるをえない。

掘スケは、目覚めた直後からの、彼にはまったく理解できないこの非難に呆れかえって腹を立てる。この、女性的「無分別」に直面して、掘スケはヒロ美が謝るよう待っている。こうして彼は間違いを犯す。

ヒロ美は私に相談しにきた。彼女は掘スケにたいして憤り不平不満を言う。掘スケは昨日からあたしに声をかけないの。あたしに向けてどんな仕草もしないの。裏切り者よ。もう信用できないわ。

私は指摘した。あなた自身も朝の大荒れの理由を分かっていないのではないか。だから掘スケもあなたに声をかけることが難しいのではないか、と。

ヒロ美はうなずいた。この同意に促され、私は注意深く提案した。あなたがまず先に歩み寄ったほうがよいのでは。たとえばメモ書きの伝言を通して、と。

だがヒロ美は断固として拒絶する。もしあたしが悪いとしても、掘スケよ、証明しなくちゃならないのは。彼は、あたしを欲望しているだけでなく、それに付け加えて、あたしを愛していることの証拠を示さなくちゃならない(あたしが憎まれるようなあらゆる事をしたときでさえ)。

…こうしてヒロ美は《欲望されると同時に愛される être désirée en même temps qu'aimée》(ラカン、E694)ことが彼女の願いであることを理解した。

ーーこのような経験がないだろうか、男性諸君! 「あたしは便器か」とまで言われなくても、上のヒロ美 Hermione に出会ったことは。


…………

ラカンは、男性の愛の《フェティッシュ形式 la forme fétichiste》 /女性の愛の《被愛妄想形式 la forme érotomaniaque》(E733)としている。

もっとも女性にフェティッシュ形式の愛がないわけではない。

女性の愛の要求 demande d'amour が向けられる人物の身体のなかの…器官 organe…それはフェティッシュ fétiche の価値をもつ。(ラカン「ファルスの意味作用」E694)

だがおおむねの傾向として、男の愛はフェティッシュ的、女の愛は、愛されるために愛するという形の被愛形式をとる。

女性の愛の形式は、フェティシスト fétichiste 的というよりもいっそう被害妄想的érotomaniaqueです。女たちは愛され関心をもたれたいのです。 (ジャック=アラン・ミレール、2010、On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? "

…………

ここで出来るだけ簡略化してフロイト・ラカン派の愛をめぐる考え方をもういくらか記す。

まずラカンが次のように言うとき、ファルス享楽とはファルス化された対象a(フェティッシュ)の享楽という風に捉えうる。

・男性は、まったく、ああ、ファルス享楽 jouissance phallique そのものなのである。

・ファルス享楽は身体の享楽のでき損ないとして出来上がっている la jouissance phallique devienne anomalique à la jouissance du corps(Lacan,La troisième,1974)
ファルス享楽 jouissance phallique は 障碍 obstacleである。というのは男は、女性の身体を享楽する jouir du corps de la femme に到らない (イケない n'arrive pas)から。男が享楽するのは、まさに器官の享楽 jouissance, celle de l'organe である。(S20、21 Novembre 1972)

そもそも《フェティッシュとは、欲望が自らを支えるための条件である。 il faut que le fétiche soit là, qu'il est la condition dont se soutient le désir.》(Lacan,S10)であり、言語自体がフェティシュとする観点さえある(参照:人はみなフェティシストである)。

他方、女はファルス享楽だけではなく、他の享楽(身体の享楽)にかかわる。「他の享楽 l'autre jouissance」とは「ファルス享楽 la jouissance phallique」の非一貫性(非全体pas-tout)の内部に外立 ex-sistence する享楽のことである(ex-sistence ≒ extimité)。[参照

かつまた他の享楽とは、《言語外 hors langage、象徴界の外 hors symbolique》(troisième,1974)の享楽である。

これらがアンコールセミネールで示された性別化の図の右側(女性の論理側)で、Lⱥ が、ファルスΦに向かい、かつS(Ⱥ)に向かうという二重化《Lⱥ femme … se dédouble》(S20)の(最も基本的な)意味合いである(Lⱥ femme → Φ, Lⱥ femme → S(Ⱥ))。



Suzanne Barnardは、ブルース・フィンクとともに編集したアンコール注釈書(2002)の序文において、次のように記している、《splitting between phi (desire) and S(Ⱥ) (love)》。これはいささか単純化されすぎているが、今はこの記述に則って記せば、ファルスΦとは欲望、S(Ⱥ)は愛にかかわるということになる。女性はΦ(欲望)とS(Ⱥ)(愛)とに二重化されているのである。

ーー本来、S(Ⱥ)はまずなりよりも欲動(身体の欲動)、あるいは原抑圧にかかわる(参照:S(Ⱥ)、あるいは欠如と穴)。ゆえにS(Ⱥ)はすくなくとも欲動あるいは身体の欲動とすべきだが、とはいえ、ラカンは次のように言っている。

愛の形而上学の倫理……「愛の条件 Liebesbedingung」(フロイト) の本源的要素……私が愛するもの……ここで愛と呼ばれるものは、ある意味で、《私は自分の身体しか愛さない Je n'aime que mon corps》ということである。たとえ私はこの愛を他者の身体 le corps de l'autreに転移させる transfèreときにでもやはりそうなのである。(ラカン、S9、21 Février 1962)

こうしてまわりまわって、しかもごく簡潔に記せば、身体の欲動(欲動の現実界 le réel pulsionnel)のマテーム S(Ⱥ)は愛とすることができるのだろう(おそらくSuzanne Barnardの驚くべき簡潔な記述はこういった思考の流れに由来するのではないかと憶測する。すくなくともS(Ⱥ)=愛としているラカン派注釈者は初見)。

ところでフロイトは、女性的「対象選択 Objektwahl」を愛と欲望の収束、男性的「対象選択」を愛と欲望の分離とした。そしてある種のタイプの男性的人物は次のようなことさえ起こり得る。

愛する場では欲望しない。欲望する場では愛しえない。Wo sie lieben, begehren sie nicht, und wo sie begehren, können sie nicht lieben. (フロイト「性愛生活が誰からも貶められることについて Uber die allgemeinste Erniedrigung des Liebeslebens」1912年)

いずれにせよ、

人が愛するとき、それは性とは全く関係がない。 quand on aime, il ne s'agit pas de sexe(ラカン、S20, December 19, 1972)

そして愛することとは女性化することである。

我々は愛する、「私は誰?」という問いへの応答、あるいは一つの応答の港になる者を。

愛するためには、あなたは自らの欠如を認めねばならない。そしてあなたは他者が必要であることを知らねばならない。

ラカンはよく言った、《愛とは、あなたが持っていないものを与えることだ l'amour est donner ce qu'on n'a pas 》と。その意味は、「あなたの欠如を認め、その欠如を他者に与えて、他者のなかの場に置く c'est reconnaître son manque et le donner à l'autre, le placer dans l'autre 」ということである。あなたが持っているもの、つまり品物や贈物を与えるのではない。あなたが持っていない何か別のものを与えるのである。それは、あなたの彼方にあるものである。愛するためには、自らの欠如を引き受けねばならない。フロイトが言ったように、あなたの「去勢」を引き受けねばならない。

そしてこれは本質的に女性的である。人は、女性的ポジションからのみ真に愛する。愛することは女性化することである。この理由で、愛は、男性において常にいささか滑稽である。(ミレール、On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " Jacques-Alain Miller janvier 2010

男性諸君が、ラカン派的な意味での男のままで、性交に切磋琢磨すれば、かならずヒロ美に遭遇するはずである、「あたしは便器か」! 

荒木経惟の写真たちの中に喜多見駅周辺の写真を見てあこれはわたしが性交する場所だと思って恥ずかしいと感じたのだわたしは25歳の女であるからふつうに性行為する。板橋区から世田谷区まで来る来るとちゅうは性行為を思いださない性欲しない車外を行き過ぎる世田谷区の草木を見ているこの季節はようりょくそが層をなしている飽和状態まで水分がたかまる会えばたのしさを感じるだから媚びて手を振るが性行為を思いだすのはアパートの部屋でラジオをつけた時である、(伊藤比呂美「小田急線喜多見駅周辺」)




(ひろみ、
(尻を出せ、
(おまえの尻、
と言ったことばに自分から反応して
わ。
かべに
ぶつかってしまう
いたいのではない、むしろ
息を
洩らす
声を洩らす
(ひろみ
とあの人が吐きだす
(すきか?
声も搾られる
(すきか?
きつく問い糺すのだ、いつもそうするのだ
(すきか? すきか?

すき

って言うと
おしっこを洩らしたように あ
暖まってしまった

ーー伊藤比呂美「とてもたのしいこと」より 




次の映像に出現する男たちもおおむね「男」のままであったのではなかろうか?

比呂美−毛を抜く話 / HIROMI - Pulling hairs

ーーねじめ正一、西成彦、林浩平、四方田犬彦、そして撮影者の鈴木志郎康・・・


いずれにせよ男性諸君にとって最も肝腎なことは次のことを知ることである。

コトバとコトバの隙間が神の隠れ家(谷川俊太郎「おやすみ神たち」) 

そして《精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に《女 La femme》だということである。 ……Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ».》(ラカン、S23、16 Mars 1976)

すなわち、コトバとコトバの隙間が女の隠れ家であり、女にめちゃくちゃにしてほしいの、などとコトバでいわれても、マにうけたらダメなのである・・・

とはいえコトバに囚われた生き物にすぎないわれわれ男あるいは人間は、「女性の享楽」(他の享楽)にどう応じたらよいのか?


※この図の語彙群の注釈のいくらかは「S(Ⱥ)、あるいは欠如と穴」を見よ。

parlêtre(言存在)用語が実際に示唆しているのは主体ではない。存在欠如 manque à êtreとしての主体 $ に対する享楽欠如 manqué à jouir の存在 êtreである。(コレット・ソレール2009, l'inconscient réinventé )

女性の享楽について、《だれもがどれほど不可能なものか知っている。そして、フロイトが提起した神話、つまりエロスのことだが、これはひとつになるという神話だろうが、このことでだれもがへとへとになっている。なぜならば、どうあっても、二つの身体がひとつになりっこない。どんなにお互いの身体を絡ませても。》

身体を密着することでせいぜいできることといえば、「わたしをぎゅっと抱き締めて serre-moi fort 」と言うことぐらいだろう。しかしあまり強く抱き締めると、相手は最後にはへとへとになる。だから、ひとつになる方法なんてまったく存在しない。まったく傑作中の傑作である冗談だね、これは。ひとつになることがあるとしたら、ひとつという意味が要素、つまり死に属するものの意味に繋がるときだけだろう。 S'il y a quelque chose qui fait l'Un, c'est quand même bien le sens, le sens de l'élément, le sens de ce qui relève de la mort.(ラカン、三人目の女La troisième,1974)

すなわち、ラカンの若い友人だったソレルスの小説『女たち』の冒頭近くの文、《世界は女たちのものである/つまりは死に属している》。男たちは諦めたほうがいい。世界は女たちのものである。ヒロ美菩薩に抵抗してはならぬ。

ところでラカンは上の「三人目の女」で、名高い《性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel》ではなく、《性的非関係 non-rapport sexuel》といっている。

ようするに肝腎なのは、《性的関係はない》ではなく《性的非関係がある il y a du non-rapport sexuel》である(カントの否定判断から無限判断への移行)。

仮に私が魂について「魂は死なない ist nicht sterblich」と言ったとすれば、私は否定判断によって少なくとも一つの誤謬を除去したことになるだろう。ところで「魂は不死である die Seele ist nichtsterblich」という命題による場合には、私は魂を不死の実体という無制限の外延中に定置することによって、論理の形式面からは事実肯定したことになる。(……)

[後者の命題が主張するのは]魂とは、死すものがことごとく除去されてもなお残るところの、無限に多くのものの一つである、ということに他ならない。(……)しかし、この[あらゆる可能なものの]空間はこのように死すものが除去されるにも関わらず、依然として無限であり、もっと多くの部分が取り去られても、そのために魂の概念が少しも増大したり肯定的に規定されるということはありえない。(カント『純粋理性批判』)

これが 《神の外立 l'ex-sistence de Dieu》(S22) の真の意味である。《現実界は外立するLe Réel ex-siste》(S22)のであり、《現実界とはただ、角を曲がったところで待っているもの、ーー見られず、名づけられず、だがまさに居合わせているものである。》(ポール・バーハウ、Byond gender, 2001)

ハイデガーの「Ek-sistenz 外立・脱自」とは実はそれしか言っていない。すなわち、女は外立する、女は祟るのである・・・

たゝりはたつのありと複合した形で、後世風にはたてりと言ふところである。「祟りて言ふ」は「立有而言ふ」と言ふ事になる。神現れて言ふが内化した神意現れて言ふとの意で、実は「言ふ」のでなく、「しゞま」の「ほ」を示すのであつた。(折口信夫『「ほ」・「うら」から「ほかひ」へ』ーー「玄牝の門」「杣径」「惚恍」「外祟」

実は現実界とはどこにでも「祟る」。角を曲がったらよいだけである。

存在の開けた明るみ Lichtung の中に立つことを、私は、人間の「外立 Ex-sistenz」と呼ぶ。人間にのみ、こうした存在の仕方が、固有のものとしてそなわっているのである。(ハイデガー『杣径Holzwege』)

ファルス享楽の彼岸にある女性の享楽(他の享楽)とは、《無性的 (a)sexuée》(S20)であり、《パラセックス parasexué》(troisième)ーー性から脇にずれることーーであるから、ヤッテはならない。拝んで匂いを嗅ぐだけなのが核心である・・・(もちろんそれが可能であるならばの話である・・・)

人は安吾の名品の冒頭の真意を推し量らねばならない。

匂いって何だろう? 私は近頃人の話をきいていても、言葉を鼻で嗅ぐようになった。ああ、そんな匂いかと思う。それだけなのだ。つまり頭でききとめて考えるということがなくなったのだから、匂いというのは、頭がカラッポだということなんだろう。(坂口安吾『青鬼の褌を洗う女』)

これこそ女性の享楽、すなわち《言語外 hors langage、象徴界の外 hors symbolique》を希求する至高の態度にほかならない。





杣径(そまみち Holzwege)とは、 森林の空地 Lichtungに至る森のなかの道である。角を曲がってふと空地に遭遇したら、われわれは「外立 Ex-sistenz」――語源は、ギリシア語の έκσταση であり、Ekstase (エクスタシー・脱自)である――するのである。

杣(そま、Holz)とは森(Wald)に対する古い名称のことである。杣にはあまたの径があるが、大抵は草木に覆われ、突如として径なきところに杜絶する。

それらは杣径 と呼ばれている。

どの杣径も離れた別の経路を走る、しかし同じ森の中に消えてしまう。 しばしば或る杣径が他の杣径と似ているように見える。けれども似ているように見えるだけである。

これらの径の心得があるのは、杣人たちであり森番たちである。杣径を辿り径に迷うとはどういうことであるのか、熟知しているのは彼らなのである。 (ハイデガー『杣径』)

大江健三郎も記している、杣径(森の鞘)では、鉈を振るってはならない、と。人は山桜の匂いをかぐだけにせねばならぬ。

妻とギー兄さんは森の鞘に入って山桜の花盛りを眺めた日、その草原の中央を森の裂け目にそって流れる谷川のほとりで弁当を食べた。(……)そして帰路につく際、ギー兄さんは思いがけない敏捷さ・身軽さで山桜の樹幹のなかほどの分れめまで登り、腰に差していた鉈で大きい枝を伐ろうとした。妻は心底怯えて高い声をあげ、思いとどまってもらった。(大江健三郎『懐かしい年への手紙』)