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2017年9月15日金曜日

越後の毒消し売り

今日はすこしは風がある。だがまだひどく暑い。

数日前荷風を読もうとしたがどうもいけない。かわりに安吾を読んでいる。
以前に安吾の作品を集中的に読んだのはインド旅行のときだ。安吾の文章は暑さを吹き飛ばしてくれる。

今回は青空文庫のあいうえお順に読んでいる。まだ「あ」が終わらない。「あ」ではじまる作品が多いせいだ(安吾講談とか安吾新風土記とか)。

安吾新風土記に「富山の薬と越後の毒消し売り」の巻がある。

行商は商業の最も原始的な形態だ。現今でも押売りという行商が横行しているが、富山の薬は一風変っていて、代金は後廻しだ。まず薬袋を預けて行く。翌年見廻りにきて、のんだ分の代金をうけとって行くという仕組みである。代金後払いというところが一般の行商と類を異にしているから、どこの家庭でも押売りとは区別して考える。一つは歴史のせいもあろう。夏の金魚売りなぞと同じように、なくてはならぬ土地の風物化している親しさもあって、関東の農村では村々の入口に「押売りの村内立入りお断り」という高札がかかげてあるが、富山の薬売りと越後の毒消し売りは特別だ。毒消し売りは現金引き換えであるが、これもその歴史と、売り子が女という点に親しみがあるのであろう。毒消し売りはちょッとした美人系で、その伝説によっても名物化しているようだ。

ああそうなのか、富山の薬売りとは。
だが越後の毒消し売りのほうがもっと興味がある。つまり「ちょッとした美人系」とあるせいである。

だがネットを検索しても美人は出現しない。

かわりに次の写真を見出した。



坂口安吾は昭和29年より「新日本風土記」の連載を開始し、その取材で日本各地を訪れた。その訪問地の中で文字通り、最後の旅となった高知県の室戸岬における坂口安吾氏。安吾は高知の豪快な自然、気風を好んだが文章として書かれることはなかった。昭和30年2月の室戸岬での写真。高知から帰って四日後の昭和30年2月17日、脳出血で急逝した。(坂口安吾の最後の旅、-安吾新日本風土記、最後の訪問地の高知)。

安吾の晩年の写真をみて、わたくしは永らく50歳代の男だと錯覚していたが、1906年(明治39年)10月20日 - 1955年(昭和30年)2月17日)であり、49歳で亡くなっている。




高千穂では竹の筒に酒を入れて焚火でわかして野天で酒をのむ。これをカッポ酒という。この肴には鶏の丸焼を主として用いるということだ。(……)

私は鵜戸神宮の岩窟の中にチョロチョロと流れて溜っている神様の水をのんで以来猛烈に下痢をして弱っていた。安吾新日本風土記「第一回 高千穂に冬雨ふれり≪宮崎県の巻≫」






 昭和30年1月、「富山の薬と越後の毒消し」の取材のため、高岡を経て投宿した富山市の旅館での坂口安吾氏。世話になった堀田善衛氏の母親のために色紙を書いている。「梁塵秘抄」の一節が見える。(坂口安吾の最後の旅、-安吾新日本風土記、最後の訪問地の高知