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2017年9月18日月曜日

ふたつの理想化(菊乃と津世子)

批評家は、作家のめざしてゐるものを見よ。最高の理想をめざして身悶えながら、汚辱にまみれ、醜怪な現実に足をぬき得ず苦悶悪闘の悲しさに一掬の涙をそゝぎ得ぬのか。然り。そゝぎ得ぬ筈だ。おん身らは、かゝる苦闘を知らないのだから。日本文学の伝統などといふものを表面の字づらの上で読みとり、綴り合せて、一文を草することしか知らないのだから。(坂口安吾「理想の女」初出1947年)

…………

以下、主にメモ(青空文庫にある安吾の作品を「あ」から読み返しているのだが、ようやく「あ」が終ったところでのメモである。かつて読んだ「あ」以外の印象が残っている作品についての引用もいくらかある)。

◆「安吾人生案内その六 暗い哉 東洋よ」より(初出:「オール読物 第六巻第一〇号」1951(昭和26)年10月1日発行)

塩谷先生は菊乃さんが自殺したと説をなす者を故人を誣いるものだとお考えのようであるが(同氏手記「宿命」――晩香の死について――週刊朝日八月十二日号)誰が自殺しても別にフシギはないし、自殺ということが、その人の、またはその良人の不名誉になることだとも思われない。
大詩人だの大音楽家だのと云ったって、その他人にすぐれているのは詩と音楽についてのことで、ナマの現身はそうは参らん。現身はみんな同じこと。否、現身に属する美点欠点にも差はあるだろうが、それは詩や音楽の才能と相応ずるものではありません。

漢学者塩谷温(1878-1962)は一部では《その研究史上の功労は日本人研究者においては京都大学の青木正児(1887-1964)、吉川幸次郎(1904-1980)といった学者に並ぶものだ》とされる方だそうだ(前川晶「塩谷温と『支那文学概論講話』について」)。ただし《知名度は…明らかに低い》。なぜなら《戦前支那学研究の基礎的作業に終始》にしたから、と。

前川晶氏の同じ論文には、塩谷温の晩年について、次のように記されている。

戦後不如意の生活を強いられつつも、国体と道徳の再興を叫んで意気軒高に過ごしていた塩谷は、古希を迎えて三十才半ばの花柳界出身の相手・長谷川菊乃(晩香)と再婚した。当時世に知られた二年足らずの「老いらくの恋」ののち昭和二六年(1951)七月、この菊乃が謎の死を遂げ、それが(老漢学者の若夫人自殺)と興味本位に騒がれて事件がスキャンダル化したとき、〈自殺と決めつける世人〉への反論として塩谷が書き散らかした手記のひとつ「宿命――晩香の死についてーー」(『週刊朝日』1951年8月12日号)を読んだ坂口安吾は、そこに示されたあまりにもアナクロな愛情表現に反発し、『安吾人生案内/暗い哉東洋よ』のなかで塩谷を厳しく論難した。

その文章を坂口はこのように締めくくっている。「人間の倫理は「己が罪」というところから始まったし、そうでなければならんもんだが、東洋の学問は王サマの弁護のために論理が始まったようなもんだから、分らんのは仕方がないが。 ああ、暗い哉。東洋よ。暗夜、いずこへ行くか。 オレは同行したくないよ。」(前川晶「塩谷温と『支那文学概論講話』について」2001,pdf

以下、ふたたび「安吾人生案内その六 暗い哉 東洋よ」より

塩谷先生は悪意はなかった。むしろ善意と、献身的な気持で溢れていたようだ。けれども、自分の美化した想念に彼女を当てはめて陶酔し、彼女のきわめて卑近な現実から自分の知らない女を発見したり、彼女の心の裏の裏まで見てやりはしなかったようだ。先生は彼女を詩中の美女善女のように賞揚して味っていたが、詩中の美女善女のような女は現実的には存在しないものである。 

現実的な人間は、もっともっと小さくて汚く、卑しいところもあるものである。それは肉慾の問題、チャタレイ的なことのみを指すものではありません。肉慾などよりも、精神的に甚しい負担が彼女にかかっていて、彼女はジリジリ息づまるように追いつめられていたのではありますまいか。それは詩の中の最上級の美女善女に仕立てられた負担であった。もっと卑しくて、汚らしくて、小さくて、みじめなところ、欠点も弱点も知りつくした上で愛されなくては、息苦しくて、やりきれまい。       
塩谷先生は菊乃の欠点もよく知っていた、全てを知った上で、彼女を美しきもの良きもの正しきものと観じて愛したのだ。と仰有るかも知れないが、私はそうではないと思う。 

先生の愛し方は独裁者の愛し方ですよ。たとえば軍人が、軍人精神によって、一人の兵隊をよき兵隊として愛す。ところがこの兵隊はよき軍人的であるために己れを偽って隊長の好みに合せている。その好みに合せることは良き軍人ということにはかのうが、決してよき人間ということにはかなわない。彼自身が欲することは良き人間でありたいということで、良き軍人ということではなかったのだが、この社会では軍人絶対であるから、どうにもならない。独裁者の意のままの人形になってみせなければ生きられないのである。

傑出した心理家坂口安吾といおう。

心理学者の決疑論。――この者は一人の人間通である。いったい何のために彼は人間を研究するのであろうか? 彼は人間に関する小さな利益を引っとらえようと欲する、ないしは大きな利益をも。――彼は政略家にほかならない!・・・あそこのあの者もまた一人の人間通である。だから諸君は言う、あの者はそれで何ひとつ自分の利益をはかろうとしない、これこそ偉大な「無私の人」であると。もっと鋭く注意したまえ! おそらく彼はさらにそのうえ“いっそう良くない”利益を欲している、すなわち、おのれが人々よりも卓越していると感じ、彼らを見くだしてさしつかえなく、もはや彼らとは取りちがえられたくないということを欲しているのである。こうした「無私の人」は”人間軽蔑者”にほかならない。だからあの最初の者の方が、たとえ外見上どうみえようとも、むしろ人間的な種類である。彼は少なくとも同等の地位に身をおき、彼は“仲間入り”する。(ニーチェ『偶像の黄昏』「或る反時代的人間の遊撃」)

たとえば《先生の愛し方は独裁者の愛し方ですよ》《独裁者の意のままの人形になってみせなければ生きられない》とする安吾の文は、理想化のメカニズムを見事に分析しているとしてよい。

誤った崇拝は理想化をうむ。それは他者の弱さを見えなくする──あるいは、それはむしろ、自己のいだく幻影を投影するスクリーンとして他者を利用し、他者そのものを見えなくする。(ジジェク『信じるということ』)

なぜこのようなすぐれた心理家が生まれたのか。安吾はひとりの女を徹底的に愛し、徹底的に苦しんだからである。わたくしは(今のところ)そう考えたい。《われわれは、無理に contraints、強制されて forcés、時間の中でのみ真実を探求する。真実の探求者とは、恋人の表情に、嘘のシーニュを読み取る、嫉妬する者である 。それは、印象の暴力に出会う限りにおいての、感覚的な人間である。》(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』ーー作家の手の爪の血

…………

◆二十七歳(初出:「新潮 第四四巻第三号」1947(昭和22)年3月1日発行)
さて、私は愈々語らなければならなくなつてきた。私は何を語り、何を隠すべきであらうか。私は、なぜ、語らなければならないのか。 

私は戦争中に自伝めく回想を年代記的に書きだした。戦争中は「二十一」といふのを一つ書いたゞけで、発表する雑誌もなくなつてしまつたのだが、私がこの年代記を書きだした眼目は二十七、それから三十であつた。つまり、矢田津世子に就てゞあつた。

私は果して、それが書きうるかどうか、その時から少からず疑つてゐた。たゞ、私は、矢田津世子に就て書くことによつて、何物かゞ書かれ、何物かゞ明らかにされる。私はそれを信じることができたから、私はいつか、書きうるやうにならなければいけないのだと考へてゐたのであつた。 

始めからハッキリ言つてしまふと、私たちは最後まで肉体の交渉はなかつた。然し、メチルドを思ふスタンダールのやうな純一な思ひは私にはない。私はたゞ、どうしても、肉体にふれる勇気がなかつた。接吻したことすら、恋し合ふやうになつて、五年目の三十一の冬の夜にたゞ一度。彼女の顔は死のやうに蒼ざめてをり、私たちの間には、冬よりも冷めたいものが立ちはだかつてゐるやうで、私はたゞ苦しみの外なにもなかつた。たかゞ肉体ではないか、私は思つたが、又、肉体はどこにでもあるのだから、この肉体だけは別にして、といふ心の叫びをどうすることもできなかつた。 

そして、その接吻の夜、私は別れると、夜ふけの私の部屋で、矢田津世子へ絶交の手紙を書いたのだ。もう会ひたくない、私はあなたの肉体が怖ろしくなつたから、そして、私自身の肉体が厭になつたから、と。そのときは、それが本当の気持であつたのかも知れぬ。その時以来、私は矢田津世子に会はないのだ。彼女は死んだ。そして私はおくやみにも、墓参にも行きはしない。 

その後、私は、まるで彼女の肉体に復讐する鬼のやうであつた。私は彼女の肉体をはづかしめるために小説を書いてゐるのかと疑らねばならないことが幾度かあつた。私は筆を投げて、顔を掩うたこともある。



◆三十歳(初出:「文学界 第二巻第五号」1948(昭和23)年5月1日発行)
私は「いづこへ」の女が夜の遊びをもとめる時に、時々逆上して怒った。「君はそのために生きているのか! そのためにオレが必要なのか!」 

私にとって、私がそのことを怒るべき時期であったに相違ない。あの女とは限らない。どの女であるにしても、その事柄を怒らずにいられない時期であったと思う。 

私は女の生理を呪った。女の情慾を汚らしいものだと思った。その私は、女以上に色好みで、汚らしい慾情に憑かれており、金を握れば遊里へとび、わざ〳〵遠い田舎町まで宿場女郎を買いに行ったりしていたのである。 

私はこうして女の情慾に逆上的な怒りを燃やすたびに、神聖なものとして、一つだけ特別な女、矢田津世子のことを思いだしていた。もとより、それはバカげたことだ。もとより当時からそのバカらしさは気付いていたが、そうせずにいられなかっただけである。 

一つの女体としての矢田津世子が、他のあらゆる女体と同じだけの汚らしさ悲しさにみちたものであることを、当時の私といえども知らぬ筈はない。それどころか、女の情慾の汚らしさに逆上的な怒りを燃やすたびに、私はむしろ痛切に、矢田津世子がそれと同じものであることを痛く苦く納得させられ、その女の女体から矢田津世子の女体を教えられているのであった。 

それにも拘らず、逆上的な怒りのたびに、矢田津世子の同じ女体を、一つ特別な神聖なものとして思いだしてもいるのだ。

《私は二十七まで童貞だった。 二十七か八のころから三年ほど人の女房だった女と生活したが、これからはもう散々で、円盤ややりや自動車の比ではない。窒息しなかったのが不思議至極で、思いだしても、心に暗幕がはられてしまう。》(坂口安吾「てのひら自伝」初出1947年)

矢田津世子と再会して、混乱の時期が収ったとき、私の目に定着して、ゆるぎも見せぬ正体をあらわしたのは、矢田津世子の女体であった。その苦しさに、私は呻いた。 

三年間、私が夢に描いて恋いこがれていた矢田津世子は、もはや現実の矢田津世子ではなかったのだ。夢の中だけしか存在しない私の一つのアコガレであり、特別なものであった。

今日の私はその真相を理解することができたけれども、当時の私はそうではなかった。私の恋人は夢の中で生育した特別な矢田津世子であり、現実の矢田津世子ではなくなっていることを理解できなかったのだ。私はたゞ、驚き、訝り、現実の苦痛や奇怪に混乱をつゞけ、深めていた。 

現実の矢田津世子は、夢の中の矢田津世子には似ず、呆れるほど、別れたばかりの女に似ていた。むしろ、同じものであったのだ。同じ女体であったから。私は然し、当時は、恋する人の名誉のために、同じ、という見方を許すことができなかったから、私の理解はくらみ、益々混乱するばかりであったのである。 

二十七歳のころは、私は矢田津世子の顔を見ているときは、救われ、そして安らかであった。三十歳の私は、別れたあとの苦痛の切なさは二十七のころと同じものであったが、顔を合せている時は、苦しさだけで、救いもなく、安らかな心は影だになかった。 

私はあの人と対座するや、猟犬の鋭い注意力のみが感官の全部にこもって、事々に、あの人の女体を嗅ぎだし、これもあの女に似てるじゃないか、それもあの女と同じじゃないか、私は女体の発見に追いつめられ、苦悶した。
私も、あの人も、大人になっていたのだ。私は「いづこへ」の女との二年間の生活で、その女を通して矢田津世子の女体を知り、夢の中のあの人と、現実のこの人との歴然たる距りに混乱しつゝも、最も意地わるくこの人の女体を見すくめていた。
私は然し、今日、私がこのように平静でありうるのも、矢田津世子がすでに死んだからだと信ぜざるを得ないのである。 

思えば、人の心は幼稚なものであるが、理窟では分りきったことが、現実ではママならないのが、その愚を知りながら、どうすることもできないものであるらしい。 

矢田津世子が生きている限り、夢と現実との距りは、現実的には整理しきれず、そのいずれかの死に至るまで、私の迷いは鎮まる時が有り得なかったと思われる。

私はどんな放浪の旅にも、懐から放したことのない二冊の本があった。N・R・F発行の「危険な関係」の袖珍本で、昭和十六年、小田原で、私の留守中に洪水に見舞われて太平洋へ押し流されてしまうまで、何より大切にしていたのである。 

私はこの本のたった一ヶ所にアンダーラインをひいていた。それはメルトイユ夫人がヴァルモンに当てた手紙の部分で「女は愛する男には暴行されたようにして身をまかせることを欲するものだ」という意味のくだりであった。
私の部屋はKホテルの屋根の上の小さな塔の中であった。特別のせまい階段を登るのである。 

せまい塔の中は、小型の寝台と机だけで一パイで、寝台へかける外には、坐るところもなかった。 

矢田津世子は寝台に腰かけていた。病院の寝台と同じ、鉄の寝台であった。 

私は、さすがに、ためらった。もはや、情慾は、まったく、なかった。ノドをしめあげるようにしてムリに押しつめてくるものは、私の決意の惰性だけで、私はノロ〳〵とにじりよるような、ブザマな有様であった。

私は矢田津世子の横に腰を下して、たしかに、胸にだきしめたのだ。然し、その腕に私の力がいくらかでも籠っていたという覚えがない。 

私は風をだきしめたような思いであった。私の全身から力が失われていたが、むしろ、磁石と鉄の作用の、その反対の作用が、からだを引き放して行くようであった。 

私の惰性は、然し、つゞいた。そして、私は、接吻した。 

矢田津世子の目は鉛の死んだ目であった。顔も、鉛の、死んだ顔であった。閉じられた口も、鉛の死んだ唇であった。 

私が何事を行うにしても、もはや矢田津世子には、それに対して施すべき一切の意識も体力も失われていた。表情もなければ、身動きもなかった。すべてが死んでいたのであった。 

私は茫然と矢田津世子から離れた。まったく、そのほかに名状すべからざる状態であったと思う。私は、たゞ、叫んでいた。

「出ましょう。外を歩きましょう」 

そして、私は歩きだした。私について、矢田津世子も細い階段を下りてきた。 

表通りへでると、私はたゞちに円タクをひろって、せかせかと矢田津世子に車をすゝめた。

「じゃア、さよなら」 

矢田津世子は、かすかに笑顔をつくった。そして、「おやすみ」 と軽く頭を下げた。 

それが私たちの最後の日であった。そして、再び、私たちは会わなかった。 

私は、塔の中の部屋で、夜更けまで考えこんでいた。そして、意を決して、矢田津世子に絶縁の手紙を書き終えたとき、午前二時ごろであったと思う。ねむろうとしてフトンをかぶって、さすがに涙が溢れてきた。 

私の絶縁の手紙には、私たちには肉体があってはいけないのだ、ようやくそれが分ったから、もう我々の現身はないものとして、我々は再び会わないことにしよう、という意味を、原稿紙で五枚くらいに書いたのだ。


安吾は、上の「三十歳」が書かれた三年後、「安吾人生案内 その八 安吾愛妻物語」(初出「オール読物 第六巻第一二号」1951(昭和26)年12月1日発行)にて次のように記している。《二十七と三十一のバカらしさはすでにバカげた記録を綴っておいたが、これもそのうち静かに書き直す必要があろう。》

ほぼ同じ時期の「安吾の新日本地理秋田犬訪問記――秋田の巻――」(初出:「文藝春秋 第二九巻第一五号」 1951(昭和26)年11月1日発行)には、次のような文がある。

私がフラフラ状態で秋田市へつき、旅館に辿りついたとき、いきなり秋田の新聞記者が訪ねてきた。「秋田市の印象はいかがですか」 (……)
 
しかし、着いたトタンに当地の印象いかがとは気の早い記者がいるものだ。その暗さや侘しさがフルサトの町に似た秋田は切ないばかりで、わずかばかりの美しさも、わずかばかりの爽かさも、私の眼には映らない。 

けれども私は秋田を悪く云うことができないのです。なぜなら、むかし私が好きだった一人の婦人が、ここで生れた人だったから。秋田市ではなく、横手市だ。けれども秋田県の全体が、あそこも、ここも、みんなあの人を育てた風土のようにしか思われない。すべてが私にとっては、ただ、なつかしいのも事実だから仕方がありません。汽車が横手市を通る時には、窓から吹きこむ風すらも、むさぼるばかりに、なつかしかった。風の中に私がとけてしまッてもフシギではなかったのです。秋田市が焼跡のバラック都市よりも暗く侘しく汚くても、この町が私にとってはカケガエのない何かであったことも、どう言い訳もなかったのです。

「秋田はいい町だよ。美しいや」 

私は新聞記者にそうウソをついてやりました。すると彼は、たぶん、と私が予期していたように、しかし甚ださりげなく、また慎しみを失わずに、あの人の名を言いだした。

「あゝ。あの人なら、知ってるよ。たぶん、横手のあたりに生れた人だろう」

私は何食わぬ顔で、そう云ってやった。むろん私はその記者に腹を立てるところなどミジンもなかった。私はこの土地であの人の名をハッキリ耳にきくことによって、十年前に死んだ、その人と対座している機会を得たような感傷にひたった。着いたトタンにいきなり新聞記者が訪ねて来たことも、そしていきなりあの人の名をきいてしまったことも、私とこの土地に吹く風だけが知り合っている秘密のエニシであるということをひそかに考えてみることなどを愉しんだのである。

上の1951年のエッセイに「十年前に死んだ」とあるが、矢田津世子は、1943年に肺炎で亡くなっている。

途中、傑出した心理家安吾としたが、傑出していても人は自分のことが見えなくなることは必ずある。《万人はいくらか自分につごうのよい自己像に頼って生きている(Human being cannot endure very much reality ---T.S.Eliot)》(中井久夫「統合失調症の精神療法」『徴候・記憶・外傷』所収)

安吾が塩谷温氏の心理を鋭く分析しているからといって、自己分析が同様にできているとは必ずしもいえない。

他者の「メタ私」は、また、それについての私の知あるいは無知は相対的なものであり、私の「メタ私」についての知あるいは無知とまったく同一のーーと私はあえていうーー水準のものである。しばしば、私の「メタ私」は、他者の「メタ私」よりもわからないのではないか。そうしてそのことがしばしば当人を生かしているのではないか。(中井久夫『世界における徴候と索引』)

かつまた上に引用した、「二十七歳」と「三十歳」は小説の記述であることに注意しなければならない。たとえば安吾三十歳の年、《昭和11年1月頃、しばらく途絶えていた安吾との交際が再開されたが、3月5日頃に本郷の菊富士ホテルに安吾をたずねたのを最後に、その後津世子のほうから安吾に絶縁の手紙が出される》とWIKIの矢田津世子の項に書かれているが、これは「三十歳」の叙述とはいささか齟齬がある。

私が「いづこへ」の女と別れる時には、私はどうしてもこの狂気の処置をつけなければならないことを決意していたのである。求婚の形でか、より激しく狂気の形でか、強姦の形でか、とにかく何か一つの処置がなければならぬことだけは信じていた。

矢田津世子も、たぶん、そうであったらしい。二人は別々に離れて、同じような悲しい狂気に身悶えていたらしい。 

あの人が訪ねてきたとき、私はちょうど、玄関の隣りの茶の間に一人で坐っていた。そして私が取次にでた。 

あの人は青ざめて、私を睨んで立っていた。無言であった。睨みつづけることしか、できないようであった。私の方から、お上りなさい、と言葉をかけた。(……)

「私はあなたのお顔を見たら、一と言だけ怒鳴って、扉をしめて、すぐ立去るつもりでした。私はあなたを愛しています、と、その一と言だけ」 (……)

「僕もあなたを愛していました。四年間、気違いのように、思いつづけていたのです。この部屋で、四年前、あなたが訪ねてこられた日から気違いのようなものでした。いわばそれから、あなたのことばかり思いつめていたようなものです」 

私がこう言い終ると、あの人がスックと立ち上ったように思ったが、実際は、あの人が顔を上げたゞけなのだ。その顔が青ざめはてて、怒りのために、ひきしまり、狂ったように、きつかったのだ。「四年前に、なぜ、四年前に」(「三十歳」)

ネット上には事実関係らしきものを記した安吾研究家の叙述がないではないが、ここではそれを引用することは敢えてしない。・・・いやひとつだけ面白いものがあるので引用しよう。

近藤富枝の「花影の人」によると、この時期に矢田津世子は次のようなメモを書き残しているという。

「私が彼を愛してゐるのは、実際にあるがままの彼を愛してゐるのではなくして、私が勝手に想像し、つくりあげてゐる彼を愛してゐるのです。だが、私は実物の彼に会ふと、何らの感興もわかず、何等の愛情もそそられぬ。

そして、私は実体の彼からのがれたい余り彼のあらばかりをさがし出した。しかしそのあらを、私の心は創造してゐたのである」

もしこれが事実だとすれば、安吾の「三十歳」の叙述、《現実の矢田津世子は、夢の中の矢田津世子には似ず、呆れるほど、別れたばかりの女に似ていた》は、先に矢田が言っていたことになる。

いやアこうやってメモしながら記していると、この文を記そうと思った当初の意図とは別の方向にいってしまう・・・《真理の愛とは、弱さの愛、弱さを隠していたヴェールを取り払ったときのその弱さの愛、真理が隠していたものの愛、去勢と呼ばれるものの愛である。》(ラカン、 S17, 14 Janvier 1970)

というわけでこのあたりで次の文を引用してやめておこう。

作品というものは、私の場合、私の全的なもので、自伝的作品といっても、過去の事実の単純な追想や表現ではないのである。事実の復原をめざして書くなどということは、私のてんから好まざるところ、左様な意味のものならば、私は自伝などは書かぬ。

私が自伝を書くには、書くべき文学的な意味があり、私の思想や生き方と、私の過去との一つの対決が、そこに行われ、意志せられ、念願せられているという、それを理解していただきたい。 

その対決のあげくが、どう落付きどう展開することになるか、それを私自身が知らず、ただ、それを行うところから出発する、そういう手段だけが、私の小説の、私に於ける意味なのである。(坂口安吾「わが思想の息吹」)