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2017年8月7日月曜日

母なる神々の国日本

一神教とは神の教えが一つというだけではない。言語による経典が絶対の世界である。そこが多神教やアニミズムと違う。一般に絶対的な言語支配で地球を覆おうというのがグローバリゼーションである。(中井久夫『私の日本語雑記』2010年)

…………

一般に、世界宗教は、偉大な宗教的人格によって開示されたものだといわれている。しかし、そのような人格と弟子たちとの関係は、けっしてフロイトのいう「感情転移関係」をまぬかれるものではない。つまり、世界宗教も集団神経症によってのみ可能なのだ。だからまた、それが始祖の死後に、その死自体を儀礼的に意味づける共同体の宗教を作り出すことも避けられない。さもなければ、どんな偉大な人格も、世界宗教の始祖となりえなかっただろう。(柄谷行人『探求Ⅱ』1989年)

ーー柄谷行人は、一神教的世界宗教は集団神経症を生むと言っているが、日本は一神教でなくても、感情転移関係がある。絆というやつだ。


ひとりをひとりにむすび
ひとりをひとりにからませ
ときにひとりとひとりをしばる
みえないうんめいの いと
ひとからひとへ めぐりつづけるエネルギー
あいしあうものを きずなはむすぶ
にくしみあうものを きずなはむすぶ
みしらぬものどうしすら きずなはむすぶ
ひとりではいきていけない わたしたちのいのちづな
きずな

ーー「きずな」谷川俊太郎)

きずなとは共感の共同体にかかわるとしてよいだろう。

公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがたい力で束縛する不可視の牢獄と化している。(浅田彰「むずかしい批評」『すばる』1988 年 7 月号)

言語による経典が絶対の世界、つまりイデオロギー的一神教による集団神経症と前言語的多神教・アニミズム的集団神経症とどっちがよいのだろう? どちらかしかないんだろうか?

上の二項対立は、厳密にフロイト用語を使えば、一神教的精神神経症/多神教的現勢神経症となる。

現勢神経症 Aktualneurose の症状は、しばしば、精神神経症 psychoneurose の症状の核であり、そして最初の段階である。(フロイト『精神分析入門』1916-1917)

一神教的抑圧の症状、多神教的原抑圧の症状といってもよい。

……もっとも早期のものと思われる抑圧(原抑圧 :引用者)は 、すべての後期の抑圧と同様、エス内の個々の過程にたいする自我の不安が動機になっている。われわれはここでもまた、充分な根拠にもとづいて、エス内に起こる二つの場合を区別する。一つは自我にとって危険な状況をひき起こして、その制止のために自我が不安の信号をあげさせるようにさせる場合であり、他はエスの内に出産外傷 Geburtstrauma と同じ状況がおこって、この状況で自動的に不安反応の現われる場合である。第二の場合は根元的な当初の危険状況に該当し、第一の場合は第二の場合からのちにみちびかれた不安の条件であるが、これを指摘することによって、両方を近づけることができるだろう。また、実際に現れる病気についていえば、第二の場合は現勢神経症 Aktualneurose の原因として現われ、第一の場合は精神神経症 Psychoneurose に特徴的である。(フロイト『制止、症状、不安』1926)

ラカン的には一神教的父なる超自我の症状/多神教的母なる超自我の症状である。

母なる超自我 Surmoi maternel…父なる超自我 Surmoi paternel の背後にこの母なる超自我がないだろうか? 神経症において父なる超自我よりも、さらにいっそう要求し encore plus exigean、さらにいっそう圧制的 opprimant、さらにいっそう破壊的 ravageant、さらにいっそう執着的 insistant な母なる超自我が。(Lacan, S.5, 15 Janvier 1958)

最晩年のフロイトに戻っていえば、男性的神/母なる神である。

母なる神々は、男性の神々によって代替される Muttergottheiten durch männliche Götter(この神々はたぶん元々は息子たちだったのではないか?)(フロイト『モーセと一神教』1939年)

しかしなぜ日本はイデオロギー的な「言語による経典が絶対の世界」の宗教を嫌い、前言語的な「自然宗教」信仰に留まったのだろうか。

日本を囲繞したさまざまの民族でも、死ねば途方もなく遠く遠くへ、旅立つてしまふという思想が、精粗幾通りもの形を以つて、大よそ行きわたつて居る。独りかういふ中に於いてこの島々にのみ、死んでも死んでも同じ国土を離れず、しかも故郷の山の高みから、永く子孫の生業を見守り、その繁栄と勤勉とを顧念して居るものと考へ出したことは、いつの世の文化の所産であるかは知らず、限りも無くなつかしいことである。(柳田国男「魂の行くえ」1949年ーーコトバとコトバの隙間が神の隠れ家

自然宗教に留まったのは、龍の棲む国、鯰大国のせいではなかろうか。この敵には言語による経典は機能しない。今うろおぼえで記すが、リスボン大地震によって、ユーラシア大陸の西端の陸塊である「ヨーロッパ半島」の連中も一神教への疑念は生じたはずである。日本のように地震・津波にしょっちゅう見舞われた国で言語による経典など信じるはずはない。

もちろんそれ以外にも別の理由があるのかもしれないが。

江戸幕府の基本政策はどういうものであったか。刀狩り(武装解除)、布教の禁と檀家制度(政教分離)、大家族同居の禁(核家族化)、外征放棄(鎖国)、軍事の形骸化(武士の官僚化)、領主の地方公務員化(頻繁なお国替え)である。(中井久夫「歴史にみる「戦後レジーム」」)
……このシンポジウムで私の前に米山俊直先生が話された中で私の印象に強く残ったのは、信長が比叡山を焼いた事件の大きさである。比叡山がそれまで持っていた、たとえば「天台本覚論」という宇宙全部を論じるような哲学がそれによって燃え尽きてしまう。比叡山が仮に信長に勝っていたらチベットのような宗教政治になったかどうかはわからないが……。それ以降、秀吉と家康がした大きな改革が三点くらいある。一つは「大家族同居の禁」である。江戸時代のほうが明治以降よりも小家族であった。森鴎外の『阿倍一族』のような反乱を起こされたら困るからである。もう一つは刀狩という「武装解除」である。最後の一つは「布教の禁」で宗教は布教してはいけないということである。おそらく幕末のいろいろな宗教運動がものすごい抵抗に遭ったのは、布教の禁に真っ向から対立するからだろうと思う。布教しないということはその宗教は半分死んだようなものかもしれないが、檀家制度という、生活だけは保障する制度をする。以上の三つに付随して「宗教者医療の禁」がある。「医は仁術なり」という言葉は「お医者さんは非常に親切であれ」ということではなくて、「仁」という儒教の道徳にもとづいた非宗教人だけに医術を許すということである。ただし日蓮宗は狐憑きを治療してよいなどいくつかの例外はある。(中井久夫「山と平野のはざま」『時のしずく』所収)

ーーいやあわたくしはこういった慣れないことを考えると、中井久夫ばかりに依拠することになる。


◆日本人の宗教 中井久夫(1985年)

日本人が西欧よりはやく脱宗教化したという歴史的事実は、医学史から学んだ。「医は仁術なり」という宣言は、「宗教者でなく儒教的教養を身につけた医師が医療に当たれ」という意味で、神主、僧侶の医療行為が同時に禁止されている。例外は日蓮宗の狐払いくらいか。刀狩り、検地にはじまり、檀家制度、布教の禁止、大家族同居の禁と続く一連の制度で、江戸時代初期に完成したこれらの制度が今日まで及ぼしている影響は決して無視できないと、素人ながらに思う。

医学や教育など、西欧で元来宗教の手にあったものを世俗の専門家が行なうように制度を変えるのを「セキュラリゼーション」とか「ライシスム」とかいうが、フランスなど十九世紀になおこの闘争をやっていて、ずいぶん抵抗もあった。

日本では、逆に宗教が行方不明になりかけていて、無宗教だという意見が高度成長期時代まであった。イザヤ・ベンダサンという「人」が、ヒンドゥー教やユダヤ教と同じ意味で「日本教」というものがあると指摘すると、なるほどということになった。西郷隆盛がその大聖人であるというといかにもという気になる。この宗教では「向う三軒両隣いちょろちょろしている人」が重要であるといわれると、それももっともという気がする。そこで、宗教論はうやむやになったように思う。

しかし、強烈な宗教的情熱を最近目の当たりにした。偶像崇拝どころではない。最近の航空機事故は悲惨であったが、その処理も私を大いに驚かせた。いかなる死体のはしきれをも同定せずにはおかないという気迫が当然とされ、法医学の知識が総動員されて徹底的に実行された。こういうことは他国の事故では起こらない。海底の軍艦の遺骨まで引き揚げようとするのは我が国以外にはあるまい。

同定した遺体の破片は歯一つでもすぐ火葬に付する。国に持って帰るのも、現地で火葬に付してからである。すっかり風化していても生では持ち帰らない。

死者の遺体はーー特に悲惨な死を遂げた人の遺体はーーただの物ではなくて、それは火できよめて自宅、せめて自国まで持ってこないと「気がすまない」とはどういうことだろうか。一つは、定義はほんとうにむつかしそうだが、「アニミズム」と呼ぶのが適当な現象である。もう一つは、国なり家族なり、とにかく「ウチ」にもたらさないと「ゴミ」あつかいをしていることになるということである。「ゴミ」の定義は「ソト」にあるものだ(「ひとごみ」とはよく言ったものだ)。そうしておくとどうも「気がすまない」。「気がすまない」のは強迫的心理であり、それを解消しようとする行為が強迫行為である。そういう意味では、神道の原理が「きよら」であり、何よりも生活を重んじるのとつながる。

むかし、神道が清潔をあまりに言うのは、かつて何か血なまぐさいことをしたからではないか、と思ったことがあるが(精神分析学を持ち出さずとも、マクベス夫人の例を考えるだけでよかろう)、縄文人をインディアンのように弥生人が虐殺したということはないという。

アニミズムは日本人一般の身体に染みついているらしい。イスラエルと日本の合同考古学調査隊が大量の不要な遺骨を運び出す羽目になった時、その作業をした日本隊員は翌日こぞって発熱したが、イスラエル隊員は別に何ともなかったそうである。( 中井久夫「日本人の宗教」1985年初出『記憶の肖像』所収)



◆日本人の宗教 中井久夫(20074月、神戸新聞)



もう古くなった統計だが、それによると、特定の宗教を信仰している日本人は三〇パーセントに満たないが、祈りの必要を感じている人は七〇パーセントを超えるという。この落差は海外では奇異とされるが、欧米人も、定期的に教会に行く人の率は三〇パーセント程度かと思う。米国人のほうが欧州人より多いそうであるが、州によって、地域によって違いそうだ。




信者と非信者を白か黒かと峻別し、後者を異端、異教徒として排斥するのがほんとうに宗教本来のあり方だろうか。

そもそも宗教は教典、戒律、儀礼だけから成るものではない。言葉と儀式を包む雰囲気的とでもいうか、言葉にならない、あるいは言葉を超えた何ものかに包まれて初めて宗教であると私は思う。

人生は科学が扱いかねるものに満ちている。私も「どうして他人でなく私が」という、うめくような声を聞いてきた。人生は自分ではどうしようもない偶然性と不確定性とに大きく左右される。生をうけたこと自体がそうである。子の誕生の喜びはその将来の不確定性とセットである。結婚は必ずしも幸福を約束しない。成功はその裏にどんでん返しの可能性がある。もっと端的な不条理も多い。たとえば犯罪被害者である。




まことに、人生は偶発性と不確定性と不条理性に満ちている。宗教はこれに対する合理化であり埋め合わせでもある。「いかなる未開社会でも確実に成功するものに対しては呪術は存在しない」と人類学者マリノフスキーはいう。棟上げ式も、進水式も不慮の事故を怖れ、成功と無事故を祈るものである。




どの個別宗教もその教義、教典が成立した時に、その時のその場の何かがもっとも先鋭な不条理であったかを鋳型のように示している。一神教は苛烈な不条理に直面しつづけたユダヤ民族の歴史を映しているだろう。

人間はもともと狩られる存在であって劣等感の塊であったという。それが「万物の霊長」に成り上がると、頭の上に何もないのが落ちつかない。人は優越感だけでは自分を支えられないのである。そこで眼に見えない存在として神を自分の上に置いたという説明がある。だから、多くの宗教が富者、知者、支配者の傲慢を戒め、謙遜と敬虔とを美徳とするのかもしれない。

しかし、動物を狩る技術は同種間の狩り、すなわち戦争を生みもした。その際には「正義われにあり」という感情を支えるために使われもした。二十世紀でも二次の世界大戦において参戦国の教会はすべて神に自国の勝利を保証した。




宗教の起源説はまだまだあるが、それは必要条件を説明しても充分条件を説明しないと思う。そうするにはあまりに深く、宗教は言葉を超えた情の大海に深くその脚を浸している。

神経心理学は脳と言動とを橋渡ししようとする科学であるが、私の尊敬するその道の学者(山鳥重〔あつし〕氏)は、知情意といっても、基本は情であって、これに対して知と意とは情の大海に浮かぶ船、海の中で泳ぐ魚にすぎないと語っている。




宗教原理主義が流行である。宗教の自然な盛り上がりか。むしろ、宗教が世俗的目的に奉仕するのが原理主義ではないか。わが国でも、千年穏やかだった神道があっという間に強制的な国家神道に変わった。原理主義の多くは外圧か内圧かによって生まれ、過度に言語面を強調する。言語と儀礼な些細な違いほど惨烈な闘争の火種になる。




しかし、宗教は人をもつなぐ。未知の部族を訪問する研究者は、仏教であれボン教であれ、そこが何教でかを知ると安心する。避けるべきタブー、従うべき儀礼がわかるからである。たとえば手を合わせて「ナマステ」というば許していただけることも多かろう。しかし、その部族限りの宗教であると、歓待の最中のどんな些細な行為が実は重大な違反として首が飛ぶかもしれない。日本人が外国で不気味に思われるとしたら、その宗教、すなわちルールがわからないということがあるまいか。

日本人は初詣では神社、葬式は仏教、クリスマスはキリスト教と使いわけているのは儀式のレベルのことで、日本人が和語、漢語、カタカナ語を巧みに使って漢字仮名まじり文を書いているのと同じである。他のすべての生活様式も同じである。その底には共通の祈りがあって、ことば以前の感情に日本人の“宗教”があるのではなかろうか。

宗教の勧誘者は「私には私の信仰がありますから」と申し上げると、たいていは素直に帰って下さる。この宗教的寛容さがうらやましい国民でもあるだろう。(中井久夫「日本人の宗教」2007年)