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2017年8月11日金曜日

月さして神さんいわく十七夜

月さして神さんいわく十七夜

ーーなぜ十七月夜なのだろう、まんまるいのに。

16月夜なら満月と区別がつかないかもしれないが、17月夜だったらわかるはずなのに。




8月8日の朝5時前後の小旅行中の車のなかのことだが、家に帰って調べると陰暦6月17日で月齢 15.7となっている。

おおむね、月の満ち欠け(月相)と連動するが、必ず一致するわけではない。例えば、望(満月)の瞬間の月齢は13.8から15.8の間で変動する。すなわち、月齢14の日が満月とは限らない。これは月の軌道が楕円であるため、満ち欠けの速度が一定にはならないからである。また、朔の瞬間を含む日が旧暦の1日だったので、月齢の端数を四捨五入して1を足せば旧暦の日付とだいたい一致する。(WIKI 月齢

ははあ・・・

いやあWIKIとはひどく役にたつものである・・・

……いずれにせよ月などつくづく眺めたのは何年ぶりだろう。

十七月夜とは立待月。十六月夜はいざよい。
十七夜月は、夢が叶うから「かのう」ともいうらしい。

いや知らないことが多い。多すぎる。忘れたことも多すぎる(「いざよい」も「立待月」も失念している)。

わたくしは東海地方の小都市で少年時代をすごしたので、田舎者だと自認している。中学校に通う途中の道は田圃のなかだったし、そこで小学校のときはざりがり釣りをした(最初に獲ったざりがりを今度はエサにして共喰いさせて遊ぶ)。三日と八日の日に歩いて五分ほどの路上で「三八」と呼ばれる市がたった。そこで五平餅を買うのが楽しみだった。

いまだってひどく食べてみたい。





でも陰暦とともに生きていた妻とは違う。メコン川の三角州の土地で育った彼女は、月の満ち欠けとともに生きていた。彼女に比べたらわたくしはずっと都会人である。

沖縄でもまたやまとの島々でも、古い信仰が力を失い、形ばかり整ったものになって来るのは、まず都府の生活からであった。国の端々に散らばって住む者は、新らしい統一に触れないから、思い切った忘れかたはしない。(柳田国男『海上の道』)

ーー人は「都府の生活」などすると、知らないことばかりになる。「思い切った忘れかた」をしてしまう。

当地は、今でも年忌の法会は旧暦にてなされる。正月は旧暦で祝う国である。いままであまり気にしたことはなかったが、ひょっとして敬意を表すべきではなかろうか。

ところでなぜ月はかつて、あんなにもエラかったのかーーたとえばギリシャ神話においてオリンポス神話に支えられた父権制社会の前に、長い「月女神」一族に支えられた母権制社会があったとされる(バッハオーフェン)--、知っているだろうか?

太陽のかちほころ七月のきょうこのごろ、わたしは、なぜ月がかくもながいあいだ専横にも君臨して来たのかを考えてみた。これはおそらく、太陽は見るものの眼をきずつけ、自己自身よりもむしろ他のものの姿をしめすものであるに反し、一方横柄な月は夜の世界に君臨して、自己自身しかしめさぬからである。かくして、月の相貌の規則正しい推移がつねに政治的謀慮や、期待や、危惧や、野心や、そうじて眠りをさまたげるものに結びつくようになったのだ。われわれの生存は、月の満ち欠けによりも、はるかにずっと太陽の運行に依存している。しかし、太陽の像はいわば分散的なものだ。光、熱、みどり、収穫、これらがみな太陽だ。これに反して、月はただひとり姿をみせ、いわば孤立している。ただ観ものたるにすぎぬものであり、潮の満干のわずかな海岸ではとくにそうである。一連の外観のほかはなにも告げないこのかがやかしい相貌にむかって、精神はといかける。月は中空に一種きわめて感動的な詩をえがき、そしてこれが想像の人たちを説得する。月はこうした人たちを他の浜辺、他の民衆たちにむすびつける。月はいろんな企図や欲望をいだかせる。それゆえにこそ、素朴かつ敬虔な心はなによりもまず、孤独の姿によって力づよく、なにの徴しとは分からぬながら強烈にもなにかの徴しである、この熱なき星をあがめることとなったのである。(アラン『プロポ集』「外的秩序と人間的秩序」より、杉本秀太郎他訳)