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2017年8月25日金曜日

縄文ヴァギナデンタータ

いやあ、すばらしいものを見出してしまった、見いだしてしまったというのか、1930年代に発見されたらしく、わたくしが知らなかっただけだが。

◆札沢遺跡 動物装飾付釣手土器

(「図説縄文土器3 人面香炉型土器」より)


神話とか、古代史とか。



次のものも美しい。

「イノヘビ」家族の吊手土器 長野県諏訪市・穴場遺跡


玄牝之門・コーラ χώρα・ゾーエー Zoë」にて次のように記したとき、これらの縄文土器にも依拠すべきだった・・・

…………
人が「私はどこから来たのか」と問えば、子宮あるいは女陰となるのは当たり前である。

そしてどこから来てどこへ行くのか、つまり子宮から墓へ(wombからtombへ)を、子宮から子宮へと考えるのは何の不思議でもない。近代人ではなく、古代人なら、ことさらそう考えていたとさえ推測できる。

「墓」のギリシア語は tumbos 、ラテン語は tumulus であり、「膨れる」という意味がある。tomb は womb の「子宮」と言語的に関連していると捉えうる。

かつまた各個人の「先史」時代ーー前エディプス期ーーを扱う精神分析が、子宮や母に注目するのも、これまた当然である。

女性器 weibliche Genitale という不気味なもの Unheimliche は、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷 Heimat への入口である。冗談にも「愛とは郷愁だ Liebe ist Heimweh」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女性器 Genitale、あるいは母胎 Leib der Mutter であるとみなしてよい。したがって不気味なものUnheimlicheとはこの場合においてもまた、かつて親しかったもの Heimische、昔なじみのものなの Altvertraute である。しかしこの言葉(unhemlich)の前綴 un は抑圧の徴 Marke der Verdrängung である。(フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)

フロイトは死の枕元にあったとされる草稿においては、「子宮回帰」という言葉さえ口に出している。

誕生とともに、放棄された子宮内生活 Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、すなわち睡眠欲動 Schlaftrieb が生じたと主張することは正当であろう。睡眠は、このような母胎内 Mutterleib への回帰である。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

こういった叙述以外に、《偉大な母なる神 große Muttergottheit》(『モーセと一神教』1939)とも言っている。……

…………

次のものは釣手土器あるいは人面香炉型土器と呼ばれるそうだ。あるいは「イザナミ」とも。



図説縄文土器3 人面香炉型土器


関東地方の西部から中部地方にかけて、主として縄文・中期に、釣手土器と呼ばれる複雑な形の土器が作られた・この土器は例えば九十一戸もの竪穴住居址から、約四百もの修理復元できた様々な土器を出土している長野県諏訪郡富士見町の井戸尻遺跡でも、わずか四個しか発見されていないなど、同時期の他の土器に比べて数が極めて少ない。しかも完全かほとんどそれに近い状態で発見されることが多いので、当時の人々に何か特別に貴重な物と見なされて、他の土器よりずっと大切に取り扱われていたらしいことが窺える。(吉田敦彦「縄文の神話」) 

なぜこんな複雑な土器がーー噂によれば5000年も前にーー作られたのだろう。

この土器についてとても美しく書いておられる方がいる。

◆ 秦恭子 「こどもの『死者の書』」2010, pdf

ふくふくと、ふくよかにふくらむからだ。ほうとあどけなく無垢な顔。まるいおだやかな波立ち、水紋の様な肩とうで。小さくあいた口からはまた、ぽこんぽこんとまんまるあぶくの吐息がはかれる。やわらかなおなかに抱いた穴には、夜になるとあたたかな火が宿る。なんとかわいらしい、まどかな女性。円熟のはての幼女のきよさ。彼女を「イザナミ」と呼んだ考古学者たちは、そのすがたについてこんな風に語っている。

《浅い鉢を天蓋状の造形でおおい、片側に大きな窓、反対側には二つの窓や透し孔を設けた、まるで香炉のような土器。通常の土器の概念をこえた形態であり、神聖な火を燈す火器と目される。…略…土器本体が女神の胎内に見立てられる。正面の大きな円窓は、別な土器像によって蛙の背であり、女性の陰部を表すことが知られる。そこから火が発する。》 ( 富士見町井戸尻考古館(2006)『井戸尻第8集』)

この土器はそれ自体が女性の胎内。おなかに抱いた円窓は、新しい生命がかおをだす、まさにその穴なのである。そこに神聖の火が点される。それはすなわち受胎を意味するだろう。あたらしい生命をおなかに宿して、彼女のかおはますます無我へとときはなたれる 。

しかしそのふんわりとやわらかな女性のすがは、裏をかえせばメドゥーサのごとく死のにおいをたたえた恐ろしいがいこつとなる。ゆらめく無数の蛇の髪、からみつき引き込む渦の髪。洞窟のように暗い穴、その両眼に火が燃える。

まるく、まるい、生成のちから。うねり、うねる死のちから。それら背反するイマジネーションは表裏一体の造形をもって、ここにみごとにひとつに成っている 。 「イザナミ」と名づけられた由縁である。

わたしが願っていた表現は、 5 千年まえのひとびとによってすでに完壁なかたちで遺されていたということになる。

ーー詩的であると同時に、実にニーチェ的、あるいはフロイト的叙述である。

「メドゥーサの首 Medusenhaupt」 としての偉大の思想。すべての世界の特質は石化(硬直 starr)する。「凍りついた死の首 gefrorener Todeskampf」(ニーチェ、[Winter 1884 — 85]
メドゥーサの、恐怖を惹き起こす切り首については解釈が試みられてよいだろう。  

首の切断=去勢。…それまで去勢の脅しを信じようとはしなかった少年が女性器を目にすると、それがきっかけとなる。女性器とはおそらく、毛にくまどられた成人のそれであって、結局のところ母親の性器である。  

芸術がメドゥーサの髪の毛を蛇として造形することが多いのは、蛇もまた去勢コンプレックスに由来しているからである。…  メドゥーサの首の光景は観察者を驚愕のあまり凝固させ、石に変えてしまう。…凝固することは勃起を意味し、…観察者にとって慰藉を意味するのだからである。  

メドゥーサの首は女性器の描写を代替し、…ラブレーでも、女にヴァギナギを見せつけられた悪魔は退散している。(フロイト『メドゥーサの首』)

とはいえわたくしが最も感銘をうけたのはメドゥーサの首あるいは蛇ではなく、表題に記したように「有歯膣 Vāgīna dentāta」である。




あなたを吸い込むヴァギナデンタータ、究極的にはすべてのエネルギーを吸い尽すブラックホールとしてのS(Ⱥ) の効果。(ポール・バーハウ1999、PAUL VERHAEGHE ,DOES THE WOMAN EXIST?,1999ーー「神さん」という原超自我
ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女性のある形態の光景、彼女のヴェールが落ちて、唯一ブラックホール un trou noir のみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。.(ラカン, « Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir »,Écrits, 1966)




宿命の女は虚構ではなく、変わることなき女の生物学的現実の延長線上にある。ヴァギナ・デンタータ(歯の生えたヴァギナ)という北米の神話は、女のもつ力とそれに対する男性の恐怖を、ぞっとするほど直観的に表現している。比喩的にいえば、全てのヴァギナは秘密の歯をもっている。というのは男性自身(ペニス)は、(ヴァギナに)入っていった時よりも必ず小さくなって出てくる。………

社会的交渉ではなく自然な営みとして(セックスを)見れば、セックスとはいわば、女が男のエネルギーを吸い取る行為であり、どんな男も、女と交わる時、肉体的、精神的去勢の危険に晒されている。恋愛とは、男が性的恐怖を麻痺させる為の呪文に他ならない。女は潜在的に吸血鬼である。………

自然は呆れるばかりの完璧さを女に授けた。男にとっては性交の一つ一つの行為が母親に対しての回帰であり降伏である。男にとって、セックスはアイデンティティ確立の為の闘いである。セックスにおいて、男は彼を生んだ歯の生えた力、すなわち自然という雌の竜に吸い尽くされ、放り出されるのだ。………(カーミル・パーリア「性のペルソナ」)