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2017年7月31日月曜日

創唱宗教/自然宗教

創唱宗教/自然宗教という区分があるそうだ。宗教学者の阿満利麿氏が『日本人はなぜ無宗教なのか』1996年にて唱えて比較的よく知られるようになったらしいが知らなかった(わたくしは1995年に日本を出ている)。

私はかねてから「自然宗教」と「創唱宗教」という区別が日本人の宗教心を分析する上では有効だと考えている。「創唱宗教」とは、特定の人物が特定の教義を唱えてそれを信じる人たちがいる宗教のことである。(略)代表的な例は、キリスト教や仏教、イスラム教であり、いわゆる新興宗教もその類に属する。これに対して、「自然宗教」とは、文字通り、いつ、だれによって始められたかも分からない、自然発生的な宗教のことであり、「創唱宗教」のような教祖や経典、教団をもたない。
「自然宗教」は「創唱宗教」のように特別の教義や儀礼、布教師や宣教師はもたないが、年中行事という有力な教化手段を持っているといえるのであり、人々もそうした年中行事を繰り返すことによって生活にアクセントをつけ、いつのまにか心の平安を手にすることができたのである。そこでは、とりたてて特別の教義、つまり「創唱宗教」を選択する必要はなかった。ここに「創唱宗教」という意味での宗教には無関心で、「無宗教」を標榜してなんら疑わない理由がある。(阿満利麿『日本人はなぜ無宗教なのか』1996年)


もう少しどんな内容かと探ってみれば、宗教学者島薗進氏が「日本人と宗教―「無宗教」と「宗教のようなもの」」2014年のコラム記事にて触れている。

いまはもう少し簡潔に書かれた、禅宗系の教師の方らしい木村文輝氏による『現代日本における「宗教」の意味』から引用しておく。

阿満利麿氏は『日本人はなぜ無宗教なのか』(1996)の中で、宗教を創唱宗教と自然宗教に分類するという、宗教学の理論を援用して日本人の無宗教観を読み解いた。すなわち、現代の日本人は、特定の人物が特定の教義を唱え、それを信ずる人々が集まって成立する創唱宗教を好まない。一方、初詣や墓参などのように風俗や習慣となってしまった宗教は「宗教」でないと思いこむことで、自らの宗教を「無宗教」と呼んでいる。しかし、それは自然発生的に成立し、その創始者を特定することのできない自然宗教と呼ばれるものである。つまり、日本人は「無宗教という名の宗教」を持つ「自然宗教」の信者だというのである。たしかに、日本国内に多数存在するお寺は仏教のものであり、それは釈尊によって始められた創唱宗教である。しかし、我が国の仏教は「葬式仏教」とも称される特殊なものであり、それは「自然宗教」のもつ先祖崇拝や霊魂観に仏教の衣を着せたものにすぎないと評される。(木村文輝『現代日本における「宗教」の意味』2014年、PDF

おそらくこの区分において問うべきは、どの国でも古代は自然宗教から始まったはずであるのに(本居宣長の神の定義参照)、創設宗教が自然宗教に衣を着せるようになった国とそうでない国があるのはなぜか、ではないだろうか。

ようは根源には自然宗教があるはずである。その掌のうえに創設宗教/自然宗教(イデオロギー的宗教/無意識的宗教)の対立がある、という図式をまずは記すことができるはずである。


創設宗教/自然宗教
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       自然宗教


上に創設宗教をイデオロギー的宗教と記したのは、《経典が絶対の》宗教という意味合いである。この定義はほぼ当てはまるだろうと憶測するが、詳しいことは分からない。

一神教とは神の教えが一つというだけではない。言語による経典が絶対の世界である。そこが多神教やアニミズムと違う。一般に絶対的な言語支配で地球を覆おうというのがグローバリゼーションである。(中井久夫『私の日本語雑記』2010年)

…………

ところで木村文輝氏の文のなかに、《日本人は「無宗教という名の宗教」を持つ「自然宗教」の信者》とあった。

無神論の真の公式 la véritable formule de l’athéisme は「神は死んだ Dieu est mort」ではなく、「神は無意識的である Dieu est inconscient」である。(ラカン、S11, 12 Février 1964)

ーー「神は存在しない。だが諸神はいる Dieu n'existe pas, mais il y a des dieux」とも言っておこう(後述)。

ラカンの《n'existe pas》とは、象徴的には存在しないということであり、象徴界の彼岸あるいは裂目としての現実界の存否は問うていない。 他方、別に《 il y a 》という言い方もあり、これはハイデガーの鍵表現《es gibt》(外立 ex‐stasis)にかかわる。そしてラカンは《現実界は外立する Le Réel ex-siste 》 (S22)と言っている。

ハイデガーによれば、人間存在とは実存であり、「実存」という語は語源的 に「外に-立つこと(ex-sistence)」として解されえる。換言すれば、ハイデ ガーの見解では、人間存在は、実存的な(外に立ってある )もの、つまり、 その実存のあり方が正に外に立つ脱自(ecstacy)であるような存在者である。(ビジャン・アブドルカリミー、PDF

ラカンの三界の定義は次の通り。

現実界 le réel は外立 ex-sistence
象徴界 le symbolique は穴 trou
想像界 l'imaginaire は一貫性 consistance(ラカン、S22)


《現実界は外立する Le Réel ex-siste 》(S22) の定義における「外立 ex-sistence」 とは、上にあったようにハイデガー用語「外立 Existenz」の仏訳であるが、外立をさらに遡った語源は、ギリシア語の έκσταση であり、Ekstase (エクスタシー・脱自)である。

ラカンは《神の外立 ex-sistence de Dieu》(S22)とも言っていることを付け加えておこう。

ところでラカン派では次のような言い方がされる。《女というものは存在しない。だが女たちはいる la Femme n'existe pas, mais il y a des femmes》(ジジェク、2012)

これは上に記したように、同じことが神についても言える、「神は存在しない。だが諸神はいる」と。

したがって象徴的な神、つまりイデオロギー的神を信じない民族でも、「八百万の神」(やおよろずのかみ)の信仰はある。いやむしろイデオロギー的な神の不在の国こそ、「八百万の神」が遍在する(外立する)とさえ言える。

ジャック=アラン・ミレールは、精神病においては、父の名の過剰な現前という現象が生じるといっている。これも上に記した文脈、つまり神経症的な象徴的大他者の支えがなければ、精神病的な現実界的大他者が過剰現前する、という風におそらく捉えうる。

(晩年の)ラカンの「父のヴァージョン=倒錯 père-version」についてのアイロニーは、事実上、古典的なままの精神病理論とは正反対の、ひとつの精神病理論 la psychose une théorie inverse de la théorie restée classiqueを提供してる。

すなわち精神病の主因 le ressort de la psychose は、「父の名の排除 la forclusion du Nom-du-Père」ではない。そうではなく逆に、「父の名の過剰な現前 le trop de présence du Nom-du-Père」である。この父は、法の大他者と混同してはならない Le père ne doit pas se confondre avec l'Autre de la loi 。(JACQUES-ALAIN MILLER L’Autre sans Autre,PDFーー超越的法/超越論的法

ミレールは精神病においても「父の名」(の過剰)と記しているが、これは現実界的大他者のことである。現実界的大他者とは何か。それは事実上は「母なる神」とすることができる(象徴界的大他者は「父なる神」)。

「大他者の(ひとつの)大他者はある il y ait un Autre de l'Autre」という人間のすべての必要(必然)性。人はそれを一般的に〈神〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に〈女 〉« La femme » だということである。(ラカン、S23、16 Mars 1976)

いまわたくしが「母なる神」と記したのは、上のラカン文に依拠しつつ、さらにジャック=アラン・ミレールの宗教論を参照している、《父は、母なる神の諸名の一つに過ぎない》。

ラカンは、フロイトのトラウマ理論を取り上げ、それを享楽の領域へと移動させた。セミネール17にて展開した命題において、享楽は「穴」を開けるもの、取り去らなければならない過剰を運ぶものである。そして、一神教の神としてのフロイトの父は、このエントロピーの包被・覆いに過ぎない。

フロイトによる神の系図は、ラカンによって父から〈女〉へと取って変わられた。我々はフロイトのなかに〈女〉の示唆があるのを知っている。父なる神性以前に母なる神性があるという形象的示唆である。ラカンによる神の系図は、父の隠喩のなかに穴を開ける。神の系図を設置したフロイトは、〈父の名〉の点で立ち止まった。ラカンは父の隠喩を掘り進み、「母の欲望」と穴埋めとしての「女性の享楽」に至る。こうして我々は、ラカンによるフランク・ヴェーデキント『春のめざめ』の短い序文のなかに、この概念化を見出すことができる。すなわち、父は、母なる神性、《白い神性 la Déesse blanche》 の諸名の一つに過ぎない、父は《母の享楽において他者のままである l'Autre à jamais dans sa jouissance》と(AE563, 1974)。(Jacques-Alain Miller、Religion, Psychoanalysis、2003

こうしてここでの問いは、「創唱宗教/自然宗教」とは「父なる神/母なる神」とどう異なるのか、ということになるはずである(あくまで精神分析的な問いではあるのは十分承知している)。

いま記したことを、ラカンのマテームを使って図示すれば次のようになる。





Ⱥを「自然の驚異・脅威」と記したが、これは前回引用した本居宣長の神の定義をめぐる記述を援用しているとともに、フロイトをも参照している(Ⱥのラカン派的意味合いの詳細は、「S(Ⱥ)、あるいは欠如と穴」を見よ)。

フロイトは『あるイリュージョンの未来 Die Zukunft einer Illusion』(旧訳邦題『ある幻想の未来』、新訳邦題『ある錯覚の未来』)の第三章で、《いったい、宗教的観念 religiösen Vorstellungen の独特の価値はどこにあるのだろうか》と問うている。そしてこの第三章のまとめの形として、第四章の冒頭近くで《私が示そうとしたのは、宗教的観念も、文化の他のあらゆる所産と同一の要求――つまり、自然の圧倒的な優位にたいして身を守る必要――から生まれたのだということである》としている。

ここでは第三章からいくらかの文を抜き出す。

文化が現状でもすでに幾多に点でこの使命をかなりの程度こなしていることはわれわれはよく知っている。…しかし、自然が現在すでにすっかり制御されていると考えるお人好しは誰もいない。…人間のあらゆる規制力を嘲笑するような現象があまりにも多い。

震動し、引き裂き、すべての人間や人間の手になるものを埋没してしまう大地。氾濫すれば万物を押し流し溺れさせてしまう水。進路のあらゆるものを吹き飛ばす嵐。他の有機物からの攻撃によって起こることがつい最近ようやく分かってきたかずかずの病気。そして最後に、悲惨で謎めいた死。いかなる薬によっても対抗することができず、おそらく将来とても対抗することができないと思われるあの死である。

このような暴威をもって自然は、残忍かつ容赦なく、圧倒的な力でわれわれに挑戦し、われわれが文化作業によって免れようと考えている自分の弱さ、寄る辺なさ(無力 Hilflosigkeit)を、改めてわれわれの眼前に突きつける。天災に直面した人類が、おたがいのあいだのさまざまな困難や敵意など、一切の文化経験をかなぐり捨て、自然の優位にたいしてわが身を守るという偉大な共同使命に目覚める時こそ、われわれが人類から喜ばしくまた心を高めてくれるような印象を受ける数少ない場合の一つである。P.371
(……)このようにして、われわれの寄る辺ない Hilflosigkeit 状態を耐えうるものにしたいという要求を母胎とし、自分自身と人類の幼児時代の寄る辺ない Hilflosigkeit 状態への記憶を素材として作られた、一群の観念が生まれる。これらの観念が、自然および運命の脅威と、人間社会自体の側からの侵害という二つのものにたいしてわれわれを守ってくれるものであることははっきりと読みとれる。(フロイト『あるイリュージョンの未来』)

科学が進歩して、《自然の圧倒的な優位にたいして身を守る必要》が少なくなれば、宗教的観念も消滅してゆく。だが唐突に「日常」を覆す体験、疫病・地震・津波・空襲等、あるいは愛するものの死などの「非日常」に遭遇すれば、祈りの心持は自ずと生ずる(これが本来の「自然宗教」の姿であろう)。

フロイトは上の論で、「寄る辺なさ(無力 Hilflosigkeit)」という語を頻用している。前年に上梓された論文には、この語は次のような形で現れる。

・経験された無力の(寄る辺なき Hilflosigkeit)状況を外傷的状況と呼ぶ。

・母を見失うという外傷的状況 Die traumatische Situation des Vermissens der Mutter( フロイト『制止、症状、不安』1926年 )