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2017年7月2日日曜日

テキストの改竄(省略と歪曲)

フロイト概念の最も基本的な語「抑圧 Verdrängung」は、フロイト研究者のあいだでさえ、いまだどう捉えたらよいか瞭然としていないようにみえる。

「抑圧」という語をめぐっては、たとえば日本では比較的初期の邦訳である『夢判断』の訳者註に、次のような記述がある。

日本では従来Verdrängungは「抑圧」と訳されるが、ドイツ語の語感からは「抑圧」ではなしに「追放」とか「放逐」が正しく、「抑圧」はむしろUnterdrückung(かりに上では「抑制」と訳したところの)に当る訳語である。(フロイト『夢判断』下 高橋義孝訳 註 新潮文庫p379)

また中井久夫は次のように言っている。

「抑圧」の原語 Verdrängung は水平的な「放逐、追放」であるという指摘があります。(中野幹三「分裂病の心理問題―――安永理論とフロイト理論の接点を求めて」)。とすれば、これをrepression「抑圧」という垂直的な訳で普及させた英米のほうが問題かもしれません。もっとも、サリヴァンは20-30年代当時でも repression を否定し、一貫して神経症にも分裂病にも「解離」(dissociation)を使っています。(批評空間2001Ⅲー1「共同討議」トラウマと解離」(斎藤環/中井久夫/浅田彰)

ようするに「押さえつける」「圧する」という意味はない、と。

また「抑圧」は仏語では"refoulement"であり"répression"ではない。抑圧をめぐるラカン文は次のように訳されている。

フロイトは、抑圧 refoulement は禁圧 répression に由来するとは言っていません Freud n'a pas dit que le refoulement provienne de la répression (ラカン、テレヴィジョン、1973年、向井雅明訳)

「父」が「法」が強制的にダメというのは、「禁圧」であって「抑圧」ではないのである。

(他にもまだ若い研究者である上尾真道氏の最近の論文「フロイトの冥界めぐり --『夢解釈』の銘の読解--」2016, pdfには初期フロイトの「抑圧」という語の扱いについて比較的詳しい叙述があるが、彼もはっきりしたことは言えていない。)

…………

ところで最晩年のフロイトは、《抑圧Verdrängungと防衛機制 Abwehrmethodenとは、テキストの省略(棄却)と歪曲 Auslassung zur Textentstellung の関係に相当する》と言っている。

抑圧とその他の多くの防衛機制との関係 は、本文を棄却することと歪曲することとの関係に相当するということができる。すなわちわれわれは、このような種々の形をとって現われる改竄 Verfälschung の中に、自我の変化の多様性との類似を見出すことができるのである。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』 p.397)

…die Verdrängung verhält sich zu den anderen Abwehrmethoden wie die Auslassung zur Textentstellung, und in den verschiedenen Formen dieser Verfälschung kann man die Analogien zur Mannigfaltigkeit der Ichveränderung finden.

これだけではわかりにくいだろうが、この文は次の叙述の直後出現する。

今まだ書物となって印刷刊行されてはいないが、個々の論文としてはすでに書かれているある一冊の本のことを考えてほしい。そういう本が実際に刊行された後の時代の眼でみると、 そこには好ましからぬものとみなされるような叙述が含まれているかも知れない。それはたとえば、ロバート・アイスラー(1929)によれば、フラヴィウス・ヨーゼフスの著作には、初めはイエス・キリストに関してその後のキリスト教が感情を害するような箇所が含まれていたに違いなかったというが、それと同じようなものであろう。検閲当局も今となっては、その著作の全部数を没収し、省略(棄却)するという以外の防衛機制を用いることはできないかもしれない。

かつては種々の方法が有害な箇所を取り除くために用いられていた。気にさわる箇所を大き く抹消して読めなくするというやり方もあった。そうすればその箇所はもう書き写すことができなくなり、その本を次に書き写す者はもはや何ら咎められるところのない本文を得ることになるが、それには幾つかの脱落箇所があって、おそらくその箇所は、もはや理解できないも のとなっているであろう。また、そのようなやり方には満足せず、そんなふうに本文をずたずたにしてしまうようにという指示を避けようとする別のやり方もあった。つまり、この場合には 本文を歪曲するというように変わり、若干の文句を棄て去るとか、それを他の文章で置き換えるとか、新しい文章を挿入するとかしたのである。

最善の方法は一箇所全部を抹消してしまい、かわってそれとまったく反対の内容の文章をそこに入れかえることであった。その本を次に書き写す人は、こうして疑われる余地のない本文を作ることができるのであるが、それは実は偽の本文だったわけである。それは著者が伝達しようと欲したことをもはや含むものではない。またそれは訂正されたとはいえ、実際に は、真実なものへと訂正されたわけではないのである。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

抑圧としての「テキストの省略」と、防衛としての「テキストの歪曲」は、上の文を読むかぎり、たいして違いはない。どちらもテキストの改竄である。

上の文は、「抑圧とは防衛の一種である」という意味のことが書かれているフロイトの1926年の論文とともに読むとわかりやすい。

われわれは、さらに研究をすすめて、強迫神経症では自我の反抗に影響されて、欲動の動きTriebregungenが早期のリビドー期へ退行することが分かった。これは抑圧を無用にするものではないが、しかし明らかに抑圧と同じようにはたらく。そのうえわれわれに分かったことは、ヒステリーでも仮定される対抗備給 Gegenbesetzung は、強迫神経症では自我の反動的な変化として、自我保護にことに大きな役割を果たすことである。われわれは「分離 Isolierung」という方法に注意をはらうようになった。この方法のテクニックについてはまだ分かっていないが、直接症状として表現されるのである。

またわれわれは、「取消 Ungeschehenmachens」という魔術ともいうべき手段にも注意をはらった。この手段が、防衛 Abwehr の傾向をもつことは疑いないが、しかし「抑圧 Verdrängung」の過程とはなんの類似点ももたない。こういう経験は、防衛 Abwehr という古い概念をふたたび採用するのに十分な根拠となる。防衛 Abwehr とは、同じ傾向――欲動の要求 Triebansprüche にたいする自我の保護――をもつ以上にのべた過程をすべて包含し、抑圧 Verdrängung はその特別な場合としてこれにふくまれる。(フロイト『制止、症状、不安』1926 年)

《防衛 Abwehr という古い概念をふたたび採用するのに十分な根拠となる》とあるのは、次の文脈のなかで言われている。

不安の問題についての議論に関連して、私は一つの概念――もっと遠慮していうと一つの術語――をふたたび採用した。この概念は、三十年前に私の研究の初めにもっぱら採用したが、その後はすてておいたものである。私は防衛過程のことをいっているのである(『防衛―神経精神病』1894年)。そのうちに私はこの防衛過程という概念のかわりに、抑圧という概念をおきかえたが、この両者の関係ははっきりしない。現在私はこの防衛という古い概念をまた使用しなおすことが、たしかに利益をもたらすと考える。(フロイト『制止、症状、不安』1926 年)

結局、抑圧ではなく防衛でよいのではないだろうか。フロイトは最晩年ーーラカンがフロイトの遺書と呼んだ論で、次のように書いたのである。

抑圧 Verdrängungen はすべて早期幼児期に起こる。それは未成熟な弱い自我の原防衛手段 primitive Abwehrmaßregeln である。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

だが何に対する防衛するか。《原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich》(フロイト、1937)への防衛である(参照:残存現象と固着)。すなわち、欲動の蠢き Triebregungen への防衛。《蠢動は刺激・無秩序への呼びかけ、いやさらに暴動への呼びかけである la Regung est stimulation, l'appel au désordre, voire à l'émeute》(ラカン、S10)。

あるいは身体の享楽に対する防衛といってもよい。

欲望は防衛、享楽へと到る限界を超えることに対する防衛である。

le désir est une défense, défense d'outre-passer une limite dans la jouissance.) ラカン、E825)
ファルスの彼岸 Au-delà du phallus には、「身体の享楽 jouissance du corps」 がある(ラカン、S20, 20 Février 1973)

《原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich》の侵略に対して、ダムをつくること(自分でをつくるか、分析によって新しいダムをつくるのかは別にして)、それが防衛である。

分析は、一定の成熟に達して強化されている自我に、かつて未成熟で弱い自我が行った古い抑圧 alten Verdrängungen の訂正 Revision を試みさせる。抑圧のあるものは棄却され、あるものは承認されるが、もっと堅実な材料によって新しく構成される。このようにしてでき上がった新しいダムneuen Dämme は、以前のそれとはまったく異なった耐久力をもっている。それは欲動の高まりTriebsteigerungという高潮にたいして、容易には屈服しないだろうとわれわれが信頼できるようなものとなる。したがって、幼児期に成立した根源的抑圧過程 ursprünglichen Verdrängungsvorganges を成人後に訂正し、 欲動強度 Triebsteigerung という量的要素がもつ巨大な力の脅威に終止符を打つという仕 事が、分析療法の本来の作業であるといえよう。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』 1937 年)

ダムとはようするに刺激保護壁である。

外部から来て、刺激保護壁 Reizschutz を突破するほどの強力な興奮を、われわれは外傷性traumatischeのものと呼ぶ。

外部にたいしては刺激保護壁があるので、外界からくる興奮量は小規模しか作用しないであろう。内部に対しては刺激保護は不可能である。(……)

刺激保護壁Reizschutzes の防衛手段 Abwehrmittel を応用できるように、内部の興奮があたかも外部から作用したかのように取り扱う傾向が生まれる。(フロイト『快原理の彼岸』1920年)

もっとも幾種類のダムがある。原ダムから始まって下流にはいくつものダムがある。原ダムだけではドラゴンの侵入をおさえきれない。ゆえに下流にダムが必要なのである。

もちろん人間はだれでもすべての可能な防衛機制 Mechanismen nicht aufgelassen を利用するわけではなく、それらの中のいくつかを選ぶのであるが、その選ばれた防衛機制は、自我の中に固着 fixierenし、その性格の規則的反応様式 regelmäßige Reaktionsweisenとなって、その人の生涯を通じて、幼児期の最初の困難な状況に類似した状況が再現されるたびに反復される。かくしてそれは幼児症 Infantilismenとなり、有効期間を超えてもなおあとまで残ろうとする社会制度と同じ運命を分かつものとなるのである。詩人の嘆くように、「道理は不合理となり、博愛は苛責になる Vernunft wird Unsinn, Wohltat Plage」のである。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』)

これはラカンが次のように記した多層的ダム化にかかわるはずである。

l'enveloppement par où toute la chaîne subsiste( l'essaim(=S1) 全てのシニフィアンの鎖が存続するものとしての封筒(エスアン=S1[分封するミツバチの密集した一群])(ラカンS20、アンコール)



なぜ原ダムだけではダメなのか。原ダムとは原ドラゴンの境界表象に過ぎないからである。

抑圧 Verdrängung は、過度に強い対立表象 Gegenvorstellung の構築によってではなく、境界表象 Grenzvorstellung の強化によって起こる。

Die Verdrängung geschieht nicht durch Bildung einer überstarken Gegenvorstellung, sondern durch Verstärkung einer Grenzvorstellung(フロイト, フリース書簡、I January 1896,Draft K)