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2017年5月25日木曜日

アリアドネという「システムの見えない染み la tache aveugle des systèmes」

「アリアドネ」とディオニュソスが言った。「おまえが迷宮だ。」

Ariadne, sagte Dionysos, du bist ein Labyrinth: (ニーチェ遺稿、1887年)

ラカンはセミネール11にて、対象a は「絵のなかのしみ tache dans le tableau」としている。《 il se fait tache, il se fait tableau, il s'inscrit dans le tableau》 (S11, 04 Mars 1964)

バルトは次のように言っているのを以前見た(参照:染みとプンクトゥム)。

作家はいつもシステムの盲点(システムの見えない染み la tache aveugle des systèmes )にあって、漂流 dérive している。それはジョーカー joker であり、マナ manaであり、ゼロ度 degré zéroであり、ブリッジのダミー le mort du bridge、つまり、(『テクストの快楽』1973年)
私は、私の中を通り過ぎて行くシンボル系とイデオロギー系列を、《そういうものとして》は舞台上に(テクストに)演出して見せることができない。というもの、私自身がそれらの残す盲目の染み la tache aveugle だからだ。(『彼自身によるロラン・バルト』1975年)
一人の立派なハジ(聖地巡礼をすませた回教徒の尊称)。短い灰色のひげをよく手入れし、手も同様に手入れし、真っ白い上質のジェラバを優雅にまとって、白い牛乳を飲む。

しかし、どうだ。鳩の排泄物のように、汚れが、きたないかすかなシミ tache がある。純白の頭巾に。une tache, un léger frottis de merde, comme un besoin de pigeon, sur la capuche immaculée.(ロラン・バルト『偶景』1969年テキスト、死後出版1982)
プンクトゥムとは、刺し傷 piqûre、小さな穴 petit trou、小さなシミ petite tache、小さな裂け目 petite coupureのことでもありーーしかもまた、骰子の一振りcoup de dés のことでもある…。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺すme point 偶然 hasard (それだけなく、私にあざをつけme meurtrit、私の胸をしめつけるme poigne)偶然なのである。(ロラン・バルト『明るい部屋』1980年)

ところで、『明るい部屋』には別に、《ある見えない場 un champ aveugle》という表現がある。これも《システムの盲点(システムの見えない染み la tache aveugle des systèmes )》の言い換えだろう。すなわち対象a としての「絵のなかのしみ tache dans le tableau」である。

プンクトゥム punctum は…この写真に、ある見えない場 un champ aveugle を与えている…

プンクトゥムは、そのとき、一種の微妙な場外 hors champ subtil となり、イマージュは、それが示しているものの彼方に、欲望を向かわせるようになる。

Le punctum est alors une sorte de hors champ subtil, comme si l'image lançait le désir au-delà de ce qu'elle donne à voir(『明るい部屋』)

--この文は、ラカンの次の文とともに読むことができる。

シミが現れるとともに、欲望の領野において、その背後に隠されたものの蘇りの可能性が準備される。Avec la tache apparaît, se prépare la possibilité de résurgence, dans le champ du désir, de ce qu'il y a derrière d'occulte(ラカン、S10、5 Juin l963)

 …………

バルトは、「温室の写真」(彼の母の五歳のときの写真)が、私のアリアドネだと言っている。

その特別の写真のなかには、何か「写真」の本質のようなものが漂っていた。そこで私は、私にとって確実に存在しているこの唯一の写真から、「写真」のすべて(その《本性》を《引き出す》こと、この写真をいわば導き手として私の最後の探求をおこなうことに決めた。この世にある写真の全体は一つの「迷宮」を形づくっていた。その「迷宮」のまっただなかにあって、私は、このただ一枚の写真以外に何も見出せないことを知り、ニーチェの警句を地で行くことにしたのだ。すなわち《迷宮の人間は、決して真実を求めず、ただおのれを導いてくれるアリアドネを求めるのみ》。「温室の写真」は、私のアリアドネだった La Photo du Jardin d'Hiver était mon Ariane。それが何か隠されたもの(怪物や宝石)を発見させてくれるからではない。そうではなくて、私を「写真」のほうへ引き寄せるあの魅力の糸が何で出来ているのかを私に告げてくれるだろうからである。これからは、快楽の観点に立つのではなく、ロマン主義的に言えば愛や死と呼ばれるであろうものとの関連において、「写真」の明証を問わなければならない、ということを私は理解したのだった。

(「温室の写真」をここに掲げることはできない。それは私にとってしか存在しないのである。読者にとっては、それは関心=差異のない一枚の写真、《任意のもの》の何千という表われの一つにすぎないであろう。それはいかなる点においても一つの科学の明白な対象とはなりえず、語の積極的な意味において、客観性の基礎とはなりえない。時代や衣装や撮影効果が、せいぜい読者のストゥディウムをかきたてるかもしれぬが、しかし読者にとっては、その写真には、いかなる心の傷 blessure もないのである。)(ロラン・バルト『明るい部屋』pp.88-89)

この文にはプンクトゥムという言葉は出現していないが、心の傷 blessureとある。「(心の)傷 blessure」とは、プンクトゥムのことである(参照)。

場面から矢のように発し、私を刺し貫きにやって来る…。ラテン語には、そうした傷 blessure、刺し傷 piqûre、鋭くとがった道具によってつけられた徴 marque を表す語がある。…句読点 を打たれたような効果 effet comme ponctuées、ときには斑点状 mouchetées になってさえいる、感じやすい痛点 points sensibles、…それゆえ、ストゥディウム studiumの場をかき乱しにやってくるこの第二の要素を、私はプンクトゥム punctum と呼ぶことにしたい。(『明るい部屋』)

鳩の足と狼の足」でもデリダを引用しつつ記したが、バルトにとってのアリアドネは、ラカン用語なら「外密extimité」なのである。

親密な外部、この外密 extimitéが「物 das Ding」である。extériorité intime, cette extimité qui est la Chose (ラカン、S7、03 Février 1960)
私たちのもっとも近くにあるもの le plus prochain が、私たちのまったくの外部 extérieur にある。ここで問題となっていることを示すために「外密 extime」という語を使うべきだろう。(ラカン、セミネール16、12 Mars 1969)
対象a とは外密である。l'objet(a) est extime(ラカン、S16、26 Mars 1969)
外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。それは、異物 corps étranger のようなものである(ミレール、Miller Jacques-Alain, 1985-1986, Extimité)

この外密とは、《自我であるとともに、自我以上のもの moi et plus que moi 》(プルースト『ソドムとゴモラⅠ』「心情の間歇」)あるいは《あなたの中にはなにかあなた以上のもの、〈対象a〉toi plus que toi, qui est cet objet(a) 》(ラカン、S11)と等価であり、起源はフロイトの「不気味なもの unheimlich=親密なもの heimlich」にある。もちろんあわせて『不気味なもの』に言及のある「分身 Doppelgänger」を想起すべきだろう。

分身 Doppelgänger とは、私 moi プラス対象aーー私のイメージに付け加えられた不可視の部分ーーと同じものである。…ラカンは「眼差し」を喪われた対象の至高の現前 presentationとした。鏡のなかで、人は自分の目を見る。しかし喪われた部分である眼差しを見ない。…分身が生み出す不安とは、対象の出現 appearance の最も揺るぎない徴 the surest signである。(ムラデン・ドラ―1991、Mladen Dolar, Lacan and the Uncanny,PDF

あるいはロレンツォ・キエーザ2007は、《分身とは i′(a) + a、想像的他者プラス対象a》としている。

このの二人のラカン派注釈者の観点に立って演繹すれば、アリアドネは対象aではなく、イマジネールな私+対象aである。それは 「一」が「二」になることである。

正午にそれは起こった。「一」は「二」となったのである。Um Mittag war's, da wurde Eins zu Zwei...(ニーチェ『善悪の彼岸』1886年「高き山々の頂きから Aus hohen Bergen」ーー正午、「一」は「二」となる)

とすればロラン・バルトの文から憶測した《アリアドネという「システムの見えない染み la tache aveugle des systèmes」》とは、厳密にいえば誤謬かもしれない。このあたりはわたくしはまだ考え切れていない。今はそれぞれの観点があるというしか言いようがない。

…………

ニーチェの生前に公刊された書のなかではアリアドネの名は二か所しか出現しない。

ディオニュソスはあるときこう言った、「場合によっては、私は人間を愛する」--そしてその際、彼はその場にいあわせたアリアドネのことをあてこすって言ったのだが、--「人間は私にとって、地上に比べるもののないほど愉快で、大胆で、創意に富む動物であって、この動物はどんな迷宮に迷いこんでも、正しい道を見つける。私は人間に好意をもっている………私はしばしば、どうしたら彼をもっと前進させ、いま以上により強く、より邪に、より深くさせてやれるかを、思案することがある。」(ニーチェ『善悪の彼岸』)
「おお、神々しいディオニュソスよ、なぜあなたは私の耳を引っぱるのですか?」と、アリアドネはかつてナクソス島であの有名な会話の一つでその哲学的愛人にたずねた。「私はおまえの耳に一種のユーモアをおぼえるのだ、アリアドネよ。なぜそれはもっと長くないのだろうか?」(ニーチェ『偶像の黄昏』)

まず最初の問いは、1908年に妹エリザベートによって出版された『この人を見よ』の次の文であろう(この文の直前には名高い「夜の歌」が引用されている)。

わたしのほかに誰が知ろう、アリアドネが何であるかを !……これらすべての謎は、いままでだれ一人解いた者がなかった。そこに謎があることに気がついた者さえいるかどうか疑わしい。(ニーチェ『この人を見よ』1888年)

《アリアドネが何であるか was Ariadne ist!》とあるが、グロデックによれば,当初はWer Ariadne ist(アリアドネは誰であるか》であったが、最終的に、was Ariadne ist! (アリアアドネは何であるか)に変えられているそうだ。

…………

最後にドゥルーズは次のように言っていることを掲げておこう。

迷宮あるいは耳。迷宮はニーチェにしばしば現われるイメージである。それはまず無意識を、自己を、指示する。アニマだけがわれわれを無意識と和解させ、無意識を探すための導きの糸をわれわれに与えることができる。次に、迷宮は永遠回帰そのものを指示する。迷宮は循環的であって、行きどまりの道ではなく、同一の地点に、また、現在、過去、未来の同一の瞬間にわれわれを導く道である。だがより根本的に言えば、永遠回帰を構成するものの観点からみると、迷宮は生成であり、生成の肯定である。ところで、存在は生成に由来し、生成そのものによって自己を肯定する。そのかぎり、生成の肯定は別の肯定(アリアドネの糸)の対象である。アリアドネがテセウスのところに足繁く通ったあいだは、迷宮は逆の意味にとられていた。それはましな価値に開放され、糸は否定と怨恨の糸、道徳の糸であった。だが、ディオニュソスは彼の秘密をアリアドネに教える。真の迷宮はディオニュソス自身であり、真の糸は肯定の糸である。「私はおまえの迷路なのだ。」ディオニュソスは迷路にして雄牛、生成にして存在であるが、その肯定そのものが肯定される場合にのみ存在であるような生成である。ディオニュソスはアリアドネにたんに耳を傾けることだけでなく、肯定を肯定することを要求する。「おまえの耳は小さい。私の耳と同じだ。その耳で私の細心の言葉を聞くがよい。」(ドゥルーズ『ニーチェと哲学』)
アリアドネーーそれは〈アニマ〉である。彼女はテセウスに愛され彼を愛した。しかしそのときまさしく、彼女は糸を手に持っていた。彼女はいくぶんかは〈蜘蛛〉であった。あのルサンチマンの冷たい生き物である蜘蛛なのだった。テセウスは〈英雄〉であり、〈高位の人間〉のイメージである。それで〈高位の人間〉の劣等性をすべて持っている。つまり背負い、引き受けること、荷車から縁を切る仕方を心得ないこと、軽やかさを知らぬこと、などである。アリアドネがテセウスを愛し、彼に愛されている限り、彼女の女としての在り方は封鎖され自由を失い、糸によって結びつけられている。しかしディオニュソス‐牡牛が接近してくるとき、アリアドネは真の肯定がなにであるかを、真の軽やかさがなにかを知るのである。彼女は肯定する〈アニマ〉となり、ディオニュソスに〈然り〉と言う。彼ら二人は、それだけで〈永遠回帰〉を構成するカップルであり、そして〈超人〉を産み出す。なぜならば、「英雄が〈美しい魂の女性〉を棄てたとき、そのとき初めて夢のうちに、超英雄が近づくのである」から。(ドゥルーズ『ニーチェ』)