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2017年4月13日木曜日

そこの〈きみ〉! きみは自閉症じゃなくて倒錯者だよ

倒錯者の言説(マゾヒストの言説)」で引用した次の文、これはたとえば日本人だったら半分くらいはこの状況にあるんじゃないか。

乳幼児の避けられない出発点は、受動ポジションである。すなわち、彼は母の欲望の受動的対象に還元される。そして母なる大他者 (m)Other から来る鏡像的疎外を通して、自己のアイデンティティの基礎を獲得する。いったんこの基礎のアイデンティティが充分に安定化したら、次の段階において観察されるのは、子供は能動ポジションを取ろうとすることである。(……)

倒錯の心理起因においては、これは起こらない。母は子供を受動的対象、彼女の全体を作る物に還元する。この鏡像化のために、子供は母の支配下・母自身の部分であり続ける。したがって、子供は自身の欲動の表象能力を獲得できない。ましてやそれに引き続く自身の欲望のどんな加工も不可能である。

構造的用語で言えば、これはファルス化された対象 a に還元されるということである。その対象a を通して、母は彼女自身の欠如を塞ぐ。母からの分離の過程は決して起こらない。第三の形象としての父は、母によって、取るに足らない無力な観察者に格下げされる。…

こうして子供は自らを逆説的なポジションのなかに見出す。一方で、母の想像的ファルスとなることは子供にとって勝利である。他方で、このために支払う代価は高い。分離がないのだ。(When psychoanalysis meets Law and Evil: perversion and psychopathy in the forensic clinic Jochem Willemsen and Paul Verhaeghe ,2010,PDF)

ーー《第三の形象としての父は、母によって、取るに足らない無力な観察者に格下げされる》なんてね・・・

もちろんこれだけで倒錯者になるわけではないだろうけど。
母と子が分離するためには、なんらかの第三の形象が必要だ

お父さんのようにはならないで下さいお願いだから(谷川俊太郎「ザルツブルグ散歩」『モーツァルトを聴く人』)
父母の結婚は見合いであるが、お互いに失望を生んだ。父親と母親は文化が違いすぎた。そこに私が生まれてきたのだが、祖父母は、父の付け焼き刃の大正デモクラシーが大嫌いで、早熟の気味があった私に家の将来を托すると父の前で公言して、父親と私の間までが微妙になった。 (中井久夫「私が私になる以前のこと」『時のしずく』2005所収)

ふたりともよく倒錯者にならずにすんだな、中井久夫が祖父が第三の形象だったのは、そのエッセイをすこし読めばすぐ明らかになるけど、谷川俊太郎ってのはどうだったんだろう?


子どものころよく座敷の柱におでこをくっつけて泣いた
外出している母がもう帰ってこないのではないかと思って
母はどんなにおそくなっても必ず帰ってきて
ぼくはすぐに泣き止んだけれど
そのときの不安はおとなになってからも
からだのどこか奥深いところに残っていてぼくを苦しめた
だがずっとあとになって母が永遠に帰ってこなくなったとき
もう涙は出なかった

ーー谷川俊太郎「なみだうた」より 『モーツァルトを聴く人』所収


ぼくは、ひとりっ子で、
すごい母親っ子だったんです。
母親はけっこう厳しかったんだけど、
わりと、父親が家庭をかえりみないで
ずっと外にいる人だったから、
その代わりにぼくを可愛がったような
ところがありました。
そのせいでぼくは、
すごくマザコンだったんですよ。

自分ではそんなこと自覚してなかったんだけど
恋愛というものがいつでも
自分の母親の願望に
すごく染められていた、というか。

だから「いったん好きになったら一生もんだ」
みたいな発想があったんです。
それを、ぼくはいいことだと思ってたわけ。
俺はもう、一婦一夫制を狂信的に信じている、と。
一婦一夫制を守るためだったら浮気はおろか、
もう離婚も辞さないって(笑)、
公言してたわけです。

自分がひとりの女にずっと誠実でいる。
実際にぼく、そういう行動をしてたんだけど、
でもそれがだんだん、
「何、これって? 母親とひとり息子の
 関係の再生産じゃないの?」
と思うようになったのね。

母親を求めることは意識下の欲求だから、
最初は思うだけで、
そこから自由じゃなかった。
だけど、そうとう年取ってから、やっと、
マザー・コンプレックスの気持ちじゃなくて、
相手の女性を対等に見られるようになったことが
いちばんマシになったところなんですよ、自分では。(谷川俊太郎×糸井重里

谷川俊太郎は「倒錯者」には見えないけどさ、支えは何だったんだろ。
支えがなくて倒錯者じゃなければ、旧套のラカン構造論なら精神病者だけどな

それとも名高い哲学者のお父さんの名が、「父の名」としてそれなりの支えとなっていたのだろうか?

初期の理論でさえ、ラカンはエディプスの父の機能における象徴的側面を強調した。父の名の隠喩は実にその名を通して作用する。この仮説とは次のようなものである。すなわち、子どもに父の名との組み合せによる彼自身の名前を与えることは、子どもを原初の(母子の)共生関係から解放する。後期のラカン理論では、ラカンは名づけることのこの側面をいっそうくり返し強調した。したがってラカンは複数形で使用したのだ、Les Noms-du-Père と。

疑いもなく文化人類学の影響を受けて、ラカンは次ぎの事実を分かっていたに違いない、母系制文化においてさえ、分離の機能は名づけることを通して作用することを。それは伝統的な欧米の核家族の外部でさえもである。主体にもともとのシニフィアン、すなわち母のそれではなく異なったアイディンティティのシニフィアンを提供することは、分離を惹起し、こうして保護を与える。

これはわれわれに重要な結論を齎してくれる。すなわちエディプスの法は、古典的なエディプス、たとえば家父長制の外部でとても上手く設置することができる。――これは重要である。というのはそれが意味するのは、われわれは、基本的な信頼を取り戻すために、古き良き家父長制に戻ることを承認する必要はないということだから。(ポール・バーハウ1999、Paul Verhaeghe,Social bond and authority: everyone is the same in front of the law of difference、PDF)


飲んでるんだろうね今夜もどこかで
氷がグラスにあたる音が聞える
きみはよく喋り時にふっと黙りこむんだろ
ぼくらの苦しみのわけはひとつなのに
それをまぎらわす方法は別々だな
きみは女房をなぐるかい?

ーー谷川俊太郎「武満徹に」

(『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』所収)




きみが怒るのも無理はないさ
ぼくはいちばん醜いぼくを愛せと言っている
しかもしらふで

にっちもさっちもいかないんだよ
ぼくにはきっとエディプスみたいな
カタルシスが必要なんだ
そのあとうまく生き残れさえすればね
めくらにもならずに

(……)

ーー「谷川知子に」


母子二者関係でもひょっとして第三項、たとえば音楽やピアノがあれば
「父の名」として機能することだってありえるのかもしれない


六十年生きてきた間にずいぶんピアノを聴いた
古風な折り畳み式の燭台のついた母のピアノが最初だった
浴衣を着て夏の夜 母はモーツァルトを弾いた
ケッヘル四八五番のロンドニ長調
子どもが笑いながら自分の影法師を追っかけているような旋律
ぼくの幸せの原型

――「ふたつのロンド」

母の記憶で「ぼくの幸せの原型」といえるようなものがあるのはうらやましいよ
オレにはないね・・・



いやあそうでもないか

母が「精神の病」からやや復活した中学校二年のとき

ーーいやあ唐突に家からいなくなる症状でね
じつに《子どものころよく座敷の柱におでこをくっつけて泣いた》んだな
で、《そのときの不安はおとなになってからも
からだのどこか奥深いところに残っていてぼくを苦しめた》のさ
いまだってあやしいね

その母の症状の頻度がかなりすくなくなった頃、
母はグールド=バッハのラルゴ入りのレコードの贈り物をくれた




ーーここにあるのかもな、「ぼくの幸せの原型」は

母が50歳で死んだのはグールドが50歳で死んだ同じ年の同じ4日だった
棺桶に二枚のバッハのレコードをいれたよ
上のものともうひとつカンタータBWV4入りのレコードをね

ぼくの母はピアノが上手だった
小学生のぼくにピアノを教えるときの母はこわかった
呆けてから毎晩のようにぼくに手紙を書いた
どの手紙にもあなたのお父さんは冷たい人だと書いてあった
お父さんのようにはならないで下さいお願いだから
五年前に母は死に去年父も死んだ

ーー「ザルツブルグ散歩」

…………

ところで、そこの〈きみ〉!  
自閉症と診断されてるらしいけど
〈きみ〉はあきらかに倒錯者だよ
ツイートいくらか眺めればすぐ分かるな

現在世界的なヤブ診断基準ってのは信用しちゃいけない
長年倒錯者を自認して研究尽した(?)
蚊居肢散人がいうんだから間違いない

かんじんなのは倒錯者には一対一の臨床は機能しないことだ
おそらく集団精神療法しかない


【倒錯の三つの特徴】

①頑固な(融通のない)前性器的シナリオがある。
②そのシナリオが倒錯的主体に強迫的に課されている。
③それを通して、彼(女)は権力と支配の関係性を設置する。
①は古典的特徴である。もっともここでの強調は形容詞に置かれる。すなわち「融通性のない」性格である。疑いもなく、神経症的文脈内でも、前性器的シナリオはいたる処にある。固有の倒錯的特徴は、自由の欠如と組み合わさった「頑固さ」に関わる。

シナリオからのどんな逸脱も、不安と緊張の源泉である。精神分析的観点からは、これを「反復強迫 Wiederholungszwang」の形式ーー「反復 Wiederholen」の形式ではなくーーとして理解しうる。事実、我々が神経症的文脈から知っているように、どの「反復」も、絶えず移行する想像的な欲望の弁証法の内に、何か新しいものを含んでいる。対照的に「反復強迫」ーーフロイトによって外傷神経症のなかに見出されたもの--は、外傷的現実界からの何かを象徴化するその試みにおいて、きわめて融通のなさ(執拗さ)を伴っている。
②の特徴は、倒錯にかんする神経症者の「薔薇の絵(羨望)」とは合致しない。倒錯者はエロティックな官能主義者ではない。全く正反対である。倒錯的主体は基本的に不自由である。彼は殆ど一定不変のシナリオの上演に向かって、衝動的な形を以て駆り立てられている。その上演はとてもしばしば何か奇妙なものとして倒錯者に経験される。そして目的は、まず何よりも不安と緊張の削減である。

上演後、倒錯者は安堵感に出会う。しかしまた、恥・罪・鬱の感情を抱く。言い換えれば、倒錯的主体は分割された主体である。彼は、自身の奇妙な振舞いへと駆り立てる要因自体にさえ気づいていない場合がある程に、二つの部分に分割されている。これが説き明かすのは、倒錯者はその社会生活において、とても正常な人物・社会適応した人物でありうることである。分割された他の部分が彼を乗っ取ったときにのみ、倒錯が瞭然とする。
③は最も興味深い特徴である。そしてこれはいくつかの点にかかわる。臨床的叙述が何度もくり返して示しているのは、倒錯的シナリオは権力関係の設置に至ることである。すなわち他者は支配されなければならない。マゾヒストでさえ、最初から終りまで糸を操っている。彼(女)は、他者がしなければならないことを厳しく命ずる。この権力は純粋に身体的次元には限定されない。さらに先に進んで、倒錯者はとてもしばしば、快楽の新しい倫理の唱導者となる。したがって彼は、自らの権力の掌中となる取り巻き連中を創造する。(ポール・バーハウ、2001,Paul Verhaeghe、PERVERSION II,PDFより)

で、〈きみ〉のツイート眺めると
嫌悪感でいっぱいになるな
鳥肌が立っちまう

どうしてかって?

人は自分に似ているものをいやがるのがならわしであって、外部から見たわれわれ自身の欠点は、われわれをやりきれなくする。自分の欠点を正直にさらけだす年齢を過ぎて、たとえば、この上なく燃え上がる瞬間でもつめたい顔をするようになった人は、もしも誰かほかのもっと若い人かもっと正直な人かもっとまぬけな人が、おなじ欠点をさらけだしたとすると、こんどはその欠点を、以前にも増してどんなにかひどく忌みきらうことであろう! (プルースト「囚われの女」)