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2017年4月1日土曜日

「父/父不在」の交代の世界史

「帝国」と「帝国主義」の相違(柄谷行人、ラカン)」で、柄谷行人の『世界史の構造』の図を使っていくらか考えてみた。ここではいくらか異なった視点で再度見てみることにする。



この図は、ヘゲモニー国家の項に注目して、「父」という用語を使えば、次のように補って図示できるだろう。



こうやって記して眺めると、世界史は父/父不在の交代の歴史なのか、それとも漸減的な「権威」の衰退とみるべきなのかーーわたくしは後者の見方をずっと取っていたのだがーーさてどうなのだろうとあらためて考え込んでしまう。そして象徴的なものの機能もあらためて考えさせられる。

一国と云ふものは 其国土と人民とを、総て一つの風呂敷の中に包んだやうなものである。之を代表、所謂レプレセント〔represent〕と云ふ字を使つて居る。是は正しく代表と云ふ字に当るが、私は 日本の君主は国家を代表すると言はずして、日本国を表彰する、表はすと云ふ字を使ひたいと思ふ。決して代表ではない。(瀧井一博編『伊藤博文演説集』)
Repräsentation は、それに最もちかいゲルマン語系の対応語をもとめれば「描出(Darstellung) 」であることから察せられる如く、例えば国法学上の「代表」であると同時に、バロック演劇の「上演」である。何れにしても、この概念の核心には、ペルソーン=公人=役柄による何らかのイデアー=理想像の具体的現出という観念が存在し、従って、公共/公衆/観衆(Öffentlichkeit, Publikum)を前にして行うこと=公共性(Öffentlichkeit, Publizität)と、それに結びついた(やはり多義的な概念である)可視性(Sichtbarkeit)と密接な関係にある。(和仁陽『教会・公法学・国家─初期カール = シュミットの公法学』1990 年)

おそらく柄谷行人の「帝国の原理」とは、世界を安定させるための「象徴的なもの」、あるいは「表象 Repräsentation」を模索する試みである。

………だから帝国の原理がむしろ重要なのです。多民族をどのように統合してきたかという経験がもっとも重要であり、それなしに宗教や思想を考えることはできない。(柄谷行人ー丸川哲史 対談『帝国・儒教・東アジア』2014年)
近代の国民国家と資本主義を超える原理は、何らかのかたちで帝国を回復することになる。(……)

帝国を回復するためには、帝国を否定しなければならない。帝国を否定し且つそれを回復すること、つまり帝国を揚棄することが必要(……)。それまで前近代的として否定されてきたものを高次元で回復することによって、西洋先進国文明の限界を乗り越えるというものである。(柄谷行人『帝国の構造』2014年)

すなわち、人は「帝国」を迂回したほうがいい。「帝国の原理」を使用するという条件のもとで。

人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.(Lacan,s23, 13 Avril 1976)

ジジェク2012は、ヘーゲルの「規定的反射 bestimmenden Reflexion」→「反射的規定 reflexive Bestimmung」の移行を指摘しつつ、ラカンの「一の徴 trait unaire=自我理想(フロイトの einziger zug) 」 →「一のようなものがある yadl'un」への晩年の移行をヘーゲルの移行と等価としている。

ラカン自身にとっての上の移行は、フレーゲに依拠しつつ、形容詞の実詞化にて「支配の論理」から「非全体の論理」の縫合(アソシエーション)表象をめぐる思考の流れのなかにある(超越的シニフィアンから超越論的シニフィアンへの移行)。この超越論的シニフィアンが、《「父の名」を使用する》ことにかかわり、ときにサントームと呼ばれたりもする。

…………

疑いもなく、エゴイズム・他者蹴落し性向・攻撃性は人間固有の特徴である、ーー悪の陳腐さは、我々の現実だ。だが、愛他主義・協調・連帯ーー善の陳腐さーー、これも同様に我々固有のものである。どちらの特徴が支配するかを決定するのは環境だ。(ポール・バーハウ2014,Paul Verhaeghe What About Me? )

フロイトの『集団神経症と自我の分析』には次の図がある。



同一化は…対象人物の一つの特色 (「一の徴 einzigen Zug」)だけを借りる…同情は、同一化によって生まれる das Mitgefühl entsteht erst aus der Identifizierung。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921ーー「一の徴」日記③

「一の徴 einzigen Zug」は仏語では trait unaireであり、かつまた「自我理想」の徴である。

「一の徴le trait unaire」、それは理想 idéal として機能することになる原同一化identification primaireの徴marqueである。(Lacan,PROBLEMES CRUCIAUX POUR LA PSYCHANALYSE 5 avril 1966)

さらに一の徴とは、S1の機能にかかわる。

例えば「一の徴 le trait unaire」にて…人は「主人のシニフィアンsignifiant-Maître(S1)」の機能を問うことが出来る。 (ラカン、セミネール17, 17 Juin 1970)

フロイトの『集団心理学と自我の分析』の図を仏女流ラカン派分析家の第一人者コレット・ソレールは、簡略化して(さらに縦横を変換させ)次のように図示している。





この権威の支えがあるときには、(標準的には)図のようにMOI(自我)同士の愛他主義・協調・連帯が生じる。

他方、trait unaire(自我理想の権威)の場が空虚になれば、MOI(自我)同士の競合(他者蹴落し性向・攻撃性)が起こる。

これは社会的にも同じことが言える。

柄谷行人の帝国/帝国主義の考え方に当てはめれば、

帝国の時代とは、



であり、帝国の支えにより各国の間でエロス関係が生まれる、ということになる。

他方、帝国主義とは、帝国空位の時代であり、



のような形で、各国の間にタナトス関係が生まれる。それは帝国のポジションへの覇権争いも含めての競合関係である。

だが、問題は「自我理想」=「帝国」の裏には、猥褻な超自我があることである。

超自我 Surmoi…それは「猥褻かつ無慈悲な形象 figure obscène et féroce」である。(ラカン、セミネール7)

柄谷行人の憲法の超自我論においては、残念ながら自我理想と超自我の区別が欠けてしまっている。フロイトのみに依拠しているので已む得ないが(フロイトは自我理想と超自我の区別をしていない(参照:自我理想と超自我の相違(基本版)

超自我と自我理想は本質的に互いに関連しており、コインの裏表として機能する。(PROFESSIONAL BURNOUT IN THE MIRROR、Stijn Vanheule,&Paul Verhaeghe ポール・バーハウ, ,2005、PDF)

この文は次のジャック=アラン・ミレールの文とともに読むと、超自我・自我理想・父の名のあいだの関係をラカン派内でどう捉えているのかが、鮮明になる。

ラカンは、父の名と超自我はコインの表裏であると教示した。(ジャック=アラン・ミレール2000、The Turin Theory of the subject of the School

・超自我/自我理想がコインの裏表
・超自我/父の名がコインの裏表

ーーであるなら、父の名とは基本的には自我理想である。ただしその裏面にある現実界的な超自我を忘れてはならない、ということになる。

自我理想は象徴界的であり、私の象徴的同一化の点であり、〈大他者〉の中にある視点である(私はその視点から私自身を観察し、判定する)。超自我は現実界的で、無理な要求を次々に私に突きつけ、なんとかその要求に応えようとする私の無様な姿を嘲笑する、残虐で強欲な審級であり、私が「罪深い」奮闘努力を抑圧してその要求に従おうとすればするほど、超自我の眼から見ると、私はますます罪深く見える。(ジジェク『ラカンはこう読め』既存訳からだが一部変更→原文

ラカンの「父の名」を迂回しつつ父の名を使用する、あるいは柄谷行人の「帝国」を迂回しつつ「帝国の原理」を模索する問いはここにある。すなわち自我理想の超自我的裏面を避けつつの、アソシエーション機能の模索である。

ここでレヴィ=ストロースの「象徴的効果 L'efficacité symbolique」、あるいはマナ、つまり「浮遊するシニフィアン signifiant flottant」 というゼロ記号によるアソシエーション機能を想い起こしてもよい。「象徴天皇制のようなもの」は運用を誤らなければ、帝国の原理として機能するに相違ない。

……すべてのシニフィアン化 signifying 領野は、補充のゼロシニフィアンによって「縫合」される。《ゼロの象徴的価値、すなわち、補充の象徴的内容の必然性を徴付ける記号、シニフィエが既に含有するものの上に覆い被さるもの》(レヴィ=ストロース)。

このシニフィアンは、「純粋状態におけるシンボル a symbol in its pure state」である。どんな確定した意味も欠如しており、意味の不在と対照的に、意味の現前自体を表す。さらにいっそう弁証法的捻りを加えるなら、意味自体を表すこの補充シニフィアンの顕現の様相は、「非意味」である(ドゥルーズが『意味の論理学』でこの要点を展開したように)。こうして、マナのような概念は、《あらゆる有限の思考から逃れ去る「浮遊するシニフィアン」以外のなにものでもないものを表象する》(レヴィ=ストロース)。ーー(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012, 私訳)

《共和制なき王はない。そして王なき共和制はない。…daß kein König ohne Republik und keine Republik ohne König bestehn könne》(ノヴァーリス)

だが真の王となるのは、ひどく困難な仕事である。《あなた(王)が他者の夢の罠に嵌ったら、墓穴を掘るだろう si vous etes pris dans le reve de l'autre, vous etes foutu》(ドゥルーズ)

…………



上の図、「父/父不在」の交代の図にかんしてだが、日本においては、明治維新ー敗戦の期間の「疑似一神教制」を強調するために、第二次世界大戦終結の区切りを入れた。それ以外は、「西欧の父の危機」の期間の区切りを第一次世界大戦終結時にすべきかもしれないが、厳密さを期さずに柄谷区分に合致させた。

むしろ1968年の世界的学園紛争による実質上の「権威の死」ーーそれとほとんど同時的のベトナム戦争による「米国の父」の実質的崩壊ーーを入れるべきかもしれないが割愛(1971年のドル金兌換制停止もあるので、柄谷図式に囚われなければ、1970年前後の区切りが重要かもしれない。だが大きくは、やはり1989年の冷戦終結による「イデオロギーの死」である。それ以降、非イデオロギー的イデオロギーである新自由主義が席捲するようになるのだから)。

なお上の図にかかわる語彙群はほとんどすべて精神科医の中井久夫の文に依拠している。

徳川時代を実質的な象徴天皇制とするのは、柄谷行人の見解でもある、《藤原氏以後、天皇が政治的実権を握ったことは後醍醐天皇による建武新政の短期間をのぞいて一度もなかった。象徴天皇が常態だった》(『憲法の無意識』摘要)。かつまた歴史家たちの中にもその観点をとる人がーーわたくしがさっと探ってみただけでもーーすくなくとも何人かいる。

不変項として、天皇制の宗教的な貌があるとすると、可変的な貌としては、権威/権力の分掌体制すなわち二重王権としての天皇制がある。この二重王権としての天皇制の歴史は、おそらく中世なかばに大きな断層があって、ふたつに分かたれる。天皇みずから権力を握る可能性へと開かれていて、朝廷というマツリゴトの庭がたしかなものとして存在した後醍醐の以前/以後では、同じように二重王権であっても、その帯びる意味は大きく異なっているということだ。戦後の象徴天皇制は、いわば中世なかば以降の、権力への途を断たれた天皇制の最後の段階と位置づけられるだろうか。 (赤坂憲雄『象徴天皇という物語』1990年)
象徴天皇制というのは私の持論でありますが、戦後復活したものでございまして、急にGHQ その他から押し付けられたようなものではない。本来の在り方に戻ったもので、実は幕末以前に長い歴史がある。それこそ 1,000 年以上の歴史を持っている。つまり、君臨すれども統治せずというような君主の在り方を象徴天皇制。象徴天皇制を広い意味に取りまして、そういうふうに名づけてみたいです。18~19 世紀からイギリスで君臨すれど統治せずということが言われているんですが、そういうのは実は日本が先輩で、はるかに以前から、そういうことでは日本の方が制度化されていたんだということが、私が一番言いたいことでございます。 (今谷明ーー第1回「皇室制度に関する有識者ヒアリング」2012年、PDF

…………

以下、上の図に使用した語彙群の出典となる中井久夫の文章を列挙しておく。

【西欧の父の危機】
一九一四年夏には第一次大戦が始まる。早く「方法的制覇」「鴨緑江」によってこの危機を予言していた彼は、後の有名な論文「精神の危機」(一九一九年)に見るごとく、自己を西欧(彼の場合はほとんど英国とフランス)と同一化していた。(中井久夫「詩の基底にあるもの」初出「現代詩手帳」第37巻5号、1994年5月)

《二〇代に書いたエッセー「方法的制覇」で、ほぽ半世紀後の日独伊枢軸同盟を、第一次世界大戦後に出した「精神の危機」で、西欧の没落とともに、今日のグローバリゼーシヨンとアジアの勃輿を予告したヴァレリーは、マルクシズムの歴史観から自由なだけ、現代世界の歴史や政治に対しても柔軟で、含蓄に富んだ考察をのこしている。》(恒川邦夫「国際シンポジウム 東と西の対話 : ポール・ヴァレリーの眼差しの下に1996)


【父なき時代(世代)】
「学園紛争は何であったか」ということは精神科医の間でひそかに論じられつづけてきた。1960年代から70年代にかけて、世界同時的に起こったということが、もっとも説明を要する点であった。フランス、アメリカ、日本、中国という、別個の社会において起こったのである。「歴史の発展段階説」などでは説明しにくい現象である。

では何が同時的だろうかと考えた。それはまず第二次世界大戦からの時間的距離である。1945年の戦争終結の前後に生まれた人間が成年に達する時点である。つまり、彼らは戦死した父の子であった。あるいは戦争から還ってきた父が生ませた子であった。しかも、この第二次世界大戦から帰ってきた父親たちは第一次大戦中あるいは戦後の混乱期に生まれて恐慌時代に青少年期を送っている人が多い計算になる。ひょっとすると、そのまた父は第一次大戦が当時の西欧知識人に与えた、(われわれが過小評価しがちな)知的衝撃を受けた世代であるかもしれない。

二回の世界大戦(と世界大不況と冷戦と)は世界の各部分を強制的に同期化した。数において戦死者を凌駕する死者を出した大戦末期のインフルエンザ大流行も世界同期的である。また結核もある。これらもこの同期性を強める因子となったろうか。

では、異議申立ての内容を与えたものは何であろうか。精神分析医の多くは、鍵は「父」という言葉だと答えるだろう。実際、彼らの父は、敗戦に打ちひしがれた父、あるいは戦勝国でも戦傷者なりの失望と憂鬱とにさいなまれた父である。戦後の流砂の中で生活に追われながら子育てをした父である。古い「父」の像は消滅し、新しい「父」は見えてこなかった。戦時の行為への罪悪感があるものも多かったであろう。戦勝国民であっても、戦場あるいは都市で生き残るためにおかしたやましいことの一つや二つがあって不思議ではない。二回の大戦によってもっともひどく損傷されたのは「父」である。であるとすれば、その子である「紛争世代」は「父なき世代」である。「超自我なき世代」といおうか。「父」は見えなくなった。フーコーのいう「主体の消滅」、ラカンにおける「父の名」「ファルス」の虚偽性が特にこの世代の共感を生んだのは偶然でなかろう。さらに、この世代が強く共感した人の中に第一次大戦の戦死者の子があることを特筆したい。特にアルベール・カミュ、ロラン・バルトは不遇な戦死者の子である。カミュの父は西部戦線の小戦闘で、バルトの父は漁船改造の哨戒艇の艇長として詳しい戦史に二行ばかり出てくる無名の小海戦で戦死している。

異議申立ての対象である「体制」とは「父的なもの」の総称である。「父なるもの」は「言語による専制」を意味するから、マルクス主義政党も含まれる道理である。もっとも、ここで「子どもは真の権威には反抗しない。反抗するのはバカバカしい権威 silly authority だけである」という精神科医サリヴァンの言葉を思い起こす。第二次大戦とそれに続く冷戦ほど言語的詐術が横行した時代はない。もっとも、その化けの皮は1960年代にすべて剥がれてしまった。(「学園紛争は何であったのか」書き下ろし『家族の深淵』1995中井久夫)

【冷戦終了後の市場原理】
ある意味では冷戦の期間の思考は今に比べて単純であった。強力な磁場の中に置かれた鉄粉のように、すべてとはいわないまでも多くの思考が両極化した。それは人々をも両極化したが、一人の思考をも両極化した。この両極化に逆らって自由検討の立場を辛うじて維持するためにはそうとうのエネルギーを要した。社会主義を全面否定する力はなかったが、その社会の中では私の座はないだろうと私は思った。多くの人間が双方の融和を考えたと思う。いわゆる「人間の顔をした社会主義」であり、資本主義側にもそれに対応する思想があった。しかし、非同盟国を先駆としてゴルバチョフや東欧の新リーダーが唱えた、両者の長を採るという中間の道、第三の道はおそろしく不安定で、永続性に耐えないことがすぐに明らかになった。一九一七年のケレンスキー政権はどのみち短命を約束されていたのだ。

今から振り返ると、両体制が共存した七〇年間は、単なる両極化だけではなかった。資本主義諸国は社会主義に対して人民をひきつけておくために福祉国家や社会保障の概念を創出した。ケインズ主義はすでにソ連に対抗して生まれたものであった。ケインズの「ソ連紀行」は今にみておれ、資本主義だって、という意味の一節で終わる。社会主義という失敗した壮大な実験は資本主義が生き延びるためにみずからのトゲを抜こうとする努力を助けた。今、むき出しの市場原理に対するこの「抑止力」はない(しかしまた、強制収容所労働抜きで社会主義経済は成り立ち得るかという疑問に答えはない)。(……)

冷戦が終わって、冷戦ゆえの地域抗争、代理戦争は終わったけれども、ただちに古い対立が蘇った。地球上の紛争は、一つが終わると次が始まるというように、まるで一定量を必要としているようであるが、これがどういう隠れた法則に従っているのか、偶然なのか、私にはわからない。(中井久夫「私の「今」」1996.8初出『アリアドネからの糸』所収)

【徳川帝国】
江戸幕府の基本政策はどういうものであったか。刀狩り(武装解除)、布教の禁と檀家制度(政教分離)、大家族同居の禁(核家族化)、外征放棄(鎖国)、軍事の形骸化(武士の官僚化)、領主の地方公務員化(頻繁なお国替え)である。特に家康の決めた「祖法」は変更を許されなかった。その下で、江戸期の特徴は航海術、灌漑技術、道路建設、水道建設、新田開発、手工業、流通業、金融業の発達である。江戸は人口百万の世界最大都市となり、医師数(明治二年で一万人)も国民の識字率もおそらく世界最高であった。江戸期に創立された商社と百貨店と多くの老舗は明治期も商業の中核であり、問屋、手形、為替など江戸の商業慣行は戦後も行なわれて、「いまだ江戸時代だ」と感じることがたくさんあった。

「戦後レジーム」が米国から多くを学ぼうとしたのも、過去の敗戦後の日本史の法則通りであるといえそうである。米国は、科学から政治経済を経て家庭生活までが理想とされた。気恥ずかしいほどであった(貧しくなった西欧にも類似の米国賛美はあった)。

天皇が政治に関与せず、マッカーサー元帥が将軍として君臨したのも、米軍が直接統治せず、日本の官僚制度を使ったのも、江戸期の天皇、幕府、諸侯の関係に似ている。占領軍の指令は何と「勅令第何号」として天皇の名で布告され、日本政府が実施の責任を負った。(中井久夫「清陰星雨」、「神戸新聞」二〇〇七年六月――『日時計の影』所収ーー歴史にみる「戦後レジーム」

【疑似一神教】
かつては、父は社会的規範を代表する「超自我」であったとされた。しかし、それは一神教の世界のことではなかったか。江戸時代から、日本の父は超自我ではなかったと私は思う。その分、母親もいくぶん超自我的であった。財政を握っている日本の母親は、生活費だけを父親から貰う最近までの欧米の母親よりも社会的存在であったと私は思う。現在も、欧米の女性が働く理由の第一は夫からの経済的自立――「自分の財布を持ちたい」ということであるらしい。

明治以後になって、第二次大戦前までの父はしばしば、擬似一神教としての天皇を背後霊として子に臨んだ。戦前の父はしばしば政府の説く道徳を代弁したものだ。そのために、父は自分の意見を示さない人であった。自分の意見はあっても、子に語ると子を社会から疎外することになるーーそういう配慮が、父を無口にし、社会の代弁者とした。日本の父が超自我として弱かったのは、そのためである。その弱さは子どもにもみえみえであった。(中井久夫「母子の時間 父子の時間」初出2003 『時のしずく』2005所収)

【1990年に始まった21世紀+歴史の退行】
私は歴史の終焉ではなく、歴史の退行を、二一世紀に見る。そして二一世紀は二〇〇一年でなく、一九九〇年にすでに始まっていた。科学の進歩は思ったほどの比重ではない。科学の果実は大衆化したが、その内容はブラック・ボックスになった。ただ使うだけなら石器時代と変わらない。そして、今リアル・タイムの取引で儲ける奴がいれば、ローマ時代には情報の遅れと混線を利用して儲ける奴がいた(……)。 (中井久夫「親密性と安全性と家計の共有性と」より(2000年初出)『時のしずく』所収)