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2017年3月24日金曜日

「父の名/母の欲望」→「S1/S(Ⱥ)」 、「I(Ⱥ)/S(Ⱥ)」

ラカンのセミネールⅤには、おそらくラカンを掠め読んだだけの者でも、さらにはラカンの初心者向け解説書のみを読んだだけの者でさえ、ほとんど誰もが知っているだろう、次の図がある。




この図は、ラカンの記述に則って、通常は次のように書き直される。





だが、母の欲望の下に「主体のシニフィエ」とあるのは、後のラカンからいえば、やや問題があるのであって、たとえば、セミネール17にはこうある。

S1 が「他の諸シニフィアン autres signifiants」によって構成されている領野のなかに介入するその瞬間に、「主体が現れる surgit ceci : $」。これを「分割された主体 le sujet comme divisé」と呼ぶ。このとき同時に何かが出現する。「喪失として定義される何かquelque chose de défini comme une perte」が。これが「対象a l'objet(a) 」である。(S17)

S1とは、このセミネール17の時点のラカンにとって父の名、あるいは(象徴的)ファルスであり、その前段階の 母の欲望が「来るべき主体」を徴示する(シニフィアンする)ときは、いまだ正式の「主体」はない。

その意味で、たとえば向井雅明氏の1990年代の論文(精神分析と心理学)の次の図のように、(ラカンの記述に則って)「x」としておくほうが、より正しい。



「x」とは、幼児が母とのイマジネールな関係においての困難さを示す、《l'enfant va assumer la difficulté de la relation imaginaire à la mere》。ようは《母が行ったり来たりするのは何なんだろ? Qu'est-ce que ça veut dire qu'elle aille et qu'elle vienne ?》(S5)に直面した来るべき主体の原不安、呼んでもやってこなかったり、呼ばないときにやってくる不気味な存在ーーそれにもかかわらず「生死」にかかわる必要不可欠な存在ーーへの不安感覚である。

ラカンはのちに《(構造化されていない)不安、その鋭い切り傷 L'angoisse c'est cette coupure même》(ラカン、S10)としているが、これを Ⱥ の原初的出現と呼ぶ。

かつまた《欠如が欠けている le manque vient à manquer》(S10)とも呼んでおり、後にはいっそう簡潔に《欠如の欠如 Le manque du manque》(AE573、1976)としている。ようするにブラックホールのことであり、原初の母の(幼児にとっての)全能性の言い換えである。

欠如とは空間的で、空間内部の空虚 void を示す。他方、穴はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す。(ミレール、2006,Jacques‐Alain Miller, “Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir,”)

そして図の右側の(A)、つまり大他者によってシニフィエされる「ファルス」とは、母の欲望の対象であり(le phallus est objet du désir de la mère)、象徴的ファルス Φ ではなく、想像的ファルス −φ を示している。



とはいえ、この図にいくらか問題があるのは、1959年以降、父の名の意味合いが変わったことに由来する。

1959年4月8日、ラカンは「欲望とその解釈」と名付けられたセミネールⅥ で、《大他者の大他者はない Il n'y a pas d'Autre de l'Autre》と言った。これは、S(Ⱥ) の論理的形式を示している。ラカンは引き続き次のように言っている、 《これは…、精神分析の大いなる秘密である。c'est, si je puis dire, le grand secret de la psychanalyse》と。(……)

この刻限は決定的転回点である。…ラカンは《大他者の大他者はない》と形式化することにより、己自身に反して考えねばならなかった。…

一年前の1958年には、ラカンは正反対のことを教えていた。大他者の大他者はあった。……

父の名は《シニフィアンの場としての、大他者のなかのシニフィアンであり、法の場としての大他者のシニフィアンである。le Nom-du-Père est le « signifiant qui dans l'Autre, en tant que lieu du signifiant, est le signifiant de l'Autre en tant que lieu de la loi »(Lacan, É 583)

……ここにある「法の大他者」、それは大他者の大他者である。(「大他者の大他者はない」とまったく逆である)。(ジャック=アラン・ミレール「L'Autre sans Autre (大他者なき大他者)」、2013年ーー超越的法/超越論的法

この意味で右辺の、



は、もはや素直には使いがたい。つまり「大他者A」の「大他者(父の名)」はないのだから(超越的父の名から超越論的父の名への移行)、この図は誤解を招きやすい。

他方、左辺の


あるいは、



は、これは今でもよく使われる。とくに後者は次のような略号で頻出する。




これらの変奏として、最初に掲げた「DM/X」の図式のほうを、たとえば次のように記してもよいはずである。




こういう風に記している人をわたくしは直截には知らないが、この図の起源は、次の三つに由来する。



超自我とは確かに「法」である。しかし鎮定したり社会化する法ではない。むしろ、思慮を欠いた法である。それは、穴・正当化の不在をもたらす。その意味作用を我々は知らない、「単一」unary のシニフィアンとしての法である。…超自我は、独自のunique シニフィアンから生まれる形跡・パラドックスである。というのは、それは、身よりがなく、思慮を欠いているから。この理由で、最初の分析において、我々は超自我を S(Ⱥ) のなかに位置づけうる。(……)

「母なる超自我」( surmoi mère) ……思慮を欠いた法としての超自我は、父の名によって隠喩化され支配される以前の「母の欲望」にひどく近似している。超自我は、法なき気まぐれな勝手放題 capricious whim without law としての母の欲望に似ている。(ジャック=アラン・ミレールーーTHE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO,Leonardo S. Rodriguez、1996,PDF)
母の法 la loi de la mère…それは制御不能の法 loi incontrôlée…分節化された勝手気ままcaprice articuléである(Lacan.S5、22 Janvier 1958)

ーー母の法、母なる超自我が、S(Ⱥ) と相同的ということである。

もうひとつ、NP/DM、つまり「父の名/母の欲望」の図式の変奏は次のようになる。




これもラカン文を援用した、「父なる超自我S1」/「母なる超自我S(Ⱥ)」という想定である。

母なる超自我 Surmoi maternel…父なる超自我 Surmoi paternel の背後にこの母なる超自我 surmoi maternel がないだろうか? 神経症において父なる超自我よりも、さらにいっそう要求し、さらにいっそう圧制的、さらにいっそう破壊的、さらにいっそう執着的な母なる超自我が。 (Lacan, S.5, 15 Janvier 1958)
母なる超自我 surmoi maternel・太古の超自我 surmoi archaïque、この超自我は、メラニー・クラインが語る「原超自我 surmoi primordial」 の効果に結びついているものである。…

最初の他者 premier autre の水準において、…それが最初の要求 demandesの単純な支えである限りであるが…私は言おう、泣き叫ぶ幼児の最初の欲求 besoin の分節化の水準における殆ど無垢な要求、最初の欲求不満 frustrations…母なる超自我に属する全ては、この母への依存 dépendance の周りに分節化される。(Lacan, S.5, 02 Juillet 1958)

コレット・ソレールの最近のセミネールの表現をとれば、S(Ⱥ)とは、「原リアルの名」、「原穴の名」に相当する。

〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。

Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier trou produit par l’opération de vidage par le signifiant. (コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)

そのときȺとは何か。それは、上のポール・バーハウ1999の図にあった「トラウマ的現実界」であると同時に、たとえば「身体の享楽」である。

「父の名 Nom-du-Père」は「母の欲望 Désir de la Mère」の上に課されなければならない。その条件においてのみ、身体の享楽 jouissance du corps は飼い馴らされ、主体は、他の諸主体と共有された現実の経験に従いうる。(JACQUES-ALAIN MILLER L’Autre sans Autre,2013)

ジャック=アラン・ミレールは、S1/S(Ⱥ)の図に相当するものとして、次のようなことを(どこかで)言っているらしい。出典不明だが、Esthela Solanoによる次のような指摘がある。

J.-A. Miller a produit le mathème suivant : I(A) barré sur S(A) barré.(Un exercice de lecture、Esthela Solano, PDF)

 I(A) barré sur S(A) barré とは、S(Ⱥ) の上に I(Ⱥ) を課すということである( I(Ⱥ)とは、 Idéal du moi(自我理想)のマテーム )。

すなわち、


である。

これは結局、以前掲げた次の図と同じことを言っている。



ここで肝腎なことの一つは、S1も I(Ⱥ)ーー自我理想シニフィアンーーも、後年のラカンにとってはどんなシニフィアンでもよくなったことだろう。

すなわち S1 は、構造的作動因子 un opérateur structural としての「父の機能」 la fonction du père のことであり(S17)、それが父の機能(縫合機能)を持てば、なんでもよい。

c'est très précisément cette insistance du Maître, cette insistance en tant qu'elle vient à produire… et je l'ai dit : de n'importe quel signifiant, après tout …le signifiant-Maître.(ラカン、S.17)

実際、われわれの具体的な人生においても(標準的には)、父に同一化したり祖父母に同一化したり、その後、教師、思想家や芸術家に同一化したりしてゆくだろう(例外的に(?)母なる超自我に同一化したまま人生を送る人もいるが)。

倒錯者の不安は、エディプス不安、つまり去勢を施そうとする父についての不安としてしばしば解釈されるが、これは間違っている。不安は、母なる超自我にかかわる。彼を支配しているのは最初の〈他者〉である。そして倒錯者のシナリオは、明らかにこの状況の反転を狙っている。

これが、「父の」超自我を基盤とした行動療法が、ふつうは失敗してしまう主要な理由である。それらは見当違いであり、すなわち、倒錯者の母なる超自我へと呼びかけていない。不安は、はるかな底に横たわっており、〈他者〉に貪り食われるという精神病的な不安に近似している。父の法の押し付けに対する反作用は、しばしば攻撃性発露である。(ポール・バーハウ2004、Paul Verhaeghe、On Being Normal and Other Disorders: A Manual for Clinical Psychodiagnostics)

いずれにせよS1との同一化、それはS(Ⱥ)を覆い隠すためである。そのことを別の観点から、「昇華」や「脚立」といったりもする(参照:芸術家集団による美の「脚立 escabeau」)。

超自我・父の名・自我理想の関係については、次の文を参照されたし(フロイト自身は、超自我と自我理想を区別をしていないが)。

超自我は、人生の最初期に個人の行動を監督した彼の両親(そして教育者)の後継者・代理人である。(フロイト『モーセと一神教』1939年)
ラカンは、父の名と超自我はコインの表裏であると教示した。(ジャック=アラン・ミレール2000、The Turin Theory of the subject of the School
超自我と自我理想は本質的に互いに関連しており、コインの裏表として機能する。(PROFESSIONAL BURNOUT IN THE MIRROR、Stijn Vanheule,&Paul Verhaeghe ポール・バーハウ, ,2005、PDF)

※より詳しくは、「二種類の超自我と原抑圧」を参照。

そして《原抑圧はS(Ⱥ)にかかわる》(PAUL VERHAEGHE、DOES THE WOMAN EXIST?、1999)。

S(Ⱥ)は、後期ラカンにおいてはΣ(サントーム)のことでもあり(ミレール、2002)、ラカンはセミネール23にて、サントームと原抑圧を関連づけている(参照:S(Ⱥ) =サントーム Σ= 原抑圧=Y'a d'l'Un)。

こうして現代ラカン派では次のような考え方がなされるようになる。

…これは我々に「原 Ur」の時代、フロイトの「原抑圧 Urverdrängung」の時代をもたらす。Anne Lysy は、ミレールがなした原初の「身体の出来事 un événement de corps」とフロイトが「固着 Fixierung」と呼ぶものとの連携を繰り返し強調している。フロイトにとって固着は抑圧の根(欲動の根Triebwurzel)である。それはトラウマの記銘ーー心理装置における過剰なエネルギーの(刻印の)瞬間--である。この原トラウマは、どんな内容も欠けた純粋に経済的瞬間なのである。(Report on the Preparatory Seminar Towards the 10th NLS Congress 2012ーー「二種類の超自我と原抑圧」)

とはいえ驚くことに、固着(原固着)や、欲動の根とは、初期フロイトの境界表象にかかわる概念であることだ(バーハウ、1999)。

抑圧 Verdrängung は、過度に強い対立表象 Gegenvorstellung の構築によってではなく、境界表象 Grenzvorstellung の強化によって起こる。(フロイト書簡、1896年)

Die Verdrängung geschieht nicht durch Bildung einer überstarken Gegenvorstellung, sondern durch Verstärkung einer Grenzvorstellung, (Freud, Briefe an Wilhelm Fliess,1896)

すなわち「境界表象 Grenzvorstellung」(境界シニフィアン)とは、ラカンのS(Ⱥ)、「一のようなものがある Y'a d'l'Un」、サントームΣ と(ほとんど)同じものである。

《サントーム……それはYadlunと等価である》(ミレール2011)ーーであるなら、サントームは「境界表象」でありうる。

とはいえ《身体の出来事 un événement de corps》(ラカン、AE.569、1975)が、サントームあるいは原抑圧(原固着)であるとして、それは具体的に、どんな出来事なのだろうか。

おそらく、幼児にとっての最初の大他者(母なる大他者)の介入による欲動興奮の《馴化》あるいは《拘束》にかかわる、《リビドーによる死の欲動のかかる馴化(飼い馴らし) Bändigung des Todestriebes durch die Libido》(フロイト『マゾヒズムの経済的問題』1924年)

心的装置の最初の、そしてもっとも重要な機能として、侵入する欲動興奮 anlangenden Triebregungen を「拘束 binden」すること、それを支配する一次過程 Primärvorgang を二次過程 Sekundärvorgang に置き換えること、その自由に流動する備給エネルギー frei bewegliche Besetzungsenergie をもっぱら静的な(強直性の)備給 ruhende (tonische) Besetzung に変化させることを我々は認めた。(フロイト『快原理の彼岸』最終章、1920年)

「一次過程」とは、現代ラカン派が原抑圧と等価のものとする「我々の存在の核」にかかわる(この表現が出て来る『夢解釈』の時期には、フロイトはいまだ原抑圧概念はないが)。

私は心の装置における心的過程の一方を第一次的過程と名づけたが、私がそう名づけたについては、地位の上下や業績能力を顧慮したばかりではなく、命名によって時間的関係をも同時にいい現わそうがためであった。

第一次過程しか持たないような心的装置はなるほどわれわれの知るかぎりにおいては存在しないし、また、その意味でこれは一理論的仮構にすぎない。しかし第二次過程が人間生活の歴史上で漸次形成されていったのに反して、第一次過程は人間の心のうちにそもそもの最初から与えられていたということだけは事実である。そしてこの第二次過程は第一次過程を阻止してそれを覆い隠し、そしておそらくは人生の頂上をきわめるころおいにおいてはじめて完全に第一次過程を支配するにいたるものなのである。第二次過程の、こういう遅まきの登場のために、無意識的願望衝動からなっているところの我々の存在の核 Kern unseres Wesens)は、無意識に発する願望衝動にもっとも合目的的な道を指し示すという点にのみその役割を制限されているところの前意識にとっては把握しがたく、また、阻止しがたいものとなっている。(フロイト『夢解釈』1900年)

原抑圧とはシステム無意識にかかわり、抑圧がシステム前意識にかかわる(ここでは簡略して記すが、この関係は、おおむね S(Ⱥ)とS1の関係でもある)。

・前意識システム System Vbw においては、二次過程 Sekundärvorgang が支配している。

・一次過程 Primärvorgang(備給の可動性 Beweglichkeit der Besetzungen)は、無時間的であり、外部の現実を心的現実に置換する。これはシステム無意識 System Ubw に属する過程のなかに見出しうる。(フロイト『無意識』1915年)

…………

※付記

以下の文に力動的無意識とあるのは、「システム前意識 System Vorbewußt (Vbw)」のことである。

フロイトは、「システム無意識あるいは原抑圧」と「力動的無意識あるいは抑圧された無意識」を区別した。

システム無意識は欲動の核の身体への刻印であり、欲動衝迫の形式における要求過程化である。ラカン的観点からは、まずは過程化の失敗の徴、すなわち最終的象徴化の失敗である。

他方、力動的無意識は、「誤った結びつき eine falsche Verkniipfung」のすべてを含んでいる。すなわち、原初の欲動衝迫とそれに伴う防衛的エラヴォレーションを表象する二次的な試みである。言い換えれば症状である。

フロイトはこれをAbkömmling des Unbewussten(無意識の後裔)と呼んだ。これらは欲動の核が意識に至ろうとする試みである。この理由で、ラカンにとって、「力動的あるいは抑圧された無意識」は無意識の形成と等価である。力動的局面は症状の部分はいかに常に意識的であるかに関係する、ーー実に口滑りは声に出されて話されるーー。しかし同時に無意識のレイヤーも含んでいる。(ポール・バーハウ、2004、On Being Normal and Other Disorders A Manual for Clinical Psychodiagnosticsーー非抑圧的無意識 nicht verdrängtes Ubw と境界表象 Grenzvorstellung (≒ signifiant(Lⱥ Femme)