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2017年3月9日木曜日

「帝国」と「帝国主義」の相違(柄谷行人、ラカン)

まず、『世界史の構造』以降くり返し提示される、近年の柄谷行人理論の核心(のひとつ)であるだろう図表を掲げる。



帝国は軍事的な征服によって形成されるのだが、実際には、ほとんど戦争を必要としない。各共同体や小国家は、戦争状態よりもむしろ帝国の確立を歓迎するからだ。その意味で、世界=帝国の形成は、交換様式Bだけでなく、交換様式Cが重要な契機となる。(柄谷行人『世界史の構造』2010年)

上の図や文で第一に柄谷の言っていることは、ヘゲモニー国家が存在していたときのほうが、世界は安定していた、ということである。

帝国を世界システムとして見る場合、「世界=帝国」と呼び、個々の帝国については、「世界帝国」と呼ぶ。(『世界史の構造』)
だから帝国の原理がむしろ重要なのです。多民族をどのように統合してきたかという経験がもっとも重要であり、それなしに宗教や思想を考えることはできない。(柄谷行人ー丸川哲史 対談『帝国・儒教・東アジア』2014年)

英国や米国がヘゲモニーを握っていたとき(世界帝国的だったとき)には、「自由主義的」であり、ヘゲモニー国家が存在しなかった時期は、世界は「帝国主義的」になる。そして1990年以降の「新自由主義」と呼ばれる非イデオロギー的イデオロギーのわれわれの時代は、実は自由主義的ではなく、帝国主義的な時代であると言っていることになる。

「帝国主義」時代のイデオロギーは、弱肉強食の社会ダーウィニズムであったが、「新自由主義」も同様である。事実、勝ち組・負け組、自己責任といった言葉が臆面もなく使われたのだから。(柄谷行人「長池講義」2009

実際、たとえば1870-1930年の時期(米国がヘゲモニーを握る以前の60年間)は、その後の60年間(1930-1990)よりも、いっそう弱肉強食の時代だったとすることができる。



そして1930-1990年を経ての、新自由主義の時代(1990ー)ーー弱肉強食の時代ーーにわれわれはいる、という柄谷の展望である(柄谷は60年周期説をとっているので、それぞれの区切りはやや図式的すぎるきらいがないではないが、それはこの際、脇にやる)。

ここで「帝国ー帝国主義」(自由主義ー帝国主義)の交替の歴史とは、「権威ー権力」の交替の歴史として捉えられないだろうか、--このような想定をしてみることにする。

もしわれわれが「すべての動物は平等である」の時代に生きているのが本当ならば、これが必然的に意味するのは、差異の消滅である。権威は差異を基盤としているという事実の観点からは、この意味は、権威は消滅したということである。

われわれにとって不幸なことは、望まれた帰結――「平等と自由」が実現されるのは、不成功に終わっていることだ。そしてその代わりに、われわれは直面しているのだ、少なくともヨーロッパでは、たえず増えつづけるコーポラティズム、レイシズムとナショナリズムに。往年の権威の代わりに、われわれはいっそうの権力に遭遇する。権威と権力はなにか違ったものだ。

重要なことは、権力power と権威 authority の相違を理解するように努めることである。ラカン派の観点からは、権力はつねに二者関係にかかわる。その意味は、私か他の者か、ということである(Lacan, 1936)。この建て前としては平等な関係は、苦汁にみちた競争に陥ってしまう。すなわち二人のうちの一人が、他の者に勝たなければいけない。他方、権威はつねに三角関係にかかわる。それは、第三者の介入を通しての私と他者との関係を意味する。(ポール・バーハウ1999,Verhaeghe, P., Social bond and authority,PDF

※このバーハウの権力/権威は、彼のごく最近のレクチャア(2016)にて、ハンナ・アーレントの権力論のラカン派的読解にも由来していると語っている。 《権威とは、人びとが自由を保持する服従を意味する》《われわれは権威なしに、あるいは権威に伴う意識、つまり権威の源泉は権力ならびに権力の座にある人びとを超越しているという意識を抱くこともなく、政治の領域を生きねばならない》(ハンナ・アーレント『権威とは何か』)。




帝国主義の時代が、かならずしも常に二者関係であるとは言い得ないかもしれないが、帝国の時代(権威の時代)に比べて、二者関係的であるには違いない。ここでの核心は、「帝国主義」の時代とは、「帝国=権威 authority」の支えがない「権力 power」の時代ということである(帝国をめぐっては、ローマ帝国、オスマン=トルコ帝国などを想い起してもよい。その帝国が弱体化したとき帝国主義の時代が訪れる)。

そして権威(帝国)の時代が「善の陳腐さ」であるとすれば、権力(帝国主義)の時代とは「悪の陳腐さ」の時代といえる。

疑いもなく、エゴイズム・他者蹴落し性向・攻撃性は人間固有の特徴である、ーー悪の陳腐さは、我々の現実だ。だが、愛他主義・協調・連帯ーー善の陳腐さーー、これも同様に我々固有のものである。どちらの特徴が支配するかを決定するのは環境だ。(ポール・バーハウ2014,Paul Verhaeghe What About Me? )

もちろん、柄谷行人も、そしていま上に掲げたベルギーの臨床家でもあるラカン派論客ポール・バーハウも、「帝国=権威」を復活させたいわけではない。そうではなく、「帝国の原理」ーー世界を安定化させる原理ーーを模索しているのだ(帝国の原理とは、柄谷行人の用語遣いでは、「構成的理念」ではなく「統整的理念」にかかわるだろう[参照])。

人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.(Lacan,s23, 13 Avril 1976)

ーー人は「帝国」を迂回したほうがいい。「帝国の原理」を使用するという条件のもとで。

冒頭近くに引用した丸川哲史との対談における柄谷行人の《帝国の原理がむしろ重要なのです》との発言は、上のように読まなければならない。

近代の国民国家と資本主義を超える原理は、何らかのかたちで帝国を回復することになる。(……)

帝国を回復するためには、帝国を否定しなければならない。帝国を否定し且つそれを回復すること、つまり帝国を揚棄することが必要(……)。それまで前近代的として否定されてきたものを高次元で回復することによって、西洋先進国文明の限界を乗り越えるというものである。(柄谷行人『帝国の構造』2014年)

さてここで柄谷行人のもうひとつの図表をかかげる。



柄谷理論によれば、今われわれは X が必要なのである。

カントは……、自己は仮象であるが、超越論的統覚Xがあるといった。このXを何らかの実体にしてしまうのが、形而上学である。とはいえ、われわれは、そのようなXを経験的な実体としてとらえようとする欲動から逃れることはできない。したがって、自己とは、たんなる仮象ではなく、超越論的な仮象である。(柄谷行人『トランスクリティーク』初版1999年、2001年版、P.24)
デカルトは、「思う」をあらゆる行為の基底に見出す。《それでは私は何であるのか。思惟するものである。思惟するものとは何か。むろん、疑い、理解し、肯定し、否定し、欲し、欲しない、また想像し、そして感覚するものである》(『省察』)。このような思考主体は、カントによれば、「思考作用の超越論的主観すなわち統覚X」である。私はこのような言い方を好まないが、カントのいう「超越論的主観X」とは、いわば「超越論的主観〔「主観」に×印を上書きする〕」である。それはけっして表象されない統覚であって、それが「在る」というデカルトの考えは誤謬である。しかし、デカルトのコギトには、「私は疑う」と「私は思う」という両義性がつきまとっており、しかもそれらは超越論的自我について語るかぎり避け難いものである。(同上、p132)
アソシエーションは中心をもつが、その中心はくじ引きによって偶然化されている。かくして、中心は在ると同時に無いといってよい。すなわち、それはいわば「超越論的統覚X」(カント)である。(同上、P.283)

この超越論的統覚xは、後の柄谷理論では「世界共和国」でもあるが、上に見たように、そのシニフィアンの核心は、アソシエーションである。

一般に流布している考えとは逆に、後期のマルクスは、コミュニズムを、「アソシエーションのアソシエーション」が資本・国家・共同体にとって代わるということに見いだしていた。彼はこう書いている、《もし連合した協同組合組織諸団体(uninted co-operative societies)が共同のプランにもとづいて全国的生産を調整し、かくてそれを諸団体のコントロールの下におき、資本制生産の宿命である不断の無政府主と周期的変動を終えさせるとすれば、諸君、それは共産主義、“可能なる”共産主義以外の何であろう》(『フランスの内乱』)。この協同組合のアソシエーションは、オーウェン以来のユートピアやアナーキストによって提唱されていたものである。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

ここで最晩年のフロイトの論ーーラカンがフロイトの遺書と呼んだ論ーーから引用してみよう。

エンペドクレスの二つの根本原理――philia 愛と neikos 闘争 ――は、その名称からいって も機能からいっても、われわれの二つの根源的欲動、エロスと破壊 beiden Urtriebe Eros und Destruktion と同じものである。エロスは現に存在しているものをますます大きな統一Vorhandene zu immer größeren Einheitenに包括zusammenzufassenしようと努める。タナトスはそのアソシエーション Vereinigungen を解体 aufzulösen し、統一によって生まれたもの die durch sie entstandenen Gebilde(融合)を破壊zerstören しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937)

Vereinigungen をアソシエーションと訳してみたが、通常は「結合」とか「団結」ではある。

ときどきは労働者たちは勝利するが、それはいつときの勝利にすぎない。彼らの闘争の本当の成果は、その直接の成功ではなく、労働者たちのますます広がっていく団結 〔Vereinigung〕なのである。……ブルジョアジーをその無意志、無抵抗の担い手とする工業の進歩は、競争による労働者の孤立化のかわりに、アソシエーション Assoziation による労働者の革命的団結〔Vereinigung〕をもたらす。(マルクス/エンゲルス『共産党宣言」)

いずれにせよ、エロスにはアソシエーション・融合・取り入れ機能がある。そして「帝国」の時代には、このエロス機能が曲がりなりにも機能する(三者関係の論理)。

この融合機能とは、たとえばフロイトの『集団心理学と自我の分析』の図を簡略して示せば次のようなものである。



※詳細は、「公的自我理想の背後にある猥褻な超自我」参照。

(ここでの文脈では、trait unaire(フロイトの「一の徴 einzigen Zug」=自我理想)の箇所に「帝国」、moiの各箇所に「各国家=属国」を代入することになり、自我理想という第三の審級のもとに各国は融合する。)

他方、「帝国主義」の時代はどうか?

上の図の自我理想の場にある「帝国」が機能していなければ、各国間の闘争が生じる。すなわち各国の、エゴイズム・他者蹴落し性向・攻撃性が顕現する。

おそらく判断ということを研究してみて始めて、第一次的な欲動の戯れ Spiel der primären Triebregungen から知的機能が生まれてくる過程を洞察する目が開かれるであろう。判断は、もともと快原則にしたがって生じた自我の取り入れ Einbeziehung、ないしは自我からの排除 Ausstoßung の合目的的に発展した結果生じたものである。その両極性は、われわれが想定している二つの欲動群の対立性に呼応しているように思われる。肯定 Bejahungーー結合 Vereinigung の代理 Ersatz ーーはエロスに属する。否定 Verneinungーー排除 Ausstoßung の後継 Nachfolgeーーは破壊欲動 Destruktionstrieb に属する。(フロイト『否定』1925年)

 こうして、フロイトに依拠すれば、帝国主義の時代ーー弱肉強食の「新自由主義」の時代ーーとは、タナトス thanatos・闘争 neikos の時代であるということができる。

さて柄谷行人の図に戻ろう。



ラカン派的には柄谷の上の図は、次のようになりうる。



ここにDに置いたアソシエーション(縫合suture)とは、ラカンの名高い「クッションの綴じ目point du capiton」、あるいは後期ラカンのサントーム sinthome(そのいくつかある定義のうちの一つ)のことでもある。

父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない。父の名は、単に特別安定した結び目の形式にすぎないのだ。(Thomas Svolos、Ordinary Psychosis in the era of the sinthome and semblant、2008

クッションの綴じ目(ポワン・ド・キャピトン point du capiton) の機能とは、次のようなものである。

袋状にしたカバーのなかに羽毛や綿を詰めたクッションは、そのままでは、不安定で非一貫的である(中身がすぐに偏ってしまう)。「クッションの綴じ目」は、この詰め物の偏りを防ぐためのものであり、クッションの中央にカバーの表から裏まで糸を通し、糸が抜けてしまわないようにボタンをつけたりする。このボタンが、ラカンのいう「父の機能」である。

もちろん柄谷行人の観点は、ボロメオ結びによって図示できる。

フロイトの超越論的心理学の意味を回復しようとしたラカンが想定した構造は、よりカント的である。仮象(想像的なもの)、形式(象徴的なもの)、物自体(リアルなもの)。(柄谷行人『トランスクリティーク』p59)

《ISR triad…: the Imaginary of democratic ideology, the Symbolic of political hegemony, the Real of the economy》(Zizek、Iraq)



R、すなわち現実界に、資本(エコノミー)
I、すなわち想像界に、共同体(イデオロギー)
S、すなわち象徴界に、国家(ヘゲモニー)

ーーと代入すれば、サントーム(縫合)は、アソシエーション(世界共和国)となる。

ここでボロメオの環の基本的な読み方を想い起しておこう(上の図は、ラカンのサントームのセミネール23のものであり、それぞれの環はバラバラになっている。他方、その前年のセミネール22では、それぞれの環は互いに関係し合っている。以下はその基本的なボロメオの環についての叙述である)。

ボロメオ結びにおいて、想像界の環は現実界の環を被っている。象徴界の環は想像界の環を被っている。だが象徴界自体は現実界の環に被われている…。これがラカンのトポロジー図形の一つであり、多くの臨床的現象を形式的観点から理解させてくれる。(DOES THE WOMAN EXIST? PAUL VERHAEGHE,1999)

そして柄谷行人の 資本ー共同体ー国家(資本制=ネーション=ステート)をめぐる記述を掲げる。

近代国家は、資本制=ネーション=ステート(capitalist-nation-state)と呼ばれるべきである。それらは相互に補完しあい、補強しあうようになっている。たとえば、経済的に自由に振る舞い、そのことが階級的対立に帰結したとすれば、それを国民の相互扶助的な感情によって解消し、国家によって規制し富を再配分する、というような具合である。その場合、資本主義だけを打倒しようとするなら、国家主義的な形態になるし、あるいは、ネーションの感情に足をすくわれる。前者がスターリン主義で、後者がファシズムである。このように、資本のみならず、ネーションや国家をも交換の諸形態として見ることは、いわば「経済的な」視点である。そして、もし経済的下部構造という概念が重要な意義をもつとすれば、この意味においてのみである。(柄谷行人『トランスクリティーク』、P.35)

この二つの記述を重ね合わせて、次のように読むことができる。

すなわち、イデオロギーあるいは共同体は、資本(資本の論理)を支配しようとする(被っている)。だが共同体は、国家あるいはヘゲモニーに支配されている(被われている)。そして国家・ヘゲモニーは、資本(資本の論理)あるいは経済に部分的に支配されている(被われている)。




ヘゲモニーという権威の機能が弱まった時代には、資本の論理(プラスアルファ共同体の論理)が強まり、死の欲動(資本の欲動)の時代となる。それがわれわれの新自由主義の時代である。

欲動は、より根本的にかつ体系の水準で、資本主義に固有のものである。すなわち、欲動は全ての資本家機械を駆り立てる。それは非人格的な強迫であり、膨張されてゆく自己再生産の絶え間ない循環運動である。我々が欲動のモードに突入するのは、資本としての貨幣の循環が「絶えず更新される運動内部でのみ発生する価値の拡張のために、それ自体目的になり瞬間である。」(マルクス)(ジジェク『パララックス・ヴュー』)

われわれの日常でも、この資本の欲動の席捲は如実に感知されているはずである。

・歴代の経団連会長は、一応、資本の利害を国益っていうオブラートに包んで表現してきた。ところが米倉は資本の利害を剥き出しで突きつけてくる……

・野田と米倉を並べて見ただけで、民主主義という仮面がいかに薄っぺらいもので、資本主義という素顔がいかにえげつないものかが透けて見えてくる。(浅田彰 『憂国呆談』2012.8より)

やや異なった視点から言えば、次のようなこともいえる。

ヨーロッパ共同体が統合に向えば向かうほど、分離や独立のナショナリズムの衝動が芽生える。(ポール・バーハウ、1998、THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE、Paul Verhaeghe)

これもヨーロッパ共同体の理念(象徴界的ヘゲモニー)が確たるものでなくなればなるほどーーたとえばギリシャ危機などの「経済的」影響によりーー、よりいっそうこのような現象が起こる(上の文の統合はエロス機能、分離はタナトス機能として読もう)。

…………

以上、理論的にはおそらくこうなるだろうという、柄谷ーラカン理論を結びつけた仮の想定にすぎない。ここでは縫合機能、あるいはアソシエーション機能を実際にどうやって社会的に機能させたらいいのか、との問いは不問にしている(たんにアソシエーションという語に囚われてしまえば、日本的「絆」や連帯、あるいはファシズムの語源「ファスケス」(fasces、束桿)とどう違うのか、という議論も出て来るはずである)。

とはいえ柄谷行人の60年周期説(1990-2050年)によれば、アソシエーション機能を導入しなければ、現在の弱肉強食風潮の猖獗が今後いっそう拡大していくということになる。

くり返せば、弱肉強食の時代とは、上に見たように、新自由主義的な帝国主義の時代であり、資本の欲動の時代、絶え間ない自己変革機械の時代ということでもある。

カーニバル的宙吊りの論理は、伝統的階級社会に限られる。資本主義の十全な展開に伴って、今の「標準的な」生活自体が、ある意味で、カーニバル化されている。その絶え間ない自己革命化、その反転・危機・再興。そのとき、我々は、そのまさに原理が、絶え間ない自己変革機械である状態に対し、いかに変革をもたらしたらいいのか。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

…………

最後に、柄谷行人は「世界共和国」というシニフィアンで、何をイメージしているのかを、コメント抜きで掲げておこう。

僕はよくいうんですが、カントが理念を、二つに分けたことが大事だと思います。彼は、構成的理念と統整的理念を、あるいは理性の構成的使用と理性の統整的使用を区別した。構成的理念とは、それによって現実に創りあげるような理念だと考えて下さい。たとえば、未来社会を設計してそれを実現する。通常、理念と呼ばれているのは、構成的理念ですね。それに対して、統整的理念というのは、けっして実現できないけれども、絶えずそれを目標として、徐々にそれに近づこうとするようなものです。カントが、「目的の国」とか「世界共和国」と呼んだものは、そのような統整的理念です。

僕はマルクスにおけるコミュニズムを、そのような統整的理念だと考えています。しかし、ロシア革命以後とくにそうですが、コミュニズムを、人間が理性的に設計し構築する社会だと考えるようになりました。それは、「構成的理念」としてのコミュニズムです。それは「理性の構成的使用」です。つまり、「理性の暴力」になる。だから、ポストモダンの哲学者は、理性の批判、理念の批判を叫んだわけです。

しかし、それは「統整的理念」とは別です。マルクスが構成的理念の類を嫌ったことは明らかです。未来について語る者は反動的だ、といっているほどですから。ただ、彼が統整的理念としての共産主義をキープしたことはまちがいないのです。それはどういうものか。たとえば、「階級が無い社会」といっても、別にまちがいではないと思います。しかし、もっと厳密にいうと、第一に、労働力商品(賃労働)がない社会、第二に、国家がない社会です。(柄谷行人「生活クラブとの対話」2009年)
各地の運動が国連を介することによって連動する。たとえば、日本の中で、憲法九条を実現し、軍備を放棄するように運動するとします。そして、その決定を国連で公表する。(……)そうなると、国連も変わり、各国もそれによって変わる。というふうに、一国内の対抗運動が、他の国の対抗運動から、孤立・分断させられることなしに連帯することができる。僕が「世界同時革命」というのは、そういうイメージです。(柄谷行人『「世界史の構造」を読む』2011年)

そしてあまりよい評判はきかない「帝国の原理」をめぐる柄谷行人の最近の発言も付記しておく。

近代国家は、旧世界帝国の否定ないしは分解として生じた。ゆえに、旧帝国は概して否定的に見られている。ローマ帝国が称賛されることがままあるとしても、中国の帝国やモンゴルの帝国は蔑視されている。しかし、旧帝国には、近代国家にはない何かがある。それは、近代国家から生じる帝国主義とは似て非なるものである。資本=ネーション=国家を越えるためには、旧帝国をあらためて検討しなければならない。実際、近代国家の諸前提を越えようとする哲学的企ては、ライプニッツやカントのように、「帝国」の原理を受け継ぐ者によってなされてきたのである。(柄谷行人エッセイ「帝国の構造」2014

…………

以上は、『トランスクリティーク』(1999年)以後の柄谷行人をあまり熱心に読んでいない海外住いの者が記している。『世界史の構造』は英語版で断片的に読みはしたが、21世紀に入っての柄谷行人の著書の引用は、ネット上にあるものからの孫引用がほとんどである。それらの断片を読みながらの、憶測のところが多分にある記述であることをここに断っておく。