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2017年3月3日金曜日

性別化と四つの言説における「非全体」




以下はほぼジジェク2012による次の「仮説」にもとづいた記述である。

S1 = Master = exception       S2 = University = universality
$ = Hysteria = no-exception   a = Analyst = non-All  (ジジェク、2012)

この仮定を冒頭の性別化の式にそのまま当てはめれば次のようになる(左側=男性の論理、右側=女性の論理である)。




ーー記号「∀」は、アルファベットのAを逆にした記号で、「全ての」という意味(ALLの頭文字)。 記号「∃」は、アルファベットのEを逆にした記号で、「少なくとも一つ存在する」という意味(EXISTの頭文字)。 Φはファルスである。ファルス関数 Φxとは、ほとんど概念に近い(フレーゲの定義では関数≒概念である)。記号の上にある棒線はもちろん否定のマークである。
 
さらにブルース・フィンクの性別化の式読解(2002)の記述に結び付ければ次のようになる(フィンク注釈はxを享楽として捉えている)。

S2:男の享楽の全体は、ファルス享楽である。
S1:だが(例外として)他の享楽があるという信念がある。

a:女の享楽の非全体は、ファルス享楽である。
$:ファルス享楽でないどんな享楽もない(どんな享楽も「ある」ことはない)。

ーー最後の括弧内の文は、《il n'y en a pas d'autre que la jouissance phallique》(ラカン、アンコール)のフィンクの読み方である。

より一般的に言えばたとえば次のようになる。

男性の論理の 「普遍性・全体(S2)」とは「例外S1」によって支えられている。たとえば、女は男にとって全てである、キャリア・公的な生活の例外S1を除いて。

他方、女性の論理の「非全体a」とは、「例外なし$」ゆえの非全体である。例外がないため全体・普遍性はない(非一貫性)。したがって非全体が「外立」する。たとえば女の性生活にとって、男は非全体 pas-tout である。なぜなら女にとって性化されない何ものもないから。

ラカンは「性別化の定式」において、性差を構成する非一貫性を詳述した。そこでは、男性側は普遍的機能とその構成的例外によって定義され、女性側は「非全体」 (pas‐tout) のパラドクスによって定義される(例外はない。そしてまさにその理由で、集合は非全体であり全体化されない)。(ジジェク、2012ーー形式化の極限における内部崩壊


《非全体が「外立」する》における「外立ex-sitence」とは、ラカンにとって現実界である、《現実界は外立する  Le Réel ex-siste 》 (S.22)。もともとはハイデガー用語 Existenzの仏訳である。

ここではーーやや古い論文だがーー、リルケ研究者塚越敏による「リルケ文学解明に於けるハイデッガーの誤謬(1956)」から抜き出しておく。

・Ex-sistenz のEx はaus,heraus,hinaus を、即ち「外に出る」ことを意味している。ハイデガー自身の説明によればーー「存在の真理のなかに出で立つこと」 Hinausstehen in die Wahrheit des Seins と言い、Das stehen in der Lichtung des Seins nenne ich die Wahrheit des Seinsと言っている。(この語の訳語は「開存」「出存」「脱存」「脱我的実存」などさまざまであるが、以下では「開存」という邦訳語を使用する)この開存によって世界(世界とは存在の開示性 Offenheit,Offenbarkeit を意味している)は開かれる。ハイデガーは人間の本質をこの開存にありとする。即ち Lichtung des Seins, Offenbarkeit des Seins のなかに出で立つこと、逆に云えば、存在者を照らすLichtung des Seins, Offenbarkeit des Seins のなかに出会うことである。
・Lichtung とは、森のなかの開けた場所、森林の空地を意味する。また光を点ずるという意味もあるから、「存在の開け」「存在の明るみ」「存在の光」とも邦訳できるであろう。

この記述からすれば、非全体とは、森の空地 Lichtung (ラカン的にはファルス秩序のなかの裂け目、亀裂)のなかに出で立つこと、となる(わたくしはハイデガーにまったく不案内であることを断っておく)。

森の空地あるいは亀裂とは、おそらく次のようなものではなかろうか・・・

妻とギー兄さんは森の鞘に入って山桜の花盛りを眺めた日、その草原の中央を森の裂け目にそって流れる谷川のほとりで弁当を食べた。(……)そして帰路につく際、ギー兄さんは思いがけない敏捷さ・身軽さで山桜の樹幹のなかほどの分れめまで登り、腰に差していた鉈で大きい枝を伐ろうとした。妻は心底怯えて高い声をあげ、思いとどまってもらった。(大江健三郎『懐かしい年への手紙』)

ーーとはいえ外立するために鉈の使用は必要はないはずである。通常、鉈の使用をファルス享楽といい、非全体に外立するものは、「無性的なもの (a)sexuée 」とされる。

ファルス享楽の彼方にある他の享楽とは、享楽する実体 substance jouissante(身体の実体substance du corps)にかかわる。ラカン曰く、これは分析経験のなかで確証されていると。 他の享楽は、性関係における失敗の相関物 corrélat として現れる。幻想は、性関係の不在の代替物を提供することに失敗する。

身体の享楽とはファルスの彼方にある。しかしながらファルス享楽の内部に外立 ex-sistence する。そして、これは (a)-natomie(対象a? の[解剖学的]構造)にかかわる。この(a)-natomie とは、ある痕跡に関係し、肉体的偶然性 contingence corporelle の証拠である。これは遡及的な仕方で起こる。これらの痕跡は、ファルス享楽のなかに外立 ex-sistence する無性的 (a)sexuée な残留物と一緒に、(二次的に)性化されたときにのみ可視的になる。すなわち a から a/− φ への移行。ファルス快楽、とくにファルス快楽の不十分性は、この残留物を表出させる。臨床的に言えば、真理の彼方に(性関係の失敗の彼方に)、現実界は姿を現す。この現実界の残留物ーー享楽する実体ーーは、対象a にある(口唇、肛門、眼差し、声)。(ポール・バーハウ2001 Beyond Gender. From Subject to Drive. PDF)

ーー「無性的なもの (a)sexuée 」は「非性的なもの」と訳したほうがいいのかもしれないが、ここでは通常訳とした。

ところでジジェク2012は次のような言い方をしている、《La Femme n'existe pas》、しかし《il y a de jouissance féminine》。ーー「女は存在しない」、しかし「女は外立する」ともで訳すべきか。

ジジェクは直接には言及していないが、このジジェクの言葉を、わたくしは次のラカン文とともに読む。

「大他者の(ひとつの)大他者はある il y ait un Autre de l'Autre」という人間のすべての必要(必然)性。人はそれを一般的に〈神〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に〈女 〉« La femme » だということである。(ラカン、S23、16 Mars 1976)

ラカンによる「非全体」についての記述はーー大他者の大他者はない、すなわち非一貫性の思想家であるためでもあろうーー、けっして一貫性があるとは言えない(たえず問い直している)。ここでは一つだけ抜き出しておくが、これはもちろん「全てではない pas tout」。

非全体の起源…それは、ファルス享楽ではなく他の享楽を隠蔽している。いわゆる女性の享楽を。…… qui est cette racine du « pas toute » …qu'elle recèle une autre jouissance que la jouissance phallique, la jouissance dite proprement féminine …(LACAN, S19, 03 Mars 1972)

…………

ここで性別化の式にあてはめられたマテームを、ラカンの四つの言説に適用してみよう。

主人の言説に当てはめれば次のようになる(上段=男性の論理、下段=女性の論理)。




ヒステリーの言説に当てはまれば次の通り(左側=女性の論理、右側=男性の論理)、




時計周りすれば、さらに分析家の言説と大学人の言説(知の言説)が現われるが割愛。

ここでは四つの言説の各々の基盤にある形式的構造の図を掲げる。



この図の最も基本的な説明は次の通り。

話し手は他者に話しかける(矢印1)、話し手を無意識的に支える真理を元にして(矢印2)。この真理は、日常生活の種々の症状(言い損ない、失策行為等)を通してのみではなく、病理的な症状を通しても、間接的ではありながら、他者に向けられる(矢印3)。

他者は、そのとき、発話主体に生産物とともに応答する(矢印4)。こうして生産された結果は発話主体へと回帰し(矢印5)、循環がふたたび始まる。 (Lesourd, S. (2006) Comment taire le sujet? )



上に掲げたヒステリーの言説を同じように読んでみよう。




「例外なしの主体$」は「例外S1」に話しかける。話し手の無意識を支える「非全体a」を元にして。この「非全体a」は間接的に「例外S1」に対しても向けられる。そして例外S1は「全体S2(知・理論)」の生産物にて応答する。

ーーということになる。

ジジェクはこのヒステリーの言説をめぐって次のように記している。

典型的なヒステリーのポジションは、理論家に直面した詩人のポジションである。詩人は、理論家が彼の作品を抽象理論の例証に還元してしまったことに不平不満を言う。しかし同時に詩人は理論家を挑発する、もっと続けて有効に作品を把握しうる理論を生み出すようにと。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)

たしかにラカンは、人間の昇華形式の三様式として、芸術=ヒステリー、宗教=強迫神経症、科学=パラノイアとしている。

…l'hystérie, de la névrose obsessionnelle et de la paranoïa, de ces trois termes de sublimation : l'art, la religion et la science(Lacan,S.7)

$が芸術家=ヒステリーであるであれば、同じく$は詩人であるに相違ない。

私は完全なヒステリーだ、……症状のないヒステリーだな[ je suis un hystérique parfait, c'est-à-dire sans symptôme](Lacan,Le séminaire ⅩⅩⅣ、1976,12.14)

ほぼ同時期のラカンは次のように言っている(ジジェクの言っている詩人とは意味合いが異なるが参考までに)。

私は詩人ではない、だが私は詩である。je ne suis pas un poète, mais un poème. (Lacan,17 mai 1976 AE.572)
ポエジーだけだ、解釈を許容してくれるのは。私の技能ではそこに至りえない。私は充分には詩人ではない。…

Il n'y a que la poésie, vous ai-je dit, qui permette l'interprétation. C'est en cela que je n'arrive plus, dans ma technique, à ce qu'elle tienne. Je ne suis pas assez poète. Je ne suis pas poâte-assez (S.24.1977).(ラカン、S24. 17 Mai 1977).

…………

男でないすべては女だろうか? 人はそれを認めるかもしれない。だが女は「全てではない(非全体) pas « tout » 」のだから、どうして女でないすべてが男だというのかい?

Tout ce qui n'est pas homme… est-il femme ? On tendrait à l'admettre. Mais puisque la femme n'est pas « tout », pourquoi tout ce qui n'est pas femme serait-il homme ? (S.19, 10 Mai 1972)

ジジェクによる「非全体=女」の解釈のひとつは次のようなものである。

女性の非全体 pas-tout とは、次のことを意味する、女性の主体性には、ファルス的象徴機能に徴づけられないものはなにもない。それどころか、女は男よりもより「言語のなか」にいる。この理由で、前象徴的な「女性の実体」に言及するすべては、人を誤解に導く。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)

このジジェクの言明は、次の文にある《女はファルス関数のなかに十全にいる[ elle y est à plein]》によって裏付けられる。

…全核心は、女はファルスに接近する別の仕方、彼女自身にとってのファルスを保持する別の仕方を持っていることである。女が「全てではない pas du tout」のは、ファルス関数において「非全体 pas toute 」であるからではない[parce que c'est pas parce qu'elle est « pas toute » dans la fonction phallique qu'elle y est pas du tout.]

女はそこで「全てではない 」のではない [ Elle y est pas « pas du tout »](ヘーゲル的二重否定・「否定の否定」:引用者)。

女はファルス関数のなかに十全にいる[ elle y est à plein] 。 しかし何かそれ以上のものがあるのだ mais il y a quelque chose en plus…

ひとつの享楽がある。il y a une jouissance…身体の享楽 jouissance du corps …ファルスの彼方の享楽 une jouissance au-delà du phallus!(ラカン、セミネール20、20 Février 1973)

これは十全に象徴界の住人であればこそ、非全体(ファルスの彼方の享楽)が外立するということである。森の空地に外立するためには、森を十全に熟知していなければならない、ということでもあろう。

女は、見せかけに関して、とても偉大な自由をもっている!la femme a une très grande liberté à l'endroit du semblant ! (Lacan、 S18、20 Janvier 1971ーーーー真理と嘘とのあいだには対立はない

女のほうが森という象徴界(見せかけ semblant)の熟知者なのである。他方、《男はマヌケにも信じている、象徴的仮面に下に、己の実体、隠された宝があって、それが彼を愛するに値する者にすると。他方、女は知っている、仮面の下にはなにもないことを》(ジジェク、2012)

《女は男よりもより「言語のなか」にいる》をめぐってのよりわかりやすい説明は、比較的初期ジジェクの次のレクチャアがよい。

◆Zizek Connectionsof the Freudian Field to Philosophy and Popular Culture(1995

さて私の要点に戻ることにしよう、すなわち幻想に。もちろんラカンを読むことで、我々は知っている、究極的な幻想とは性関係の幻想だということを。だからもちろん幻想の横断の方法は、ラカンが意味する「性関係がない」ことを詳述化することだったわけだ。それはラカンの性差異の理論化、いわゆる性別化の式を通してのものだった。

ここでの私のポイントは何だろう? それは次の通り。性別化の式においてふつう気づかれていないことは、ラカンの断言、“La femme n'existe pas”――「女は存在しない」は、象徴秩序の外部にある、言葉で言い表せ得ない女性的エッセンスのたぐいに言及しているのでは決してないということだ。それは、象徴秩序に統合されえない、言説の領域の彼岸にあるものでは決してないということだ。

私はラカンにぞっこん惚れこんでいるのは、きみたちは気づいているかどうか知らないが、ラカンのスタイルがまさにレーニン風だからだ。なんのことかわかるかい? まったく寸分ちがわない何か。きみたちはレーニン主義者をどのように感知してるだろう? 典型的なレーニン主義者のひねりは、たとえば誰かが「自由」と言ったとすると、彼らの問いは、「誰のための自由だい? 何をするための自由かい?」だ。たとえば、ブルジョアが労働者を食い物にする自由とかね。

君たちは気づいているだろうか、『精神分析の倫理』にて、ラカンが「善」に対して、まさにほとんど同じひねりを加えているのを。そうだ、至高善について。だれの善なのか、なにをするための善なのか? 等々と。

だからここでも、ラカンが「女は存在しない」と言うとき、同じようにレーニスト風に考えなくてはならない。そしてこう問うべきだ、「どの女だって?」、「誰にとって女は存在しないんだ?」と。ふたたびここでのポイントは、女がふつう思われているような仕方、象徴秩序の内部に存在しないとか、象徴界に統合されるのに抵抗するとかではないことだ。私は言いたくなる、これはほとんど正反対だと。

単純化するために、最初に私のテーゼをプレゼンしよう。大衆的な紹介、ことさらフェミニストによるラカンの紹介では、ふううこの公式にのみ焦点があてられ次のように言うのだ、「そうだわ、女たちのすべてが、ファルス秩序に統合されるわけじゃないわ。女のなかには何かがあるのよ、片足はファリックな秩序に踏み込み、もう一方の足は神秘的な女性の享楽に踏み込んでいるのよね、それが何だかわからないけれど」。

私のテーゼは、とても単純化して言うなら、全ラカンの要点は、我々は女を統合化できないから、例外がないということなんだ。別の言い方をすれば、男性の論理の究極の例は、まさに、女性のエッセンス、永遠の女性は、象徴秩序の外に除外されている、彼岸にあるという考え方だ。これは究極的な男性の幻想だ。そして、ラカンが「女は存在しない」というとき、私はまさにこう思うのだな、すなわち、象徴秩序から除外された言葉にあらわせない神秘的な「彼岸」こそが存在しない、と。わかるかい、私の言っていることが?

おわかりだろうか? もちろんおわかりでない方もいらっしゃることだろう・・・

男たちはサイバースペースを孤独な遊戯としての自慰装置として使う傾向が(女たちに比べて)ずっとある。馬鹿げた反復的な快楽に耽るためにだ。他方、女たちというのはチャットルームに参加する傾向がずっとある、サイバースペースを誘惑的コミュニケーションとして使用するために。

この例というのは標準的なラカンの誤読を取り扱うのに決定的である。その誤謬というのは女性の享楽というのは言葉の彼方にあるた神秘的至福、象徴秩序から逃れた領野にあるという考え方だ。まったく逆に、女たちは例外なしに言語の領域に浸かり込んでいる。(Slavoj Zizek、THE REAL OF SEXUAL DIFFERENCE、2004)

ーーさあてこれならどうだろう?

ラカン派臨床家の見解もかかげておくが、もちろんこの解釈も「全てではない」。

女が、自然、欲動、身体、ソマティック(流動する身体)等々を表わし、他方、男は文化、象徴的なもの、プシュケー(精神)を表わす等々。しかしこれは、日常の経験からも臨床診療からも確められない。女性のエロティシズムやアイデンティティは、男性よりもはるかに象徴的なものに引きつけられているようにみえる。聖書が言うように、またそうでなくても、女は大部分、耳で考え、言葉で誘惑される。反対に、なににも介入されない、欲動に衝き動かされたセクシャリティは、ゲイであれストレイトであれ、男性のエロティシズムの特性のようにはるかに思える。(ポール・バーハウ2004、Phallacies of binary reasoning: drive beyond gender、Paul Verhaeghe)

…………

※付記

ファルスのシニフィアンとは、その現前・不在が、男 manと女 womanを区別する機能ではない。性別化の式において、それはどちら側(男性側 masculine と女性側 feminine)にも機能する。どちらの場合も、S と J (話す主体と享楽)とのあいだの不可能な関係(非関係)の作因子として作用する。ーーファルスのシニフィアンとは、象徴秩序に受け入れられた存在、つまり「話す存在」にアクセス可能な享楽を表す。

したがって、ひとつの性と、(プラスアルファの)それに抵抗する非全体しかないの同じように、ファルス享楽と、プラスアルファのそれに抵抗する X しかない。もっとも、正しく言うなら、その X は存在しない。というのは、《ファルス的でない享楽はない》(S.20)から。この理由で、ラカンが謎めいた幽霊的「他の享楽autre jouissance」を語ったとき、彼はそれを存在しないが機能する何ものかとして扱った。(ZIZEK.LESS THAN NOTHING、2012,私訳)

他の享楽 l'autre jouissance大他者の享楽 la jouissance de l'Autreとはまったく別ものであり、大他者の享楽は実質上は、ファルス享楽に過ぎない。《the jouissance of the Other is actually equivalent to phallic jouissance.》(ロレンツォ・キエーザ、2007、Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa)
享楽はどこから来るのか? 〈他者〉から、とラカンは言う。〈他者〉は今異なった意味をもっている。厄介なのは、ラカンは彼の標準的な表現、「大他者の享楽 la jouissance de l'Autre 」を使用し続けていることだ、その意味は変化したにもかかわらず。新しい意味は、自身の身体を示している。それは最も基礎的な〈他者〉である。事実、我々のリアルな有機体は、最も親密な異者(異物)である。

ラカンの思考のこの移行の重要性はよりはっきりするだろう、もし我々が次ぎのことを想い起すならば。すなわち、以前の〈他者〉、まさに同じ表現(「大他者の享楽 la jouissance de l'Autre 」)は母-女を示していたことを。
これ故、享楽は自身の身体から生じる。とりわけ境界領域から来る(口唇、肛門、性器、目、耳、肌。ラカンはこれを既にセミネールXIで論じている)。そのとき、享楽にかかわる不安は、基本的には、自身の欲動と享楽によって圧倒されてしまう不安である。それに対する防衛が、母なる大他者 the (m)Otherへの防衛に移行する事実は、所与の社会構造内での、典型的な発達過程にすべて関係する。

我々の身体は〈他者〉である。それは享楽する。もし可能なら我々とともに。もし必要なら我々なしで。事態をさらに複雑化するのは、〈他者〉の元々の意味が、新しい意味と一緒に、まだ現れていることだ。とはいえ若干の変更がある。二つの意味のあいだに混淆があるのは偶然ではない。一方で我々は、身体としての〈他者〉を持っており、そこから享楽が生じる。他方で、母なる大他者 the (m)Otherとしての〈他者〉があり、シニフィアンの媒介として享楽へのアクセスを提供する。実にラカンの新しい理論においては、主体は自身の享楽へのアクセスを獲得するのは、唯一〈他者〉から来るシニフィアン(「徴づけmarkings」と呼ばれる)の媒介を通してのみなのである。(ポール・バーハウ2009,PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains、私訳,PDF

大他者の《新しい意味は、自身の身体を示している》とあるが、実際に《異者としての身体(フロイトの異物 Fremdkörper[参照]) corps qui nous est étranger》(S23)という表現がある他、さらに中期ラカンにも 《大他者は身体である L'Autre … c'est le corps ! (S14) 》という表現がある。これは前期ラカンのイマジネールな身体のことではけっしてない。

ーーさて仮にポール・バーハウのいうことが正しいとしてみよう。そのとき次のラカンの文はどちらの享楽(他の享楽、大他者の享楽)なのだろうか?

J(Ⱥ)は享楽にかかわる。だが大他者の享楽のことではない。というのは私は、大他者の大他者はない、つまり、大他者の場としての象徴界に相反するものは何もない、と言ったのだから。大他者の享楽はない。大他者の大他者はないのだから。それが、斜線を引かれたA [Ⱥ] の意味である。

…que j'ai déjà ici noté de J(Ⱥ) .Il s'agit de la jouissance, de la jouissance, non pas de l'Autre, au titre de ceci que j'ai énoncé : - qu'il n'y a pas d'Autre de l'Autre, - qu'au Symbolique - lieu de l'Autre comme tel - rien n'est opposé, - qu'il n'y a pas de jouissance de l'Autre en ceci qu'il n'y a pas d'Autre de l'Autre, et que c'est ce que veut dire cet A barré [Ⱥ]. (Lacan,Séminaire XXIII Le sinthome Décembre 1975)

ロレンツォ・キエーザは、J(Ⱥ)を「他の享楽autre jouissance」だとしている(ロレンツォによれば上のセミネール23の文はミレール版では奇妙な形で変更されているらしいが、今かかげた文は、音声聴き取り版)。