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2017年3月21日火曜日

どこまで見過ごすのか

(UN report: South Sudan allowed soldiers to rape civilians in civil war,2016.11)


◆南スーダンの陸上自衛隊撤収に思うこと、長有紀枝、2017年03月15日

自衛隊の「駆け付け警護」問題が、連日メディアを賑わし、私たちの活動への影響を問われましたが、自衛隊が派遣されているのは、17ある事業地のたった一つ(それも、治安上の理由から日本人の駐在が許可されなくなり、遠隔の事業管理の限界から私たちは2015年暮れに撤退しています。この間の詳しい経緯は当ブログ第22回、23回、24回をご覧ください)。

南スーダンは特殊ケースであっても、特別な場所ではありません。その17分の1カ所のみで行われている特殊な活動に、「駆け付け警護」が付与されようが、私たちの安全管理に特別な意味はもちませんでした。

個人的にも、「駆け付け警護」問題とその報道のされ方には大きな疑問がありました。議論されるべきは、自衛隊員の危険云々ではなく、日本の国益には直接関係のない国でおきている、大規模な人権侵害、文民への虐殺といった暴行に対し、私たちの国は、どこまで犠牲を払うのか、払う用意があるのか、あるいは見過ごすのか。

そういう点であるように思います。正解があるわけではありません。民主主義国家において、それを決めるのは政治家であり、その政治家を選ぶのは私たち選挙民です。政治家の独断と言われるかもしれませんが、政治家は世論に敏感です。

現に、1994年のルワンダの大虐殺において、ベルギー軍が、まさにこれから虐殺が激しくなる時に撤退を決定したのは、ジェノサイド(集団殺害)のまさに初日に、穏健派の大統領を警護していた若きベルギーの兵士、10人が惨殺された事態を、世論が許さなかったからです。

1995年夏のボスニア・ヘルツェゴビナのスレブレニツァにおいて、同じく、ジェノサイドとされる事件が起きつつあるまさにそのとき、適切なタイミングでNATOによる空爆が実施されなかったのは、地上軍を派遣していたオランダ政府の意向が強く働いたからです。

私たちは他国の、私たちと同じような普通の市民が家を奪われ、教育の機会を奪われ、普通の生活と日常を奪われ、略奪され、レイプされ、命を奪われていくさまを、知らないこととして見過ごすのでしょうか? しかし、そこに介入していくには、こちらの側にも大きなリスクが伴います。私たちはそのリスクをどこまで受け止めることができるのでしょうか?




◆UNMISSにおける自衛隊の活動について(防衛省、平成29年2月、PDF




ーーというわけだが、わが EverNote の引き出しを「スーダン」という語で探ってみると、わずかしかない。そのなかの目ぼしい二つの文を掲げる。

かつてシャーマンを生んだ狩猟民社会は現在、西欧社会との接触においてアルコール耽溺を大量に生みつつある社会である。また伝統的農耕社会が、おなじく西欧社会との接触による急速な文化変容において発生させる精神異常は、主に非定型精神病の範疇にはいるものであって、これは酩酊親近的な意識変容を伴う状態である。出口なをを生んだ明治十年代は、少なからずこの種の精神疾患の一村多発をみた時代である。両者には文化変容における反応という類似性と対比性がある。

個人の人生においても、急性精神病挿間が一つの節となって首尾一貫性の破綻をそこにしわ寄せして救い、新しい生き方に再出発させることがあるが、それに似て、非定型精神病の多発によって文化変容期が特徴づけられる社会は、わが国のごとく被害者から加害者に転化しうる相対的に「強い」社会である。アルコール耽溺に陥る社会はこの活力をもちえない。よりひ弱な社会であるようだ。イク族やブッシュマンを追いつめる者はこの「相対的に強力な」スーダン軍の戦車であり、バントゥー族カフィール人の奴隷使用牧場主である。われわれは第三世界を一律に眺めて、やや感傷的になりすぎるようだ。東部辺境のナガ族を討伐するインド軍のジェットパイロットも、自然保護地区の設定によって狩猟民を飢餓に追いやる東アフリカ諸国の官僚・軍人も、ピグミー族の存在を恥として外国人にみせないカメルーンのエリートも第三世界に属する。その先達は、明治開国の数年後にはやくも軍艦雲揚号を派遣して、ソウルの外港仁川の港外にあり蒙古占領時代の旧都たりし江華島を砲撃し、また台湾に兵を揚げたわが国である。(中井久夫『分裂病と人類』1982年)
…しかし「文明の衝突」という考えかたは完全に否定しなければならない。今日目にしているのはむしろ、それぞれの文明の内部の衝突である。しかもイスラム教とキリスト教の歴史 を少しでも見れば、イスラムの「人権の記録」(このことばは過去にはなかったわけだが)はキリスト教のそれよりはるかにましである。過去数世紀間、イスラムは他の宗教に対してキリスト教よりずっと寛容だった。中世においてわれわれ西欧人が古代ギリシャの遺跡を再 び手にしたのは、アラブ人を通じてであったことを、いまこそ思い出すべきときだろう。現代 の恐ろしい行為に弁解の余地はないが、こうした事実が明らかにしているのは、われわれの相手は「本来の」イスラムに刻み込まれた性質ではなく、近代の社会ー政治状況の産物 であるということである。

もっと仔細にみるなら、この「文明の衝突」とは実際にはなんの話なのか。現実生活の 「衝突」のすべては、明らかにグローバル資本主義に関係していないだろうか。イスラム 『原理主義」の標的は、社会的生を蝕むグローバル資本主義の影響だけでなく、それと同時にサウジアラビアやクエートのような堕落した「伝統的」政体でもある。(ルワンダ、コンゴ、 シエラレオネなどの)もっとも恐るべき虐殺は、このわれわれと同じ「文明」のなかで起こっ た──そしていまも起こっている──ばかりか、やはりグローバルな経済利害の相互作用に明らかに関係している。「文明の衝突」という規定に漠然と即した少数の例(ボスニアとコ ソヴォ、南スーダンなど)ですら、他の利害の影を見てとるのはたやすい。(ジジェク『現実界の砂漠にようこそ』2001年)

それぞれ示唆あふれる文であるにもかかわらず、これではいくらなんでも「時代錯誤」と言われかねない。ジジェクの《南スーダンなどですら、他の利害の影を見てとるのはたやすい》に反応して、スーダンと石油でネット上を少しだけ探ってみた(まずスーダンとイギリスで探ってみたのだが、それは割愛)。

◆岐路に立つスーダン、今井高樹(JVC スーダン現地代表)2010年、PDF

1975 年、南部で油田が発見され、石油開発計画が立ち上がります。南部で採掘した原油をパイプラインでポートスーダンまで運び、輸出する計画でした。南部人は石油収入からの利益を期待しますが、政府は石油採掘地を北部に編入しようとするなど、南部を無視した動きをとります。

石油の採掘事業には、当初米シェブロン社が加わっており、スーダンの石油は彼らが発見しました。シェブロン社は第二次内戦開始後も開発を進めましたが、アル=バシール政権誕生によりスーダンとアメリカの関係が断たれると同時に操業を停止、 1992 年には油田の権利を格安でスーダン政府に売り渡さざるを得なくなります。代わってカナダ、中国、マレーシアが、石油開発に大きな資本を投じます。

スーダンは以前から、中国から武器を購入しており、石油採掘権での取引ができるようになると、さらに貿易の規模が大きくなります。マレーシアからの投資には、同じイスラーム国家として、スーダンを支援するという意味合いもあります。

石油開発が再開すると、油田地帯はしばしば第二次内戦の戦場となりました。SPLA/M は開発を止めるため油田地帯を攻撃し、そこを守る政府軍との間で戦闘が行われました。

1999 年、南部のヘグリクーポート・スーダン間のパイプラインが完成して以降、スーダンは中規模の産油国となりました。

日本は、九州電力・関西電力が、2005 年にスーダンからの石油輸入を取りやめました。しかし、他の電力会社は、未だにスーダンからの輸入を続けており、スーダンからの石油輸入量は、中国に次いで世界第2位となっています。



武器禁輸制裁決議案が否決、日本は棄権

国連安全保障理事会は23日、米国が提出した南スーダンへの武器禁輸を含む制裁決議案を採決し、米英仏スペインなど7カ国が賛成したものの、日本など8カ国が棄権し、否決された。安保理決議案の採択には9カ国以上の賛成が必要。棄権したのは他にロシア、中国、エジプトなど。米国は制裁決議案を支持するよう日本の説得を続けたが、陸上自衛隊を南スーダンでの国連平和維持活動(PKO)に派遣する日本は地元政府と国連との対立が深まり、情勢が緊迫することを懸念し、棄権に回った。(ニューヨーク 上塚真由、2016.12.24 産経

ーー南スーダンにどこの国が大々的に武器輸出をしているだろうかは、よく知られた憶測がある。

表題を「どこまで見過ごすのか」としたが、既得権益に、あるいは金に関係なければ、世界は内戦など(ほとんどの場合)ほうっておくのである。

金に関係がなくてしかも見過ごしがたいときはどんな場合か。

同情は、同一化によって生まれる das Mitgefühl entsteht erst aus der Identifizierung。(フロイト『集団心理学と自我の分析』)


フロイトのこの文は「人は同情するから同一化するのではない。同一化するから同情する」と言い換えうる。同一化するための徴がないと、人は同情(共感共苦)しない。

あるいは、ルソーによる「憐れみ(同情)」の三つの格率(『エミール』より)

【第一の格率】:人間の心は自分よりも幸福な人の地位に自分をおいて考えることはできない。自分よりもあわれな人の地位に自分をおいて考えることができるだけである。

【第二の格率】:人はただ自分もまぬがれられないと考えている他人の不幸だけをあわれむ。

【第三の格率】:他人の不幸にたいして感じる同情は、その不幸の大小ではなく、その不幸に悩んでいる人が感じていると思われる感情に左右される。


ジジェク) リオ・デ・ジャネイロのような都市には何千というホームレスの子供がちがいます。私が友人の車で講演会場に向っていたところ、私たちの前の車がそういう子供をはねたのです。私は死んで横たわった子供を見ました。ところが、私の友人はいたって平然としている。同じ人間が死んだと感じているようには見えない。「連中はウサギみたいなもので、このごろはああいうのをひっかけずに運転もできないくらいだよ。それにしても、警察はいつになったら死体を片づけに来るんだ?」と言うのです。左翼を自認している私の友人がですよ。要するに、そこには別々の二つの世界があるのです。海側には豊かな市街地がある。他方、山の手には極貧のスラムが広がっており、警察さえほとんど立ち入ることがなく、恒常的な非常事態のもとにある。そして、市街地の人々は、山の手から貧民が押し寄せてくるのを絶えず恐れているわけです。……

浅田彰) こうしてみてくると、現代世界のもっとも鋭い矛盾は、資本主義システムの「内部」と「外部」の境界線上に見出されると考えられますね。

ジジェク)まさにその通りです。だれが「内部」に入り、だれが「外部」に排除されるかをめぐって熾烈な闘争が展開されているのです。(浅田彰「スラヴォイ・ジジェクとの対話」1993.3『SAPIO』初出『「歴史の終わり」と世紀末の世界』所収)