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2017年2月2日木曜日

「自閉症」増大という新自由主義のやまい

さて「自閉症」第三弾である。

①「現代の流行病「自閉症」」にて自閉症診断増大は、「金」のせいであるとした。
②「だれもが自閉症的資質をもっている」にてはこの表題が示す通りのことを示した。
③そして今回は、「自閉症」増大という新自由主義のやまい、という表題を掲げた。

なにかそれぞれ言っていることが相矛盾しているようにも感じられるが、これはヘーゲル流の「否定の否定」である・・・

…………

まず、①にて引用したなかでの核心的な文のひとつをいくらか長く訳出して再引用する。

英国心理学会( BPS)と世界保険機関(WHO)は最近、精神医学の正典的 DSM の下にある疾病パラダイムを公然と批判している。その指弾の標的である「メンタル・ディスオーダー」の診断分類は、支配的社会規範を基準にしているという瞭然たる事実を無視している、と。それは、科学的に「客観的」知に根ざした判断を表すことからほど遠く、その診断分類自体が、社会的・経済的要因の症状である。その要因とは、諸個人が常には逃れえないものである社会的・経済的要因であり、犯罪・暴力・居住環境の貧困・借金などだが、人はそこに、仲間‐競争者を凌ぐように促す新自由主義的圧力を付け加えうる。(Capitalism and Suffering, Bert Olivier 2015,PDF)

ここに社会的・経済的要因として付け加えられた「新自由主義的圧力」とは次のようなものである。

我々の社会は、絶えまなく言い張っている、誰もがただ懸命に努力すればうまくいくと。その特典を促進しつつ、張り詰め疲弊した市民たちへの増えつづける圧迫を与えつつ、である。 ますます数多くの人びとがうまくいかなくなり、屈辱感を覚える。罪悪感や恥辱感を抱く。我々は延々と告げられている、我々の生の選択はかつてなく自由だと。しかし、成功物語の外部での選択の自由は限られている。さらに、うまくいかない者たちは、「負け犬」あるいは、社会保障制度に乗じる「居候」と見なされる。(ポール・バーハウ「新自由主義はわれわれに最悪のものをもたらした、ガーディアン (The Guardian、2014.09.29

これはすでに日本でも1989年以降指摘されている内容とほとんど等価である。

「帝国主義」時代のイデオロギーは、弱肉強食の社会ダーウィニズムであったが、「新自由主義」も同様である。事実、勝ち組・負け組、自己責任といった言葉が臆面もなく使われたのだから。(柄谷行人「長池講義」2009
今、市場原理主義がむきだしの素顔を見せ、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られる時である。(中井久夫「アイデンティティと生きがい」『樹をみつめて』所収)。

冒頭の文で、英国心理学会( BPS)と世界保険機関(WHO)のDSM批判とされる「メンタル・ディスオーダー」の診断区分は、《支配的社会規範を基準にしているという瞭然たる事実を無視している》とされていた。

環境のせいか、あるいは資質のせいかは別にして、支配的社会規範(新自由主義)に適合性が欠けるようになり、他者との折り合いがうまくいかなくなった人たちが、「メンタル・ディスオーダー」の範疇に入れられがちだ。そして彼等は「社会的負け犬」への道を歩む。そのようにここでのわたくしは当面捉えることにする。

この社会的負け犬、あるいはその予備軍の指標として、現代の流行語「自閉症スペクトラム」は機能している側面はないだろうか。

ところで上に引用しベルギーのラカン派精神分析者ポール・バーハウーー英語圏では代表的ラカン派論客のひとりであるーーは、別の論文で次のように言っている。

私の見解では、若年層における自閉症の増大は伝統的な自閉症とはほとんど関係がない。それは社会的孤立増大の反映、〈他者〉によって引き起こされる脅威からの逃走の反映である。

この見解の正否については議論があるだろうが、その前段もふくめて引用しよう。

どの社会秩序も、その成員のアイデンティティの展開を決定づける。それと同時に、そのメンバーの潜在的な障害 disorders を決定づける。(フロイト時代の)ヴィクトリア朝社会は、超厳格な超自我の圧制下、神経症の市民を生みだした。彼らは集団として、つねに自らの家父長にためにーー他の集団の家父長に対してーー、戦う用意があった。

エンロン Enron(ポストモダン)社会は、互いに競争する個人的消費者を生みだす。ラカンにとって、ポストモダンの超自我の命令は「享楽せよ!」である。

ヴィクトリア朝時代の病は、あまりにも多く集団にかかわり、あまりにも少なく享楽にかかわることだった。ポストモダンの個人たちの現代的病は、あまりにも多く享楽にかかわり、あまりにも少なく集団にかかわることである。

我々は狂ったように自ら享楽しなければならない。より正しく表現するなら、狂ったように消費しなければならない。数年前に比べてさえも享楽の限界は最小にしなければならない。草叢の蛇(目に見えない敵 snake in the grass)は、文字通りあるいは比喩としても、首尾よく捕まえなければならないーーそれは我々の義務であるーー。その捕獲方法は、もちろん絶えまない他者との競争によってである。このようなシステムは、トーマス・ホッブズの恐怖を正当づける、すなわち、Homo homini lupus est(人間は人間にとって狼である)。

結果は、Mark Fisher が印象的に名付けた「抑鬱的ヘドニア(快楽)depressive hedonia」である。

(新自由主義の)能力主義システムは、自らを維持するため、特定のキャラクターを素早く特権化し、そうでない者たちを罰し始めている。競争心あふれるキャラクターが必須であるため、個人主義がたちまち猖獗する。

また融通性が高く望まれる。だがその代償は、皮相的で不安定なアイデンティティである。

孤独は高価な贅沢となる。孤独の場は、一時的な連帯に取って代わられる。その主な目的は、負け組から以上に連帯仲間から何かをもっと勝ち取ろうとすることである。

仲間との強い社会的絆は、実質上締め出され、仕事への感情的コミットメントはほとんど存在しない。疑いもなく、会社や組織への忠誠はない。

これに関連して、典型的な防衛メカニズムは冷笑主義である。それは本気で取り組むことの失敗あるいは拒否の反映である。個人主義・利益至上主義・オタク文化 me-culture は、擬似風土病のようになっている。…表層下には、失敗の怖れからより広い社会不安までの恐怖がある。

この精神医学のカテゴリーは最近劇的に増え、製薬産業は莫大な利益を得ている。私は、若い人たちのあいだでの自閉症の診断の増大の中にこの結果を観察する。私の見解では、若年層における自閉症の増大は伝統的な自閉症とはほとんど関係がない。それは社会的孤立増大の反映、〈他者〉によって引き起こされる脅威からの逃走の反映である。(ポール・バーハウ2009,Paul Verhaeghe, Identity and Angst: on Civilisation's New Discontent,PDF)

フロイト時代の超強制倫理社会が生み出したのが「神経症」であるならば、我々の新自由主義社会が生みだしたのが「メンタル・ディスオーダー」ーーそしてその代表的なものが「自閉症」あるいは現在なら「自閉症スペクトラム」である、という論旨である。

かつまた《この精神医学のカテゴリーは最近劇的に増え、製薬産業は莫大な利益を得ている》とあるように、「金」のせいで自閉症診断が増えたのではないか、という「現代の流行病「自閉症」」に記した内容の暗示もある。

そしてこの小論文は「文明の中の新しい居心地の悪さ」という副題をもっている。フロイトの「文化の中の居心地の悪さ」1930年の21世紀版の導入版としても読んでほしいという著者の意図だろう。

これが極論であるか否かの判断は、読み手に任せる。

ただし《(新自由主義の)能力主義システムは、自らを維持するため、特定のキャラクターを素早く特権化し、そうでない者たちを罰し始めている》というのは否定できない厳然とした事実だろう。

我々の時代の標語は、生産性、競争性、革新、成長、アウトプット、プレゼンテーション等々であり、すべて「経済のディスクール」である。そこでは、策謀や計略や慎重さを身につけ、また自分の勧告をおしつけ、相手に信じさせ、同意をうばいとってしまう種族は生きやすいだろう。

だがそうでないキャラクターは負け犬になりがちだ。

ポール・バーハウは最近の書では次のように記している。

疑いもなく、エゴイズム・他者蹴落し性向・攻撃性は人間固有の特徴である、ーー悪の陳腐さは、我々の現実だ。だが、愛他主義・協調・連帯ーー善の陳腐さーー、これも同様に我々固有のものである。どちらの特徴が支配するかを決定するのは環境だ。(ポール・バーハウ2014、Paul Verhaeghe What About Me? )

悪の陳腐/善の陳腐の戦いにおいて、我々の時代は前者を特権化する。そうではないだろうか?以前からそうだったという観点もあろうが、すくなくとも「新自由主義」的非イデオロギーの時代により一層そうであるようになったのは、確かである。

…………

ここでやや飛躍して記すが、フロイト・ラカン派的な精神分析的治療は終焉間近であるのは、ほぼ間違いない。

精神医学ではDSM などの影響で精神分析的な観点は捨て去られ、現在では精神疾患には薬物療法以外の治療法はほとんどなくなっています。そして、精神療法の領域では認知行動療法が主流になってきています。(向井雅明「自閉症について」2016年)

中井久夫はすでに1989年の段階で、次のように言っている。

現在の米国の有様を見れば、精神病の精神療法は、医師の手を離れて看護師、臨床心理士の手に移り、医師はもっぱら薬物療法を行っている。わが国もその跡を追うかもしれない。すでに精神療法を学ぼうという人たちの多くは、医師よりも臨床心理士ではないだろうか。(中井久夫「統合失調症の精神療法」1989年)

だがフロイト・ラカン派の視点は、現在の経験主義的な現場の精神科医や心理士たちの多くに欠けているものがある。それはフロイト・ラカン派の精神分析的治療が斜陽であってもすこぶる貴重である。

(もっともわたくしの場合、精神医学関係の論についてはほとんどフロイト・ラカン派のみを基本的に読むので偏見があるのを疑わなくてはならない。)

フロイトもラカンも破門経験者である。フロイト自身は当時のユダヤ人ということもあり、生まれつき社会から破門されていた。ラカンは1963年に国際精神分析協会 IPA によって破門されている。

人は「被破門」マインドがなければ、制度批判的精神をもちにくい。

ユダヤ人であったおかげで、私は、他の人たちが知力を行使する際制約されるところの数多くの偏見を免れたのでした。ユダヤ人の故に私はまた、排斥運動に遭遇する心構えもできておりましたし、固く結束した多数派に与することをきっぱりあきらめる覚悟もできたのでした。(フロイト『ブナイ・ブリース協会会員への挨拶』)

もちろんある意味でさらに上には上がいるのであり、スピノザはユダヤ人共同体を異端の廉で、追われたのち、レンズ磨き職人として生計を立てた。

フロイト・ラカン派ではないが、わたくしが敬愛する日本の精神科医中井久夫も「破門」経験者である。

私がヴァレリーを開くのは、決って危機の時であった。

私が自由検討を維持するためにはかなりの努力を要する状況があった。ヴァレリーは、頭をまったく自由な状態に保つために役にたってくれた。主に彼の散文である。ヴァレリーは危機感受性とでもいうべきものがある。個人的危機の解決が政治的危機への対応を呼び醒ますのである。私の場合がそうであるかどうか、おのれでは定めがたいが、私には二十歳代は個人的にも家庭的にも職場的にも危機が重なってきた。私はそれらを正面から解決していったが、ついに、医学部の構造を批判的に書いた匿名の一文が露頭して私は“謝罪”を拒み、破門されて微生物の研究から精神科に移った。移った後はヴァレリー先生を呼び出す必要は地震まで生じていない。(中井久夫「ヴァレリーと私」2008.9.25(書き下ろし)『日時計の影』所収)

たとえば多くの場合「制度の人」たちである経験論的専門家たちは社会批判に向うことはすくない。

制度とは、語りつつある自分を確認する擬似主体にまやかしの主体の座を提供し、その同じ身振りによってそれと悟られぬままに客体化してしまう説話論的な装置にほかならない。それは、存在はしないが機能する装置なのである。(蓮實重彦『物語批判序説』)
説話論的磁場。それは、誰が、何のために語っているのかが判然としない領域である。そこで口を開くとき、人は語るのではなく、語らされてしまう。語りつつある物語を分節化する主体としてではなく、物語の分節機能に従って説話論的な機能を演じる作中人物の一人となるほかないのである。にもかかわらず、人は、あたかも記号流通の階層的秩序が存在し、自分がその中心に、上層部に、もっと意味の濃密な地帯に位置しているかのごとく錯覚しつづけている。

近代、あるいは現代と呼ばれる同時代的な一時期における自我、もしくは主体とは、この錯覚に与えられたとりあえずの名前にすぎない。(蓮實重彦『物語批判序説』)

わたくしは今回、日本の精神科医やその関係者による「自閉症スペクトラム」の記述がある10ほどの論ーー精神科医らしきひとのブログ記事も含めばもうすこし多いーーを読んでみたが、半数ほどは、その猫撫で声文体と社会規範に折り合いをつけるのみのマインドに溢れ返った様に罵倒したくなった。いやいやこの話題はやめておこう・・・

とはいえどうしようもない連中が多すぎる、医師といえばある程度「聡明な人たち」の集団であるはずだが、《世の中で一番始末に悪い馬鹿、背景に学問も持った馬鹿》(小林秀雄)と呟きたくなってしまう。たとえば「自閉症スペクトラム」が、現在の社会で負け犬、あるいは負け犬予備軍の「有徴」印として機能しているのではないかと疑う素振りさえない連中が多く、のほほんとエビデンス主義にのっとって感想文でしかないことを学会などで発表している・・・

逆説的なことに、エビデンス主義って、まさしくポスト真理なんですね。エビデンスって、「真理という問題」を考えることの放棄だから。エビデンスエビデンス言うことっていうのは、深いことを考えたくないという無意識的な恐れの表明です。 (千葉雅也ツイート)

《医療・教育・宗教を「三大脅迫産業」という》(中井久夫『精神科医がものを書くとき』)のだそうだが、実にいつわりのへりぐたりによる猫なで声で脅しマインドを隠蔽しつつもっともらしく語っているあの連中・・・制度の腐臭にまみれたアホウドリども・・・

いやいやもうやめておこう……いずれにせよ社会批判の観点が生まれるのは「心理学」ではなく、フロイト・ラカン派の「メタ心理学」的態度である。

フロイトの精神分析は経験的な心理学ではない。それは、彼自身がいうように、「メタ心理学」であり、いいかえると、超越論的な心理学である。その観点からみれば、カントが超越論的に見出す感性や悟性の働きが、フロイトのいう心的な構造と同型であり、どちらも「比喩」としてしか語りえない、しかも、在るとしかいいようのない働きであることは明白なのである。

そして、フロイトの超越論的心理学の意味を回復しようとしたラカンが想定した構造は、よりカント的である。仮象(想像的なもの)、形式(象徴的なもの)、物自体(リアルなもの)。むろん、私がいいたいのは、カントをフロイトの側から解釈することではない。その逆である。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

「超越論的」とは、最も基本的には、自分が暗黙に前提している諸条件そのものを吟味にかけるということである。

ここでバーハウの「激烈な」DSM批判の文を「現代の流行病「自閉症」」から再掲しよう。

DSMの診断は、もっぱら客観的観察を基礎とされなければならない。概念駆動診断conceptually-driven diagnosis は問題外である。結果として、どのDSM診断も、観察された振舞いがノーマルか否かを決めるために、社会的規範を拠り所にしなければならない。つまり、異常 ab – normal という概念は文字通り理解されなければならない。すなわち、それは社会規範に従っていないということだ。したがって、この種の診断に従う治療は、ただ一つの目的を持つ。それは、患者の悪い症状を治療し、規範に従う「立派な」市民に変えるということだ。(“Chronicle of a death foretold”: the end of psychotherapy. Paul Verhaeghe – Dublin, September 2007、PDF )
精神医学診断における想定された新しいバイブルとしての DSM(精神障害の診断と統計の手引き)…。このDSM の問題は、科学的観点からは、たんなるゴミ屑だということだ。あらゆる努力にもかかわらず、DSM は科学的たぶらかしに過ぎない。…奇妙なのは、このことは一般的に知られているのに、それほど多くの反応を引き起こしていないことである。われわれの誰もが、あたかも王様は裸であることを知らないかのように、DSM に依拠し続けている。 (“Chronicle of a death foretold”: the end of psychotherapy. Paul Verhaeghe – Dublin, September 2007 – Health4Lifeconfererence – DCU)

そして、もしDSM が裸の王様であるにもかかわらず、精神医療に携わる人がそれに依拠し続けているのなら、それはおそらく、専門家とは、自らを支えるパラダイム(諸条件)の変容を抑圧する集団から、ということが言いうる。

プロフェッショナルというのはある職能集団を前提としている以上、共同体的なものたらざるをえない。だから、プロの倫理感というものは相対的だし、共同体的な意志に保護されている。(…)プロフェッショナルは絶対に必要だし、 誰にでもなれるというほど簡単なものでもない。しかし、こうしたプロフェッショナルは、それが有効に機能した場合、共同体を安定させ変容の可能性を抑圧するという限界を持っている。 (蓮實重彦『闘争のエチカ』)

だが我々にとって、《もっと重要なことは、われわれの問いが、我々自身の“説明”できない所与の“環境”のなかで与えられているのだということ、したがってそれは普遍的でもなければ最終的でもないということを心得ておくことである。》(柄谷行人『隠喩としての建築』)

誠実・真摯・聡明な人たちでさえ(おおむね)、新自由主義という釈迦の掌で、なにやら対策を練ったつもりになっている猿に過ぎない。

そしてその対策は事実上、次のような形で機能する。

要するに、「善い」選択自体が、支配的イデオロギーを強化するように機能する。イデオロギーが我々の欲望にとっての囮として機能する仕方を強化する。ドゥルーズ&ガタリが言ったように、それは我々自身の抑圧と奴隷へと導く。(Levi R. Bryant 2008,PDF)

というわけだが、このあたりで「自閉症」についての話題はやめにしておく。以上は、一夜漬けならず三日漬けの「成果」であり、つまり自閉症についてほとんど無知であった「蚊居肢散人」が記しているわけで、「強い疑い」をもちつつ読まねばならぬ・・・


…………

※付記

日本でもやや年配の「まともな」精神科医が次のように言っているのを見出した。

……こうしてみると,DSM は精神病理学と科学哲学を 2つの柱にしつつ,そのいずれもが,専門的見地からみるなら初歩的な水準にとどまっています.そのようなものが,その後3 0 年以上も生き延び,それどころか世界の精神医学の指導原理となっているのは,不思議といえば不思議なことです.
DSM が臨床の現場に弊害を与えたとしたならば,それは第Ⅲ版ではなく,第Ⅳ版(1 9 9 4 )の時代ではないでしょうか.第Ⅲ版も第Ⅳ版も操作的診断学として,その基本骨格は同じです.しかし第Ⅲ版では, 「この診断マニュアルは,精神科の基本的診断ができるようになっている人が使用するように」 ,という但し書きが付けられています.つまり一定の臨床経験を積んだうえで使うものと位置付けられているのです.われわれもそれを確認して納得したものです.

実は,第Ⅳ版にもそうした但し書きがいくらか記載されているのですが,たいていは無視されています.ちなみにその箇所を読まれた方はどれくらいおられるでしょうか.第Ⅳ版の時代になって,米国の精神医学は謙虚さを失いました.そして誇りと自信を失った日本は,それに唯々諾々と従っているわけです.
…現在の診断学では信頼性が暴走しています.たとえば経験豊かな精神科医でも,駆け出しの研修医でも同じ診断にならなければならないというのは乱暴な話です.さらには臨床に携わったことのない研究者でも同じ診断になるならば,臨床知は捨て去られることになります.なぜなら,一致させるためには,低きに合わせざるをえないからです.こうした体たらくでは,素人にばかにされるのもいたしかたありません.([うつ病の臨床診断について]、内海健、2011、PDF)

DSM第Ⅳ版(1 9 9 4 )以降の世代の精神医療にたずさわる人たち、すなわちこれまた市場原理主義がおおっぴらに席捲するようになった時代の人たちはおおむね、わたくしのような《素人にばかにされるのもいたしかたありません》テイタラクにあるらしいよ