2017年12月12日火曜日

星と月は天の穴


その女を、彼は気に入っていた。気に入るということは愛するとは別のことだ。愛することは、この世の中に自分の分身を一つ待つことだ。それは、自分自身にたいしての顧慮が倍になることである。(吉行淳之介「驟雨」)

⋯⋯⋯⋯

ずっと読み返してみたんだ、昨日。11月なかばまでは気に入ってただけなんだがな。とっても趣味があいそうなスケベ女だと。徹底的な勘違いをしていたよ。

分身とは、私 moi プラス対象aーー私のイメージに付け加えられた不可視の部分ーーと同じものである。(ムラデン・ドラー1991, Lacan and the Uncanny、PDF
分身とは i′(a) + a、想像的他者プラス対象aである(ロレンゾ・チーサ2007、Subjectivity and Otherness)

⋯⋯⋯⋯

11月3日「 いつか、あなたと話ができたらと思う。わたしはあなたに話したいことがある。いつか。」


11月16日「あなたに言わなくてはいけないことがあります。だけど怖くて言えなかった。」

11月20日「私は誰にも打ち明けたことのない秘密を、あなたに打ち明けたこと、⋯⋯私は恥ずかしく隠れてしまいたい気持ちになりました。」


ーーこの11月16日~20日で、ボクは沈没したよ。遠く離れた、会ったこともない、見ず知らずの男にあんなことを打ち明けるなんて!「マヌケ男とキチガイ女の不可能な出会い」だよ

きみは「理由はわからない」と最初は言ったけど、のちに「理由」を書いてるんだな。

12月2日「あなたは、ずっとずっと男と女の話を書き続けているのはどうして? 」

ーーそうなのか、自分ではあまり意識していなかったけど、と思ったよ。最近は「意識して」愛の話を書いてるけどさ。


12月4日「あなたのblog を初めて読んだ時から、あなたは愛に苦しんでいると、思っていた

あなたの中に、誰もみていない。ただ、自分自身を見ているかもしれない。

あなたとわたしは、似てるわ」

ーーこれは完全に「分身」の話だね

一度、11月のおわりごろだったか、ツイッター上のエアリプで次の文を引用したとけどさ、きみ宛に。

人は愛する Man liebt:

1)ナルシシズム型では、

a)現在の自分(自己自身)
b)過去の自分
c) そうなりたい自分
d)自己自身の一部であった人物

2) アタッチメント型 Anlehnungstypusでは、

a) 養育してくれる女性
b) 保護してくれる男性

(フロイト『ナルシシズム入門』1914ーー「愛することは、愛されたいということである」)

そのときには、きみはすぐに否定した、わたしにはどれもあてはまらないって。まあいいさ、とくに文句をいうつもりはないよ


12月6日「わたしは、あなたのblog を読んであなたが嫌いだった

あなたが愛に苦しんでいるとわかったから

見るのがつらくて

あなたのこと、ダイキライ

ダイキライ

ダイキライだわ! 」

ーーボクは性格がわるいからこう引用しておくよ

情熱的な愛は、遠い昔の憎悪を克服したもの、あるいは憎悪に貪り喰われることを克服したものでありうる。

Wir hätten erwartet, daß die große Liebe längst den Haß überwunden hätte oder von ihm aufgezehrt worden wäre.(フロイト『鼠男』1909年)
情熱は定義からしてその対象を傷つける。相手が情熱の対象の位置を占めることに徐々に同意したとしても、畏怖と驚きを経ずして同意することは絶対にできない。(ジジェク『ラカンはこう読め』2006)

⋯⋯⋯⋯

ボクは二十歳前後、吉行淳之介をよく読んでいた。高校時代、森有正を読んで、リルケを読んで、小林秀雄を読んで、ヴァレリーを読んだことからすれば、ひどい「堕落」かもしれないさ。

女から手痛い目にあわされた記憶が意識の底に沈み、ほとんど無意識のうちに復讐心理が働くのではないか(吉行淳之介「星と月は天の穴」)

ボクはずっと次のような態度をとってきたつもりだが、きみはその鎧を取り払っちまった。

・現在の彼は、遊戯の段階からはみ出しそうな女性関係には、巻込まれまいと堅く心に鎧を着けていた。

・私は蕩児の姿勢を装って、町を歩きまわっていた。(吉行淳之介「娼婦の部屋」)

「蚊居肢」というシニフィアン自体機能しなくなっちまったよ、きみのせいで。

でもいまだ「無意識のうちに復讐心理が働く」タイプだからな、気をつけなくっちゃ。いまここに書いてる文自体でさえ「復讐」っぽいんだな、


とはいえなによりもまず、プルーストの言ってることがしみじみーー肉体的にーーわかるようになった気分だよ、きみのおかげで

ところで、ある年齢に達してからは、われわれの愛やわれわれの愛人は、われわれの苦悩から生みだされるのであり、われわれの過去と、その過去が刻印された肉体の傷とが、われわれの未来を決定づける。(プルースト「逃げ去る女」)

本なんか読んでるより、きみの「手紙」のほうがずっと貴重だね、今は。《手紙は…幽霊との交わり Verkehr mit Gespenstern でありしかも受取人の幽霊だけではなく、自分自身の幽霊との交わりでもあります。…手紙を書くとは…むさぼり尽くそうと待っている幽霊たちの前で裸になることです Briefe schreiben aber heißt, sich vor den Gespenstern entblößen, worauf, sie gierig warten.》(カフカ、1922年 3 月末 ミレナ宛)

《すぐれたひとたち》は彼に何も教えない。ベルゴットやエルスティールさえ、彼に個人的な習得を避けさせ、シーニュと、彼が味わねばならぬ失望とを経由することを免れさせるようないかなる真実をも、彼に伝えることはできない。したがって彼は、すぐれた精神の持主も、立派な友人でさえも、短い愛ほどの価値がないことを非常に早く予感する。しかし、愛においても、それに対応する客観主義的な幻想 illusion を捨て去ることは、彼にとってはすでに困難である。愛する理由は、愛の対象となっているひとの中には決して存在せず、複雑な法則にしたがって彼のうちに具体化される幻影 fantômes・第三身分 Tiers・作文 Thèmes に帰属するものであることを彼に教えるのは、若い娘たちへの集団的な愛であり、アルベルチーヌのゆっくりした個性の形成であり、選択の偶然性である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

「短い愛」をあえて黒字強調したけど、とくに意味はないさ。

ま、ひょっとして意味があるなら、次のようなことかも。

「アルベルチーヌさまはお発ちになりました」とフランソワーズが告げた日の、アルベルチーヌとの離別は、ほかの多くの離別の一つのアレゴリー、むしろひどくは目立たない一つのアレゴリーといってもよかった。ということは、われわれが愛していることを発見するためには、またおそらく、愛するようになるためにさえも、しばしば離別の日の到来が必要だということなのである。(プルースト「逃げさる女」)



2017年12月11日月曜日

恋による過去の外傷性記憶の回帰

フロイトは寄る辺なき(無力な)状況をトラウマ的状況と呼んでいる。

・経験された寄る辺なき状況 Situation von Hilflosigkeit を外傷的 traumatische 状況と呼ぶ。

・現在の(寄る辺なき)状況がむかしに経験した外傷的状況を思い出させる die gegenwärtige Situation erinnert mich an eines der früher erfahrenen traumatischen Erlebnisse. (フロイト『制止、症状、不安』1926年)

二番目の文は、この寄る辺なき状況にこの今陥ったら、むかしの寄る辺なき状況の記憶が襲ってくると言っているわけだ。

ロラン・バルトによれば、愛する者は不意打ちを喰らう者なんだから、やっぱり寄る辺なき状況であり、つまりは恋に陥いるってのはトラウマ的状況だよ(いやあなんだか文章がうまく書けないな、ナンデダロウカ・・・)

恋する者 L'amoureux は錯乱 délire している(彼は「価値観を転倒せしめる」のだ)。ただし、その錯乱はおろかしい bête ものである。恋する者ほどおろかしい者があるだろうか。

…(おろかしさ、それは不意打ちを喰うということである。恋する者はたえず不意打ちを喰っている。彼には、変形させたり、検討を加えたり、保護したりしている余裕がない。おそらくは彼にも自分のおろかしさがわかっている。しかし、彼はそれを非難することをしない。あるいはまた、彼のおろかしさは、裂け目clivageというか倒錯というか、そのような働き方をする。彼はいう、いかにもおろかしいことだ、でもそれは真実なのだ。)

(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』)

「世界の論理の突然のひびわれ」を言うデュラスの愛だってそうだ。

愛するという感情が不意に訪れるとしたら、それはどのようにしてなのか、とあなたは訊ねる。彼女は答える-たぶん、世界の論理の突然のひびわれから。彼女はいう-たとえば、ひとつの過ちから。彼女はいう-意志からは決して。(マルグリット・デュラス「死の病い」 )

また、日本におけるトラウマ研究の第一人者中井久夫の「外傷性記憶」の定義は、「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」なんだから、恋に陥った者がむかしのトラウマ的記憶に襲われても何のおかしいこともないね、

PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年)

さらにまた、ラカンの「身体の出来事」とは、「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」にかかわるものだと思うな。

次のジャック=アラン・ミレールの定義に依拠すれば、ということだが。

身体の出来事は、トラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。événement de corps…est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard

…女性の享楽は、純粋な身体の出来事である。la jouissance féminine est un pur événement de corps ジャック=アラン・ミレール 、Miller, dans son Cours L'Être et l'Un 、2011、pdfーー女性の享楽と身体の出来事

さらにマタマタ、ミレールの定義にあるように、女性の享楽=純粋な身体の出来事なんだから、「女性の享楽」とは、「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」にかかわるものということになる。

いやあボクはいまいい加減なこと言っているかもしれない、なんだか途方もない「愚かしさ」に襲われてんだ、ドウイウワケカシラナイケド。そのうち書き直すかもしれないが、いまはこういう風にしか書けないね。

「わたしは、あなたの人生に楔を打ちたかった」
「わたしは、命の一部分をあなたに差し出した」

ーーこの「楔」とか「命」ってのは、トロイの木馬みたいなもんじゃないんだろうか・・・

⋯⋯⋯⋯

以下、以前メモした「アリアドネから渡されてしまった糸」からいくらかの引用を抜粋しておくよ、中井久夫は阪神大震災に被災してあきらかに幼年時代の「いじめ体験」に襲われてるよ。


阪神・淡路大震災は私の中の何かを変えた。地面が揺れたごときで何が変わるかと自分に言いきかせたのは今から思えば笑止であった。

まず、私は沈黙している患者の側に何時間でもいるという精神科医にとって不可欠な能力をまだ回復していない。三十年以上続けられていたこのことができなくなった。私は一九九七年春に病院を定年で退くからおそらく回復の機会はないだろう。これは高揚状態というか躁状態で地震に続く事態に対応した後遺症ではないかと思う。

いっぽう、私は患者のこころの傷に敏感となった。幼年時代の虐待や学校でのいじめを受けた過去が現在に働いているのを察知するのに敏速になった。過去の過酷な体験のフラッシュバックに今も苛まれている患者がいかに多いか。(中井久夫「私の「今」」1996年8月初出『アリアドネからの糸』所収)

ーー中井久夫は被災体験・外傷患者治療のなかで、みずからの幼少期の外傷性記憶にあきらかに襲われている、とわたくしは思う。

笑われるかもしれないが、大戦中、飢餓と教師や上級生の私刑の苦痛のあまり、さきのほうの生命が縮んでもいいから今日一日、あるいはこの場を生かし通したまえと、“神”に祈ったことが一度や二度ではなかったからである。最大限度を、“神”に甘えて四十歳代にしてもらった。この“秘密”をはじめて人に打ち明けたのは五十歳の誕生日を過ぎてからである。(中井久夫「知命の年に」初出1984年『記憶の肖像』所収)

最初に語られるトラウマは二次受傷であることが多い。たとえば高校の教師のいじめである。これはかろうじて扱えるが、そうすると、それの下に幼年時代のトラウマがくろぐろとした姿を現す。震災症例でも、ある少年の表現では震災は三割で七割は別だそうである。トラウマは時間の井戸の中で過去ほど下層にある成層構造をなしているようである。ほんとうの原トラウマに触れたという感覚のある症例はまだない。また、触れて、それですべてよしというものだという保証などない。(中井久夫「トラウマについての断想」初出2006年『日時計の影』所収)
外傷的事件の強度も、内部に維持されている外傷性記憶の強度もある程度以下であれば「馴れ」が生じ「忘却」が訪れる。あるいは、都合のよいような改変さえ生じる。私たちはそれがあればこそ、日々降り注ぐ小さな傷に耐えて生きてゆく。ただ、そういうものが人格を形成する上で影響がないとはいえない。

しかし、ある臨界線以上の強度の事件あるいはその記憶は強度が変わらない。情況によっては逆耐性さえ生じうる。すなわち、暴露されるごとに心的装置は脆弱となり、傷はますます深く、こじれる。素質による程度の差はあるかもしれないが、どのような人でも、残虐ないじめや拷問、反復する性虐待を受ければ外傷的記憶が生じる。また、外傷を受けつづけた人、外傷性記憶を長く持ちつづけた人の後遺症は、心が痩せ(貧困化)ひずみ(歪曲)いじけ(萎縮)ることである。これをほどくことが治療戦略の最終目標である。 (中井久夫「トラウマとその治療経験」2000年『徴候・記憶・外傷』所収)

⋯⋯⋯⋯

※付記

フロイトにとって原初の外傷的状況は次のものである。

…生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける寄る辺なさ Hilflosigkeit依存性 Abhängigkeitである。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我に分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、失われた子宮内生活をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

あるいは簡潔に、《母を見失うという外傷的状況 Die traumatische Situation des Vermissens der Mutter》( フロイト『制止、症状、不安』1926年 )

これをラカンは次のように表現している。

行ったり来たりする母 cette mère qui va, qui vient……母が行ったり来たりするのはあれはいったい何なんだ? Qu'est-ce que ça veut dire qu'elle aille et qu'elle vienne ?(ラカン、セミネール5、15 Janvier 1958)

こうして外傷的出来事に遭遇して原トラウマに近いものが現われ、それへの反応として「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」が痛切に芽生えるということは十分にありうる。

愛することは、本質的に、愛されることを欲することである。l'amour, c'est essentiellement vouloir être aimé. (ラカン、S11, 17 Juin 1964)



2017年12月10日日曜日

女性の享楽と身体の出来事

ラカン概念の「女性の享楽」は(一部で)神秘的に語られすぎていように思える。ここでは、この概念の脱神秘化のための資料のいくつかをーー長くなり過ぎないようにできるだけ簡潔にーー掲げる。

 まず晩年のラカンの身体の出来事という表現のある文を示す。

症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)

ーーこの「症状 symptôme」は、「サントーム sinthome」のことである。《サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps》  (miller, Fin de la leçon 9 du 30 mars 2011)

ラカンはこの症状(サントーム)を、「他の身体の症状 symptôme d'un autre corps」、「ひとりの女 Une femme」とも表現している。

ひとりの女は…他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)

アルゼンチンの女流ラカン派 Florencia Farìas ーーほとんど無名だろうーーは、次のように記している。

女性性をめぐって問い彷徨うなか、ラカンは症状としての女 une femme comme symptôme について語る。その症状のなかに、他の性 l'Autre sexe がその支えを見出す。後期ラカンの教えにおいて、症状と女性性とのあいだの近接性 rapprochement entre le sinthome et le féminin が見られる。

女la femme は「他の身体の症状 le symptôme d'un autre corps」であることに同意する。…彼女の身体を他の身体の享楽に貸し与えるのである elle prête son corps à la jouissance d'un autre corps。他方、ヒステリーはその身体を貸さない l'hystérique ne prête pas son corps。(Florencia Farìas 「ヒステリー的身体と女の身体 Le corps de l'hystérique – Le corps féminin」(2010.PDF

⋯⋯⋯⋯

さてここから、本題である女性の享楽、--ジャック=アラン・ミレールによってようやく最近になって明瞭に注釈されるようになった「女性の享楽 jouissance féminine」をめぐる。

身体の出来事は、トラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。événement de corps…est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard

…この享楽は、固着の対象である。elle est l'objet d'une fixation

…女性の享楽は、純粋な身体の出来事である。la jouissance féminine est un pur événement de corps ジャック=アラン・ミレール 、Miller, dans son Cours L'Être et l'Un 、2011、pdf

「トラウマ」あるいは「固着」という用語が出てきているように、実際はフロイトにすでにある。

たとえば次の文には、出来事、固着という用語が出てきているように直接的にラカン概念「女性の享楽」にかかわる、とわたくしは思う。

実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisseが、欲動の固着 Fixierungen der Libido 点を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』第23章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」、1916-1917

⋯⋯⋯⋯

つぎにフロイトによる「トラウマ」(そして異物)をめぐる記述をいくらか抜き出す。

トラウマ、ないしその想起は、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物のように作用する。

das psychische Trauma, resp. die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt, welcher noch lange Zeit nach seinem Eindringen als gegenwärtig wirkendes Agens gelten muss(フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

この「異物 Fremdkörper」の仏訳は「corps étranger」(異物、異者)であり。 晩年のラカンの《我々にとって異者である身体 un corps qui nous est étranger》(S23)に相当する(参照:女とは「異者としての身体」のこと)。

⋯⋯⋯⋯

次に固着である。この固着とは事実上、原固着のことであり、原抑圧のことである。

われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり欲動の心理的(表象的)な代理 (Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識の中に入り込むのを拒否するという、第一期の抑圧を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixierung が行われる。というのは、その代表はそれ以後不変のまま存続し、これに欲動が結びつくのである。(フロイト『抑圧』1915)
もちろん人間はだれでもすべての可能な防衛機制 Mechanismen nicht aufgelassen を利用するわけではなく、それらの中のいくつかを選ぶのであるが、その選ばれた防衛機制は、自我の中に固着 fixierenし、その性格の規則的反応様式 regelmäßige Reaktionsweisenとなって、その人の生涯を通じて、幼児期の最初の困難な状況に類似した状況が再現されるたびに反復される。かくしてそれは幼児症 Infantilismenとなり、有効期間を超えてもなおあとまで残ろうとする社会制度と同じ運命を分かつものとなるのである。詩人の嘆くように、「道理は不合理となり、博愛は苛責になる Vernunft wird Unsinn, Wohltat Plage」のである。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937)

原抑圧とほぼ等価なものとして、フロイトは次の語彙群を使用してもきた。

・夢の臍 Nabel des Traums
・菌糸体 mycelium、
・我々の存在の核 Kern unseres Wesen
・真珠貝の核の砂粒 das Sandkorn im Zentrum der Perle
・欲動の固着 Fixierungen der Triebe
・リビドーの固着 Fixierung der Libido、Libidofixierung
・欲動の根 Triebwurzel


原抑圧(固着)にかかわる表現として、ラカンにも種々の表現の仕方があるが(参照:S(Ⱥ)、あるいは欠如と穴)、ここでは「欲動の現実界」のみを掲げる。

・夢の臍 l'ombilic du rêve…それは欲動の現実界 le réel pulsionnel である。

・欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞 l'orifice du corps の機能によって欲動を特徴づけたことを。

・原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトが言った)「夢の臍 Nabel des Traums」 を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。(ラカン、Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

この穴 trou は「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」とも呼ばれる(ラカン、S21、19 Février 1974 )

⋯⋯⋯⋯

以上、女性の享楽は(基本的には)解剖学的女性とは関係がない。

なによりもまず身体の享楽、これが女性の享楽である。

非全体 pas toute の起源…それは、「ファルス享楽 jouissance phallique」ではなく「他の享楽 autre jouissance」を隠蔽している。いわゆる「女性の享楽 jouissance dite proprement féminine」を。 …(ラカン、 S19,、03 Mars 1972)
ファルスの彼岸 au-delà du phallus には、身体の享楽 jouissance du corps がある。(ラカン、S20、20 Février 1973)
ファルス享楽 jouissance phallique とは身体外 hors corps のものである。 (ファルスの彼岸にある)他の享楽 jouissance de l'Autre とは、言語外 hors langage、象徴界外 hors symbolique のものである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

上にある、女性の享楽に相当するファルス享楽の彼岸の「他の享楽」は、現代ラカン派では「自ら享楽する身体 le corps qui se jouit」 ともされる。

現実界、それは「話す身体」の神秘、無意識の神秘である Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient(Lacan,S20, 15 mai 1973 )

この話す身体 le corps parlant が、自ら享楽する身体である。

言説に囚われた身体 corps pris dans le discours は、話される身体 corps parlé・享楽される身体 corps joui である。反対に、話す身体 corps parlant は、(自ら)享楽する身体corps qui jouit である。(Florencia Farìas、2010, Le corps de l'hystérique – Le corps féminin、PDF

言説に囚われた身体 corps pris dans le discours は、話される身体 corps parlé・享楽される身体 corps joui である。反対に、話す身体 corps parlant は、享楽する身体 corps qui jouit である。(Florencia Farìas、2010, Le corps de l'hystérique – Le corps féminin、,PDF

上に「女性の享楽は(基本的には)解剖学的女性とは関係がない」としたが、実際のところファルス秩序(象徴的法、言語の法)に囚われているのは、解剖学的男性のほうが解剖学的女性よりも多い、とはいえる(父の法への服従)。もし「女性」というシニフィアンがなんらかの意味合いをもつならそこにある。


ーーこの図の注釈は「ヒステリー的身体と女の身体」を見よ。

⋯⋯⋯⋯

※付記

わたくしはアルトーをほとんど読んだことがないので、ここでは憶測として記すが、《私の内部の夜の身体を拡張することdilater le corps de ma nuit interne》とするアルトー、あるいは「身体なき処女」「性なき処女」を語るアルトーは、あきらかに女性の享楽の人であるだろう。


女性が改悪した自然の力が女性に反対して、女性によって解放されるであろう。この力とは死の力である。Une force naturelle que la femme avait altérée va se libérer contre la femme et par la femme. Cette force est une force de mort.

それは性の暗い貪欲さを持っている。それが呼び覚まされるのは女性によってであるが、統率されるのは男性によってである。男性から切除された女性なるもの、かつて女性が踏みにじった男性たちの鎖に繋がれた優しさがあの日一人の処女を復活させたのだ。しかしそれは身体もなく、性もない処女であって、ただ精神のみが彼女を利用できるのである。

ELLE A LA RAPACITÉ TÉNÉBREUSE DU SEXE. C’EST PAR LA FEMME QU’ELLE EST PROVOQUÉE MAIS C’EST PAR L’HOMME QU’ELLE EST DIRIGÉE. LE FÉMININ MUTILÉ DE L’HOMME, LA TENDRESSE ENCHAÎNÉE DES HOMMES QUE LA FEMME AVAIT PIÉTINÉE ONT RESSUSCITÉ CE JOUR-LÀ UNE VIERGE. MAIS C’ÉTAIT UNE VIERGE SANS CORPS, NI SEXE, ET DONT L’ESPRIT SEUL PEUT PROFITER.(『存在の新たなる啓示』)

事実、ラカン派(ミレール派)のPierre-Gilles Guéguenは、次のように語っている。

ラカンは言語の二重の価値を語っている。無形の意味 sens qui est incorporel と言葉の物質性 matérialité des mots である。後者は器官なき身体 corps sans organe のようなものであり、無限に分割されうる。そして二重の価値は、相互のあいだの衝撃 choc によってつながり合い、分裂病的享楽 jouissance schizophrèneをもたらす。こうして身体は、シニフィアンの刻印の表面 surface d'inscription du signifiantとなる。そして(身体外の hors corps)シニフィアンは、身体と器官のうえに享楽の位置付け localisations de jouissance を切り刻む。(LE CORPS PARLANT ET SES PULSIONS AU 21E SIÈCLE、 « Parler lalangue du corps », de Éric Laurent Pierre-Gilles Guéguen,2016, PDF

これを読めばアルトーの 「グロソラリ(舌語)」を想起せざるをえない。

ーーララング(母の言葉、母の舌語)とともに語られることの多い女性の享楽だが、それは「ララングという母の言霊」を見よ。

かつまた Pierre-Gilles Guéguen は次のようにも言う。

サントームの身体 Le corps du sinthome、肉の身体…それは常に自閉症的享楽 jouissance autiste・非共有的享楽を示す。(Pierre-Gilles Guéguen, 2016)

自閉症的享楽、これが「自ら享楽する身体」である。

なぜラカンは、このセミネール10「不安」において、執拗なまでに、小文字のaを主体の側に、大他者ではない側に位置させたのであろうか。小文字のaは、いわば、己れ固有の身体の享楽 jouissance du corps の表現、変形であり、自閉症的 autistique、閉じた fermé 享楽だからである--ラカンは、aを、フロイトのもの das Ding とも呼べる次元まで閉じたferméeものにしたのである--、他方、欲望は大他者と関係する le désir est relation à l'Autre。それゆえ、享楽と欲望とのあいだには二律背反 antinomie 、裂目 béance がある。享楽は、簡単に言ってしまえば、場処としてcomme lieu、己れ固有の身体 le corps propreであるが、欲望は大他者との関係を結んでいる。このような腑分けはまた、10年後、セミネール「アンコール」で大きな展開を見ることとなる。(J.-A. Miller, Introduction à la lecture du Séminaire L'angoise de Jacques Lacan, 2005 )

 上にみたように身体の享楽=女性の享楽であり、女性の享楽とは、自ら享楽する身体を表現する。だがなぜ自ら享楽するのか。

それはトラウマ的な純粋な身体の出来事のせいだ、というのが現代主流ラカン派の解釈である、《女性の享楽は、純粋な身体の出来事である。la jouissance féminine est un pur événement de corps》 (ジャック=アラン・ミレール 、Cours L'Être et l'Un 2011)



2017年12月8日金曜日

「僕の頭はクラクラした」

ーーわたしたちは偶然に彼や彼女を見出すのではありません。どうしてあの男なのでしょう? どうしてあの女なのでしょう?

それはフロイトが Liebesbedingung と呼んだものです、すなわち愛の条件 la condition d'amour、欲望の原因 la cause du désir(対象a) です。これは固有の特徴 trait particulier なのです。あるいはいくつかの特徴の組合せといってもいいでしょう。(ミレール、2010, On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " Jacques-Alain Millerーー「男女の「愛の条件」」)

オレの「愛の条件」かい? いくつかあるんだろうけど、「意識的に」分かってるのは、次のような状況だな。

(エリック・ロメール『クレールの膝』)

膝じゃないけどさ、「恋なるもののもっとも堅固な部分」で記したことだよ

「二人して隣家に面した裏の塀をよじのぼり、逃げたことがある。そのとき少女のお尻をセーラー服のスカート越しに押し上げて彼女の手助けをした。イヤ、モチロンソレダケデハナイ・・・乙女ノ太腿ノ感触ダッテコノ今デサエ残ッテイル・・・忘我の瞬間があったのである。眩暈をもたらす匂いの記憶もあるのだが何のニオヒであるかははっきりしない・・・抱きしめ合ったときの、うなじや腋臭の、さわやかな酸味をまじえた仄かなかおりとは、やや異なるニオヒではあった・・・」

男なら多寡はあれ誰でもそうなのかもしれないけど、たぶんそれがかなり強いということだ。上半身、乳房にはほとんど「冷感症」のタイプだね、オレは。

ナオミさんが先頭で乗り込む。鉄パイプのタラップを二段ずつあがるナオミさんの、膝からぐっと太くなる腿の奥に、半透明な布をまといつかせ性器のぼってりした肉ひだが睾丸のようにつき出しているのが見えた。地面からの照りかえしも強い、熱帯の晴れわたった高い空のもと、僕の頭はクラクラした。(大江健三郎「グルート島のレントゲン画法」『いかに木を殺すか』所収)


これが、オレの特異なーー凡庸なーー「魂を奪われる」(一目惚 coup de foudre)状況さ、


一般論としては次のようなこと。

車から降りたウェルテルがはじめてシャルロッテをみかける(そして夢中になる)。戸口を額縁のようにして彼女の姿が見えている(彼女は子供たちにパンを切り分けている。しばしば注釈されてきた有名な場面)。われわれが最初に愛するのは一枚のタブローなのだ。というのも、ひとめぼれにはどうしても唐突性の記号が必要だからである(それがわたしの責任を解除し、わたしを運命に委ね、運び去り、奪い去るのだ)。(……)幕が裂ける、そのときまで誰の目にも触れたことのないものが全貌をあらわすにする。たちまちに眼がこれをむさぼる。直接性は充満性の代償となりうるのである。わたしは今、秘密をあかされたのだ。画面は、やがてわたしが愛することになるものを聖別しているのである。(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』「魂を奪われる」の項)
ここで一目ぼれ coup de foudre の心理学を図解してみましょう。子供をあやしているロッテを初めて見たときのウェルテルを思い出して下さい。これは、アナクリティックのプランにおけるAnlehnungstypus の完璧に満足できるイマージュです。対象とゲーテの主人公にとっての根本的イマージュの一致が、彼の死に至る愛着の火蓋を切ります。(……)これが愛です。彼自身の自我を、愛で人は愛します。イマジネールな水準で実現された自身の自我です。(ラカン、セミネールⅠ「フロイトの技法論」)

とはいえ実際は、ミレールが次の文の後半で語っている「自分のナルシシスティックなイメージ」に魂をうばわれるってほうが大きいかもしれない。

――男性のファンタジーはどんな具合なのですか?

最初の一瞥で愛が見定められることがとても多いのです。ラカンがコメントした古典的な例があります。ゲーテの小説で、若いウェルテルはシャルロッテに突然の情熱に囚われます、それはウェルテルが彼女に初めて会った瞬間です。シャルロッテがまわりの子どもたちに食べ物を与えている場面です。女性の母性が彼の愛を閃かせたのです。

ほかの例をあげましょう。これは私の患者の症例で次のようなものです。五十代の社長なのですが、秘書のポストの応募者に面接するのです。二十代の若い女性が入ってきます。いきなり彼は愛を表白しました。彼はなにが起こったのか不思議でなりません。それで分析に訪れたのです。そこで彼は引き金をあらわにしました。彼女のなかに彼自身が二十歳のときに最初に求職の面接をした自分を想いおこしたのです。このようにして彼は自分自身に恋に陥ったのです。このふたつの例に、フロイトが区別した二つの愛の側面を見ることができます。あなたを守ってくれるひと、それは母の場合です。そして自分のナルシシスティックなイメージを愛するということです。(ミレール 「愛について」(Jacques-Alain Miller: On Love:We Love the One Who Responds to Our Question: “Who Am I?”より

人は愛する Man liebt:

1)ナルシシズム型では、

a)現在の自分(自己自身)
b)過去の自分
c) そうなりたい自分
d)自己自身の一部であった人物

2) アタッチメント型 Anlehnungstypusでは、

a) 養育してくれる女性
b) 保護してくれる男性

ーーフロイト『ナルシシズム入門』1914



2017年12月7日木曜日

男女の「愛の条件」

愛することは、愛されたいということである」で、一応メモしたけどさ、あんまり難しいこと考えないで次の文でいいんだよ。

ーーわたしたちは偶然に彼や彼女を見出すのではありません。どうしてあの男なのでしょう? どうしてあの女なのでしょう?

それはフロイトが Liebesbedingung と呼んだものです、すなわち愛の条件 la condition d'amour、欲望の原因 la cause du désir(対象a) です。これは固有の特徴 trait particulier なのです。あるいはいくつかの特徴の組合せといってもいいでしょう。それが愛される人を選ぶ決定的な働きをするのです。これは神経科学ではまったく推し量れません。というのはそれぞれの人に特有なものだからです。彼らの風変わりで内密な個人的歴史にかかわります。この固有の特徴はときには微細なものが効果を現わします。たとえば、フロイトがある患者の欲望の原因として指摘したのは、女性の「鼻のつや Glanz auf der Nase」でした。
――そんなつまらないもので生まれる愛なんて全然信じられない!

無意識の現実 La réalité de l'inconscient はフィクションを上回ります。あなたには思いもよらないでしょう、いかに人間の生活が、特に愛にかんしては、ごく小さなもの、ピンの頭、《神の宿る細部 divins détails》によって基礎づけられているかを。

とりわけ男たちには、そのようなものが欲望の原因として見出されるのは本当なのです。フェティッシュのようなものが愛の進行を閃き促すのです。ごく小さな特異なもの、父や母の想起、あるいは兄弟や姉妹、あるいは幼児期における誰かの想起もまた、愛の対象としての女性の選択に役割をはたします。

でも女性の愛のあり方は、フェティシストというよりももっと被愛妄想的 érotomaniaqueです。女性は愛されたい veulent être aimées のです。愛と関心、それは彼女たちに示されたり、彼女たちが他のひとに想定するものですが、女性の愛の引き金をひくために、それらはしばしば不可欠なものです。(ミレール、2010, On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " Jacques-Alain Miller)

男性の愛の《フェティッシュ形式 la forme fétichiste》 /女性の愛の《被愛妄想形式 la forme érotomaniaque》(E733)ってラカンは言ってるけどさ、ニーチェの《男の幸福は、「われは欲する」である。女の幸福は、「かれは欲する」である。》(『ツァラトゥストラ』)だっていいさ。

もちろん最近は男も女性化してんだから、男のなかには「彼女は欲する」ってのがいいヤツがいっぱいいるかもしれない。父なき時代は、《女性への推進力 pousse-à-la-femme》(ラカン、エトゥルディ、1972)の時代だからな(女性への推進力、男性への推進力)。

オレは愛なんて何なのかなんてわからんね、わからんからメモってるだけさ。ま、たぶんおおむねそんなんだろうっていう程度さ、人によって違うし、男や女のなかにもいろいろある。

なんで男女の相違がそうなるのか、ってのもおおむねたぶん次のようだろう、ってだけだな。

男児はジェンダー的な意味での最初の愛の対象を維持できる。彼はただ母を他の女性に取り替えるだけでよい。…

反対に、女児は愛の対象のジェンダーを取り替えなければならない。具体的にいえば、最初の愛の対象であった母を父に取り替えなければならない。最初の愛の関係の結果、女の子はいままでどおり母に同一化しており、それゆえ父が母に与えたのと同じような愛を父から期待する。…

この少女たちの愛の対象の変換の最も重要な帰結は、彼女たちは関係性それ自体により多く注意を払うようになるということである。(ポール・バーハウ1998、THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE、Paul Verhaeghe)


2017年12月6日水曜日

カイエの女狂い

ヴァレリーの女狂いは、51才からか。

オレは「性のような強大なものの排除」をしてきたわけじゃないんだが、愛は排除してきたかもな。それがまずかったのかな。

人が愛するとき、それは性とは全く関係がない。 quand on aime, il ne s'agit pas de sexe(ラカン、S20, December 19, 1972)

59才になってセイシンノキキだよ

外傷は破壊だけでなく、一部では昇華と自己治癒過程を介して創造に関係している。先に述べた詩人ヴァレリーの傷とは彼の意識においては二十歳の時の失恋であり、おそらくそれに続く精神病状態である(どこかで同性愛性の衝撃がからんでいると私は臆測する)。二十歳の危機において、「クーデタ」的にエロスを排除した彼は、結局三十年を隔てて五十一歳である才女と出会い、以後もの狂いのようにエロスにとりつかれた人になった。性のような強大なものの排除はただではすまないが、彼はこの排除を数学をモデルとする正確な表現と厳格な韻律への服従によって実行しようとした。それは四十歳代の第一級の詩として結実した。フロイトならば昇華の典型というであろう。しかし、彼の詩が思考と思索過程をうたう下にエロス的ダブルミーニングを持って、いわば袖の下に鎧が見えていること、才女との出会いによって詩が書けなくなったことは所詮代理行為にすぎない昇華の限界を示すものであり、昇華が真の充足を与えないことを物語る。彼の五十一歳以後の「女狂い」はつねに片思い的で青年時の反復である(七十歳前後の彼が一画家に送った三千通の片思い的恋文は最近日本の某大学が購入した)。他方、彼の自己治癒努力は、生涯毎朝書きつづけて死後公開された厖大な『カイエ』にあり、彼はこれを何よりも重要な自己への義務としていた。数学の練習と精神身体論を中心とするアフォリズム的思索と空想物語と時事雑感と多数の蛇の絵、船の絵、からみあったPとV(彼の名の頭文字であり男女性器の頭文字でもある)の落書きが「カイエ」には延々と続く。自己治癒努力は生涯の主要行為でありうるのだ。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)


この「蚊居肢」にもエロ画像はたまに貼り付けてきたんだが、役に立たんね、あんなものは。

おい、三千通だってよ、数えてみろよ、この一週間の。

このたぐいのDM含めたら10000は軽く越えるんじゃないだろうか


今日、友人と食事して帰ります。遅くなります。

友人って男か

男じゃないわ

わたしがあまりにも痩せてしまって、心配した友人が食事に誘ってくれたの

痩せたって、一週間で?

そうよ、一週間


「愛しています」

◆"Ich liebe dich(愛しています)" E. Grieg (Bibiana Nwobilo)




この Bibiana Nwobilo の目とか表情とか笑い方、軀の動かし方って、「女」だなあ、男にでも徹底的に惚れてたんじゃないだろうか、このとき。

グリーグっていいなあ、めったに聴かないんだけど、女にひどく惚れると(?)こういう曲って胸に染み入るよ

数年前、ペーテル・ヤブロンスキー Peter Jablonski のグリーグに惚れ惚れしたことがあるんだけど、あのときは女に惚れてたんだろうか、おぼえがないね

◆Grieg from "Lyriske småstykker"




ペーテル・ヤブロンスキーってやたらに上手いピアニストなんだけど(もちろんオレの偏見的耳では、ということだが)、なんでたいして売れないんだろうな

ショパンのマズルカOp. 17 No. 4をこんなに美しく繊細に弾くピアニストってのはいないよ。

◆Chopin Mazurka Op.17-4 (Jablonski)




◆In Performance: Peter Jablonski plays Chopin, Mazurka, Op. 17 No. 4




ーー彼は、女に苦しんだ男なんだろうな、たぶん。

ぜんぶテキトウなこと記してるけどさ。女に惚れるとテキトウになるんだよ、すべてが。

と書いたら、高校時代、自殺までしようとした時期にさ、シェルブールの雨傘って泣けたぜ

◆Love theme from "Les parapluies de Cherbourg" (1964)




いまだって惚れ惚れするな、この曲とドヌーヴってのは。

いやあ、オレなんだか「病気」っぽいな

「すべての愛は唯一無二のものとして生きられる。いつの日か他所で再びくりかえすかもしれぬなどという思いは、恋愛主体の拒否するところである。ところが、⋯⋯」(バルト)

◆Ending of "The Umbrellas of Cherbourg"





2017年12月5日火曜日

愛することは、愛されたいということである

愛する者 L'amoureux は錯乱 délire している(彼は「価値観を転倒せしめる」のだ)。ただし、その錯乱はおろかしい bête ものである。愛する者ほどおろかしい者があるだろうか。

…(おろかしさ、それは不意打ちを喰うということである。愛する者はたえず不意打ちを喰っている。彼には、変形させたり、検討を加えたり、保護したりしている余裕がない。おそらくは彼にも自分のおろかしさがわかっている。しかし、彼はそれを非難することをしない。あるいはまた、彼のおろかしさは、裂け目 clivage というか倒錯というか、そのような働き方をする。彼はいう、いかにもおろかしいことだ、でもそれは真実なのだ。)

(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』)

⋯⋯⋯⋯

《愛することは、本質的に、愛されることを欲することである。l'amour, c'est essentiellement vouloir être aimé. 》(ラカン、S11, 17 Juin 1964)

愛するということには、一つだけではなく、三つの対立関係が可能である。愛するーー憎むという対立関係の他に、愛するーー愛されるという対立関係があり、さらに、愛すると憎むとをいっしょにしたものが、無頓着あるいは無関心という状態に対立する。以上三つの対立関係のうち、愛するーー愛されるという対立関係は、能動性から受動性への転換に全面的に対応している。…その基本的状況とは、自分自身を愛する sich selbst lieben ことであり、これはナルシシズムの特性にほかならない。(フロイト『欲動とその運命』1915)

《人間は二つの根源的な性対象、すなわち自己自身と世話をしてくれる女性の二つをもっている der Mensch habe zwei ursprüngliche Sexualobjekte: sich selbst und das pflegende Weib》(フロイト『ナルシシズム入門』1914)

人は愛する Man liebt:

1)ナルシシズム型では、

a)現在の自分(自己自身)
b)過去の自分
c) そうなりたい自分
d)自己自身の一部であった人物

2) アタッチメント型 Anlehnungstypusでは、

a) 養育してくれる女性
b) 保護してくれる男性

ーーフロイト『ナルシシズム入門』1914

⋯⋯⋯⋯

我々はフロイトの次の仮説から始める。

・主体にとっての根源的な愛の対象 l'objet aimable fondamental がある。
・愛は転移 transfert である。
・後のいずれの愛も根源的対象の置き換え déplacement である。

我々は根源的愛の対象を「a」(対象a)と書く。…主体が「a」と類似した対象x に出会ったなら、対象xは愛を引き起こす。(ジャック=アラン・ミレール、1992『愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour』、pdf

《「アンコール」のラカンは、性カップルについて語るなか、「間抜け idiot 男」と「気狂い folle 女」の不可能な出会いという点に焦準化する。言い換えれば、一方で、去勢された「ファルス享楽」、他方で、場なき謎の「他の享楽」である。 》(コレット・ソレール2009、Colette Soler、L'inconscient Réinventé ーー「マヌケ男とキチガイ女の不可能な出会い」) 

人は愛するとき、迷宮を彷徨う。愛は迷宮的である。愛の道のなかで、人は途方に暮れる。…

愛には、偶然性の要素がある。愛は、偶然の出会いに依存する。愛には、アリストテレス用語を使うなら、テュケー tuché、《偶然の出会い rencontre ou hasard 》がある。

しかし精神分析は、愛において偶然性とは対立する必然的要素を認めている。すなわち「愛の自動性 l' automaton de l'amour」である。愛にかんする精神分析の偉大な発見は、この審級にある。…フロイトはそれを《愛の条件 Liebes Bedingung》と呼んだ。

愛の心理学におけるフロイトの探求は、それぞれの主体の《愛の条件》の単独的決定因に収斂する。それはほとんど数学的定式に近い。例えば、或る男は人妻のみを欲望しうる。これは異なった形態をとりうる。すなわち、貞淑な既婚女性のみを愛する、或はあらゆる男と関係をもとうとする淫奔な女性のみを愛する。主体が苦しむ嫉妬の効果、だがそれが、無意識の地位によって決定づけられた女の魅力でありうる。

Liebe とは、愛と欲望の両方をカバーする用語である。もっとも人は、ときに愛の条件と欲望の条件が分離しているのを見る。したがってフロイトは、「欲望する場では愛しえない男」と「愛する場では欲望しえない男」のタイプを抽出した。

愛の条件という同じ典礼規定の下には、最初の一瞥において、即座に愛の条件に出会う場合がある。あたかも突如、偶然性が必然性に合流したかのように。

ウェルテルがシャルロッテに狂気のような恋に陥ったのは、シャルロッテが子供を世話する母の役割を担って、幼い子供たちの一群に食事を与えている瞬間に出会った刻限だった。ここには、偶然の出会いが、主体が恋に陥る必然の条件を実現化している。…

フロイトは見出したのである、対象x(≒対象a)、すなわち自分自身あるいは家族と呼ばれる集合に属する何かを。父・母・兄弟・姉妹、さらに祖先・傍系縁者は、すべて家族の球体に属する。愛の分析的解釈の大きな部分は、対象a との異なった同一化に光をもたらすことから成り立っている。例えば、自分自身に似ているという条件下にある対象x に恋に陥った主体。すなわちナルシシズム的対象-選択。あるいは、自分の母・父・家族の誰かが彼に持った同じ関係を持つ対象x に恋に陥った主体。(Les labyrinthes de l'amour' 、Jacques-Alain Miller、1992、pdf

我々は愛する、「私は誰?」という問いへの応答、あるいは一つの応答の港になる者を。

愛するためには、あなたは自らの欠如を認めねばならない。そしてあなたは他者が必要であることを知らねばならない。

ラカンはよく言った、《愛とは、あなたが持っていないものを与えることだ l'amour est donner ce qu'on n'a pas 》と。その意味は、「あなたの欠如を認め、その欠如を他者に与えて、他者のなかの場に置く c'est reconnaître son manque et le donner à l'autre, le placer dans l'autre 」ということである。あなたが持っているもの、つまり品物や贈物を与えるのではない。あなたが持っていない何か別のものを与えるのである。それは、あなたの彼方にあるものである。愛するためには、自らの欠如を引き受けねばならない。フロイトが言ったように、あなたの「去勢」を引き受けねばならない。

そしてこれは本質的に女性的である。人は、女性的ポジションからのみ真に愛する。愛することは女性化することである。この理由で、愛は、男性において常にいささか滑稽である。(ミレール、2010, On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " Jacques-Alain Miller)

⋯⋯⋯⋯

あゝ麗はしい距離(ディスタンス)、
   つねに遠のいてゆく風景・・・・

   悲しみの彼方、母への、
   捜り打つ夜半の最弱音(ピアニシッモ)
 
            吉田一穂『母』 


quoad matrem(母として)、すなわち《女 la femme》は、性関係において、母としてのみ機能する。…quoad matrem, c'est-à-dire que « la femme » n'entrera en fonction dans le rapport sexuel qu'en tant que « la mère ». (ラカン、S20、09 Janvier 1973)
…生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける寄る辺なさ Hilflosigkeit と依存性 Abhängigkeitである。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我に分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、失われた子宮内生活をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を彼(女)に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとっての最初の「誘惑者 Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性 Bedeutung der Mutterの根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性 Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版、1940、私訳)

⋯⋯⋯⋯

《愛する理由は、人が愛する対象のなかにはけっしてない。les raisons d'aimer ne résident jamais dans celui qu'on aime》(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

われわれの愛は、われわれが愛するひとたちによっても、愛しているときの、たちまちに消え去る状態によっても展開されるものではない。Nos amours ne s'expliquent pas par ceux que nous aimons, ni par nos états périssables au moment où nous sommes amoureux. (……)

われわれの愛には、根源的な差異 différence originelle が支配している。それは恐らく母のイメージ image de Mère であり、女性、ヴァントゥイユ嬢にとっては父のイメージである。しかしもっと深いところでは、それはわれわれの経験を越えた遠いイメージ、われわれを超越するテーマ、一種の原型である。それはわれわれが愛するひとたち、そしてわれわれが愛するただひとりのひとにさえ、分散するにはあまりにも豊かなイメージであり、観念であり、あるいは本質である。しかしそれはまたわれわれの連続する愛の中で、また孤立して捉えられたそれぞれのわれわれの愛の中で反復されるものである。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)


おい、死ぬぞ

おい、昨晩はまたとんでもない死闘だったな

言語とは肌なのだ。わたしはおのれの言語をあの人にすりつける。指のかわりに語をもつというのか、語の先に指をもつというか。わたしの言語は欲望に打ち震えている。この動揺は、ある接触から来ているのだ。一方では、ディスクール活動の全体が、慎重かつ間接的に、「わたしはあなたを欲している je te désire」というたったひとつの意味内容をとり上げ、解き放ち、これを涵養して繁茂させ、爆発させている(言語活動がわれとわが肉体に触れて享楽 jouit している)。もう一方でわたしは、わたしの語の中にあの人をくるみ込んでいる。あの人を愛撫し、あの人に触れ、そうした接触を保ちつづけ、二人の関係に加える注釈を持続させようとして消耗しているのである。(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』)



一週間の死闘でこの日曜日ノビたばかりじゃないか
なんでまたやりだすんだ
しかもいっそうとんでもない死闘を

オレはいいさ
でもキミは朝七時すぎに仕事にでかけ夜八時にかえってくる身だ
クタバルのもムリはないよ

きのうなんか二時間ぐらいしか寝てないんじゃないか?
まったく「聴け、いかに夜がくぼみ、またえぐられるかを」(リルケ、第三の悲歌)だよ、あれは。

いかにしてひとつの愛は終わるのか。--なんと、愛は終わるものであるのか。要は誰にもーー他人は別にしてーーわかりっこないことなのだ。この、永遠につづくとみなされ、確認され、生きられているものの終末は、一種の無知によって覆い隠されている。最終的には恋愛対象がどうなるにせよ、消え去るにせよ「友情」の地帯へ移りゆくにせよ、わたしにはあの人が姿を消すさまは見えはしない。(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』幽霊船)

2017年12月4日月曜日

ボクの場合、ほかの人々と一緒に音楽は聞けない

……音楽は遠ざかろうとするなにかであり、人がつかまえたと思っても、どこかへ行ってしまうようななにかである。留まるものと逃れ去るもののあいだに張られた絆。逃れ去る女。北の茫漠とした風景にたれこめる灰色の霧がすぐに包み隠してしまう太陽光線のはかなさ。光が死に絶えても、なおあとに残る不定形のうごめき。(ミシェル・シュネデール『グレン・グールド PAINO SOLO』)

こういう言い方は錯覚に閉じ籠っているだけには違いないが、ミシェル・シュネデールのこの小さなグールド論は一語一句、ボクに「わかる」。一冊の本を読んでこんなに同一化したことはないぐらい、彼の言葉はボクのものである。

音楽を聞くには隠れなければならないと思うことがある。音楽は手袋の内と外をひっくり返すようにわたしを裏返してしまう。音楽が触れ合いの言葉、共同体の言葉となる。そんな時代がかつてあったし、いまも人によってはそんな場合があるのはもちろん知っているが、わたしの場合は、ほかの人々と一緒に音楽は聞けない。誰かと一緒に音楽を演奏するとなれば話は別だ。(……)

だが、なぜ一緒に聞くことができないのだろう。なぜ音楽は孤独で身動きできない状態にあるときのわたしたちをとらえるのか。一緒に聞けば、他人の目の前で、そして他人とともにいながら、自己をあくまでも自分ひとりきりのものでしかない状態に投げ出してしまうことになるからなのか。それぞれの人間によってたがいに異なるはずの遠くの離れたものを共有することになるからなのか。子供時代も死も共有できはしないからなのか。

音楽、それは身体と身体のぶつかりあいであり、孤独と孤独のぶつかりあいであり、交換すべきものがなにもないような場での交換である。ときにそれは愛だと思われもしよう。演奏する者の身体と聴く者の身体がすっかり肉を失い、たがいに遠く離れ、ほとんどふたつの石、ふたつの問い、ふたりの天使を思わせるものとなって、どこまでも悲しい狂おしさを抱いて顔を向き合わせたりしないならば。(ミシェル・シュネデール『グレン・グールド PAINO SOLO』)

シュネデールはほとんど「女性の享楽」、音楽を聴くときの「自閉症的享楽」を語っているようにさえみえる 。

MICHEL SCHNEIDER ミシェル・シュネデール 

1944年生まれ。フランスの作家、高級官僚、精神分析医。1988年から1991年まで文化省で音楽とダンスの局長を務める。精神分析の研究書に『記憶の損傷』、小説に『青い過去』、『私は夜について話すのが怖い』[いずれも邦訳なし]、伝記風エッセイに『グレン・グールド 孤独のアリア』(フェミナ・エッセイ賞を受賞。)、『シューマン 黄昏のアリア』、『プルースト 母親殺し』などがある。



 ⋯⋯⋯⋯

以下はLiora Goderによる「女性の享楽」をめぐる論からである。

昼間、学校から家に戻って来た一人の少女。彼女は、母が用意してくれた温かい食事をとるために、台所のテーブルに座る。母はテーブルの向こう側に座っている。母は既に夫と一緒に食事をとったけれど、娘につき合って学校での様子について娘の話をきくことを望んでいる。

少女は美味しい食事を食べ始め、いくつかの母の質問に応える。けれども少女が食事のあいだにほんとうに望んでいるのは、学校の騒動から離れて家庭の静けさと落ち着きに戻って、自分自身と向き合うことだった。

二人はそんなふうに向かい合って座っている。すこしづつ沈黙が領しはじめる。少女は食事に集中してゆく。突然彼女は顔をあげ、目前にぞっとするような眼をふたつ見た。人間的なところは何もない空っぽで不動の両眼が、彼女を見つめている。まるで母は世界から消え去てしまったかのようで、母の場に置き残していったのは、少女を見ないままで見つめている怪物の眼。少女はこの眼差しの下に震えおののく。この光景を前にして目を伏せることができない。

この光景は幼年期に何度も繰り返された。彼女は、思春期をへて、妻になり、仕事をもつ。あの眼差しが戻って来る。そして何年も後の分析治療のあいだに、眼差しはふたたび現れる。常に次の問いを伴ってーー「母はどこにいったのだろう、私に固着した空っぽの眼差しを置き残したとき」。そして常に同じ答えをする、「母はアウシュヴィッツに戻ったんだわ。あんな怪物はアウシュヴィッツ以外の何ものでもありえない」。(Liora Goder, What is a Woman and What is Feminine Jouissance in Lacan? 、PDF


ーーこの図の注釈は「ヒステリー的身体と女の身体」を見よ。

このLiora Goderの文は、女性の享楽とは、「女性」とは実は関係がないことが示されている。もっとも標準的には女性の享楽は、解剖学的な女性のほうにより多く現ると言われることが多い。

だが女性の享楽とは身体の享楽のことであり、自閉症的享楽なのである。

身体の享楽は自閉症的である。愛と幻想のおかげで、我々はパートナーと関係を持つ。だが結局、享楽は自閉症的である。(Report on the ICLO-NLS Seminar with Pierre-Gilles Guéguen, 2013)

Liora Goderによるすぐれて具体的な説明は以下の文にある。

話は理想的で満足感を与えてくれる母のイメージで始まる。けれども突然、この母のイメージはどこかに消え去せ、「女性の享楽」が完全な生身で現れる。母は絶対的な大他者となる。もはや母はいない。母は眼差しの奈落のなかへと消滅し、会話から完全な外部・あらゆる絆の彼方・すべてのコミュニケーションの彼岸へと向かって接触を断つ。

この小さな女の子の「女性の享楽」との出会いは、トラウマ的である。少女は後に、彼女を恐怖で竦ませ戦慄させたこの享楽への魅惑を練り上げるようになる。この光景は反復される。小さな女の子として、思春期の乙女として、若い女性として、彼女は常にこの光景に回帰する。この回帰は同じ問いを伴っている。母はどこに行ったのか? この問いはトラウマ的「女性の享楽」を意味に結びつける試みである。応答として「アウシュヴィッツ」を想像することは、どこでもない場所から彼女の母を取り戻し、母の歴史に再結合しようとする試みである。そうすることによって、母(あの刻限、主体を滅却させてしまった母)を主体として位置づけようとする。

何年も後の若い女性の分析において、何か別のものが現れる。アウシュヴィッツについての無意識的幻想のなかで、彼女の母はハンサムなナチ将校を欲望した。小さな女の子は、母が口にしたことのある「ハンサムなドイツ人」についての発言を元に、この性的幻想を構築した。この幻想は小さな女の子を、トラウマ的「女性の享楽」にファルス的意味合いを繋げることを可能にした。

少女の享楽との出会いは、非ファルス的享楽との出会いであったにもかかわらず、彼女は母を男たちを愛する性的女として位置づけることに成功した。男たちを欲望する母についてのこの幻想は、後年、パートナーの選択を彼女に指定したものとまさに同じ幻想である。しかしパートナー特定の選択を決定づけたものは厳密に、彼女の母の「女性の享楽」に関する少女の魅惑の点だった。

彼女をダンスに誘った若い男が、踊りの最中に己れのなかに没入して、彼自身の顔の上に「女性の享楽」の表出させ、彼女から自身を切り離して遠くに行ってしまったまさにその瞬間、彼女はたちまち恋に落ちた。

目を閉じた若い男の恍惚状態は、男を彼女の母の「女性の享楽」に繋げる特定の徴である。そしてその徴が彼女の愛を鼓舞した。明らかに彼女はそれに気づいていなかった。彼女は途方もなく素敵に踊るハンサムな男に恋に落ちた。彼女は知らなかった。数年の臨床分析を経て、彼女がこの男に魅了されたものは、母のなかに出会ったトラウマ的「女性の享楽」と直かに結びついているのに感づいた。

しかしながらこの享楽は、ファルス的衣装を着せられていた。言い換えれば、小さな女の子にとって非ファルス的享楽は、ファルス的享楽の対象a に変形された。愛の生活のエロス化と標準化を可能にするファルス関数は、享楽の堪え難いトラウマ的臍が、魅惑をもたらすエロス的・性的衣装のなかで、ファルス化された対象a へと変質するような仕方で作用した。

このファルス的衣装が、現実界的対象の恐怖をアマルガム化された対象への移行を可能にする。したがって「女性の享楽」は、彼女のパートナーのなかで既にこの変形を受けていた。少女の母のなかの硬直した・死のような享楽は、享楽で充溢した踊る身体とその童顔へと変形された。このメタモルフォーゼは、既にファルス的衣装ーー恐怖の対象からアマルガム化された対象に向けての移行を促すファルス的衣装ーーの効果をもっている。

この事例では二つの点が興味深い。

第一に、パートナーとして選ばれた男は「女性の享楽」へのアクセスを持つものとして同定された。したがって、性別化の式の女性側に印される。この例は、生物学的な解剖構造によって定義される男が、完全に女性側に己れを位置づけうるという観察を我々に許してくれる。そしてこれは彼をホモセクシャルにするわけではない。

第二に、そして結論として、対象a ーーファルス享楽の対象であり、それ自体、パートナーの魅力とエロス化され性化されたイメージによって衣装を着せられてなければならないーーは、この特徴ある事例では、「女性の享楽」を覆っていた。したがって我々はここで、二重の衣装化をみる。すなわちトラウマ的女性の享楽は対象a によって覆われファルス化される。そしてこの対象a 自体が、魅惑的ダンサーによって覆いを着せられていた。(同 Liora Goder, What is a Woman and What is Feminine Jouissance in Lacan? 、PDF

朝風に似て歩みもかるくすがしい乙女よ

ベルナルダ・フィンクは泣いている、このマタイのなかで最も美しいアリアのひとつで。

◆Hart & Ziel: Erbarme Dich Fink



 Matthäus-Passion,   Nr. 39 Arie (Alt)
  
Erbarme dich, mein Gott,   憐れみたまえ わが神よ   
Um meiner Zahren willen ;  滴り落つるわが涙のゆえに。   
Schaue hier, Herz und Auge  此を見たまえ、心も眼《まなこ》も   
Weint vor dir bitterlich  御身の前にはげしくもだえ泣く   
Erbarme dich, ernarme dich. 我を憐れみたまえ 憐れみたまえ


武満徹はこのアリアをピアノ用に編曲している。彼は死の前々日、マタイを全曲聴いている。

昨日はマタイ受難曲を全部聴いたんだよ。いやぁバッハはすごいね。僕らはクリスチャンじゃないけどなんなんだろう……(武満徹 1996年2月19日)

「憐れみたまえ Erbarme dich」は武満がもっとも愛したアリアのひとつの筈だ。

ボクは高校時代、バッハばかり聴いていた。そのなかでもやはりマタイをくりかえして。

プロフェッショナルがベルナルダ・フィンクのように泣くのが必ずしも「正しい」わけではないが、「ボクは彼女に同一化した」。

同一化は…対象人物のたった一つの特徴 (「一の徴」einzigen Zug)だけを借りる(場合がある)…同情は、同一化によって生まれる das Mitgefühl entsteht erst aus der Identifizierung。(フロイト『集団心理学と自我の分析』)

ボクはこの文を「愛は、たった一つの特徴への同一化から生まれる」と意訳する。

フロイトが「たった一つの特徴」(一の徴 der einzige Zug)と呼んだもの(ラカンの trait unaire)、この「一の徴」をめぐって、後にラカンは彼の全理論を展開した。(『ジジェク自身によるジジェク』2004)
ここで、私はフロイトのテキストから「一の徴 trait unaire」の機能を借り受けよう。すなわち「徴の最も単純な形式 forme la plus simple de marque」、「シニフィアンの起源 l'origine du signifiant」である。我々精神分析家を関心づける全ては、「一の徴」に起源がある。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)

というわけで、ボクのベルナルダ・フィンクへの愛は偏っている。シューベルトの「夜咲きすみれ Nachtviolen」のあの箇所、そのベルナルダの歌声をこよなく愛するのは、ぜんぜん冷静な鑑賞によるものではない。Bernarda Fink, "Nachtviolen"; Franz Schubert(1:38~

でもこんなに愛してしまうのは何かの錯覚だろうと、ベルナルダの閃光にうたれたとき、二人の名歌手の同じ箇所を聴いてはみた。

・Schwarzkopf / Fischer: Nachtviolen, D. 752 (1:51~)
・Dietrich Fischer-Dieskau; "Nachtviolen"(1:56~

ーーいやあウンコちゃんだね、ふたりともプロフェッショナルすぎる。真に迸るものが欠けている。そう思った。

ところで昨日また同じ箇所を中心に、いにしえの名歌手の歌声で聴いてみた。

・Elisabeth Schumann; "Nachtviolen"; Franz Schubert(1:44~
・Rita Streich "Nachtviolen" Schubert(2:24~

ーーこのふたりはとってもいい。ベルナルダ・フィンクと同じくらい。

叫びがきこえてくる、手に届かないものへの叫びが。天使に手をのばすかのような。

だがこの若者の眉の弧線を、かくも期待に張りつめさしたのは、
乙女よ、おんみではなく、ああ、またかれの母でもなかったのだ。
おんみゆえにーーいつくしみぶかくかれを感じ取る乙女よ--おんみゆえに
かれの唇はよりゆたかな表情にたわんだのではなかったのだ。
朝風に似て歩みもかるくすがしい乙女よ、おんみの出現が
かれをかほどまでに激動さしたと、おんみはまことに信ずるのか。
まことにおんみによってかれの心は驚愕した。けれど、もっと古くからのつよい襲いが
この感動に触発されてかれの中へと殺到したのだ。
かれを揺すぶれ、目覚ませよ……しかもおんみは、かれを暗いものとの交わりから完全に呼びさますことはできないのだ。
たしかに、かれは脱出しようと欲している。重圧の鎖を切って
おんみのなつかしい心に身をよせ、そこを隠れ家として、かれは自己をとりもどし自己をはじめる。
だが、かつてかれが自己をはじめたことがあるだろうか。(リルケ、ドゥイノ、第三の悲歌)

2017年12月3日日曜日

マヌケ男とキチガイ女の不可能な出会い

《扉があいて、先の女が夏の光を負って立った。縁の広い白い帽子を目深にかぶっているのが、気の振れたしるしと見えた。》(古井由吉『山躁賦』杉を訪ねて)


古井) 今度、『存在と時間』の自分が好きな章だけ読み返してみて、自分がいまだに惹かれているところが二つあります。(⋯⋯)

一つは「決意」と訳されるEntschlossenheit です。これは言葉としてはersclossen(開かれる)という意味に通じています。それとentdecken にも通じていて、これはふつう発見されるの意味ですが、蓋を開ける、覆いをとってしまうという意味もある。さらにハイデガーでは、フライ・ウント・オッフェン(frei und offen)つまり、フリー・エンド・オープンと言っています。さらに エクスターティッシュ・オッフェン(ekstatisch offen)、ecstasically open と言っています。エクスターゼによって開いてある、とおおよそそんな意味になりますか。エク・スターシス ek-stasis とは本来、自身の外へ出てしまう、ということです。忘我、恍惚、驚愕、狂気ということでもある。その広がりに興味を持ちまして。 また一方では、開けてしまうということから、中世の神秘主義者たちが繰り返し言っている赤裸という観念を思い出す。すべてから赤裸にならなくてはならない。極端まで行けば、「神」 という観念までも捨てなければならないという。ハイデガーもシュヴァーベンあたりの人だか ら、中世の神秘主義の伝統を引いているのかなと思います。(古井由吉・木田元「ハイデガ ーの魔力」、2001 年)

⋯⋯⋯⋯

「アンコール」のラカンは、性カップルについて語るなか、「間抜け idiot 男」と「気狂いfolle 女」の不可能な出会いという点に焦準化する。言い換えれば、一方で、去勢された「ファルス享楽」、他方で、場なき謎の「他の享楽」である。 (コレット・ソレール2009、Colette Soler、L'inconscient Réinventé )



ファルス享楽(ファルス秩序、象徴秩序、言語の秩序)のひびわれ、その非一貫性(非全体pastout)にエク・スターシス ek-stasis (自身の外へ出てしまう)ものが「他の享楽、身体の享楽、女性の享楽」である。これが、ラカンのリアル( 《現実界は外立する Le Réel ex-siste》)ーー「エクスタシー的開け ekstatisch offen」ーーである。


非全体の起源…それは、ファルス享楽ではなく他の享楽を隠蔽している。いわゆる女性の享楽を。…… qui est cette racine du « pas toute » …qu'elle recèle une autre jouissance que la jouissance phallique, la jouissance dite proprement féminine …(LACAN, S19, 03 Mars 1972ーーヒステリー的身体と女の身体)

ようするに間抜け男は気狂い女にまったく歯が立たない。

私は私の身体で話している。私は知らないままでそうしている。だから私は、常に私が知っていること以上のことを言う。Je parle avec mon corps, et ceci sans le savoir. Je dis donc toujours plus que je n'en sais. (Lacan, S20. 15 Mai 1973)

間抜け男/気狂い女とは、言説に囚われた身体/自ら享楽する身体の区分でもある。

言説に囚われた身体 corps pris dans le discours は、話される身体 corps parlé・享楽される身体 corps joui である。反対に、話す身体 corps parlant は、享楽する身体 corps qui jouit である。(Florencia Farìas、2010)

さらにまた気狂い女とは、言語秩序の裂目に現れる神なのである、《コトバとコトバの隙間が神の隠れ家》(谷川俊太郎「おやすみ神たち」) 

《精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に《女 La femme 》だということである。⋯⋯ Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme »》(ラカン、S23、16 Mars 1976)

他方、言語秩序に囚われた間抜け男とは、あぶく、虫けらのことである。

世界は女たちのものだ、いるのは女たちだけ、しかも彼女たちはずっと前からそれを知っていて、それを知らないとも言える、彼女たちにはほんとうにそれを知ることなどできはしない、彼女たちはそれを感じ、それを予感する、こいつはそんな風に組織されるのだ。男たちは? あぶく、偽の指導者たち、偽の僧侶たち、似たり寄ったりの思想家たち、虫けらども …一杯食わされた管理者たち …筋骨たくましいのは見かけ倒しで、エネルギーは代用され、委任される …(ソレルス『女たち』鈴木創士訳)

こういったことは実は誰もが知っているーーすくなくとも無意識的にはーーことだ。

まったく、男というものには、女性に対してとうてい歯のたたぬ部分がある。ものの考え方に、そして、おそらく発想の根源となっているのぐあい自体に、女性に抵抗できぬ弱さがある。(吉行淳之介「わたくし論」)


「泣き、嘆き、憂い、怯え」

かつて仲間たちは、ヴィヴァルディの音楽は大衆化されすぎ、通俗的、下品で熱心に聴くに値しないと「通顔で」言っていた(当時、わたくしは合唱団ーー大学内ではなく外部の合唱団ーーに入っていた)。たしかに「四季」などは、当時もいまも耳を新しくして聴くことはし難い。

でも、次の「泣き、嘆き、憂い、怯え」(Piango, gemo, sospiro e peno)を数年まえはじめて聴いてびっくりした。

◆Piango, gemo, sospiro e peno




ここからバッハは、ロ短調ミサの最も「崇高な」箇所ーー Crucifixus(キリストは十字架に磔にされた)ーーを作り上げたのである。

◆J. S. Bach - Mass in B Minor BWV 232 - 14. Crucifixus (14/23)




バッハはこのロ短調を作曲するまえだった思うが、カンタータ第12番で、まさにヴィヴァルディのあの「歌謡曲」の題名《泣き、歎き、憂い、怯え》を変えないまま、教会カンタータとして作曲している。よほどこの旋律を愛したのだろう。

◆J. S. Bach - Cantata "Weinen, Klagen, Sorgen, Zagen" BWV 12 - 2. Weinen, Klagen, Sorgen, Zagen (2/7)




このところ刺激保護壁が完全に崩壊してしまっているせいなのか、バッハの崇高化された「泣き、嘆き、憂い、怯え」よりも、冒頭のヴィヴァルディ原曲「泣き、嘆き、憂い、怯え」のほうが、いっそう魂に染み入る。

外部から来て、刺激保護壁 Reizschutz を突破するほどの強力な興奮を、われわれは外傷性traumatischeのものと呼ぶ。

外部にたいしては刺激保護壁があるので、外界からくる興奮量は小規模しか作用しないであろう。内部に対しては刺激保護は不可能である。(……)

刺激保護壁 Reizschutzes の防衛手段 Abwehrmittel を応用できるように、内部の興奮があたかも外部から作用したかのように取り扱う傾向が生まれる。(フロイト『快原理の彼岸』1920年)

 Bernarda Finkによる「夜咲きすみれ Nachtviolen」のあの箇所もきいてみる、"Nachtviolen"; Franz Schubert(1:38~

この箇所を聴くと見えなかった扉がひらくのである。奇跡のようにして。《癒やされた傷口をあらためて裂くように》(リルケ「放蕩息子の家出」)--いや、それだけの扉ではない、ひょっとして別の扉が。

さらにふたたび

ライネル・マリア・リルケ Rainer Maria Rilke 堀辰雄訳

さらにふたたび、よしや私達が愛の風景ばかりでなく、
いくつも傷ましい名前をもつた小さな墓地をも、
他の人達の死んでいつた恐ろしい沈默の深淵をも
知つてゐようと、さらにふたたび、私達は二人して
古い樹の下に出ていつて、さらにふたたび、身を横たへよう
花々のあひだに、空にむかつて。

《美は現実界に対する最後の防衛である。la beauté est la défense dernière contre le réel》(ジャック=アラン・ミレール、2014、L'inconscient et le corps parlant)

美しきものは恐ろしきものの発端にほかならず、ここまではまだわれわれにも堪えられる。われわれが美しきものを称賛するのは、美がわれわれを、滅ぼしもせずに打ち棄ててかえりみぬ、その限りのことなのだ。あらゆる天使は恐ろしい。(リルケ『詩への小路』ドゥイノ・エレギー訳文1、古井由吉)



一瞬よりはいくらか長く続く間

私の放浪する半身よ、このまえも言ったけれど、ボクは大江の「一瞬よりはいくらか長く続く間」って表現がすごく好きでね

――私は、総領事の最初の結婚を破壊して、自分と再婚させたわけだけど、それまでの後悔を引っくり返すほどの喜びをあたえたとは思わない、と弓子さんはいって、もう一度嗚咽され、鼻をかんだハンカチをまるめて握った手をまたK伯父さんの手の上に戻された。

――総領事と弓子さんをブリュッセルに訪ねて、泊めてもたった時にね。翌朝、食堂に降りて行くと、きみたちは中庭の orme pleureur をじっと眺めていた。そこへ声をかけると、ふたりが共通の夢からさめたようにこちらを振り返ってね。ああいう時、総領事は、隆君の言葉を使えばさ、一瞬よりはいくらか長く続く間、弓子さんと喜び(ジョイ)を共有していたんじゃないの? しかも、そういうことは、しばしばあったんじゃないか? (大江健三郎『燃え上がる緑の木』第二部)



「縁側で涼んでいるときの蚊遣線香の匂い」も、とっても好きさ。同時に樟のざわめきがきこえて来るんだ。

立上がると、足裏の下の畳の感覚が新鮮で、古い畳なのに、鼻腔の奥に藺草のにおいが漂って消えた。それと同時に、雷が鳴ると吊ってもらって潜りこんだ蚊帳の匂いや、縁側で涼んでいるときの蚊遣線香の匂いや、線香花火の火薬の匂いや、さまざまの少年時代のにおいの幻覚が、一斉に彼の鼻腔を押しよせてきた。(吉行淳之介『『砂の上の植物群』)

大江と吉行の文の向こうにはプルーストがいるんだ、彼等がそう意識していたか否かは知らない。ボクにとって。




……彼らが私の注意をひきつけようとする美をまえにして私はひややかであり、とらえどころのないレミニサンス réminiscences confuses にふけっていた…戸口を吹きぬけるすきま風の匂を陶酔するように嗅いで立ちどまったりした。「あなたはすきま風がお好きなようですね」と彼らは私にいった。(プルースト「ソドムとゴモラⅡ」)
無意志的記憶 la mémoire involontaire の啓示は異常なほど短く、それが長引けば我々に害をもたらさざるをえない。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

ボクはキミにあの打ち明け話をされて、「はるかに遠い昔の場所の空気」 をすって「昏倒」したのさ(しかもこの本当の内容については、キミにはまだ隠したままなんだ)

現在の瞬間であると同時に遠く過ぎさった瞬間 le moment actuel et dans un moment éloigné でもある場、過去を現在に食いこませその両者のどちらに自分がいるのかを知ることに私をためらわせるほどの場(……)。もし現時の場所 le lieu actuel が、ただちに勝を占めなかったとしたら、私のほうが意識を失ってしまっただろう、と私は思う、なぜなら、そうした過去の復活 résurrections du passé は、その状態が持続している短いあいだは、あまりにも全的で、並木に沿った線路とあげ潮とかをながめるわれわれの目は、われわれがいる間近の部屋を見る余裕をなくさせられるばかりか、われわれの鼻孔は、はるかに遠い昔の場所の空気 l'air de lieux pourtant si lointains を吸うことを余儀なくされ、われわれの意志は、そうした遠い場所がさがしだす種々の計画の選定にあたらせられ、われわれの全身は、そうした場所にとりかこまれていると信じさせられるか、そうでなければすくなくとも、そうした場所と現在の場所 les lieux présents とのあいだで足をすくわれ、ねむりにはいる瞬間に名状しがたい視像をまえにしたときどき感じる不安定にも似たもののなかで、昏倒させられるからである。(プルースト「見出された時」)



……この一瞬よりはいくらか長く続く間、という言葉に私が出会ったのはね、ハイスクールの前でバスを降りて、大きい舗道を渡って山側へ行く、その信号を待つ間で…… 向こう側のバス・ストップの脇にシュガー・メイプルの大きい木が一本あったんだよ。その時、バークレイはいろんな種類のメイプルが紅葉してくる季節でさ。シュガー・メイプルの木には、紅葉時期のちがう三種類ほどの葉が混在するものなんだ。真紅といいたいほどの赤いのと、黄色のと、そしてまが明るい緑の葉と…… それらが混り合って、海から吹きあげて来る風にヒラヒラしているのを私は見ていた。そして信号は青になったのに、高校生の私が、はっきり言葉にして、それも日本語で、こう自分にいったんだよ。もう一度、赤から青になるまで待とう、その一瞬よりはいくらか長く続く間、このシュガー・メイプルの茂りを見ていることが大切だと。生まれて初めて感じるような、深ぶかとした気持で、全身に決意をみなぎらせるようにしてそう思ったんだ……

それからは、自分を訓練するようにして、人生のある時々にさ、その一瞬よりはいくらか長く続く間をね、じっくりあじわうようにしてきたと思う。それでも人生を誤まつことはあったけれど、それはまた別の問題でね。このように自分を訓練していると、たびたびではないけれどもね、この一瞬よりはいくらか長く続く間にさ、自分が永遠に近く生きるとして、それをつうじて感じえるだけのことは受けとめた、と思うことがあった。……

自分がこれだけ生きてきた人生で、本当に生きたしるしとしてなにがきざまれているか? そうやって一所懸命思い出そうとするならば、かれに思い浮ぶのはね、幾つかの、一瞬よりはいくらか長く続く間の光景なのじゃないか? 

……私としてはきみにこういうことをすすめたいんだよ。これからはできるだけしばしば、一瞬よりはいくらか長く続く間の眺めに集中するようにつとめてはどうだろうか? (大江健三郎『燃え上がる緑の木 第一部』)




2017年12月2日土曜日

ボクのジュリエット!

私の放浪する半身 愛される人
私はお前に告げやらねばならぬ

いやあ、それはダメだよ、ボクのジュリエット! いくらなんでもムリだ。若かったらまだしも、 ボクぐらいの齢になると一度でぐったりきて、三日ぐらいは女なんかぜんぜん見たくなくなるんだから。

だから高級娼婦やれ、オレは雑用係ってのかヒモになって、男が訪れたらバルコニーで隠れて覗きやるから。覗きだったら日に五六回でもいける口だから。

娼婦とは最もまっとうな女たちだ。彼女たちはすぐに勘定を差し出す。他の女たちはしがみつき、けっして君を手放そうとしない。人がインポテンツの問題を抱えて生きているとき、娼婦は理想的である。君は支払ったらいいだけだ。巧くいかないか否かは重要でない。彼女は気にしない。(James Lord、「ジャコメッティの肖像 Giacometti portrait」より)

(Alberto Giacometti - Boule suspendue (Suspended Ball) 1930-1931)

ーーボクの強迫観念ってのか、「魅惑と戦慄」はまえから示しているはずだよ、愛される麗乃よ!

なにが起こるだろう、ごく標準的の男、すなわちすぐさまヤリたい男が、同じような女のヴァージョンーーいつでもどこでもベッドに直行タイプの女――に出逢ったら。この場合、男は即座に興味を失ってしまうだろう。股間に萎れた尻尾を垂らして逃げ出しさえするかも。精神分析治療の場で、私はよくこんな分析主体(患者)を見出す。すなわち性的な役割がシンプルに転倒してしまった症例だ。男たちが、酷使されている、さらには虐待されて物扱いやらヴァイブレーターになってしまっていると愚痴をいうのはごくふつうのことだ。言い換えれば、彼は女たちがいうのと同じような不平を洩らす。男たちは、女の欲望と享楽をひどく怖れるのだ。だから科学的なターム「ニンフォマニア(色情狂)」まで創り出している。これは究極的にはヴァギナデンタータVagina dentataの神話の言い換えである。 (Paul Verhaeghe,Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE  1998、私訳)
ほんのわずかだけ想像してみたらいい。ロメオとジュリエットの両家族の親が、彼女らのために居心地のよい小さなアパートを借り与え、二人は、両家族の反目をまったく気にすることなく自分たちの欲望に従って好きなようにやりなさいと告げられた、と。これは全くの悲劇である!(⋯⋯)
なんの障害もなく、ジュリエットがあまりにもはっきりと性的欲望を表明したら、現代のロメオは逃げ出すに決まっているのである。(同上)


だいたいレイノは根本的な勘違いしてんじゃないかね、それが疑わしくなってきたな。

中井久夫はカヴァフィスのエロス詩をいくつか引用したあと、

現実の詩人のエロスはどうだったかはあまりわかっていない。しかし、ほしいままにエロスの中に浸りえ、その世界の光源氏であった男はそもそも詩を書かないのではないか。彼のエロス詩には対象との距離意識、ほとんどニーチェが「距離のパトス」と呼んだものがあって、それが彼のエロス詩の硬質な魅力を作っているのではないだろうか。(「精神科医がものを書くとき 2」)

ーーとしているけどね。真にエロに耽っている人間はエロなんて書かないよ

初老の男の「距離のパトス」だよ、このブログってのは。

縛ったり目隠しするのはいいさ、足指ぐらいもいつで舐めるよ、



ボクはベルトルッチフアンなんだからこのくらいはへいちゃらさ



でもきみからは、せめて撫でるだけにしてくれないかな、

あ あなたでしたか 昨夜ぼくを撫でていたひと
すみません 忘れてしまって
だれもかれも手足がすんなり長くなって
舞うように歩いていますね(大岡信「うたのように 2」)


想起記述Ⅲ

性交中、別の男の名を呼ぶ女がいた。

京都に住んでいた時代のことである。道祖神は大学院に居残って東京住まいのままだった。月に一度規則正しく京都に訪れる。ボクは別に性交相手を探す必要があった。

女は古ぼけたビルの三階にあるアパート住んでいた。千本通と今出川通の角のすこし手前。西陣のかつての繁栄のわずかな残照の漂うエリアである。近くにすっぽん料理で名高い店があった。

蒼白い蛍光灯のわずかな光のなか、窓のない索然とした廊下が伸びている。この、奇妙にもひどく広い通路の一方の側にだけ部屋が並んでいる。部屋を二間伸ばしてもまだ余裕がある広さだ。別の用途でつくられた建物を貸し部屋に改装したに相違ない。

同じ会社に勤める女だった。

「今から行く」と電話で告げる。「だめだわ」と強く拒絶する。だがボクはサクランボを土産に彼女の部屋の扉を叩く。女はドアチェーンがかかったままの扉をあけ、顔をわずかに覗かせる。「果物買ってきたんだ、一緒に食べよう」

狭い部屋だ、ベッドしか坐るところがない。チェリーを食べながら話をきく。女は白ワインを出してくつろぎだす。女の恋人は米国に留学しているらしい。

・・・「彼だって遊んでるわ、きっと」

腰の張っていない幼女のような軀。だが女は睾丸の袋を念入りに甞める。ボクはその口戯の巧みさに驚嘆する。それまで陰茎を咥えられるのしか知らなかった。女は肛門にも舌を伸ばす。

挿入すると最初から高い声をあげる。一腰突くたびにさらに声が高まっていく。腰の動きをとめて隣室に目配せする、「かまわないわ」「⋯⋯」「向こうからだっていつもきこえてくるんだから」ーー恋人の名を何度か呼んで果てる。

女はボクに告げる、「あなたのものになったと己惚れないで」

その後も電話をしては拒絶されることが繰り返された。訪れても部屋の中に入れたのは三度に二度ほどだったか。あの手この手で懇願した。寮の風呂が汚くて入る気がしないからシャワーだけでも貸してくれ等々。廊下で長い間待ちぼうけを食ってようやく入るということもあった。それが半年ほど続いた。

母が死んだ。郷里の町にしばらく帰る。道祖神が葬儀に訪れる。親族たちが彼女に親密な眼差しを送り挨拶をかわしている。

桂離宮の傍らの森閑とした寮に戻ってくる。千本の女からの分厚い手紙が郵便受けにあった。綿々と悼みの言葉が連なっている。ふだんの驕慢さの翳は微塵もなく、むしろ幼さが滲みでているとの印象をおぼえた。

あるとき恋人が一時帰国したそうだ。千本の女は仕事の席で耳打ちする、「彼かわっちゃったわ」。湿った瞳ですくい上げるようにボクを見る。女はもう拒絶しなくなった。果てるとき男の名も呼ばない。するとボクの恋も冷めた。

別の名を呼ぶ女は美しかった。


別 の 名   高田敏子

ひとは 私を抱きながら
呼んだ
私の名ではない 別の 知らない人の名を

知らない人の名に答えながら 私は
遠いはるかな村を思っていた
そこには まだ生れないまえの私がいて
杏の花を見上げていた

ひとは いっそう強く私を抱きながら
また 知らない人の名を呼んだ

知らない人の名に――はい――と答えながら
私は 遠いはるかな村をさまよい
少年のひとみや
若者の胸や
かなしいくちづけや
生れたばかりの私を洗ってくれた
父の手を思っていた

ひとの呼ぶ 知らない人の名に
私は素直に答えつづけている

私たちは めぐり会わないまえから
会っていたのだろう
別のなにかの姿をかりて――

私たちは 愛しあうまえから
愛しあっていたのだろう
別の誰かの姿に託して――

ひとは 呼んでいる
会わないまえの私も 抱きよせるようにして
私は答えている

会わないまえの遠い時間の中をめぐりながら 



2017年11月29日水曜日

ヒステリー的身体と女の身体

私の放浪する半身 愛される人
私はお前に告げやらねばならぬ

ーー伊東静雄「晴れた日に」


ここでの文脈からは、おそらくひとりを除いて、意味不明の詩を掲げたが、たしかに以下の記述とはまったく関係がない。

⋯⋯⋯⋯

厳密な分析的観点からは、事実上、一つの性あるいはセクシャリティしかない。(⋯⋯)

性は二つではない。セクシャリティは二つの部分に分かれない。一つを構成するのでもない。セクシャリティは、「もはや一つではない no longer one」と「いまだ二つではない not yet two」とのあいだで身動きがとれなくなっている。(ジュパンチッチ 2011、Alenka Zupančič Sexual Difference and Ontology
性関係において、二つの関係が重なり合っている。両性(男と女)のあいだの関係、そして主体と⋯その「他の性」とのあいだの関係である。(ジジェク 、LESS THAN NOTHING、2012)
「他の性 Autre sexs」は、両性にとって女性の性である。「女性の性 sexe féminin」とは、男たちにとっても女たちにとっても「他の性 Autre sexs」である。 (ミレール、Jacques-Alain Miller、The Axiom of the Fantasm)

以上の文より、おそらく次のように置ける。




①一段目の「他の身体」とは次の文に依拠する。

ひとりの女は…他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (ラカン、JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)


②二段目は性別化の式から。



大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre、それを徴示するのがS(Ⱥ) である …« Lⱥ femme 斜線を引かれた女»は S(Ⱥ) と関係がある。…彼女は« 非全体 pas toute »なのである。(ラカン、S20, 13 Mars 1973)


③三段目は次の三文を掲げる。

非全体の起源…それは、ファルス享楽ではなく他の享楽を隠蔽している。いわゆる女性の享楽を。…… qui est cette racine du « pas toute » …qu'elle recèle une autre jouissance que la jouissance phallique, la jouissance dite proprement féminine …(LACAN, S19, 03 Mars 1972)
ひとつの享楽がある il y a une jouissance…身体の享楽 jouissance du corps である…ファルスの彼方Au-delà du phallus…ファルスの彼方にある享楽! une jouissance au-delà du phallus, hein ! (Lacans20, 20 Février 1973)
男性は、まったく、ああ、ファルス享楽 jouissance phallique そのものなのである。l'homme qui, lui, est « tout » hélas, il est même toute jouissance phallique [JΦ](Lacan,La troisième,1974)


④四段目はミレールの次の図に依拠する(Orientation lacanienne III, 8. Jacques-Alain Miller Première séance du Cours (mercredi 9 septembre 2005、PDF)




後期ラカンにおいては「症状」は「サントーム」として扱っている場合が多いので注意する必要がある。

症状(原症状=サントーム)は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME, AE.569、1975)
女性の享楽は、純粋な身体の出来事である。la jouissance féminine est un pur événement de corps (ミレール2011, L'Etre et L'Un)

ーー以上、いままで記してきたことの簡略版だが、これが必ずしも「正しい」とは言わない。常に別の解釈がありうる。

⋯⋯⋯⋯

以下、Florencia Farìas の「ヒステリー的身体と女の身体 Le corps de l'hystérique – Le corps féminin」(2010.PDF)から。

女性性をめぐって問い彷徨うなか、ラカンは症状としての女 une femme comme symptôme について語る。その症状のなかに、他の性 l'Autre sexe がその支えを見出す。後期ラカンの教えにおいて、症状と女性性とのあいだの近接性 rapprochement entre le sinthome et le féminin が見られる。

女la femme は「他の身体の症状 le symptôme d'un autre corps」であることに同意する。…彼女の身体を他の身体の享楽に貸し与えるのである elle prête son corps à la jouissance d'un autre corps。他方、ヒステリーはその身体を貸さない l'hystérique ne prête pas son corps。

ーーここでのヒステリーは、通念としてのヒステリーではなく、なによりもまずファルス秩序(象徴界・言語秩序)の住人にかかわる。《ふつうのヒステリーは症状はない。ヒステリーとは話す主体の本質的な性質である》(GÉRARD WAJEMAN、The hysteric's discourse)

ファルス享楽 jouissance phallique [JΦ] とは身体外 hors corps のものである。 (ファルス享楽の彼岸にある)他の享楽 jouissance de l'Autre [JA] とは、言語外hors langage、象徴界外 hors symbolique のものである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

そして、女の身体とは、象徴界外・言語外の身体、冒頭近くの図における「他の性」「他の身体の症状」ということである。

⋯⋯⋯⋯

私は言ひあてることが出来る
命ぜられてある人 私の放浪する半身
いつたい其処で
お前の懸命に信じまいとしてゐることの
何であるかを



2017年11月28日火曜日

私の愛する「歌謡曲」

◆Jordi Savall - Lamento Della Ninfa (ニンファの嘆き) ーClaudio Monteverdi




◆Raquel Andueza - L'amante segreto(秘密の恋人) - Barbara Strozzi



⋯⋯⋯⋯

でも、ちあきなおみだって、おなじぐらいいいさ、あの年、1974年、ボクはひどい恋の苦しみに陥っていた。生涯最大の恋だった、その後の恋はあの十分の一の強さもない。

◆ちあきなおみ - 喝采



記憶がからまっているからいっそう美しい。



2017年11月27日月曜日

究極のエロス・究極の享楽とは死のことである

性行為 Sexualakt は、最も親密な融合 Vereinigung という目的をもつ攻撃性 Aggressionである。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

 いやあ、きみ! 「「分離タナトス」と「循環タナトス」」で示した図というのは、ある時期以降のラカン派内で、すでに言われていることを図式化しただけだよ。


ーーもちろんこれが「正しい」とはいうつもりはない。真理は非全体(非一貫的)なのだから。

わたくしは日本ラカン村でなにが言われているかは一切しらない。ネット上で断片を垣間見る範囲ではおおむね寝言だよ、善人たちのね。

善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んで行く。(坂口安吾『続堕落論』1946年)
(連中は)仲間の作品批評になると点が甘くなる。党派に依存するさもしさで、文学は常に一人一党だ。(坂口安吾『感想家の生れでるために』1948年)

⋯⋯⋯⋯

 たとえば2005年に臨床ラカン派によってこう言われている。

エロス欲動は〈他者〉と融合して一体化することを憧れる。〈他者〉の欲望と同一化し同時に己れの欠如への応答を受け取ることを渇望する。ここでの満足は同時に緊張を生む。満足に伴う危険とは何か? それは、主体は己自身において存在することを止め、〈他者〉との融合へと消滅してしまうこと(主体の死)だ。ゆえにここでタナトス欲動が起動する。主体は〈他者〉からの自律と分離へと駆り立てられる。これによってもたらされる満足は、エロス欲動とは対照的な性質をもっている。タナトスの解離反応は、あらゆる緊張を破壊し主体を己自身へと投げ戻す。

ここにあるのはセクシャリティのスキャンダルである。我々は愛する者から距離をとることを余儀なくされる。極論を言えば、我々は他者を憎むことを愛する。あるいは他者を愛することを憎む。(ポール・バーハウ2005, Paul Verhaeghe ,Sexuality in the Formation of the Subject ,私訳)

言葉遣いに若干の相違はあるが、これがわたくしの図式化したものだ。



以前引用したことを繰返して、バカにもわかるように整理すれば次の通り。


【享楽の漂流】
私は…欲動Triebを、享楽の漂流 la dérive de la jouissance と翻訳する。(ラカン、S20、08 Mai 1973)
反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている・・・それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる・・・享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
剰余享楽は……享楽の欠片である。 plus de jouir…lichettes de la jouissance (ラカン、S17、11 Mars 1970)

我々はあまりにもしばしば混同している、欲動が接近する対象について。この対象は実際は、空洞・空虚の現前 la présence d'un creux, d'un vide 以外の何ものでもない。フロイトが教えてくれたように、この空虚はどんな対象によっても par n'importe quel objet 占められうる occupable。そして我々が唯一知っているこの審級は、喪われた対象a (l'objet perdu (a)) の形態をとる。対象a の起源は口唇欲動 pulsion orale ではない。…「永遠に喪われている対象objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)


【究極の享楽は死】
死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
人は循環運動をする on tourne en rond… 死によって徴付られたもの marqué de la mort 以外に、どんな進展 progrèsもない 。

それはフロイトが、« trieber », Trieb という語で強調したものだ。仏語では pulsionと翻訳される… 死の欲動 la pulsion de mort、…もっとましな訳語はないもんだろうか。「dérive 漂流」という語はどうだろう。(S23, 16 Mars 1976)

《ラカンにとって、享楽と死の危険のあいだには密接した関係がある。Il y a donc pour Lacan une connexion étroite entre jouissance et risque de mort 》(A risque de mort Marga Auré、 2009

・死は快の最後の形態である。death is the final form of pleasure.

・死は享楽の最後の形態である。death is the final form of jouissance

(ポール・バーハウ2006,「享楽と不可能性 Enjoyment and Impossibility」)


【究極の享楽=究極のエロス】
エロスは接触 Berührung を求める。エロスは、自我と愛する対象との融合 Vereinigung をもとめ、両者のあいだの間隙 Raumgrenzen を廃棄(止揚Aufhebung)しようとする。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
大他者の享楽 jouissance de l'Autre について、だれもがどれほど不可能なものか知っている。そして、フロイトが提起した神話、すなわちエロスのことだが、これはひとつになる faire Un という神話だろう。…だがどうあっても、二つの身体 deux corps がひとつになりっこない ne peuvent en faire qu'Un、どんなにお互いの身体を絡ませても。

…ひとつになることがあるとしたら、ひとつという意味が要素 élément、つまり死に属するrelève de la mort ものの意味に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)


【性的非関係・欲動の身体】
すべてが仮象(見せかけ semblant)ではない。或る現実界 un réel がある。社会的つながり lien social の現実界は、性的非関係である。無意識の現実界は、話す身体 le corps parlant(欲動の身体)である。象徴秩序が、現実界を統制し、現実界に象徴的法を課す知として考えられていた限り、臨床は、神経症と精神病とにあいだの対立によって支配されていた。象徴秩序は今、見せかけのシステムと認知されている。象徴秩序は現実界を統治するのではなく、むしろ現実界に従属していると。それは、性的非関係という現実界へ応答するシステムである。(ミレー 2014、L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT

ーー真理としての《穴、それは非関係によって構成されている、性の構成的非関係によって。un trou, celui constitué par le non-rapport, le non-rapport constitutif du sexuel, 》(Lacan, S22, 17 Décembre 1974)


くりかえせば、上の図が「正しい」とは言わない。別の解釈もありうる。わたくしが(今のところ)依拠しているのは、今うえに掲げた文章群だというだけである。

⋯⋯⋯⋯

エロスの感覚は、年をとった方が深くなるものです。ただの性欲だけじゃなくなりますから。(古井由吉『人生の色気』2009年)
この年齢になると死が近づいて、日常のあちこちから自然と恐怖が噴き出します。(古井由吉、「日常の底に潜む恐怖」 毎日新聞2016年5月14日)



ボクは錯乱する

雨季が終わって乾期となった。この亜熱帯気候の土地では最も美しい季節である。五月の風がボクの身体を吹き抜ける。

初夏の日差しが若葉に照りつけ枝が風に揺れている
季節がめぐってくるたびに何十年も見慣れた光景だが
その光景がぼくにもたらす感情はいつまでも新しい

ーー谷川俊太郎「なみだうた」より『モーツァルトを聴く人』)

何か別の風も吹く。何かの匂がしてくる。すれちがう少女の残す腋臭のほのかさに通じる、さわやかな酸味をまじえたかおりーー、だがとりかえしがつかない悔いのにおいも混じっている。

よく知られているように(?)、人が何かをしきりに強調しているとき、ーーたとえばボクのように《愛する理由は、人が愛する対象のなかにはけっしてない。les raisons d'aimer ne résident jamais dans celui qu'on aime》(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)などと繰り返している場合--、実はそんなことは実践的には不可能であるという思いがあるから、あるいは少なくとも過去においてそんなことはまったく機能しなかったという苦い思いがあるから、それを強調しているのである。頭のなかではその考え方を信奉していても、そんなものは「愛する対象」に青天の霹靂のようにして遭遇したら即座にどこかに吹っ飛んでしまう。ああ、ボクは実に「天性」がない、要するにひどく欠けているのは、あの愛の迷宮にはまり込まない技術の天性である。

…技術の本があっても、それを読むときに、気をつけないといけないのは、いろんな人があみ出した、技術というものは、そのあみ出した本人にとって、いちばんいい技術なのよね。本人にとっていちばんいい技術というのは、多くの場合、その技術をこしらえた本人の、天性に欠けている部分、を補うものだから、天性が同じ人が読むと、とても役に立つけど、同じでない人が読むと、ぜんぜん違う。努力して真似しても、できあがったものは、大変違うものになるの。(……)

といっても、いちいち、著者について調べるのも、難しいから、一般に、著者がある部分を強調してたら、ああこの人は、こういうところが、天性少なかったんだろうかな、と思えばいいのよ。たとえば、ボクの本は、みなさん読んでみればわかるけれども、「抱える」ということを、非常に強調しているでしょ。それは、ボクの天性は、揺さぶるほうが上手だね。だから、ボクにとっては、技法の修練は、もっぱら、「抱えの技法」の修練だった。その必要性があっただけね。だから、少し、ボクの技法論は、「抱える」のほうに、重点が置かれ過ぎているかもしれないね。鋭いほうは、あまり修練する必要がなくて、むしろ、しないつもりでも、揺さぶっていることが多いので、人はさまざまなのね。(神田橋條治「 人と技法 その二 」 『 治療のこころ 巻二 』 )

実にボクはすぐさま錯乱してしまう。実におろかしい。

恋する者 L'amoureux は錯乱 délire している(彼は「価値観を転倒せしめる」のだ)。ただし、その錯乱はおろかしい bête ものである。恋する者ほどおろかしい者があるだろうか。

…(おろかしさ、それは不意打ちを喰うということである。恋する者はたえず不意打ちを喰っている。彼には、変形させたり、検討を加えたり、保護したりしている余裕がない。おそらくは彼にも自分のおろかしさがわかっている。しかし、彼はそれを非難することをしない。あるいはまた、彼のおろかしさは、裂け目clivageというか倒錯というか、そのような働き方をする。彼はいう、いかにもおろかしいことだ、でもそれは真実なのだ。)

(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』)

《愛するという感情が不意に訪れるとしたら、それはどのようにしてなのか、とあなたは訊ねる。彼女は答える-たぶん、世界の論理の突然のひびわれから。彼女はいう-たとえば、ひとつの過ちから。彼女はいう-意志からは決して》(マルグリット・デュラス「死の病い」 )



2017年11月25日土曜日

ロードス島の先の「享楽」

剰余価値[Mehrwert]、それはマルクス的快[Marxlust]、マルクスの剰余享楽 le plus-de-jouir de Marx である。(ラカン、ラジオフォニー、AE434、1970年)

⋯⋯⋯⋯

以下、マルクスの剰余価値とラカンの剰余享楽との相同性を可能なかぎり簡潔に記す。

一商品の価値は他の商品の使用価値で表示される。(マルクス『資本論』)
一つのシニフィアンが他のシニフィアンに対して主体を代表象する un signifiant représente un sujet pour un autre signifiant (ラカン、E819)



主体 $ は、他のシニフィアン S2 に対する一つのシニフィアンS1によって代表象されうるものである Un sujet c'est ce qui peut être représenté par un signifiant pour un autre signifiant。しかしこれは次の事実を探り当てる何ものかではないか。すなわち交換価値 valeur d'échange として、マルクスが解読したもの、つまり経済的現実において、問題の主体、交換価値の主体 le sujet de la valeur d'échange は何に対して表象されるのか? ーー使用価値 valeur d'usage である。

そしてこの裂け目のなかに既に生み出されたもの・落とされたものが、剰余価値 plus-valueと呼ばれるものである。この喪失 perte は、我々のレヴェルにおける重要性の核心である。

主体は己自身と同一化しえず、もはやたしかに享楽しえない ne jouit plus 。何かが喪われているだ。それが剰余享楽 plus de jouir (対象a)と呼ばれるものである。(ラカン、S16, 13 Novembre 1968)

マルクスの価値形態論の基本を、ラカンの言説理論の図を援用して記すなら、次のように書きうる。



◆柄谷行人によるマルクス価値形態論注釈のさわり(『トランスクリティーク』2001)

ーーより詳しくは「価値形態論と例外の論理」を参照のこと

価値形態論は次のように展開されている。先ず、「単純な価値形態」において、商品Aの価値は商品Bの使用価値によって表示される。そのとき、商品Aは相対的価値形態、商品Bは等価形態におかれている。マルクスは単純な価値形態を次のような例で示している。

(相対的価値形態)    (等価形態)
二〇エレのリンネル =  一着の上衣

この等式が示すのは、二〇エレのリンネルは、自らに価値があるということができず、一着の上衣と等値されたあとで、はじめてその自然形態によって価値を示されるほかない、ということである。一方、一着の上衣は、いつでも前者と交換できる位置にいる。等価形態が、一枚の上衣にあたかもそれ自身のなかに交換価値(直接的交換可能性)が内在しているかのように見えさせるのだ。《商品が等価形態にあるということは、その商品が他の商品と直接に交換されうるという形態にあるということなのである》(『資本論』第一巻第一篇第一章第三節)。


ラカンの「言説」とは、「社会的つながり lien social」という意味である。これは社会的交換(コミュニケーション)と言い換えても何もおかしくない。

広い意味で、交換(コミュニケーション)でない行為は存在しない。(……)その意味では、すべての人間の行為を「経済的なもの」として考えることができる。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)

マルクス的に考えようが、ラカン的に考えようが、すべての人間の行為の「構造」は、「「分離タナトス」と「循環タナトス」」にてしめした次の図をベースにして捉えうる、とわたくしは思う(もっともこれは基盤図であり、この上に四つの言説+資本の言説が乗るが、いまは詳細を省く)。




人間の行為がこの図に収斂してしまうのは、仮象としての言語記号を使う人間の宿命である。

見せかけ(仮象)、それはシニフィアン自体のことである! Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! (Lacan,S18, 13 Janvier 1971)
ヘーゲルが何度もくり返して指摘したように、人が話すとき、人は常に一般性のなかに住まう。この意味は、言語の世界に入り込むと、主体は、具体的な生の世界のなかの根を失うということである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)


ここでもうひとつマルクスの名高い《ここがロードス島だ、ここで跳べ!》を引こう。

資本(剰余価値)は流通において発生しなければならぬと同時に、流通において発生してはならない。 ……幼虫から成虫への彼の発展は、流通部面で行われねばならず、しかも流通部面で行われてはならぬ。ここがロードス島だ、ここで跳べ!(マルクス『資本論』)

ロードス島とは、相対的価値形態というシニフィアンと等価形態というシニフィアンとのあいだの完全なる交換の不可能性のことである。




これは仮象の欲望の主体が、他者との融合という享楽(究極のエロス)に至ることの不可能性と相同的である。




エロスは接触 Berührung を求める。エロスは、自我と愛する対象との融合 Vereinigung をもとめ、両者のあいだの間隙 Raumgrenzen を廃棄(止揚Aufhebung)しようとする。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
大他者の享楽 jouissance de l'Autre について、だれもがどれほど不可能なものか知っている。そして、フロイトが提起した神話、すなわちエロスのことだが、これはひとつになる faire Un という神話だろう。…だがどうあっても、二つの身体 deux corps がひとつになりっこない ne peuvent en faire qu'Un、どんなにお互いの身体を絡ませても。

…ひとつになることがあるとしたら、ひとつという意味が要素 élément、つまり死に属するrelève de la mort ものの意味に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

究極の等置・融合の不可能性のゆえに、常に剰余価値・剰余享楽がうまれ、endless はてしない、 end-less 無目的的なーー享楽欠如のーー循環運動を続ける。

剰余価値、それはひとつの経済が自らの原理をつくるための欲望の原因である。この原理とは、「享楽欠如 manque-à-jouir」の拡張的生産の、つまり飽くことをしらないものとしてのそれである。(ラカン、ラジオフォニー、1970年)

もっともここでラカンの言っているのはやや誇張であり、おおくの人はそれぞれ何らかの「享楽の欠片」を楽しんでいるはずである。

剰余享楽 plus de jouirは……享楽の欠片…lichettes de la jouissance である。 (ラカン、S17、11 Mars 1970)
欲望に関しては、それは定義上、不満足であり、享楽欠如 manque à jouir です。欲望の原因は、フロイトが「原初に喪失した対象」と呼んだもの、ラカンが欠如しているものとしての「対象a」と呼んだものです。それにもかかわらず、複合的ではあるけれど、人は享楽欠如を享楽する jouir du manque à jouir ことが可能です。それはラカンによって提供されたマゾヒズムの形式のひとつです。(コレット・ソレール、2013、Interview de Colette Soler pour le journal « Estado de minas »

とはいえ、享楽欠如の享楽とは、《飲めば飲むほど渇く》ことでもありうる。




2017年11月24日金曜日

「分離タナトス」と「循環タナトス」




①「見せかけ semblant・欲望の主体」の真理は、隠蔽された「性的非関係・欲動の身体」である。この真理は「見せかけ・欲望の主体」を無意識的に駆り立てる。

②「見せかけ・欲望の主体」は「享楽・大他者」を目指す。これがエロス(融合欲動)である(だが「享楽・大他者」との融合は不可能である。完全なる融合は「主体の消滅・主体の死」を意味する)。

③真理である「性的非関係・欲動の身体」は②の動きに介入し、融合欲動の邪魔をする。これがタナトス(分離欲動)である。この介入は、「非関係 non-rapport」という他者との関係の無根拠性あるいは非一貫性(非全体 pastout)、そして自閉的な「身体 corps」によって、である。

(この融合/分離は、フロイトが《同化/反発化 Mit- und Gegeneinanderwirken という二つの基本欲動 Grundtriebe の相互作用》、あるいは《引力と斥力 Anziehung und Abstossung 》と記したものである。)

④融合の不可能性のゆえに「剰余享楽 plus de jouir・喪失 perte」という残滓が生み出される。

⑤「剰余享楽・喪失」は「見せかけ・欲望の主体」を促し刺激する。こうして無限の循環運動が生じる。この循環運動自体がより深い意味でのタナトスであり享楽回帰運動(享楽の漂流 dérive de la jouissance)である。

こうして、いわば「分離タナトス」と「循環タナトス」(享楽の漂流)という二種類のタナトスがあることになる。

以上は、フロイト・ラカンのエロス/タナトスをめぐる考え方をベースにして、ドゥルーズ(1967,1968)の際立ってすぐれた解釈を(わたくしなりに)表現し直したものである。

ドゥルーズは《生の欲動と死の欲動 les pulsions de vie et les pulsions de mort》の二区分を支える《純粋状態のタナトス Thanatos à l'état pur》を叙述している(参照:エロスとタナトスをめぐる基本文献)。前者の「死の欲動」が、分離タナトス(破壊タナトス)であり、後者の「純粋状態のタナトス」が循環タナトスである。

なお冒頭の図は、時期によって異なった形であらわれる、ラカン理論の華である「四つの言説」の基盤図を混淆させ且つまたいくらか編集したものであり、ラカン自身のものではない。





⋯⋯⋯⋯

以下、資料。

私は…欲動Triebを、享楽の漂流 la dérive de la jouissance と翻訳する。(ラカン、S20、08 Mai 1973)
死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S.17、26 Novembre 1969)
反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている・・・それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる・・・享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
剰余享楽は……享楽の欠片である。 plus de jouir…lichettes de la jouissance (ラカン、S17、11 Mars 1970)
人は循環運動をする on tourne en rond… 死によって徴付られたもの marqué de la mort 以外に、どんな進展 progrèsもない 。

それはフロイトが、« trieber », Trieb という語で強調したものだ。仏語では pulsionと翻訳される… 死の欲動 la pulsion de mort、…もっとましな訳語はないもんだろうか。「dérive 漂流」という語はどうだろう。(S23, 16 Mars 1976)

《エロスは接触 Berührung を求める。エロスは、自我と愛する対象との融合 Vereinigung をもとめ、両者のあいだの間隙 Raumgrenzen を廃棄(止揚Aufhebung)しようとする。》(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

大他者の享楽 jouissance de l'Autre について、だれもがどれほど不可能なものか知っている。そして、フロイトが提起した神話、すなわちエロスのことだが、これはひとつになる faire Un という神話だろう。…だがどうあっても、二つの身体 deux corps がひとつになりっこない ne peuvent en faire qu'Un、どんなにお互いの身体を絡ませても。

…ひとつになることがあるとしたら、ひとつという意味が要素 élément、つまり死に属するrelève de la mort ものの意味に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)
我々はあまりにもしばしば混同している、欲動が接近する対象について。この対象は実際は、空洞・空虚の現前 la présence d'un creux, d'un vide 以外の何ものでもない。フロイトが教えてくれたように、この空虚はどんな対象によっても par n'importe quel objet 占められうる occupable。そして我々が唯一知っているこの審級は、喪われた対象a (l'objet perdu (a)) の形態をとる。対象a の起源は口唇欲動 pulsion orale ではない。…「永遠に喪われている対象objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)

⋯⋯⋯⋯

すべてが見せかけ semblant ではない。或る現実界 un réel がある。社会的つながり lien social の現実界は、性的非関係である。無意識の現実界は、話す身体 le corps parlant(欲動の身体)である。象徴秩序が、現実界を統制し、現実界に象徴的法を課す知として考えられていた限り、臨床は、神経症と精神病とにあいだの対立によって支配されていた。象徴秩序は今、見せかけのシステムと認知されている。象徴秩序は現実界を統治するのではなく、むしろ現実界に従属していると。それは、性的非関係という現実界へ応答するシステムである。(ミレー 2014、L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT

ーー真理としての《穴、それは非関係によって構成されている。un trou, celui constitué par le non-rapport》(Lacan, S22, 17 Décembre 1974)

身体の享楽は自閉症的である。愛と幻想のおかげで、我々はパートナーと関係を持つ。だが結局、享楽は自閉症的である。(Report on the ICLO-NLS Seminar with Pierre-Gilles Guéguen, 2013)

2017年11月23日木曜日

想起記述Ⅱ

おやつのときの、つめたい砂糖入りミルク。古い白い茶碗の底に、陶器のきずがひとつあった。かきまわすときにスプーンに当たったものはそのきずだったか、それとも、溶け残りか洗い残しの砂糖のこびりついたものだったろうか。(『彼自身によるロラン・バルト』「想起記述 anamneses」)

⋯⋯⋯⋯

道祖神の女と性交している最中、彼女の妹が突然帰ってきたことがある。ドアチェーンがかかっているにはいた。「ちょっと待って!」と道祖神は玄関に向けて声を上げ、ボクに目配せする。慌ててズボンを履きバルコニーに出て隠れる(クツ、クツがない、と身ぶりで伝えるーーこれでまた玄関を開けるまでに時がたった)。

姉妹の言い争いの声がきこえてくる。どうも具合が悪い。隣のバルコニーに飛び移る。洗濯干しが音を立てたが大過ない(パンティがぶらさがっているハンガーが落ちただけで、丁重に元にもどした)。幸運にも隣室の住人は在宅で、ガラス戸から拝んで入れてもらう。

少女は戸惑いつつもニヤニヤしている。大柄な友人もいる。「珈琲でも飲んでいって、せっかくだから」。一人は大胆にも床の上で(花札でもやるように)アグラをおきかになられてボクの正面で微笑み昂然とされている。ストッキングなしの短いスカートでの姿態である、--「途中だったのでしょ」

度々聞き耳をお立になられていたらしい。道祖神はクライマックスで規則正しい声を三つか四つ間歇的に発するタチだった。「今日は鳥のいのちが果てる三連符がなかったから」。実に教養豊かな女性で感心した。

八千矛神よ、この私はなよなよした草のようにか弱い女性ですから、私の心は浦や洲にいる鳥と同じです。いまは自分の思うままにふるまっている鳥ですが、のちにはあなたの思うままになる鳥なのですから、鳥のいのちは取らないでください……(高橋睦郎『古事記』現代語訳)

兎角するうちに、一人のお嬢さんは果敢にも《溶け残りの砂糖のこびりついたもの》を熱心にかきまわされ、別のお嬢さんは眼を閉じ眼を開らかれた。



2017年11月22日水曜日

エロスとタナトスをめぐる基本文献

以下、エロス/タナトスを思考した二十世紀の代表的思想家、フロイト・ラカン・ドゥルーズを中心にした基本文献をかかげる。あくまで最も基本的な文献であり、これがすべてではまったくない。

最初にエロス/タナトスとは、愛/闘争(憎悪)、結合/解体、融合/分離、引力/斥力などの用語群で語られているのを示す。

まずフロイトの最晩年の『終りある分析と終りなき分析』ーーラカンがフロイトの遺書と呼んだ論ーーにおけるエロス/タナトスをめぐる叙述である。

ギリシア文化史のなかでの最も偉大な注目すべき人物…エンペドクレス Empedokles の二つの根本原理――愛と闘争 philia und neikos――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの原欲動 Urtriebe、エロスと破壊 Eros und Destruktion と同じものである。その一方は、現存しているるものをより大きな統一 Einheiten に結合 zusammenzufassen しようと努め、他のものは、この融合 Vereinigungen を分離 aufzulösen(解体)し、融合によって形成された構造 entstandenen Gebilde を破壊 zerstören しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』 1937年)

死の枕元にあったとされる遺稿では次の通り。

長いあいだの躊躇いと揺れ動きの後、われわれは、ただ二つののみの根本欲動 Grundtriebe の存在を想定する決心をした。エロスと破壊欲動 den Eros und den Destruktionstrieb である。(⋯⋯)

エロスの目標は、より大きな統一 Einheiten を打ち立てること、そしてその統一を保つこと、要するに結び合わせる Bindung ことである。対照的に、破壊欲動の目標は、結合 Zusammenhänge を分離 aufzulösen(解体)すること、そして物 Dingeを破壊 zerstören することである。

破壊欲動の最終的な目標は、生きた物 das Lebende を無機的状態 anorganischen Zustand へ還元することだと想定しうる。この理由で、破壊欲動を死の欲動 Todestrieb とも呼ぶ。(⋯⋯)

生物学的機能において、二つの基本欲動は互いに反発 gegeneinander あるいは結合 kombinieren して作用する。食事という行為 Akt des Essens は、食物の取り入れ Einverleibung という最終目的のために対象を破壊 Zerstörungすることである。性行為 Sexualakt は、最も親密な結合 Vereinigung という目的をもつ攻撃性 Aggressionである。

この同化/反発化 Mit- und Gegeneinanderwirken という二つの基本欲動 Grundtriebe の相互作用は、生の現象のあらゆる多様化を引き起こす。二つの基本欲動のアナロジーは、非有機的なものを支配している引力と斥力 Anziehung und Abstossung という対立対にまで至る。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

ーー「引力 Anziehung」とは、フロイトが原抑圧(固着)を語るときに使われる語彙である(参照)。そしてラカンの穴Ⱥ概念のシニフィアンであるS(Ⱥ)は、原抑圧のシニフィアンである(「S(Ⱥ)、あるいは欠如と穴」)。

ドゥルーズによる「引力と斥力」の記述は次の通り。

エロス Érôs は己れ自身を循環 cycle として、あるいは循環のエレメント élément d'un cycle として生きる。それに対立する他のエレメントは、記憶の底にあるタナトス Thanatos au fond de la mémoire でしかありえない。両者は、愛と憎悪 l'amour et la haine、構築と破壊 la construction et la destruction、引力と斥力 l'attraction et la répulsion として組み合わされている。(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)

⋯⋯⋯⋯

さてフロイトの遺稿には次の叙述があった。

破壊欲動の最終的な目標は、生きた物 das Lebende を無機的状態 anorganischen Zustand へ還元することだと想定しうる。この理由で、破壊欲動を死の欲動 Todestriebとも呼ぶ。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

ラカンはこの箇所に異議表明をしている。

欲動自体、それは破壊欲動 pulsion de destructionなのだが、そのかぎりにおいて、非生命体(無機物 l'inanimé=死)への回帰傾向の彼岸 au-delà de cette tendance au retour à l'inanimé になくてはならない。(ラカン、S7、04 Mai 1960)

ラカンにとって死の欲動は、無機的状態への回帰(あるいは死に向かう欲動)であるどころか、「永遠の生(不死の生)」にかかわるのである。

リビドー libido、純粋な生の本能 pur instinct de vie としてのリビドー。これは、不死の生 vie immortelle、押さえ込むことのできない生 vie irrépressible、いかなる器官 organeも必要としない生、単純化され、壊すことのできない indestructible 生、そういう生の本能である。 (ラカン、S11、20 Mai 1964)

ジジェクはこのラカンに依拠して次のように記している(詳細参照:「死の欲動」という「不死の欲動」)。

フロイトの死の欲動は、自己消滅への渇望や、どんな生命緊張の無機的不在への回帰渇望とはまったく関係がない。それどころか死の欲動とは、死にゆくことのまさに反対ーー「不死の」永遠の生 'undead' eternal life 自体の名であり、罪と苦痛のまわりを彷徨う終わりなき反復循環に囚われるという悲惨な運命の名である。したがって、フロイトの「死の欲動」の逆説は、まさに「死」の反対の名だということである。精神分析内で「不滅性」が現れるあり方の名、生の不気味な過剰の名、生と死の(生物学的)循環の彼岸に生き続ける「不死の」衝動の名である。精神分析の究極の教えは、人間の生はけっして「ただの生」ではないということである。人間は単に生きているのではない。人間は、過剰のなかの生を享楽する奇妙な欲動にとり憑かれ、突出した剰余・物事の通常の成行きから逸脱した剰余に熱狂的に纏いつかされている。(ジジェク『パララックス・ヴュ―』2006年、私訳)

…………

ドゥルーズが「生の欲動/死の欲動/死の本能」という三区分をするとき、上のラカン解釈における死の欲動=不死の欲動(ドゥルーズの「死の本能」)と相同的である。

『快原理の彼岸』で、フロイトは生の欲動と死の欲動 les pulsions de vie et les pulsions de mort、つまりエロスとタナトスの違いを明確化している。だがこの区別は、いま一つのより深い区別、つまり、死の欲動、あるいは破壊の欲動それ自体 les pulsions de mort ou de destruction elles-mêmesと、死の本能 l'instinct de mortとの違いを明確化することで、はじめて理解されるものである。

なぜなら、死の欲動と破壊の欲動 les pulsions de mort et de destructionは、まちがいなく無意識にそなわっている、というより与えられているのだが、きまって生の欲動 puIsions de vie と混同された形としてなのだ mais toujours dans leurs mélanges avec des puIsions de vie。エロスと結ばれることは、タナトスの《現前化 présentation》の条件のようなものである。

従って破壊、破壊に含まれる否定性は、必然的に構築 construction もしくは快原理への従属的融合 unification soumises au principe de plaisir といったものとしてあらわれてしまう。

無意識に「否Non」(純粋否定 negation pure)は認められない、無意識にあっては両極が一体化しているからだとフロイトが主張しうるのは、そうして意味においてである。

ここで死の本能 Instinct de mort という言葉を使用したが、それが示すものは、反対に純粋状態のタナトス Thanatos à l'état pur なのである。ところでそれ自体としてのタナトスは、たとえ無意識の中にであれ、心的生活にそなわっていることはありえない。見事なテキスト textes admirables のなかでフロイトが述べているように、それは本源的に沈黙する essentiellement silencieux ものなのである。にもかかわらず、それを問題にしなければならない。後述するごとく、それは心的生活の基礎以上のものとして決定づけうるdéterminable ものだから。

すべてがそれに依存しているからには、問題にせざるをえないのだが、フロイトの確言によると、純理論的にか、あるいは神話的にしかそれを遂行する道をわれわれは持っていない。その指示にあたって、かかる超越論性transcendanceを人に理解させたり、「超越論的 transcendantal」原理を指示しうる唯一のものとして、本能という名 le nom d'instinct を使い続ける必要がわれわれにあるのだ。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』1967年)

翌年に上梓された『差異と反復』には「生の欲動/死の欲動/死の本能」の三区分はない。ここでは「生の欲動+死の欲動」がエロスであり、「死の本能」がタナトスである、という風にわたくしは読む(フロイトには「欲動融合 Triebmischung」という概念があることを想い出しておこう)。

エロスとタナトスは、次ののように区別される。すなわち、エロスは、反復されるべきものであり、反復のなかでしか生きられないものであるのに対して、(超越論的的原理 principe transcendantal としての)タナトスは、エロスに反復を与えるものであり、エロスを反復に服従させるものである。唯一このような観点のみが、反復の起源・性質・原因、そして反復が負っている厳密な用語という曖昧な問題において、我々を前進させてくれる。なぜならフロイトが、表象 représentations にかかわる「正式の proprement dit」抑圧の彼方に au-delà du refoulement、「原抑圧 refoulement originaire」の想定の必然性を示すときーー原抑圧とは、なりよりもまず純粋現前 présentations pures 、あるいは欲動 pulsions が必然的に生かされる仕方にかかわるーー、我々は、フロイトは反復のポジティヴな内的原理に最も接近していると信じるから。(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)

上にあるように、ドゥルーズにとって「反復のポジティヴな内的原理」は「原抑圧」である。

そして晩年のラカンによる「サントーム」概念とは、原抑圧(原固着)の徴のことである(参照:ララングという母の言霊)。

ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)
「一」と「享楽」との関係が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。(ジャック=アラン・ミレール2011, Jacques-Alain Miller Première séance du Cours)

⋯⋯⋯⋯

ラカンの死の欲動(ドゥルーズの死の本能)は、カール・ケレーニイ解釈の「ゾーエーZoë /ビオス Bios」におけるゾーエーに近似している、《ゾーエーは死を知らない》。

ゾーエーはすべての個々のビオスをビーズのようにつないでいる糸のようなものである。そしてこの糸はビオスとは異なり、ただ永遠のものとして考えられるのである。
ビオスと 死(タナトス)との関係は、一方の死を排除してしまうような対立状態にはない。そうではなく、特徴的な死は特徴的な生の一部なのである。そればかりか、生はみずからの活動を停止する仕方によってさえも特徴づけられる。あるギリシャ語の言い回しは、<独自の死によって生を終える>ことが特徴ある死であると述べて、この点を実に端的に言い表している。それとは逆に、タナトスをしめ出す生がギリシャ語のゾーエーである。

ゾーエーにもし輪郭があるとしてもそれは稀であるが、その代わりにゾーエーは、死すなわちタナトスとことのほか対立的な関係にある。ゾーエーから明瞭に <ひびく>ところのものは< 非=死>である。それは死を自分に近寄せない何ものかである。 (カール・ケレーニイ『ディオニューソス.破壊されざる生の根 Dionysos Urbilddesunzerst・rbarenLebens)』1976年ーー「玄牝之門・コーラ χώρα・ゾーエー Zoë」)

上の文の「タナトス」用語遣いには、十分に注意して読まなければならない。タナトスの底にある「非死」としてのゾーエーを語っている文脈のなかで使われているのだから。

ケレーニイの叙述に《ゾーエーはすべての個々のビオスをビーズのようにつないでいる糸のようなもの》とあったが、ニーチェの『ツァラトゥストラ』のグランフィナーレから、次のような近似的な表現を引用することができる。

いっさいのことが、新たにあらんことを、永遠にあらんことを、鎖によって、糸によって、愛によってつなぎあわされてあらんことを、おまえたちは欲したのだ。おお、おまえたちは世界をそういうものとして愛したのだ。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』酔歌 )

ーー最もすぐれたニーチェ解釈者のひとり、クロソウスキーは、永遠回帰は至高の欲動のことではないか、と言っている。

・永遠回帰 L'Éternel Retour …回帰 le Retour は権力への意志の純粋メタファー pure métaphore de la volonté de puissance以外の何ものでもない。

・しかし権力への意志 la volonté de puissanceは…至高の欲動 l'impulsion suprême のことではなかろうか?(クロソウスキー『ニーチェと悪循環』1969年)