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2016年12月23日金曜日

女性嫌悪 misogyny をめぐって

WikiPediaの「女性嫌悪」の項には、次のような記述がある。

ミソジニー (英:misogyny) とは、女性や女らしさに対する嫌悪や蔑視の事である。女嫌い、女性嫌悪、女性蔑視などともいう。ギリシア語の μισος misos (嫌悪、憎しみ)と γυνε gune(女性)から由来し、女性を嫌悪する男性をミソジニスト(misogynist)と呼ぶ。

日本語版ではあまり多くは記されていないが、英語版 WikiPedia をみるととても由緒のある語であることが瞭然とする。

ミシェル・フーコーのよき友人だった古代ローマ史専門家(アナール派)のポール・ヴェーヌPaul Veyne は、コレージュ・ド・フランス講義1977-78で、古代ローマにおけるセクシュアリティと家族をテーマにした。

ヴェーヌの結論は、後期ローマ帝国ではほとんど何でも許され、近親相姦さえほとんど存在しなかったと。それは愉快な仲間たちのあいだで屁をひる程度にものだと考えられていた。そして唯一、醜聞として拒絶されたことは、受動性(受け身になること)だ、と。

さて表題を「女性嫌悪misogyny をめぐって」としたが、もちろんある立場から「のみ」の、しかもいくらかの文献列挙に終始する。

ただし、これらの資料は「受動性」--ラカンがフロイトの遺言と呼んだ『終りある分析と終りなき分析』1937に出現する、「受動的立場 passive Einstellung」、「女性性の拒否 Ablehnung der Weiblichkeit」という表現のまわりを巡っていることには間違いない。すなわち、以下の資料から判断できる核心、少なくともそのひとつは、女性嫌悪の起源は受動的立場の嫌悪である、ということに殆ど等しい。つまりはポール・ヴェーヌの見解に結びつく。そして我々人間のほとんど誰もが母なる大他者に支配されてーー受動的な立場に置かれてーーその生を出発する。


【前奏】
精神分析は入り口に「女性というものを探し求めないものはここに入るべからず」と掲げる必要はありません。というのも、そこに入ったら幾何学者でもそれを探しもとめるのです。(ミレール「もう一人のラカン」)
あまりにも顕著なのは、現代のジェンダー研究において、欲動とセクシャリティへの関心がいかに僅かしか差し向けられていないか、である。(Paul Verhaeghe, Phallacies of binary reasoning: drive beyond gender, 2004、PDF
男は誰に恋に陥るのか? 彼を拒絶する女・つれないふりをする女・決してすべてを与えることをしない女に恋に陥る。(ポール・バーハウ、Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE  Paul Verhaeghe、1998、PDF
女は口説かれているうちが花。落ちたらそれでおしまい。喜びは口説かれているあいだだけ。Women are angels, wooing: Things won are done; joy's soul lies in the doing.( シェイクスピア、Troilus and Cressida)
人が何かを愛するのは、その何かのなかに近よれないものを人が追求しているときでしかない、人が愛するのは人が占有していないものだけである。(プルースト「囚われの女」)
ファウスト

もし、美しいお嬢さん。
不躾ですが、この肘を
あなたにお貸申して、送ってお上申しましょう。

マルガレエテ

わたくしはお嬢さんではございません。美しくもございません。
送って下さらなくっても、ひとりで内へ帰ります。

(……)

ファウスト

途方もない好い女だ。
これまであんなのは見たことがない。
あんなに行儀が好くておとなしくて、
そのくせ少しはつんけんもしている。
あの赤い唇や頬のかがやきを、
己は生涯忘れることが出来まい。
あの伏目になった様子が
己の胸に刻み込まれてしまった。
それからあの手短に撥ね附けた処が、
溜まらなく嬉しいのだ。(ゲーテ『ファウスト』森鴎外訳)


 【基礎篇】
構造的な理由により、女の原型は、危険な貪り食う大他者と等価である。その大他者とは原初の母であり、元来彼女のものであったものを奪い返しうる存在である。したがって純粋な享楽の元来の状態を回復させようとする。これが、セクシュアリティがつねに《魅惑と戦慄 fascinans et tremendum》の混淆である理由である。すなわちエロスと死の欲動(タナトス)の混淆。このことが説明するのは、セクシュアリティそれ自体の内部での本質的な葛藤である。どの主体も彼が恐れるものを恋焦がれる。すなわち、熱望するものは、享楽の原初の状態である。

この畏怖に対する一次的な防衛は、このおどろおどろしい存在に去勢をするという考えの導入である。すなわち名状し難い、それゆえ完全な欲望の代りに、彼女が特定の対象に満足できるように、と。この対象の元来の所持者であるスーパーファザー(享楽の父)の考え方をもたらすのも同じ防衛的な身ぶりである。ラカンは、これをよく知られたメタファーで表現している。《母はあなたの前で口を開けた大きな鰐である。ひとは、彼女はどうしたいのか、究極的にはあんぐり開けた口を閉じたいのかどうか、分からない。これが母の欲望なのだ(……)。だが顎のあいだには石がある。それが顎が閉じてしまうのを支えている。これが、ファルスと名づけられるものである。それがあなたを安全に保つのだ、もし顎が突然閉じてしまっても。》(セミネール17)

これは、スフィンクスとその謎に直面した状況を我々に想い起こさせる。スフィンクスはあなたを貪り食うだろう、もしあなたが正しい答え、すなわち、正しいシニフィアンをもたらさなかったら。実のところ、我々は具体的な女について話しているわけではもはやない。逆に全ての女は、二重の仕方でこの姿形の餌食になるのだ。主体として、彼女はこのおどろおどろしい形象に直面する(すなわち女も男と同じように、生れたときは母の欲望に直面する:引用者[後引用])。さらに女として、彼女はこの畏怖すべき形象の姿を纏わせられる。

あなたがこのおどろおどろしい女性の姿形の説明を知りたいのなら、カミール・パーリアの書物、『性のペルソナ』をにおける性と暴力をめぐる最初の章を読んでみるだけでよい。彼女は正しく、この姿形と自然自体とを同一化している。もしこの姿形に直面した男性の不安の臨床的な説明を読みたいなら、オットー・ヴァイニンガーの『性と性格 Geschlecht und Charakter』を、ジジェクのコメントとともに読んでみよう。この二つとも意図されずに、臨床的な事実の説明となっている。すなわちおどろおどろしい女性の姿形は、防衛的な機能を伴ったア・ポステリオリな構築物であるという事実を明かしている。(ポール・バーハウ1995,NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL, Paul Verhaeghe,PDF

◆カーミル・パーリア「性のペルソナ」より
女に対する(西欧の)歴史的嫌悪感には正当な根拠がある。(女性に対する男性の)嫌悪は生殖力ある自然の図太さに対する理性の正しい反応なのだ。理性とか論理といったものは、天空の最高神であるアポロンの領域であり、不安(に抗する為に)から生まれたのだ。………
西欧文明が達してきたものはおおかれすくなかれアポロン的である。アポロンの強敵たるディオニュソスは冥界なるものの支配者であり、その掟は生殖力ある女性である。その典型的なイメージはファンム・ファタール、すなわち男にとって致命的な女のイメージである。宿命の女(ファンム・ファタール)は自然の精神的両義性であり、希望に満ちた感情の霧の中にたえず射し込む、悪意ある月の光である。………
宿命の女は虚構ではなく、変わることなき女の生物学的現実の延長線上にある。ヴァギナ・デンタータ(歯の生えたヴァギナ)という北米の神話は、女のもつ力とそれに対する男性の恐怖を、ぞっとするほど直観的に表現している。比喩的にいえば、全てのヴァギナは秘密の歯をもっている。というのは男性自身(ペニス)は、(ヴァギナに)入っていった時よりも必ず小さくなって出てくる。………
社会的交渉ではなく自然な営みとして(セックスを)見れば、セックスとはいわば、女が男のエネルギーを吸い取る行為であり、どんな男も、女と交わる時、肉体的、精神的去勢の危険に晒されている。恋愛とは、男が性的恐怖を麻痺させる為の呪文に他ならない。女は潜在的に吸血鬼である。………
自然は呆れるばかりの完璧さを女に授けた。男にとっては性交の一つ一つの行為が母親に対しての回帰であり降伏である。男にとって、セックスはアイデンティティ確立の為の闘いである。セックスにおいて、男は彼を生んだ歯の生えた力、すなわち自然という雌の竜に吸い尽くされ、放り出されるのだ。………
エロティシズムは社会の一番柔らかい部分であり、そこから冥界的自然が侵入する。………

(性的な意味合いでの)自然とは、食うもの(食物連鎖の上、女を指す)と食われるもの(食物連鎖の下、男を指す)が繰り広げるダーウィン的な見世物である。生殖(性交)はどの側面を見ても食欲に支配されている。性交は接吻から挿入にいたるまでほとんど制御できない残酷さと消耗からなる。人間は妊娠期間が長く、子供時代もまた長く、子供は七年以上も自立することができない。この為に男たちは死ぬまで、(女性への)心理的依存という重荷を背負い続けなければならない。男が女に呑み込まれるのを恐れるのは当然だ。女は(自然を忘れた男を罰して食ってしまう)自然の代行人なのだから。(カーミル・パーリア「性のペルソナ」)


◆ジジェク=オットー・ヴァイニンガー=カフカ、1991
……Kは審問室に入り、判事席の前で熱弁をふるうが、それは猥褻な闖入によって邪魔される。そのとき、Kは洗濯女が法に対して重要な立場にいることを知る。

《そのとき、Kの熱弁はホールの向こう端から聞こえた金切り声によって中断される。何が起きたのかを見ようとして、彼は眼の上に手をかざした。部屋の湿気と鈍い日光のせいで、白い霧のようなものがたちこめていたのだ。騒ぎを起こしたのはあの洗濯女だった。Kは、彼女が部屋に入ってきたときから、なにか騒ぎを引き起こすかもしれないと予感していた。悪いのが彼女かどうかは、わからなかった。Kに見えたのは、ひとりの男が彼女を扉の近くの隅まで引きずっていき、抱きしめていることだけだった。ただし声をあげたのは彼女ではなく男のほうだった。彼は口を大きくあげて、天井を見上げていた。》(カフカ『審判』)

それでは、この女と法廷との間にはどんな関係があるのだろうか。カフカの小説では、「心理学的類型」としての女はオットー・ヴァイニンガーの反フェミニズム的イデオロギーとぴったり一致している。すなわち、女は本来の自己をもたぬ存在であり、倫理的な態度をとることができないし(倫理的な根拠にもとづいて行為をしているように見えるときですら、彼女は自分の行為から引き出す享楽を計算している)、真実の次元にけっして近づくことのない存在である(彼女の言うことが文字通り真実だとしても、その主観的立場の帰結として彼女は嘘をついていることになる)。そのような存在に関しては、彼女は男を誘惑するために愛しているふりをする、と言うだけでは不十分である。なぜなら、この見せかけの仮面の裏には何もないということが問題なのだから。仮面の裏には、彼女の実体そのものである、ねばねばした不潔な享楽しかないのである。そうした女性のイメージに直面したカフカは、ありふれた批判的・フェミニスト的誘惑(つまり、このイメージが特殊な社会的条件のイデオロギー的産物であることを明らかにしたい、あるいは別のタイプの女性のイメージと比較した、という誘惑)には屈しない。それよりもはるかに価値転倒的な身振りで、カフカは「心理学的類型」としてのヴァイニンガー的な女性像を全面的に受け入れ、それを、前代未聞の、前例のない場所に立たせる。その場所とは、法の場所である。スタッハがすでに指摘しているように、おそらくこれが、カフカの基本的戦略である。すなわち、女性的「実体」(「心理学的類型」)と法の場所を短絡させることである。でんとうてきには純粋で中立的な普遍性であった法が、猥雑な生命力に彩られ、享楽に貫かれた、さまざまな異物からなる、一貫性の欠如したプリコラージュの特徴を帯びるのである。(ジジェク『斜めから見る』P277-278)


【経験論篇】
…もう一つ書きたいと思ったのは、男にとって女とは何かです。母親ではあるんですよ。“一切の女人、これ、母親なり”という、仏典か何かにあるんだそうですね。例えば戦争中に戦地へ送り込まれた兵隊の間で、母親信仰というのが強かったと聞きます。

僕も母親と姉とに引かれて走っているわけですよ。逃げている周りに、やっぱり女性は多かった。これはもういかんというときに、女たちに包まれる。その感覚は成人しても濃厚に残っている。

だから、男女のこと、いわゆるエロティシズムのことだけじゃなくて、男が女に生命を守られるという境。それからもう一つ、女は子供を連れて危機に陥った場合、子供を道連れにしようという、そういうすごいところがあるんです。(古井由吉「すばる」2015年9月号)
母の影はすべての女性に落ちている。つまりすべての女は母なる力を、さらには母なる全能性を共有している。これはどの若い警察官の悪夢でもある、中年の女性が車の窓を下げて訊ねる、「なんなの、坊や?」

この原初の母なる全能性はあらゆる面で恐怖を惹き起こす、女性蔑視(セクシズム)から女性嫌悪(ミソジニー)まで。((Paul Verhaeghe,Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE,1998)
なにが起こるだろう、ごくふつうの男、すなわちすぐさまヤリたい男が、同じような女のヴァージョンーーいつでもどこでもベッドに直行タイプの女――に出会ったら。この場合、男は即座に興味を失ってしまうだろう。股間に萎れた尻尾を垂らして逃げ出しさえするかも。精神分析治療の場で、私はよくこんな分析主体(患者)を見出す、すなわち性的な役割がシンプルに転倒してしまった症例だ。男たちが、酷使されているとか、さらには虐待されて、物扱いやらヴァイブレーターになってしまっていると愚痴をいうのはごくふつうのことである。言い換えれば、彼は女たちがいうのと同じような不平を洩らす。男たちは女の欲望と享楽をひどく怖れるのだ。だから科学的なターム「ニンフォマニア(色情狂)」まで創り出している。これは究極的にはヴァギナ・デンタータ(「有歯膣」)の神話の言い換えである。 (Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE  Paul Verhaeghe)


【宗教書篇】
彼女は反ユダヤ主義者ではない、ちがうさ、いやはや、でもやっぱり聖書によって踏みつぶされたのが何かを見出すべきだろう …別のこと… 背後にある …もうひとつの真実を…

「それなら、母性崇拝よ」、デボラが言う、「明らかだわ! 聖書がずっと戦っているのはまさにこれよ …」

「そうよ、それに何という野蛮さなの!」、エドウィージュが言う。「とにかくそういったことをすべて明るみに出さなくちゃならないわ …」(ソレルス『女たち』)

ーーデボラは、ソレルスのパートナー、クリステヴァがモデルとされている。

ラカンの最初のエディプス理論とは次のような形で説明されている。母は子供を、ほとんど致死的な deadly 仕方で享楽する。主体は唯一、父の介入を通してのみ、母による潜在的に命取りのlethal 享楽から救われる。

同じ理屈が、三つの宗教書のなかに漸増する形で見出される。初めにすべての悪の源としてイヴ、次にカトリックの性と女への不安と憎悪、最後にムスリムのベール等への強制。

すなわち女は男を誘惑し破滅させるので、寄せつけないようにしなければならない、ということである。これは次のように読むべきだ。我々自身の享楽、我々の身体から生じる欲動は、享楽的であるだけではなく、我々が統御する必要のある、明らかに脅迫的な何かだ。統御するための最も簡単な方法は、その享楽を他者に帰して、もし必要なら、この他者を破壊することだ、と。

事実、享楽と他者とのあいだの、この発達的に基礎付けられる繋がりは、主体にとって享楽にかんする相克を外部化する道を開く。そうでもしなければ、自身の内部に留まったままになりうる。…

フロイトはくり返し言っている、人は内的な脅威から逃れうるのは、唯一外部の世界にそれを投影することだ、と。問題は享楽の事態に関して、外部の世界はほとんど女と同義だということである…。(PAUL VERHAEGHE,new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex,2009)
注) 我々の現代的西欧社会では、最初の世話役は父でありうるし、ジェンダーの平等が多かれ少なかれ成就している。その社会では、男たちに向かっての女たちからの同じ反応を漸次、観察できるようになった。すなわち、男たちのエロティックな魅力の見せびらかしを非難しつつ、同時に、自らの欲動と享楽を見て見ぬふりをする女たちである。(同ポール・バーハウ、2009)
モーセはヤハウェを設置し、キリストも同じくヤハウェを聖なる父として設置した。ムハンマドはアラーである。この三つの宗教の書は同時に典型的な男-女の関係性を導入する。そこでは、女は統御されなければならない人格である。なぜなら想定された原初の悪と欲望への性向のためだ。

フロイトもラカンもともに、この論拠の少なくとも一部に従っている。それ自体としては、奇妙ではない。患者たちはこの種の宗教的ディスクールのもとで成長しており、結果として、彼らの神経症はそれによって決定づけられていたのだから。

奇妙なのは、二人ともこのディスクールを、ある範囲で、実情の正しい描写と見なしていることだ。他方、それは現実界の脅迫的な部分ーーすなわち欲動(フロイト)、あるいは享楽(ラカン)--の想像的な加工 elaboration、かつその現実界に対する防衛として読み得るのに。

ラカンだけがこの陥穽から逃れた。とはいえ、それは漸く晩年のセミネールになってからである。私の観点からは、このように女性性を定義するやり方は、男自身の欲動の投影以外の何ものでもない。それは、女性を犠牲にして、欲動に対する防衛システムが統合されたものである。(ポール・バーハウ、New Studies of Old Villains: A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex、2009、PDF

《ラカンだけがこの陥穽から逃れた》とあるが、いかに逃れたのかの詳細説明は、「エディプス理論? ありゃ《まったく使いものにならないよ! 」を見よ。

父子関係は、子の母親すなわち配偶者を大切にすることから始まる(……)。たしかに、配偶者との親密関係を保てない父が自然でよい父子関係を結べることはないだろう。また、父もいくらかは、“母”である。現実の母の行きすぎや不足や偏りを抑え、補い、ただすという第二の母の役割を果たすことは、核家族の現代には特に必要なことであり、自然にそうしていることもしばしばある。ただ、父子関係には、ある距離があり、それが「つつしみ」を伝達するのに重要なのではないだろうか。このようなものとして、父が立ち現れることはユニークであり、そこに意味があるのではないだろうか。

「つつしみ」といったが、それは礼儀作法のもっと原初的で包括的なものである。ちなみに「宗教」の西欧語のもとであるラテン語「レリギオ」の語源は「再統合」、最初の意味は「つつしみ」であったという。母権的宗教が地下にもぐり、公的な宗教が父権的なものになったのも、その延長だと考えられるかもしれない。ローマの神々も日本の神々も、威圧的でも専制的でもなく、その前で「つつしむ」存在ではないか。母権的宗教においては、この距離はなかったと私は思う。それは、しばしば、オルギア(距離のない狂宴)を伴うのである。母親の名残りがディオニュソス崇拝、オレフェウス教として色濃く残った古代ギリシャでは「信仰」はあるが「宗教」にあたる言葉がなかったらしい。

宗教だけではない。ヒトの社会に「父」が参加したのは、始まりは子育ての助手としてであったというが、この本来の父の役割は、家族から社会、部族、国家へと転用された。この拡大は農耕社会に始まり現状に至っていると私は思う。父は狩人から始めて戦士となり航海者となり官僚となりサラリーマンとなった。そして国家、部族、地域社会はそれ自体が父親的である。しかし元来の父の役割はそうではなかったと私は思う。父を家の外に誘い出すことによって、家庭の父の役割は薄くなった。狩猟には父は息子とともに参加したのであろうが、おそらく農耕社会以後の父の実態は核家族と大家族と社会の三つの世界に引き裂かれた存在である。「レリギオ」はギリシャ哲学をラテン世界に紹介したキケロによって「良心」の意味に使われた。つまり「超自我」にこの名が与えられたのである。それがほどなく「宗教」の意味になったのは周知のとおりである。(中井久夫「母子の時間、父子の時間」『時のしずく』所収)


【古典的理論編】
本源的に抑圧されているものは、常に女性的なるものではないかと疑われる。(Freud, 25. Mai 1897,Draft M)
私は、「女性性の拒否Ablehnung der Weiblichkeit」は人間の精神生活の非常に注目すべき要素を正しく記述するものではなかったろうかと最初から考えている。(……)「受動的立場 passive Einstellung 」はやっきとなって抑圧されるものである。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937)
容易に観察されるのは、性愛の領域ばかりではなく、心的体験の領域においてはすべて、受動的にうけとられた印象が小児には能動的な反応を起こす傾向を生みだす、ということである。以前に自分がされたりさせられたりしたことを自分でやってみようとするのである。それは、小児に課された外界を征服しようとする仕事の一部であって、苦痛な内容をもっているために小児がそれを避けるきっかけをもつこともできたであろうような印象を反復しようと努める、というところまでも導いてゆくかもしれないものである。小児たちの遊戯もまた、受動的な体験を能動的な行為によって補い、いわばそれをこのような仕方で解消しようとする意図に役立つようになっている。医者がいやがる子供の口をあけて咽喉をみたとすると、家に帰ってから子供は医者の役割を演じ、自分が医者に対してそうだったように自分に無力な幼い兄弟をつかまえて、暴力的な処置をくりかえすのである。受動的なことに反抗し能動的な役割を好むということが、この場合は明白である。(フロイト『女性の性愛について』)
幼い女児が母親を洗ってやったり、着物を着せてやったり、またはお手洗いにゆくようにしたりしたがるという話を、まれには聞くことがある。女児がまた、時には「さあ遊びましょう、わたしがお母さん、あなたは子供よ」などということさえある、――しかしたいていはこのような能動的な願望を、人形を相手に、自分が母親となり人形を子供にした遊ぶという、間接的な仕方でみたしているのである。人形遊びを好むことは女児の場合、男児とは違って早くから女らしさがめばえたしるしだと考えられるのが普通である。それは不当ではないにしても、しかしここに現れているのは女児の偏愛はおそらく、父親という対象をまったく無視する一方では排他的に母親に愛着していることを証明するものであるということ、を見逃してはならない。(フロイト『女性の性愛について』)
小さなクララは歯医者に行かねばならない。兄ーー既に10歳で、クララにとってある種の権威の人物であるーーは彼女をひどく脅かした。注射、ドリル、不快な騒音、ひどい苦痛、と。けれどクララは怯まず(比喩的に)歯を食いしばった。家に戻ると、人形相手に同じ遊戯をした、何週間も続けて、だ。歯医者のゲーム、クララは歯医者。この例は幻想の機能を示している。以前に比べてよりよい役を演じるために台本を書き換える。二等兵の役割は通り過ぎる。「よりよい」の意味はふつう、受動的・隷属的の代わりに、能動的・支配的であることである。現実において幻想へと踏み込む歩みは、ほんの半歩先でしかない。幻想には、我々の誰もが、己れの世界のディレクターとなる効果がある。それは「役」を与え、「俳優」を選択する。我々の現実は、虚構の構造をもっている。(ポール・ヴェルハーゲ、Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE,1998,PDF)
子どもの最初のエロス対象は、彼(女)を滋養する母の乳房である。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着に起源がある。疑いもなく最初は、子どもは乳房と自分の身体とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部」に移行されなければならないときーー子どもはたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、彼(女)は、対象としての乳房を、原初の自己愛的リビドー備給の部分と見なす。

最初の対象は、のちに、子どもの母という人影のなかへ統合される。その母は、子どもを滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子どもに引き起こす。子どもの身体を世話することにより、母は、子どもにとっての最初の「誘惑者」になる。この二者関係には、母の重要性の根が横たわっている。ユニークで、比べもののなく、変わりようもなく確立された母の重要性。全人生のあいだ、最初の最も強い愛-対象として、のちの全ての愛-関係性の原型としての母ーー男女どちらの性にとってもである。(フロイト『精神分析概説』( Abriß der Psychoanalyse 、1940、死後出版)


【母の法篇】
母の法 la loi de la mère…それは制御不能の法 loi incontrôlée…分節化された勝手気ままcaprice articuléである(Lacan.S5)
法の病理は、法との最初の遭遇から、主体のなかに生み出される。私がここで法と言っているのは、制度的あるいは司法的な意味ではない。そうではなく、言語と結びついた原初の法である。それは、必然的に、父の法となるのだろうか? いや、それは何よりもまず母の法である(あるいは、母の代役者の法)。そして、ときに、これが唯一の法でありうる。

事実、我々は、この世に出るずっと前から、言語のなかに没入させられている。この理由で、ラカンは我々を「言存在parlêtre」と呼ぶ。というのは、我々は、なによりもまず、我々を欲する者たちの欲望によって「話させられている」からだ。しかしながら、我々はまた、話す存在でもある。

そして、我々は、母の舌語(≒ララング)のなかで、話すことを学ぶ。この言語への没入によって形づくられ、我々は、母の欲望のなかに欲望の根をめぐらせる。そして、話すことやそのスタイルにおいてさえ、母の欲望の刻印、母の享楽の聖痕を負っている。これらの徴だけでも、すでに我々の生を条件づけ、ある種の法を構築さえしうる。もしそれらが別の原理で修正されなかったら。( Geneviève Morel ‘Fundamental Phantasy and the Symptom as a Pathology of the Law',2009、PDF
超自我とは、確かに、法(象徴的なもの)である。しかし、鎮定したり社会化する法ではない。むしろ、思慮を欠いた法である。それは、穴、正当化の不在をもたらす。その意味作用を我々は知らない、「一」unary のシニフィアン、S1 としての法である。…超自我は、独自のシニフィアンから生まれる形跡・パラドックスだ。というのは、それは、身よりがなく、思慮を欠いているから。この理由で、最初の分析において、我々は超自我を S(Ⱥ) のなかに位置づけうる。(ジャック=アラン・ミレール)

S(Ⱥ)とは、ラカン派では、La Femme n'existe pas、すなわち、Lⱥ Femme を徴示するシニフィアンである。

ミレールは母なる超自我 surmoi mère ーー1938年の初期ラカンの記述を捉え直した概念ーーの問いを明瞭化するパラグラフで、こうつけ加えている。

思慮を欠いた(無分別としての)超自我は、母の欲望にひどく近似する。その母の欲望が、父の名によって隠喩化され支配される前の母の欲望である。超自我は、法なしの気まぐれな勝手放題としての母の欲望に似ている。(THE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO,Leonardo S. Rodriguez)

【現代的解釈篇】
最初の母と子どもの関係では、子どもは、その身体的 somatic な未発達のため、必然的に、最初の〈他者〉の享楽の受動的対象として扱われる。この関係は二者-想像的であり、それ自体、主体性のための障害を表す。平明な言い方をすれば、子どもと彼自身の欲望にとっての余地がないということだ。そこでは二つの選択しかない。母の欲望に従うか、それともそうするのを拒絶して死ぬか、である。このような状況は、二者-想像的関係性の典型であり、ラカンの鏡像理論にて描写されたものである。

そのときの基本的動因は、不安である。これは去勢不安でさえない。「原不安」は母に向けられた二者関係にかかわる。この母は、現代では「最初に世話する人」としてもよい。無力な幼児は母を必要とする。これゆえに、明らかに「分離不安」である。とはいえ、この母は過剰に現前しているかもしれない。母の世話は息苦しいものかもしれない。

フロイトは分離不安にあまり注意を払っていなかった。しかし彼は、より注意が向かないと想定されるその対応物を見分けていた。母に呑み込まれる不安である。あるいは母に毒される不安である。これを「融合不安」呼んでみよう。もう一つの原不安、分離不安とは別にである。この概念はフロイトにはない。だがアイデアはフロイトにある。しかしながら、彼の推論において、最初の不安は分離と喪失に関係し得るにもかかわらず、フロイトは頑固に、去勢不安を中心的なものとして強調した。

このように、フロイト概念の私の理解においては、去勢不安は二次的なものであり、別の、原不安の、防衛的なエラボレーションとさえ言いうる。原不安は二つの対立する形態を取る。すなわち、他者は必要とされるとき、そこにいない不安、そして他者が過剰にそこにいる不安である。

ラカン理論は後者を強調した。そしてそれを母なる大他者 (m)Other に享楽される単なる対象に格下げされる幼児の不安として解釈した。それはフロイトの受動的ポジションと同様である。

これはラカン理論における必要不可欠な父の機能を説明する。すなわち第三者の導入が、二者-想像的段階にとって典型的な選択の欠如に終止符を打つ。第三者の導入によって可能になる移行は、母から身を翻して父に向かうということでは、それ程ない。むしろ二者関係から三者関係への移行である。これ以降、主体性と選択が可能になる。(PAUL VERHAEGHE,『New studies of old villains』2009PDF


【女性による女性嫌悪篇】
女たちそれ自体について言えば、彼女たちは「モメントとしての女たち」の単なる予備軍である…わかった? だめ? 説明するのは確かに難しい…演出する方がいい…その動きをつかむには、確かに特殊な知覚が必要だ…審美的葉脈…自由の目… 彼女たちは自由を待っている…空港にいるとぼくにはそれがわかる…家族のうちに監禁された、堅くこわばった顔々…あるいは逆に、熱に浮かされたような目…彼女たちのせいで、ぼくたちは生のうちにある、つまり死の支配下におかれている。にもかかわらず、彼女たちなしでは、出口を見つけることは不可能だ。反男性の大キャンペーンってことなら、彼女たちは一丸となる。だが、それがひとり存在するやいなや…全員が彼女に敵対する…ひとりの女に対して女たちほど度し難い敵はいない…だがその女でさえ。次には列に戻っている…ひとりの女を妨害するために…今度は彼女の番だ…何と彼女たちは互いに監視し合っていることか! 互いにねたみ合って! 互いに探りを入れ合って! まんいち彼女たちのうちのひとりが、そこでいきなり予告もなしに女になるという気まぐれを抱いたりするような場合には…つまり? 際限のない無償性の、秘密の消点の、戻ることのなりこだま…悪魔のお通り! 地獄絵図だ! (ソレルス『女たち』)


【理想の女篇】
「男どもはな、別にどうにもこうにもたまらんようになって浮気しはるんとちゃうんや。みんな女房をもっとる、そやけど女房では果たしえん夢、せつない願いを胸に秘めて、もっとちがう女、これが女やという女を求めはんのや。実際にはそんな女、この世にいてへん。いてえへんが、いてるような錯覚を与えたるのがわいらの義務ちゅうもんや。この誇りを忘れたらあかん、金ももうけさせてもらうが、えげつない真似もするけんど。目的は男の救済にあるねん、これがエロ事師の道、エロ道とでもいうかなあ。」(野坂昭如『エロ事師たち』)
「他の性 Autre sexs」は、両性にとって女性の性である。「女性の性」とは、男たちにとっても女たちにとっても「他の性 Autre sexs」である。 (ミレール、Jacques-Alain Miller、The Axiom of the Fantasm) 

以下の文に現れる「もう一人の女 the Other Woman」と訳されている表現は、「他の性 Autre sexs」「他者なる女 l'Autre femme」、「他の女 une autre femme」ともされるものであろう(参照:歌う身体の神秘)。

ジョゼフ・マンキエヴィッツの古典的ハリウッド流メロドラマ『三人の妻への手紙』……失踪する婦人は、スクリーンには一度も登場しないのだが、ミシェル・シオンの言う<幻の声>として、つねにそこにいる。画面の外から聞こえる、小さな町に住む宿命の女、アッティー・ロスの声が、ストーリーを語る。彼女は、日曜日に河下りをしている三人の妻のもとに一通の手紙が届くように手配した。その手紙には、ちょうどその日、彼女たちが町にいない間に、彼女たちの夫の一人と駆け落ちするつもりだと、書かれている。旅を続けながら、女たちはそれぞれ自分の結婚生活の問題点をフラッシュバックで回想する。三人とも、アッティーが駆け落ちの相手として選んだのは自分の夫ではないか、という不安に駆られる。なぜなら彼女たちにとって、アッティーは理想的な女性である、妻には欠けた「何か」をもった洗練された女性であり、結婚そのものが色褪せて見えてしまうくらいなのだ。第一の妻は看護婦で、教養のない単純な女性で、病院で出会った裕福な男と結婚している。二番目の妻は、いささか下品だが、ばりばり仕事をする女性で、大学教授であり作家である夫よりもはるかに稼ぎがいい。三番目の妻は、たんに金目当てに裕福な商人と愛のない結婚をして労働者階級から成り上がった女である。素朴なふつうの女、仕事ができる活発な女、狡猾な成り上がり女、三人とも妻の座におさまりきらず、結婚生活のどこかに支障をきたしている。三人のいずれにとっても、アッティー・ロスは「もう一人の女 the Other Woman」に見える。経験豊富で、女らしい細やかな気配りがあり、経済的にも独立している、と。(……)

アッティーは三番目の女の夫である裕福な商人と駆け落ちするつもりだったのだが、彼は土壇場になって気が変わり、家に帰り、妻にすべてを打ち明ける。彼女は離婚して相当な慰謝料をもらうこともできたのだが、そうはせずに夫を許し、自分が夫を愛していることに気づく。かくして最後に三組の夫婦が一同に会する。彼らの結婚生活を脅かしているように見えた危険は去った。しかし、この映画の教訓は、第一印象よりもいささか複雑である。このハッピーエンドはけっして純粋なハッピーエンドではない。そこには一種の諦めがある。いっしょに暮している女は<女>ではない、結婚生活の平和はつねに脅かされている、つまり、結婚生活に欠けているように思われるものを体現した別の女がいつ何時あらわれるかもしれない……。ハッピーエンド、すなわち夫が妻のもとに戻ることを可能にしているのは、まさしく、<もう一人の女>は「存在しない」のだ、彼女は究極的にはわれわれと女性との関係の隙間を埋める幻の存在にすぎないのだ、という経験的知である。いいかえれば、妻との間にしかハッピーエンドはありえないのだ。もし主人公が<もう一人の女>を選んだとしたら(もちろんその典型的な例はフィルム・ノワールにおける宿命の女だ)、その選択によって彼はかならずや無残な状況に陥り、命を落とすことすらある。ここにあるのは近親相姦の禁止、すなわちそれ自体すでに不可能なものの禁止、というパラドックスと同じパラドックスである。<もう一人の女>は「存在しない」からこそ禁じられる。<もう一人の女>が恐ろしく危険なのは、幻の女と、たまたまその幻の位置を占めることになった「経験的な」女とは、結局のところ一致しないからである。(ジジェク『斜めから見る』p157-158)


【自白篇】
「蜘蛛のような私、妖しい魅力と毒とを持つ私が恐ろしい……ナイーヴで誠実な青年たちの血をすすって生きる雌ライオン - 私はそんな自分自身が恐ろしい。神様、許してください」  (神谷美恵子)

カナダ在住の比較文学者太田雄三氏の『喪失からの出発 神谷美恵子のこと』(岩波書店 2001年)より(「神谷美恵子の青春」からの孫引き)。

こんな女。母性型と妖婦型を持ち合せ、前者を聖にまでひきあげて見せる事によって人を次々と惹きつけて行く。そして自他共に苦ませる。しかし、結局一人づつとりあげては捨てて行く。迷惑なのはその「他」共。

私の内なる妖婦(ヴァンプ)を分析したら面白いだろうと思う。それは随分いろんなことを説明するだろう。みんなを化かす私の能力、みんなを陶酔させ、私を女神のようにかつがしめるあの妖しい魔力にどれほどエロスの力があずかっているかしれない。それを思うとげっそりする。

しかし一面私はたしかに自分のそうした力をエンジョイしている。あらゆる人間を征服しようとする気持ちがある。征服してもてあそぶのだ。

私の心は今ひくくひくくされている。私は才能と少しばかりの容姿-少なくとも母はこの点を常に強調する-の為に人から甘やかされ、損なわれた女だ。心は傲慢でわがままで冷酷である。そうして男をもてあそんでは投げ棄てる事ばかりくりかえしている。

自分の才能と容姿がのろわしい。平凡な心貧しき女であり度かった。
ある精神科医は彼女をまばゆい人であるという。彼女の品性と才能をみればたしかにそうであろう。別の精神科医によればたまらなくさびしそうに見えた人だというが、これもほんとうである。(中井久夫「精神科医としての神谷美恵子さんについて」)

…………

【付記:基礎教養篇】
現実界とは、トラウマの形式として……(言語によって)表象されえないものとして、現われる。 …le réel se soit présenté …sous la forme du trauma,… ne représente(ラカン、S.11)

※フロイト・ラカンの叙述は「基本的なトラウマの定義(フロイト・ラカン派による)」を参照。

誰もがトラウマ化されている tout le monde est traumatisé(ジャック=アラン・ミレール、2013-2014セミネール、Tout le monde est fou Année 2013-2014ーー「一の徴」日記⑥
要約しよう。このトラウマに関するラカン理論は次の通り。欲動とはトラウマ的な現実界の審級にあるものであり、主体はその衝動を扱うための十分なシニフィアンを配置できない。構造的な視点からいえば、これはすべての主体に当てはまる。というのは象徴秩序、それはファルスのシニフィアンを基礎としたシステムであり、現実界の三つの次元のシニフィアンが欠けているのだから。

この三つの次元というのは女性性、父性、性関係にかかわる。Das ewig Weibliche 永遠に女性的なるもの、Pater semper incertuus est 父性は決して確かでない、Post coftum omne animal tristum est 性交した後どの動物でも憂鬱になる。

これらの問題について、象徴秩序は十分な答を与えてくれない。ということはどの主体もイマジナリーな秩序においてこれらを無器用にいじくり回さざるをえないのだ。これらのイマジネールな答は、主体が性的アイデンティティと性関係に関するいつまでも不確かな問いを処理する方法を決定するだろう。別の言い方をすれば、主体のファンタジーが――それらのイマジネールな答がーーひとが間主観的世界入りこむ方法、いやさらにその間主観的世界を構築する方法を決定するのだ。

この構造的なラカンの理論は、分析家の世界を、いくつかのスローガンで征服した。象徴秩序が十分な答を出してくれない現実界の三つの諸相は、キャッチワードやキャッチフレーズによって助長された。La Femme n'existe pas, 〈女〉は存在しない、L'Autre de l'Autre n'existe pas, 〈他者〉の〈他者〉は存在しない、Il n'y a pas de rapport sexuel,性関係はない。

結果として起こったセンセーショナルな反応、あるいはヒステリアは、たとえば、イタリアの新聞は「ラカンにとって女たちは存在しないんだとさ」と公表した、構造的な文脈やフロイト理論で同じ論拠が研究されている事実をかき消してしまうようにして。

たとえば、フロイトは書いている、どの子供も、自身の性的発達によって促されるのは、三つの避け難い問いに直面することだと。すなわち母のジェンダー、一般的にいえば女のジェンダー、父の役割、両親の間の性的関係、と。どの子供も自分で答えを構築するようになる。それはまさに固有の構築物、いわゆる幼児性理論をもたらす。そこにおいては、ファリックマザーあるいは去勢された母、原父・原光景などに照準が当てられて、イマジナリーな前性器的内容がくり返し生み出される。(Paul Verhaeghe, TRAUMA AND HYSTERIA WITHIN FREUD AND LACAN、1998、PDF)