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2016年12月28日水曜日

冥府下りと冥府からの途切れがちの声

そもそも肉体に宿る感情を、一体どうすれば言葉にすることができるといのだろうか? たとえばあそこの空虚さを、どうように表現すればいいのか?(リリーの眺める客間の踏み段は恐ろしく空虚に見えた。)あれを感じ取っているには身体であって、決して精神ではない。そう思うと、踏み段のむき出しの空虚感のもたらす身体感覚が、なお一層ひどくたえがたいものになった。(ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』)

実際、「身体の出来事=サントーム un événement de corps = sinthome》 (Lacan,AE.569)に出会ってしまった主体はどうしたらいいのだろう?

世界は象徴界で出来上がっているのではなく、現実界に支配されていることが分かってしまったら。

全てが見せかけ semblant ではない。或る現実界 un réel がある。社会的紐帯の現実界は、性関係の不在である。無意識の現実界は、話す身体 le corps parlant である。象徴秩序が、現実界を統制し、現実界に象徴的法を課す知として考えられていた限り、臨床は、神経症と精神病とにあいだの対立によって支配されていた。象徴秩序は今、見せかけのシステムと認知されている。象徴秩序は現実界を統治するのではなく、むしろ現実界に従属していると。それは、性関係の不在という現実界へ応答するシステムである。(ミレー 2014、L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT

ラカンはトラウマのことをトロウマ(穴ウマ)といっている。

我々は皆知っている。というのは我々すべては現実界のなかの穴を埋めるために何かを発明するのだから。現実界には「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」を作る。

nous savons tous parce que tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. Là où il n'y a pas de rapport sexuel, ça fait « troumatisme ». (ラカン、S21、19 Février 1974 )

《誰もがトラウマ化されている tout le monde est traumatisé》(Miller,Tout le monde est fou Année 2013-2014)。--だがそれに気づかないで生きているうちはよい。だが、ヴァージニア・ウルフのいうように「むき出しの空虚」、ラカンのいう「トロウマ troumatisme」と直面するようになってしまったら。

Ⱥの最も重要な価値は、ここで(以前のラカンと異なって)、大他者のなかの欠如を意味しない。そうではなく、むしろ大他者の場における穴、組み合わせ規則の消滅である。 (ジャック=アラン・ミレール,Lacan's Later Teaching、2002、私訳)
欠如とは空間的で、空間内部の空虚 void を示す。他方、穴はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す。(ミレール、2006,Jacques‐Alain Miller, “Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir,”ーー偶然/遇発性(Chance/Contingency)

ブラックホールとはトラウマのことである。

ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女性のある形態の光景、彼女のヴェールが落ちて、唯一ブラックホールのみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。.(ラカン, « Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir »,Écrits, 1966ーー母なる超自我 surmoi mère、あるいは母の法 la loi de la mère)
現実界とは、トラウマの形式として……(言語によって)表象されえないものとして、現われる。 …le réel se soit présenté …sous la forme du trauma,… ne représente(ラカン、S.11、12 Février 1964)
何かが原初に起こったのである、それがトラウマの神秘の全て tout le mystère du trauma である。すなわち、「A」の形態 la forme Aを 取るような何か。そしてその内部で、ひどく複合的な反復の振舞いが起こる…その記号「A」をひたすら復活させよう faire ressurgir ce signe A として。(ラカン、S9、20 Décembre 1961)

 こういったものに遭遇した主体にとって、もはや《無意識は言語のように構造化されている L'inconscient est structuré comme un langage》、つまり言語の象徴界的セリーとしては書くことができない。あの穴は《「言語のように構造化されている無意識」とさえも異なる ni même l'inconscient structuré comme un langage》(ミレール、2014)ものなのだから。

真の芸術家と偽の芸術家の区別は、ひょとしてここにあるのではなかろうか。もちろん穴との遭遇によって、その穴埋めの一手段「妄想」に専念することにもなりかねないのだが。だが「妄想」するのは何の悪いことがあろう?

芸術がメドゥーサの髪の毛を多数の蛇として造形することが多いのは、蛇もまた去勢コンプレックスに由来しているからである。注目すべき事実は、それら自体がいかに恐ろしいものでも、実際は「恐怖の緩和」として役立っていることである。なぜなら、恐怖の原因であるペニスの不在をペニスに置き換えているためである。(フロイト『メドゥーサの首』草稿、1922年執筆、1940年(死後)出版)

我々の身近にも穴と格闘した草間彌生という芸術家がいる(「シナナイタメニ」)。





とはいえ微かに穴を感じつつ、言語のセリーの徹底化によって穴づくりに励んでいる芸術家を偽の芸術家とは呼ぶまい。それは前期ラカンが壺作りのメタファーで語っている行為である。

ラカン理論における現実界と象徴界とのあいだの関係性…。彼のジャー(壺)の隠喩は、ひとが分析の手間を省くことができないことの、より明瞭な例証となる(Lacan, The Ethics of Psychoanalysis : Seminar VII)。ラカンによれば、陶器作りのエッセンスは壺の面を形作ることではない。これらの面がまさに創り出すのは空虚なのであり、うつろの空間なのだ。壺は現実界における穴を入念に作り上げ探り当てる。このエラボレーション(練り上げること)とローカリゼーション(探り当てること)が、正統的な創造に相当する。精神病理学の症状とのこの類似性は、象徴界の星座の練磨を通してのみ欲動の現実界は現れるということだ。これが精神分析学が新しい主体を創造するという理由である。( Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way、Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq、2002)
壺は穴を創造するものである。その表面の内部の空虚を。芸術制作とは無に形式を与えることである。創造とは(所定の)空間のなかに位置したり一定の空間を占有する何ものかではない。創造とは空間自体の創造である。どの(真の)創造であっても、新しい空間が創造される。

別の言い方であれば、どの創造も覆い(ヴェール)の構造がある。創造とは「彼方」を創り出し告知する覆いとして作用する。まさに覆いの織物のなかに「彼方」をほとんど触れうるものにする。美は何か(別のもの)を隠していると想定される表面の効果である。(ジュパンチッチ。Alenka Zupančič、The Splendor of Creation: Kant, Nietzsche, Lacan,PDF)

だが後期ラカンはーーすくなくとも臨床的にはーー、散文的な壺作りから象徴界を「揺らめかす」詩人へと転換した(参照:柿の木と梨の木)。

ここまで記してきて気づいたが、おそらく芸術家には三つのタイプがある。我々は象徴界の住人なのだから、言語活動から逃れることはできない。音楽も絵画もすべて言語活動である。

絵画とは、他の言葉では表現することができない言語活動なのです。(バルテュス(=バルタザール・クロソウスキー)

三つのタイプとは次のようなものだ。

①言語活動により穴を作ろうとする芸術家、
②言語活動を揺らめかすことによって穴を表わそうとする芸術家。
③穴に遭遇してしまってその穴埋めという言語活動をする芸術家。

①は散文的な芸術家である。②がどんなタイプであるのかは、エリオットの詩の定義を読めば瞭然とする。《詩の意味とは、読者の注意をそちらのほうにひきつけ、油断させて、その間に本質的な何ものかが読者の心に滑り込むようにする、そういう働きのもの》。

詩人としての①あるいは②と、穴に遭遇してしまった③の相違は、中井久夫によって鮮明に記述されている。

「若きパルク」は「誰が泣くのか、過ぎ行く一筋の風ならで/いやはての星々とともにひとりあるこのひとときに」で始まる。『ドゥイノの悲歌』は「誰が、たとえ私が叫ぼうとも、天使たちの序列の中から私の声を聞いてくれようか」で始まる。いずれも鋭い、答えのない「誰が?」で始まる。

そうして「若きパルク」では個人の意識の中に、『ドゥイノの悲歌』では人間の現存在世界とでもいうべきものの中に、ずんずん下って行く。『荒地』だけは問いかけではなく、「四月は残酷な月だ」で始まるが、中途に「誰が?」「誰だ?」という問いかけをいく度も放ちながら、現代社会の荒廃と索莫の地獄めぐりを行う。いずれの詩も最後近くににわかに上昇に転じ、肯定で終わるが、肯定は唐突であり、どこかに弱さがある。読み終えた者の耳に残るものは不安で鋭い問いかけの方である。

これらの詩を二十世紀後半の詩と隔てるものは何であろうか。

私たちは三歳から五歳以後今まで連続した記憶を持っている。むろん忘却や脱落はあるが、にもかかわらず、自我は一つで三歳以後連続している確実感がある。それ以前の記憶は断片的である。また成人型の記憶は映画やビデオのように、いやもっとダイナミックに動いているが、ある時期の記憶は前後関係を欠き、孤立したスティール写真のような静止画像である。成人型の記憶と違って、言葉に表しにくい。

「若きパルク」も『ドゥイノの悲歌』も、『荒地』でさえも、映像も言語も成人型の記憶のように動き流れていく。断絶や飛躍を越えて連続性がある。前後関係があり遠近がある。

これに対して、二十世紀後半の詩は孤立した鋭い断片であって、成人以前の記憶が禁止を破って突き上げてきた印象がある。このタイプの映像は幼い時の記憶だけでなく、たとえ成人であっても耐えがたい心の傷を負った時には、その記憶がとる形である。

たとえばパウル・ツェランの詩が痛ましさを以て迫るのは、その内容だけでなく詩句もそれが呼び起こす映像も外傷的記憶の形をとっているからであると私は思う。それはもはや冥府下りでなく、冥府からの途切れがちの声である。(中井久夫「私の三冊」『アリアドネからの糸』所収)

ここで中井久夫のトラウマ論からもつけ加えておこう。

外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。相違点は、そのインパクトである。外傷性記憶のインパクトは強烈である、幼児型記憶はほどんどすべてがささやかないことである。その相違を説明するのにどういう仮説が適当であろうか。

幼児型記憶は内容こそ消去されたが、幼児型記憶のシステム自体は残存し、外傷的体験の際に顕在化して働くという仮説は、両者の明白な類似性からして、確度が高いと私は考える。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収)
…… 境界例や外傷性神経症の多くが自由連想に馴染まないのは、自由連想は物語をつむぐ成人型の記憶に適した方法だからだと私は考えている。いや、つむがせる方法である。この点から考えると、フロイトが自由連想法を採用したことと幼児期外傷の信憑性に疑問を持ったこととは関係があるかもしれない。語りにならば、それはウソくさくなったかもしれないのである。(中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・記憶・外傷』所収)

もちろん「自由連想」とは、上に記したように、前期ラカンの《無意識は言語のように構造化されている L'inconscient est structuré comme un langage》領野にある。そしてそれに馴染まない外傷性神経症患者とは、《「言語のように構造化されている無意識」とさえも異なる ni même l'inconscient structuré comme un langage》(ミレール、2014)対応をしなければならない。

…………

芸術創造者ではなく鑑賞者においても、①②③のどのタイプに親和性があるかで、その好みーーいや愛の対象ーーが変わってくるはずであろう。

たとえばベケットの作品がどのタイプであるかは、--言わずもがなである。

It is not mine. I have none: I have no voice and must speak. that is all I know. It's round that I must revolve, of that I must speak - with this voice that is not mine. bul can only be mine, since there is no one but me. (Or if there are others, to whom it might belong, they have never come near me.) (Beckett, The Unnamable、ベケット『名づけえぬもの』)
続けなくちゃいけない、

おれには続けられない、

続けなくちゃいけない、

だから続けよう、言葉をいわなくちゃいけない、言葉があるかぎりは言わなくちゃいけない、彼らがおれを見つけるまで、彼らがおれのことを言い出すまで、不思議な刑罰だな、不思議な過ちだな、続けなくちゃいけない、ひょっとしてもうすんだのかな、ひょっとして彼らはもうおれのことをいっちまったのかな、ひょっとして彼らはおれをおれの物語の入り口まで運んでくれたのかな、扉の前まで、扉をあければおれの物語、だとすれば驚きだな、もし扉が開いたら、

そうしたらそれはおれなんだ、沈黙が来るんだ、その場ですぐに、わからん、絶対にわかるはずがあるもんか、沈黙のなかにいてはわからないよ、

続けなくちゃいけない、

おれには続けられない、

続けよう。

ーーベケット『名づけえぬもの』 安藤元雄訳 白水社


そして一般的には①の作家に見えるかもしれないプルースト、だが彼の「心情の間歇」の章に真に触れればーープルーストは当初『失われた時を求めて』の題名を『心情の間歇』にしようと考えていたーー、プルーストは③の作家の面があることが知れる。プルーストは①②③がまじりあっている作家であり、ロラン・バルトがプルーストには何でもある、と言ったのはその意味合いでもあるだろう。

※補足→「三種類の運動