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2016年12月7日水曜日

「一の徴」日記⑤

以下、難解版。つまりわたくしはあまり分かっていない。だが「一の徴」という舟に乗ってしまったので、一応どうわかっていないのかを記しておかねばならない。

……構造的欠如を基盤とする象徴秩序において、要素を結びつけたり統合するものは何か? この問題は一見アカデミックなもののようにみえるが、そうではない。究極的には、人のアイデンティティにおいて要素を結びつけるものは何かという問いに関わるからだ。このときまでに、ラカンは常に強調していた、主体性における根本的な疎外と分裂を。そこでは統一の感情は脇に置かれていた。後者(統一)は父の名の効果だと想定された。

ラカンがこの理論から離れたとき、彼は、人のアイデンティティにおける主体の統一のために別の説明を生み出さねばならない。ラカンは休むことなしに続けた、次のような用語を再公式化したり言い換えたりと。「父の諸名」という複数形から、おそらく基礎的かつひどく格言的な「一のようなものがある il y a de l'Un」まで。しかし、ラカンの絶え間ない問いは事態を明瞭化することに貢献しない。そして最終的な答が欠けている。皮肉なことに、これはラカンの新しい理論(の本質と極めて首尾一貫したものだ。(PAUL VERHAEGHE、New studies of old villains、2009ーー「一の徴」日記②

ーーとされ、ラカン自身もはっきりした答えを出していない部分の「さわり」にかかわるのだろうが、ざっとみるかぎりでは実に諸説紛々である。

 …………

ラカンは「一の徴 trait unaire」を熟慮した後、S1(主人のシニフィアン)というマテームを発明した。S1 は「一の徴」よりも一般的なマテームである。しかし疑いなく、S1 の価値のひとつは「一の徴」である。(Jacques-Alain Miller、The Axiom of the Fantasmーー「一の徴」日記②)

ジャック=アラン・ミレールの言っているのと同様に、S1とは抑圧された「一の徴」である、という指摘がロレンツォ・キエーザーー彼はジジェクの紹介によって名が知られたーーにある。

構造としての無‐意識的な un-conscious 「一の徴 trait unaire」は、主人のシニフィアンS1ーー構造的なもの・メタ構造の側にある無意識的なもの unconsciousーーである 。また S1 とは、抑圧された「一の徴」であるとも正当的に示唆しうる。ラカン自身、「一の徴」とS1とのあいだの類似性を強調している。初めて「主人のシニフィアンS1」概念を導入したセミネールXⅠ にて、彼ははっきりと示している、原狩猟人によって棒切れの上に刻まれた切り込み(セミネールⅨ における「一の徴」をめぐる叙述と同様に)とS1との関係性を。(ロレンツォ・キエーザ2006、Count-as-one, Forming-into-one, unary trait, S1 Lorenzo Chiesa,PDF

他方、ジジェクには次のような記述がある。

主人のシニフィアンは無意識のサントームであり、享楽の暗号である。主体は、知らないままに、その主人のシニフィアンに支配されている。(ジジェク、パララックス・ヴュ―、2006、私訳)

・S1は抑圧された「一の徴 trait unaire」(ロレンツォ)
・S1は無意識のサントーム(ジジェク)

ーーとすれば「一の徴」と「サントーム」は等しいのだろうか。

ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)

このミレールの文から「一の徴」と「サントーム」をほとんど等価とする解釈者もいる。

the sinthome as a signifier in the real is clearly linked with symbolic identification and the theory of the “unary trait”(Jonathan D. Redmond, 2012, .Elementary phenomena, body disturbances and symptom formation in ordinary psychosis、PDF)

ある時期のラカン自身、次のように言っている。

「一の徴 trait unaire」は、享楽の侵入(突入)の記念物 commémore une irruption de la jouissance である。(Lacan,S.17、11 Février 1970)
享楽はまさに厳密に、シニフィアンの世界への入場の一次的形式と相関的である。私が徴 marqueと呼ぶもの・「一の徴 trait unaire」の形式と。もしお好きなら、それは死を徴付ける marqué pour la mort ものとしてもよい。

その徴は、裂目・享楽と身体とのあいだの分離から来る。これ以降、身体は苦行を被る mortifié。この「一の徴 trait unaire」の刻印のゲーム jeu d'inscription、この瞬間から問いが立ち上がる。(ラカン、セミネール17、10 Juin 1970)

そして上の文を次の文とともに読んでみよう。

サントーム(症状)は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps, (JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)

一見、「サントーム」と「一の徴」は、同じものと扱ってよいようにも思える。だがその相違を指摘する注釈者もいる。ここでラカンの最も厄介な概念「Y'a d'l'Un(一のようなものがある)」に触れなければならない。

ミレール派肝入りの論文集 L'INCONSCIENT ET LE CORPS  Section Clinique de Rennes 2012-2013 PDF から引用する。

ラカンがサントームを「Y'a d'l'Un」に還元 réduit した時、「Y'a d'l'Un」は、臍・中核としてーーシニフィアンの分節化の残滓のようなものとして--「現実界の本源的繰り返しréel essentiel l'itération」を解き放つ。ラカンは言っている、「二」はないと。この繰り返しitération においてそれ自体を反復するのは、ひたすら「一」である。しかしこの「一 」は身体ではない。「一」と身体がある Il y a le Un et le corps。これが、ラカンが「シニフィアンの大他者 l'Autre du signifiant」を語った理由である。シニフィアンの彼方には、身体と享楽がある。(Percussion du signifiant dans le corps à l'entrée et à la fin de l'analyse  Hélène Bonnaud)
言語は、生きた身体をかみ裂く「一の徴」に水準に囚われている。ララングの Y'a d'l'Un は意味を解きほぐす。そして身体と出会いつつ、身体を享楽の効果に委ねる。(Les impensables du corps. L'avoir, le panser, l'être Pascal Pernot)

 サントームは「Y'a d'l'Un」の側にあり、「一の徴」ではない、と彼らは言っていることになる。

ほかにも次のような叙述がある。

文字 lettre とは…身体に出会ったシニフィアンの最初の徴である。この意味で、文字は、対象と「一の徴 trait unaire」の徴 marque と関係がある。(Chapitre VIII, commentaire Anne-Marie Le Mercier)

「文字」とは何か。ラカンのセミネール22には、「すべての一は、文字で書きうる」、そして「そこから症状が発生する」とある。

C'est ce qui de l'inconscient peut se traduire par une lettre, en tant que seulement dans la lettre, l'identité de soi à soi est isolée de toute qualité.

De l'inconscient, tout Un… en tant qu'il sustente le signifiant en quoi l'inconscient consiste …tout Un est susceptible de s'écrire d'une lettre. Sans doute, y faudrait-il convention.

Mais l'étrange, c'est que c'est cela que le symptôme opère sauvagement : ce qui ne cesse pas de s'écrire dans le symptôme relève de là. (S22, 21 Janvier 1975)


そして次のような解釈がなされる。

晩年のラカンの「文字 Lettre」理論とは、身体の上の欲動の「原固着」あるいは「刻印」を理解する彼なりの方法である。(ヴェルハーゲ、BEYOND GENDER. From subject to drive Paul Verhaeghe 2001)

だがミレール派の直近の論文集 L'INCONSCIENT ET LE CORPSの著者たちの叙述に依拠するならば、

・Y'a d'l'Un ≒ sinthome

・文字 lettre≒「一の徴 trait unaire」

であり、サントーム sinthome は、「文字 lettre」でもなく「一の徴 trait unaire」でもない、と言っていることになる。

Y'a d'l'Un がサントームであるだろうことは、ジジェクも疑問符つきであるが語っている。

我々はいかに結びつけるべきか、ラカンがセミネールXX (アンコール)で展開した Yad'lun(一のようなものがある)と一連の「単一の諸シニフィアン unary signifiers」を。後者は、ファルス的主人のシニフィアン phallic Master‐Signifier を通した単一化 unificationに先立つものである。すなわち無限の自己分割的 S1 (S1 (S1 (S1…)))の系列。…

ラカンの Yad'lun を、(「一のようなもの」の上に)欲動を構成する最小のリビドー的固着の形態として読んだらどうだろうか、 前-出来事的な「一以下の多 One‐less multiplicity」からの欲動出現の瞬間として読んだら? そうすれば、Yad'lun の「一」はサントーム、一種の「享楽の原子」である。言語と享楽の最小の統合体 synthesis 、享楽を浸透させた諸記号 signs の単位(我々が強迫的に反復する痙攣のようなもの)である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)

だがここでの問いは、sinthome と trait unaire とが異なるのであればどう異なるのか、である。

Y'a d'l'Unと「一の徴」が同じものではない、というのはラカン自身の言明がある。

「一の徴 trait unaire」は「Y a d'l'Un」とは関係がない。…「一の徴」は反復自体の徴である。(S.19、10 Mai 1972)

ほかにも次のような叙述がある。

« Yad'lun »とは《非二 pas deux》であり、それは即座に《性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel 》と解釈されうる。(S.19、17 Mai 1972)

ここでもう一度、Pascal Pernot の叙述を再掲しよう。

言語は、生きた身体をかみ裂く「一の徴」に水準に囚われている。ララングの Y'a d'l'Un は意味を解きほぐす。そして身体と出会いつつ、身体を享楽の効果に委ねる。(Les impensables du corps. L'avoir, le panser, l'être Pascal Pernot)

そしてラカンの叙述を並べてみよう。

サントーム(症状)は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps, (JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)

そして冒頭に掲げたミレールの《S1 は「一の徴」よりも一般的なマテームである》をもふたたび想起しておこう。

これらから判断するに、原初から時系列に並べれば、「Y'a d'l'Un」 → 「一の徴 trait unaire」 →「主人のシニフィアンS1」という変遷があるようにみえる。そして順番に最初のもののほうがより原享楽(身体の純粋な享楽)に近いと捉えられないでもない。

主体は、存在欠如である être manque à être 以前に、身体を持っている。そして、ララング lalangue によって刻印されたこの身体を通してのみ、主体は欠如を持つ。分析は、この穴・この欠如に回帰するために、ファルス的意味を純化することにおいて構成される。これは、存在欠如ではない。そうではなくサントームである。(Guéguen「21世紀における話す身体とその欲動 LE CORPS PARLANT ET SES PULSIONS AU 21E SIÈCLE 」、2016,PDFーー「一の徴」日記②)

ここで三人のラカン派臨床家の文章を並べてみる。

フロイトにおいて、症状は本質的に Wiederholungszwang(反復強迫)と結びついている。『制止、症状、不安』の第10章にて、フロイトは指摘している。症状は固着を意味し、固着する要素は、der Wiederholungs­zwang des unbewussten Es(無意識のエスの反復強迫)に存する、と。症状に結びついた症状の臍・欲動の恒常性・フロイトが Triebesanspruch(欲動の要求)と呼ぶものは、要求の様相におけるラカンの欲動概念化を、ある仕方で既に先取りしている。(ミレール、Le Symptôme-Charlatan、1998)
反復は、最初の遭遇の痕跡を刻印する「一の徴 trait unaire」に起源がある。その痕跡は三度反復されたとき、喪失の反復を引き起こす。一度目は、遭遇の記念物として徴を「固着」する。二度目は、徴を再発見することにより、最初の享楽の喪失を仕上げる。したがってエントロピーがある。三度目は、二番目の喪失である。それは「出会い損ねrencontre manquée」として、ad infinitum(無限に)反復される。そしてその反復は、これらの徴のセリー(系列)としてのみ享楽を生き延びさせる。結果は、《ré-pétition》である。それは、ラカンが『エトゥルディ L'étourdit,』(AE493)で記したように二つの部分に書かれうる。「請願 pétition」と「欲求 appétit」の反復である。というのはラテン語のpeto は両方の語の共鳴があるから。コレット・ソレール、2003 Colette Soler Ce que lacan disait des femme)
乳幼児はまず最初になによりも母へ訴えなければならない。その訴えとは、欲動興奮と無力感の混淆物を基礎にしてである。母の応答は(鏡像段階を想起せよ)、(欲動興奮を)統御し、徴をつけ、満足を与える形で作用する。子どもがふたたび、同じ享楽(の統御)を見出したとき、母へとその「要求」を呼びかけねばならない。結果として、子どもは母の応答と同一化しなければならなくなる。そして母が既に生み出した徴の点に同一化することになる。 (ポール・ヴェルハーゲ、2009、PAUL VERHAEGHE、New studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex)

ミレールとヴェルハーゲの叙述を参照しつつ、コレット・ソレールの叙述の核心部分を抜き出せば、

①一度目は、遭遇の記念物として徴を「固着」する。
②二度目は、徴を再発見することにより、最初の享楽の喪失を仕上げる。
③三度目は、二番目の喪失である。それは「出会い損ね rencontre manquée」として、ad infinitum(無限に)反復される。

となる。ソレールはこれらのすべてを「一の徴」の三つの段階としているのだが、

①「一のようなものがある Y'a d'l'Un」
②「一の徴 trait unaire」
③「主人のシニフィアン S1」

と「変奏」できないだろうか。

ーーもっともいくらか厳密さを期さずに、ということではある(③をファルス的主人のシニフィアンと一概にはできないのは、「第一次象徴的去勢/第二次象徴的去勢」を参照)。

ジジェクはコレット・ソレール変奏の形で読もうとしているように思える。再掲すれば、

我々はいかに結びつけるべきか、ラカンがセミネールXX (アンコール)で展開した Yad'lun(一のようなものがある)と一連の「単一の諸シニフィアン unary signifiers」を。後者は、ファルス的主人のシニフィアン phallic Master‐Signifier を通した単一化 unificationに先立つものである。すなわち無限の自己分割的 S1 (S1 (S1 (S1…)))の系列。…

ラカンの Yad'lun を、(「一のようなもの」の上に)欲動を構成する最小のリビドー的固着の形態として読んだらどうだろうか、 前-出来事的な「一以下の多 One‐less multiplicity」からの欲動出現の瞬間として読んだら? そうすれば、Yad'lun の「一」はサントーム、一種の「享楽の原子」である。言語と享楽の最小の統合体 synthesis 、享楽を浸透させた諸記号 signs の単位(我々が強迫的に反復する痙攣のようなもの)である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)

ここでのジジェクの叙述は、アンコール最後にあるラカンの言葉遊び S1=essaim(ミツバチの密群)次の図の解釈をめぐっている。



ジジェクはこれを次のように読もうとしているようにみえる。


そしていままで記した叙述に則れば、sinthome (lettre (S1 (S1 (S1 (S1…))とも書けることになる。

いずれにせよ Yad'lun とは、現代ラカン派でさえもおそらく誰もがひどく曖昧なままの概念であり、ここでのわたくしの記述は、こう読めもしないか、という想定にすぎない。

かつまた一般には、サントームはすくなくとも三種類ほどの意味があるとされる。

たとえばYoungjin Parkはラカンの叙述を引用しつつ、次のように簡潔にまとめている。

i) the clinical necessity to knot the Imaginary and the Symbolic, and the Symbolic and the Real through splicing or suturing,

ii) Joyce's proper name or ego as a compensation for the lack of the paternal function and the imaginary relation,

iii) sinthome as an irreducible symptom or primal repression (Urverdrängung).(Post-Fantasmatic Sinthome Youngjin, Park、PDF

すなわち、ここでのわたくしの記述は、三番目の《それ以上縮小できない症状、あるいは原抑圧としてのサントーム》のみをめぐっている。

とはいえ、サントームとはほんとうに原抑圧にかかわるのかはわたくしには瞭然としない。

サントーム sinthome は 抑圧されたものの回帰ではない。真理・意味に憩うものではない。サントームとは身体に起こった「ひとつの享楽 une jouissance」である。そしてそれは「真理の大他者l'Autre de la vérité」を排除する。…(Percussion du signifiant dans le corps à l'entrée et à la fin de l'analyse Hélène BonnaudーーL'INCONSCIENT ET LE CORPS Section Clinique de Rennes 2012-2013 PDF
反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている・・・それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる.(ラカン、S.17)

上に引用したYoungjin Parkの一番目のサントームの意味は、(父の名の変種の機能として)比較的よく知られているだろう。

私が最初にサントーム le sinthome [ Σ ] として定義したものは、象徴界・想像界・現実界を一つに束ねるものである。…サントームの水準において…関係性がある…サントームがあるところにのみ関係性がある。

c'est de faire ce que, pour la première fois j'ai défini comme le sinthome [ Σ ], à savoir le quelque chose qui permet au Symbolique, à l'Imaginaire et au Réel…Au niveau du sinthome, … il y a rapport. … Il n'y a rapport que là où il y a sinthome.” (S.23、17 Février 1976)

そして自己創造によるシニフィアン、名付けがサントームであるというのもラカンがジョイスの事例を強調したことからよくわかる。これが二番目のサントームである。次の二文はサントームという用語は出てこないが、明らかにサントームをめぐる重要な示唆である。

父の諸名 、それは、何かの物を名付けるという点での最初の諸名 les noms premiers のことだ。

…c'est ça les Noms-du-père, les noms premiers en tant que ils nomment quelque chose](ラカン、S22,.11 Mars 1975)
なぜ我々は新しいシニフィアンを発明しないのか? たとえば、それはちょうど現実界のように、全く無意味のシニフィアンを。

Pourquoi est-ce qu'on n'inventerait pas un signifiant nouveau? Un signifiant par exemple qui n'aurait, comme le réel, aucune espèce de sens?(ラカン、S24、17 Mai 1977)

そのときここで話題にした原症状(治療不可能なものとしての享楽の原子)としての三番目のサントームの意味が重要になってくるのだろうか。症状との同一化とは、またサントームとの同一化でもある。

分析の道筋を構成するものは何か? 症状との同一化ではなかろうか、もっとも症状とのある種の距離を可能なかぎり保証しつつである。症状の扱い方・世話の仕方・操作の仕方を知ること…症状との折り合いのつけ方を知ること、それが分析の終りである。

En quoi consiste ce repérage qu'est l'analyse? Est-ce que ce serait, ou non, s'identifier, tout en prenant ses garanties d'une espèce de distance, à son symptôme? savoir faire avec, savoir le débrouiller, le manipuler ... savoir y faire avec son symptôme, c'est là la fin de l'analyse.(Lacan, Le Séminaire XXIV, 16 Novembre 1976)

だがこの意味でのサントームが、Yad'lun であって、「一の徴 trait unaire」でも「文字 lettre」でもないという見解があるのは、いまこう記していてはじめて知った。

クリストフはキリストを支えた、
キリストは全世界を支えた。
なら言ってくれ、クリストフは、
その時、どこに足を置いたのか。

Christophorus Christum, sed Chiristus sustulit orbem:
Constiterit pedibus dic ubi Christophorus?

ーーフロイト『幻想の未来』(岩波新訳『ある錯覚の未来』より。原典はコンラート・リヒター『ドイツの聖クリストフ』1896

Yad'lun はtrait unaire を支えた
trait unaire は全精神生活を支えた。
なら言ってくれ、Yad'lun は
その時、どこに足を置いたのか・・・

ここで、私はフロイトのテキストから「一の徴 trait unaire」の機能を借り受けよう。すなわち「徴の最も単純な形式 forme la plus simple de marque」、「シニフィアンの起源 l'origine du signifiant」である。我々精神分析家を関心づける全ては、「一の徴」に起源がある。(ラカン、S.17)

Yad'lun はやっぱり至高の神に足を置いたんじゃないか

「大他者の(ひとつの)大他者はある」という人間のすべての必要(必然)性。人はそれを一般的に〈神〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に〈女 〉« La femme » だということである。

La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ».(ラカン、セミネール23、16 Mars 1976)

女が欲することは、神も欲する Ce que la Femme veut, Dieu Ie veut (Alfred de Musset, Le Fils du Titien, 1838)



母が欲することは、神も欲する Ce que la maman veut, Dieu Ie veut

法の病理は、法との最初の遭遇から、主体のなかに生み出される。私がここで法と言っているのは、制度的あるいは司法的な意味ではない。そうではなく、言語と結びついた原初の法である。それは、必然的に、父の法となるのだろうか? いや、それは何よりもまず母の法である(あるいは、母の代役者の法)。そして、ときに、これが唯一の法でありうる。

事実、我々は、この世に出るずっと前から、言語のなかに没入させられている。この理由で、ラカンは我々を「言存在parlêtre」と呼ぶ。というのは、我々は、なによりもまず、我々を欲する者たちの欲望によって「話させられている」からだ。しかしながら、我々はまた、話す存在でもある。

そして、我々は、母の舌語(≒ララング)のなかで、話すことを学ぶ。この言語への没入によって形づくられ、我々は、母の欲望のなかに欲望の根をめぐらせる。そして、話すことやそのスタイルにおいてさえ、母の欲望の刻印、母の享楽の聖痕を負っている。これらの徴だけでも、すでに我々の生を条件づけ、ある種の法を構築さえしうる。もしそれらが別の原理で修正されなかったら。( Geneviève Morel ‘Fundamental Phantasy and the Symptom as a Pathology of the Law',2009、PDF

ラカンの若い友人であったフィリップ・ソレルスの小説『女たち』の主人公の結論ーー 《われわれの時代の最も偉大な思想家であるファルス》から得た結論は、次の通り。 

世界は女たちのものだ、いるのは女たちだけ、しかも彼女たちはずっと前からそれを知っていて、それを知らないとも言える、彼女たちにはほんとうにそれを知ることなどできはしない、彼女たちはそれを感じ、それを予感する、こいつはそんな風に組織されるのだ。男たちは? あぶく、偽の指導者たち、偽の僧侶たち、似たり寄ったりの思想家たち、虫けらども …一杯食わされた管理者たち …筋骨たくましいのは見かけ倒しで、エネルギーは代用され、委任される …(ソレルス『女たち』)

ソレルスのパートナー、ジュリア・クリステヴァは、ソレルスが1983年に上の小説を上梓する6年前、ラカンのセミネール24 (17 Mai 1977)に美貌の情熱的登場人物として出演している。

《すごい情熱だった、デボラは…壮麗なくらい…夢のイコン…火、知性…ぼくが出会ったなかで最も知的な女性…ソフィア…モザイク…穹窿のくぼみの形をした顔のいたるところで、爛々と輝く、生きいきした黒い眼差し…ぼくは彼女からほとんど離れなかった》

Julia KRISTEVA

C'est autre chose que de la linguistique.
Ça passe par la linguistique, mais c'est pas ça.

ーーセンセ! 言語、言語、言語学ってばっかりだけど、ちがうわ、別のものがあるわ!

…時がたつにつれて、ぼくはファルスの突然の怒りがよくわかるようになった…彼の真っ赤になった、失語症の爆発が……時には全員を外に追い出す彼のやり方……自分の患者をひっぱたき…小円卓に足げりを加えて、昔からいる家政婦を震え上がらせるやり方…あるいは反対に、打ちのめされ、呆然とした彼の沈黙が…彼は極から極へと揺れ動いていた…大枚をはたいたのに、自分がそこで身動きできず、死霊の儀式のためにそこに閉じ込められたと感じたり、彼のひじ掛け椅子に座って、人間の廃棄というずる賢い重圧すべてをかけられて、そこで一杯食わされたと感じる者に激怒して…彼は講義によってなんとか切り抜けていた…自分のミサによって、抑圧された宗教的なものすべてが、そこに生じたのだ…「ファルスが? ご冗談を、偉大な合理主義者だよ」、彼の側近の弟子たちはそう言っていた、彼らにとって父とは、大して学識のあるものではない。「高位の秘儀伝授者、《シャーマン》さ」、他の連中はそう囁いていた、ピタゴラス学派のようにわけ知り顔で…だが、結局のところ、何なのか? ひとりの哀れな男だ。夢遊病的反復に打ちひしがれ、いつも同じ要求、動揺、愚劣さ、横滑り、偽りの啓示、解釈、思い違いをむりやり聞かされる、どこにでもいるような男だ…そう、いったい彼らは何を退屈したりできるだろう、みんな、ヴェルトもルツも、意見を変えないでいるために、いったい彼らはどんな振りができるだろう、認めることだ! 認めるって、何を? まさに彼らが辿り着いていたところ、他の連中があれほど欲しがった場所には、何もなかったのだということを…見るべきものなど何もない、理解すべきものなど何もないのだ…(ソレルス『女たち』鈴木創士訳)

もちろん小説のなかの話である・・・《真理は,虚構の構造において顕現する La vérité s’avère dans une structure de fiction》(Lacan, Ecrits, p.742)にしても・・・

いやいや・・・次の写真を貼り付けておこう。


Philippe Sollers et Jacques-Alain Miller、2011