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2016年12月13日火曜日

ファルス秩序から逃れるための十か条

【1】:ファルス秩序から逃れるためにまずなによりも肝腎なのは、フロイトやラカンをまじでは決して読まないことである。

フロイトの理論によると、両性の準拠となるシニフィアンは一つだけしかありません。ファルスがそうです。(ミレール、“El Piropo”)

もしマジ読みしたら、イギリスのラディカル・フェミニスト・グループの創設者の一人であったジュリエット・ミッチェルJuliet Mitchellでさえ、こんなことを言うようになってしまう。

私たちは…辛い現実から逃れるために、その発見者(フロイト)を批判するだけではほとんど充分ではありません。(Mitchell, Psychoanalysis alld Feminism. London, Penguin Books, 1990)


【2】:ラカン派女流分析家の轍を踏んで、具体的な女のイメージから逃れるなどというのはもっての外である。

ラカンにとって女とは何だろうか? …解剖学的観点からの女の問題ではない。そうではなく、シニフィアンとしての象徴的意味作用における女の問題である。難題は、我々はしばしばイマジネールな女の意味に囚われたままであることだ。結果として、具象的な女のイメージから逃れえず、論理内での場の観点における女を考えることができないでいる。

ラカンは性別化の式で女をLⱥ Femme と書いている。つまり女とはシニフィアンであり、中身はない。(Liora Goder、What is a Woman and What is Feminine Jouissance in Lacan?)


【3】:ラカンのシニフィアンの論理など最悪であり、尻を端折って屁でもひっておくべきである。

シニフィアンは、対象を指示しない記号である le signifiant est un signe qui ne renvoie pas à un objet …シニフィアンはまた不在の記号である Il est lui aussi signe d'une absence…

シニフィアンは、他の記号と関係する記号である c'est un signe qui renvoie à un autre signe。言い換えれば、二つ組で己れに対立する pour s'opposer à lui dans un couple (ラカン、S3)
すべてのシニフィアンの性質は己自身をシニフィアン(徴示)することができないことである。 il est de la nature de tout et d'aucun signifiant de ne pouvoir en aucun cas se signifier lui-même.(Lacan, S.14)

ーー尻を端折る場合、腰の窪みにWのかたちのほくろがあるといっそう効果的である。

伝説によるとオセッチャンは黒と朱の帯を手早くとき、胸から下がすっかり風通しがよくなるまで着物をはだけると、黄八丈の着物は折からの風を受けて凧のようにひろがり、そのままクルリと躰を回転させたオセッチャンは、腰の窪みのところにWのかたちに並んでいるほくろを見せた。--オセッチャンは、ハンパなことはしないからね。ほくろもほくろやがね、白いお尻が西陽を受けて輝くのを見てみんな圧倒されたよ、と友達は話した(大江健三郎『懐かしい年への手紙』)


【4】:具体的な存在、動物的な存在になるべきであり、「犬のように」が合言葉である。

シニフィアンは記号とは逆に、誰かに何かを表象するものではなく、主体をもうひとつのシニフィアンに対して表象するものである représente précisément le sujet pour un autre signifiant。私の犬はご存知のように、私の印、記号を探し、そして話す。なぜこの犬は話す時に言語を使わないのであろう。それは、私はこの犬にとって記号を与えるもので、シニフィアンを与えることはできないからである。前言語的に存在し得るパロールと言語の違いはまさにこのシニフィアンの機能の出現にかかっているのである。(S9)


【5】:もちろん女が原抑圧されているなどというのはフロイト・ラカン派のみの寝言として嘲笑しておけばよろしい。

本源的に抑圧されているものは、常に女性的なるものではないかと疑われる。(Freud, Draft M. Repression in hysteria ,1897).
原抑圧とは、現実界のなかに〈女〉を置き残すことと理解されうる。

原防衛は、穴 Ⱥ を覆い隠すこと・裂け目を埋め合わせることを目指す。この防衛・原抑圧はまずなによりも境界構造、欠如の縁に位置する表象によって実現される。

この表象は、《抑圧された素材の最初のシンボル》(Freud,Draft K)となる。そして最初の代替シニフィアンS(Ⱥ)によって覆われる。(PAUL VERHAEGHE ,DOES THE WOMAN EXIST?,1999)
ラカンの命題が孕んでいるもの…その命題によれば、「原初的に抑圧されている」ものは、二項シニフィアン binary signifier (Vorstellungs-Repräsentanz 表象-代表のシニフィアン)である。すなわち象徴秩序が締め出しているものは、(二つの)主人のシニフィアン Master-signifiers、S1ーS2 のカップルの十全な調和的現前 full harmonious presence である。S1 – S2 、すなわち陰陽(明暗、天地等々)、あるいはどんなほかのものでもいい、二つの釣り合いのとれた「根本原理」だ。「性関係はない」という事態が意味するのは、まさに第二のシニフィアン(女のシニフィアン)が「原初的に抑圧されている」ということであり、この抑圧の場に我々が得るもの、その裂け目を満たすもの、それは「抑圧されたものの回帰」としての多数的なもの multitude、「ふつうの」シニフィアンの連続 series である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012 、私訳)



【6】:人間は女を夢見る、などという寝言にいっときも耳を傾けてはならぬ。

存在するのは女達 les femmes、一人の女そしてもう一人の女そしてまたもう一人の女...です。(……)

女は存在しない。われわれはまさにこのことについて夢見るのです。女はシニフィアンの水準では見いだせないからこそ我々は女について幻想をし、女の絵を画き、賛美し、写真を取って複製し、その本質を探ろうとすることをやめないのです。(ミレール“El Piropo”)

これは男たちだけの話ではない、女たちも〈女〉など夢見てはならぬ。

他の性 l'Autre sexe は、男たちにとっても女たちにとっても〈女〉La Femme である。(Jacques-Alain Miller,The Axiom of the Fantasm)

他の性? 他の身体? すべて意味不明としてやり過ごしておけばよろしい。

21世紀における精神分析は変貌している。既に確立されているもの以外に、他の象徴秩序 autre ordre symbolique・他の現実界 autre réel を考慮しなければならない。…

「言存在 parlêtre」を分析することは、もはやフロイトの意味における無意識を分析することとは全く異なる。(以前のラカンの)「言語のように構造化されている無意識」とさえも異なる。…

例えば、我々が、サントーム sinthome としての症状について語る時。この言葉・概念は「言存在 parlêtre」の時代から来ている。それは、無意識の症状概念から「言存在 parlêtre」への移行を表している。……

ご存知のように、言語のように構造化された無意識の形成としての症状は、隠喩である。それは意味の効果、一つのシニフィアンが他のシニフィアンに対して代替されることによって引き起こされる症状である。

他方、「言存在 parlêtre」のサントームは、《身体の出来事 un événement de corps》(AE569)・享楽の出現である。さらに、問題となっている身体は、あなたの身体であるとは言っていない。あなたは《他の身体の症状 le symptôme d'un autre corps》、《一人の女 une femme》でありうる。(L'inconscient et le corps parlant par JACQUES-ALAIN MILLER 、2014) 

いくら美貌の女流ラカン派がなんたら言っても聴く耳をもってはならぬ!




女性性féminité について問いめぐるなか、ラカンは症状としての女性を語る。他の性 l'Autre sexe を支える症状である。最後のラカンの教えにおいて、私たちは症状と女性性とのあいだの近接性を感知しうる。(Florencia Farìas, Le corps de l'hystérique – Le corps féminin, 2010、PDF
言説に囚われた身体は、他者によって話される身体、享楽される身体である。反対に、話す身体le corps parlant とは、自ら享楽する身体 un corps joui である。(同上)

ーーところで、「他の身体」、「話す身体」、「自ら享楽する身体」とはなんなのだろうか、《我々にとって異者である身体(異物) un corps qui nous est étranger 》(ラカン、S23、11 Mai 1976)だとしたら、ひょっとして子宮がその代表的なものではナカロウカ・・・(参照

男がものごとを考える場合について、頭と心臓をふくむ円周を想定してみる。男はその円周で、思考する。ところが、女の場合には、頭と心臓の円周の部分で考えることもあるし、子宮を中心にした円周で考えることもある。(吉行淳之介『男と女をめぐる断章』)

とすれば女性は存在そのものからファルスの彼方に近い。女性賛美はここから始めねばならぬ。

ひとつの享楽がある il y a une jouissance…身体の享楽 jouissance du corps である…ファルスの彼方Au-delà du phallus…ファルスの彼方にある享楽! une jouissance au-delà du phallus, hein ! (Lacan,20 Février 1973ーー「一の徴」日記⑥:誰もがトラウマ化されている)

ーーとはいえやや話題から逸れてしまった。しかもフェミニストの敵役吉行などを引用してしまった。なんという忸怩たる思い・・・軌道修正をしなくてはならない。

ただひたすらとても分かりやすい次の文を引用しておけばよかったのだ、他の女・他の性とは何かを「暗示」するためには。

男でないすべては女だろうか? 人はそれを認めるかもしれない。だが女は非全体 pas « tout » なのだから、どうして女でないすべてが男だというのかい?

Tout ce qui n'est pas homme… est-il femme ? On tendrait à l'admettre. Mais puisque la femme n'est pas « tout », pourquoi tout ce qui n'est pas femme serait-il homme ? (S.19)


【7】:象徴秩序がファルス秩序などというのはお笑い草である。

象徴秩序はまたファルス的秩序と呼ばれる。ファルス的秩序は、ファルス関数に従属している。ファルス関数が、私たちの世界の概念・社会秩序・性的ポジションを構成する。本能的な性的方向付け・男女の性的ポジションとしての両性の自然な刻印の不在という人間の宿命のなか、私たちはファルスに関するセクシャリティ内部でのみ私たち自身を位置づけうる。ファルス関数に依拠することなしでは両性の刻印のどんな可能性もない。(Liora Goder、What is a Woman and What is Feminine Jouissance in Lacan?)

ラカン派世界というのは、次のようなことが記される書がマニュアルとして通用している世界であり、近寄るべからず!

ファルスのシニフィアンは、ラカンにとって基本シニフィアンである。というのは基本的差異(男性/女性)を導入するから。そのようなものとして、ファルスは象徴秩序を基礎づける。なぜならこの秩序はまさに差異に基づいているから(ソシュール参照)。これは単純な経験的観察と通して示されうる。言語のなかのどんな語も、すべてのパロールの本質的多義性ゆえに、ファルス的-性的意味を持ちうる。Paul Verhaeghe、On Being Normal and Other Disorders: A Manual for Clinical Psychodiagnostics、2004)

ああすべてをファルスに結びつけたがるエロ事師たち!

S. Andre と J. Quackelbeen は、どんなエロスの辞書の研究も、避け難く次の結論に達すると主張する。すなわち、どの語も何かエロティックなものを示すのに使われうる。「無」という語でさえ女性器を表しうる、と(Andre, L'Ordre du Symbole, 1983、Quackelbeen, Zeven avonden met Jacques Lacan, 1991)。我々はこの見解を別の観察を以て裏付けることができる。すなわちこの過程は裏返せない。基本シニフィアンは、実質的にすべてのシニフィアンによって暗示されうるが、シニフィアン「ペニス」だけはそれ自体のみに制限される。Gorman は全く異なった観点の研究から同じ結論に達している。彼はいわゆる「身体語」は非常に広い隠喩的使用を許容すると結論づける(古典的例として例えば「手」)。ただし一つの例外がある。性器の固有語はそれ自体しか徴示しえない、と(Gorman, Body Words, 1964-65)。。(PAUL VERHAEGHE ,DOES THE WOMAN EXIST?,1999)

ミナさん、ひとつ西脇あたりの詩で試してみたらドウデショウカ?

鶏頭の酒を
真珠のコップへ
つげ
いけツバメの奴
野ばらのコップへ。
角笛のように
髪をとがらせる
女へ
生垣が
終わるまで

ーー西脇順三郎『第三の神話』「プレリュード」

これはひどくわかりやすい詩です、だれも指摘していないのが不思議なくらい。
いわゆるワカメ酒詩です・・・

さらにわかりやすいのはプルーストのマドレーヌでしょう。《厳格で敬虔な襞の下の、あまりにぼってりと官能的な、お菓子でつくった小さな貝の身》《溝の入った帆立貝の貝殻のなかに鋳込まれた〔moulé〕→ moule(ムール貝)かにみえるプチット・マドレーヌ》……

詩人たちの書くものはだいたいファルス(-)です、ときににわかに長くなったファルス(+)でつつくのです。《店さきにひとつ置かれた/青磁のかめをぬすんだもの/にはかにもその長く黒い脚をやめ/二つの耳に二つの手をあて/電線のオルゴールを聴く》(宮澤賢治)


話を元に戻せば、そもそも大半のラカン派自体が、ファルス秩序の意味合いさえわかっておらん(絶賛新星ラカン派ロレンツォの2007年時点での断言である!ーーコプチェクはロレンツォの書にめぐりあってメロメロになってしまった)。

「セクシャリティにおける」象徴的法は、(本能の壊れた・多形倒錯的)人間という種族の生存にとって欠かせない、とラカンは考えている。象徴的性別化の終焉は、人間を単なる動物的性交に制限するのではなく、種の絶滅へ導く。…ラカン注釈者たちがほとんど満場一致で見落としいるのは、象徴界は、(生殖的な)人間の性関係の発生可能性の構造的条件を構しているという事実である。(Lorenzo Chiesa, Subjectivity and Otherness,2007)

とはいえロレンツォにも間違いはある! とくにラカン「幻想の横断」(「主体の解任」、フロイトの「徹底操作」)解釈は臭い(参照)。蚊居肢散人のみるところ次の解釈が正当的である。

ラカンは幻想を、欲動と主体を統合し和睦させる典型的な神経症的戦略として概念化した。ラカン的観点からは、この戦略は錯覚的 illusory であり、主体を反復連鎖へと投げ込む。1960年代のラカンは精神分析治療の目標を「幻想の横断」と考えた。これは、主体が幻想のシナリオを何度も何度も反復する強迫的仕方は、乗り越えるべき何ものかであるという意味である。…

しかしながら1970年代以降の後期理論で、ラカンは結論づける、そのような「横断」は、治療がシニフィアンを通してなされる限り、不可能であると。…

こうしてラカンは、彼が「サントーム」と呼ぶものの構築を提唱する。それは純粋に個人的な方法ーー他者の支配下にあり、かつまた督促的な欲動衝動下にある、現実界・想像界・象徴界を取り扱う純粋に個人的な方法である。Stijn Vanheule and Paul Verhaeghe、Identity through a Psychoanalytic Looking Glass、2009

エリック・ロラン(ミレール派ナンバーツー)も S 1 → S2 から、S1 → a への移行といっている。この内実が上の文である。

ここではこういった細かい話をするつもりはなかったのだが、ようするに誰をも安易に信用してはならぬーーそのことを示すためにいささかの事例をかかげた。

すなわちラカンにほとんど関心のない人々が意味不明でもまったく致し方ない!

日本ラカン派? たぶん全滅デハナカロウカ、いずれにせよヘッポコ解釈者には近寄るべからず。いやシツレイ! 冒頭に記したことを繰り返せばフロイト・ラカン派自体を読むべからず!!



【8】:我々は、動物的な存在として、ソシュールもゲーデルも無視すべきである。

象徴システムにおいて、このシステムが機能するための構造的に決定づけられた開口部や欠如の必要性は、ゲーデルの不完全性定理によって論理的に明証された。

この同じ必要性を明示するためのより簡潔な方法は、玩具、いわゆるスライディングブロックパズルを通して獲得しうる。人がブロックを正しく並べかえたいのなら、それらをグルリと移動させなければならない。移動させるためには、開口部、すなわち一つの要素が欠如している空隙が必要である。さもなければ、全ては文字通りかつ比喩的にも立ち往生する。欠如と移動の可能性(換喩を想起しよう)はどの象徴システムにおいても本質的な特徴である。(ヴェルハーゲ、2009、PAUL VERHAEGHE,New studies of old villains、2009




象徴秩序(「他」)、主人のシニフィアンS1、ファルスのシニフィアンΦ、「一」 lを同じものとするラカンの考え方は、読者には不明瞭かもしれない。私は次のように理解している。

システムと しての象徴秩序(「他 l’Autre」)は、差異をもとにしている(ソシュール参照 )。差異自体を示す最初のシニフィアンは、ファルスのシニフィアンである。したがって、象徴秩序は、ファルスのシニフィアンを基準にしている。それは、一つのシニフィアンとして、空虚であり、(例えば)二つの異なるジェンダーの差異を作ることはない。それが作るのは、単に「一」と「非一」である。これが象徴秩序の主要な効果である。それは二分法の論法ーー「一」であるか「一」でないかーーを適用することによって、一体化の形で作用する。(ポール・ヴェルハーゲ、2001,Verhaeghe, Beyond Gender. From Subject to Drive.

単に「一」と「非一」だと? 笑わせちゃいけない。ここで彼が言いたいのは、ファルス(+)/(-)のことである!


【9】:最も大切なのは言語を使わないことである!言語を使ってしまったらファルスシステムにとりこまれ象徴的去勢をされてしまう。

小児は話し始める瞬間から、その前ではなくそのまさに瞬間から、抑圧(のようなもの)がある、と私は理解している。À partir du moment où il parle, eh ben… à partir de ce moment là, très exactement, pas avant …je comprends qu'il y ait du refoulement.(Lacan,S.20)
ヘーゲルが何度も繰り返して指摘したように、人が話すとき、人は常に一般性のなかに住まう。この意味は、言語の世界に入り込むと、主体は、具体的な生の世界のなかの根を失うということだ。もっとパセティックな言い方をするなら、私は話し出した瞬間、もはや感覚的に具体的な「私」ではない。というのは、私は、非個人的メカニズムに囚われるからだ。そのメカニズムは、常に、私が言いたいこととは異なった何かを私に言わせる。前期ラカンが次のように言うのを好んだように。つまり、私は話しているのではない。私は言語によって話されている、と。これは、「象徴的去勢」と呼ばれるものを理解するひとつの方法である。すなわち、主体が「聖餐式における全質変化 transubstantiation」のために支払わなければならない代価。ダイレクトな動物的生の代理人であることから、パッションの生気から引き離された話す主体への移行である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)


【10】:赤子が生まれたときオチンチンの有無であら「男の子! あら女の子!」などと判定してしまう母親は、すでに男根主義者の露骨な証拠である。動物たちはけっしてそんなことはしない。

最近ではさらにーー最悪にもーー胎児のときからエコーでファルスプラスとファルスマイナスを判定しているというテイタラクである。

母胎時からファルス(+)/(-)の刻印を探されるなどという現代文明は死すべきである(真のフェミニストである蚊居肢散人なら、そんなことをされたらけっしてこの世には出てこなかったであろう)。

いや現代文明どころか、いっそう遡って言語使用以前の世界に戻るべきである! それしかない、ファルス秩序から逃れるには。

個人にとって、強大な帝国の支配下にあるのと、乱世といずれが幸福かは、にわかにいうことができない。さらにいえば、歴史は、四大河流域における文明の勃興をなお善であり、進歩とするが、しかし、生涯をピラミッドの建設や運河の掘削に費やす生活と森の狩猟採集民の生活とのいずれを選ぶかは答えに窮する問題である。「桃源郷」は前者が夢見た後者であろう。(中井久夫「治療文化論再考」初出1994)

ーー蛇足ながらもちろんここでの文脈では、「強大な帝国」とは「ファルス帝国」と読み替えなければならない。