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2016年11月11日金曜日

蛾居肢

ヴァレリー詩には独特の奇妙な毒が確かにあると私は感じている。それはしばしば行間から立ちのぼって、私の手を休めさせずにはおかなかった。時には作業は何日も停滞するのであった。(中井久夫「ヴァレリーと私」)

亜麻色の蜜蜂よ きみの針が
いかに細く鋭く命取りでも、
私はこのたおやかな籠の上に
レースの夢しか投げかけなかった。

刺せ この胸のみれいな瓢を。
愛の死に、あるいは眠るところを、
ほんの朱色の私自身が
まろく弾む肌にやってくるように!

素早い拷問が大いに必要だ。
生きのよい明確な悪は
眠れる責め苦にはるかに勝る!

この金の小さな警告が
わが感覚を照らさねば
愛は死ぬか眠り込むかだ!

ーーヴァレリー「蜜蜂」(中井久夫訳)




…………

燈火の周圍にむらがる蛾のやうに
ある花やかにしてふしぎなる情緒の幻像にあざむかれ
そが見えざる實在の本質に觸れようとして
むなしくかすてらの脆い翼をばたばたさせる
私はあはれな空想兒
かなしい蛾蟲の運命である。

ーー萩原朔太郎「青猫」序文

どの「標準的な」男も避けがたく女に向って駆り立てられる。焼き焦がす燈火にむれる蛾のように like a moth to the scorching flame of the candle。男は欲動に駆り立てられるのである。(Paul Verhaeghe, Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE, 1998)



死への迂回路 Umwege zum Tode は、保守的な欲動によって忠実にまもられ、今日われわれに生命現象の姿を示している。

・有機体はそれぞれの流儀に従って死を望む sterben will。生命を守る番兵も元をただせば、死に仕える衛兵であった。(フロイト『快原理の彼岸』)
死への道 le chemin vers la mort は、享楽 jouissance と呼ばれるもの以外の何ものでもない。(ラカン、S.17)




イポリット)動物は交尾をしている時、死に委ねられています。しかし動物はそれを知りません。

ラカン)一方、人間はそれを知っています。それを知り、それを感じています。

イポリット)そのことは、人間こそ自らに死を与えるということにまで至ります。人間は他者を介して己れ自身の死を望みます。

ラカン)愛は自殺の一形態である l'amour est une forme de suicide という点で私達は完全に意見が一致しています。(S.1)



欲動Trieb とは…享楽の漂流 la dérive de la jouissanceのことである(ラカン、S.20)
すべての欲動は、潜在的に死の欲動 pulsion de mort である(E.848)
剰余享楽 plus-de-jouir は享楽の欠片 les lichettes de la jouissance である(S.17)
まさに享楽の喪失が、その自身の享楽、剰余享楽(plus‐de‐jouir)を生み出す。というのは享楽は、いつも常に喪われたものであると同時に、それから決して免れる得ないものだからだ。フロイトが反復強迫と呼んだものは、この現実界の根源的に曖昧な地位に根ざしている。それ自身を反復するものは、現実界自体である。それは最初から喪われており、何度も何度もしつこく回帰を繰り返す。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012)



女は位置を少しも動かず、井村の掌は女の腿に貼り付いている。女も井村も、戸外を向いて窓際に立っていた。掌の下で、女の腿が強張るのが感じられた。やがて、それが柔らかくほぐれはじめた頃、女は腿を曲げて拳を顔の前に持上げると、人差指の横側で、かるく鼻の先端を擦り上げた。女はその動作を繰返し、彼はそれが昂奮の証拠であることを知っていた。衣服の下で熱くなり、一斉に汗ばんできている皮膚を、彼は掌の下に思い描いた。

窓硝子に映っている女の顔を、彼は眺めた。電車の外に拡がっている夜が、女の映像を半ば吸い取って、黒く濡れて光っている眼球と、すこし開いたままになっている唇の輪郭だけが、硝子の上に残っている。

その眼と唇をみると、彼は押し当てている掌を内側に移動させていった。女は押し殺した溜息を吐き、わずかに軀を彼の方に向け直した。その溜息と軀の捩り方は、あきらかに共犯者のものだった。(吉行淳之介『砂の上の植物群』)




なにが起こるだろう、ごくふつうの男、すなわちすぐさまヤリたい男が、同じような女のヴァージョンーーいつでもどこでもベッドに直行タイプの女――に出逢ったら。この場合、男は即座に興味を失ってしまうだろう。股間に萎れた尻尾を垂らして逃げ出しさえするかも。精神分析治療の場で、私はよくこんな分析主体(患者)を見出す。すなわち性的な役割がシンプルに転倒してしまった症例だ。男たちが、酷使されている、さらには虐待されて物扱いやらヴァイブレーターになってしまっていると愚痴をいうのはごくふつうのことだ。言い換えれば、彼は女たちがいうのと同じような不平を洩らす。男たちは、女の欲望と享楽をひどく怖れるのだ。だから科学的なターム“ニンフォマニア(色情狂)”まで創り出している。これは究極的にはVagina dentata(「有歯膣」)の神話の言い換えだ。 (Paul Verhaeghe,Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE  1998、私訳)



――……ずっと若い頃に、かなり直接的に誘われながらヤラなかったことが、二、三人についてあったんだね。後からずっと悔やんだものだから、ある時から、ともかくヤルということにした時期があったけれども…… いまはヤッテも・ヤラなくても、それぞれに懐かしさがあって、ふたつはそうたいしたちがいじゃないと、回想する年齢だね。(大江健三郎『人生の親戚』)



人間は元来、多形倒錯(polymorphe Perversität)である。(フロイト『性欲論三篇』)

ラカンは「正常な」性関係を、《norme-mâle》ーー男の規範・悪い規範 mal norme と言った。すなわち正常な性関係とは、「父」の介入による前性器的多形倒錯の男根化(ファルス化)である。すなわち父権制主義者・・・。

フロイトが言ったことに注意深く従えば、全ての人間のセクシャリティは倒錯的である。フロイトは決して倒錯以外のセクシャリティに思いを馳せることはしなかった。そしてこれがまさに、私が精神分析の肥沃性 fécondité de la psychanalyse と呼ぶものの所以ではないだろうか。

あなたがたは私がしばしばこう言うのを聞いた、精神分析は新しい倒錯を発明することさえ未だしていない、と(笑)。何と悲しいことか! 結局、倒錯が人間の本質である la perversion c'est l'essence de l'homme,。我々の実践は何と不毛なことか!(Lacan, Le Seminaire XXIII, Le Sinthome,11, 1977)

ラカンの定義では、女が女を愛することは異性愛である。だが女が男を愛することは「変態」なのだろうか・・・

定義上異性愛者とは、おのれの性が何であろうと、女性を愛することである。それは最も明瞭なことである。Disons hétérosexuel par définition, ce qui aime les femmes, quel que soit son sexe propre. Ce sera plus clair. (ラカン、L'étourdit, AE.467, le 14 juillet 72)

いずれにせよ、人間の最初の愛の対象は「女」--すなわち母もしくは乳母であるに相違ない、ごく限られた例外を除いて、つまり乳幼児の時からパートナーなどである男が世話する場合もないではないだろうから。






……神経症者における倒錯的特徴との差別化が認知されなければならない。神経症的主体は倒錯性の性的シナリオをただ夢見る主体ではない。彼あるいは彼女は同様に、自分の倒錯的特徴を完全に上演しうる。しかしながらこの上演中、神経症者は大他者の眼差しを避ける。というのはこの眼差しは、エディプスの定義によって、ヴェールを剥ぎ取る眼差し、非難する眼差しでさえあるから。神経症者は父の権威をはぐらかし・迂回せねばならない。その意味はもちろん、彼はこの権威を大々的に承認するということである。

逆に倒錯的主体は、この眼差しを誘発・挑発する。目撃者としての第三の審級の眼差しが必要なのである。このようにして父と去勢を施す権威は無力な観察者に格下げされる…。この状況をエディプス用語に翻訳するなら次のようになる。すなわち、倒錯的主体は、父の眼差しの下で母の想像的ファルスとして機能する。父はこうして無力な共謀者に格下げされる。

この第三の審級は、倒錯的振舞いと同じ程大きく、倒錯者の目標・対象である。第三の審級の不能は実演されなければならない。数多くの事例において、倒錯者は、倒錯者自身の享楽と比較して第三の審級の貧弱さを他者に向けて明示的に説教する。(ヴェルハーゲ、2001,Paul Verhaeghe、PERVERSION II,PDFーー倒錯の三つの特徴


戀びとよ
すえた菊のにほひを嗅ぐやうに
私は嗅ぐ お前のあやしい情熱を その青ざめた信仰を

ーー萩原朔太郎「薄暮の部屋」





その菊は醋え、
その菊はいたみしたたる、
あはれあれ霜つきはじめ、
わがぷらちなの手はしなへ、
するどく指をとがらして、
菊をつまむとねがふより、
その菊をばつむことなかれとて、
かがやく天の一方に、
菊は病み、
饐えたる菊はいたみたる。

ーー萩原朔太郎すえたる菊