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2016年10月8日土曜日

女が男よりも恥ずかしがるのはなぜ?



ーーいやあ、何度みてもすばらしいGIFだ。なんというべきなのか、彼女の表情を(諸君たちはヤラセとかなんたらというのだろうが、この眼差しを中心にして顎や口元の動かし方、吐息まで聞こえてきそうな有様は仮に演技としてもすばらしすぎる)

いずれにせよ「哲学的な」問いをうながす画像である。

「哲学を勉強したことがないので、あれやこれやの判断を下すことができません」という人が、ときどきいる。こういうナンセンスをきかされると、いらいらする。

「哲学がある種の学問である」などと申し立てられているからだ。おまけに哲学が、医学かなんかのように思われているのである。

――だが、次のようなことは言える。哲学的な研究をしたことのない人には、その種の研究や調査のための、適切な視覚器官が備わっていないのである。

それは、森で、花やイチゴや薬草を探しなれていない人が、何一つとして発見できないのにかなり似ている。かれの目は、そういうものに対して敏感ではないし、また、とくにどのあたりで大きな注意を払わなければならないか、といったこともわからないからである。

同じような具合に、哲学の訓練を受けたことのない人は、草むらの下に難問が隠されているのに、その場をどんどん通り過ぎてしまう。

一方、哲学の訓練を受けた人なら、まだ姿は発見していないのだけれども、その場に立ちどまって、「ここには難問があるぞ」と感じ取る。

――だが、そのようによく気がつく熟達者ですら、じっさいに発見するまでには、ずいぶん長時間、探しまわらなければならない。

とはいえ、それは驚くにはあたらない。何かがうまく隠されている場合、それを発見するのは難しいものなのである。(ヴィトゲンシュタイン「反哲学的断章」)

残念ながらわたくしはあの画像から何かを発見するには至っていない。そもそもわたくしには「適切な視覚器官が備わっていない」のではないかと最近疑いつつある。

だが今あのように恥ずかしがる若い女性はすくなくなってきたのではなかろうか、という感慨はないではない。現代の女性は、多くの場合、あのような場に遭遇したとき、にこやかにほほえんで、そのあとパックリと咥えて平然としているのではなかろうか・・・諸君はそんな目にあったことはないだろうか(ここで、わたくしは20年の海外住まいであり最近の日本をあまり知らないことを断っておかねばならない)。

いやパックリと咥えるところまでいかなくても、最近の女性は能動性の発露に促されるのではないだろうか。

最近の調査が示しているのは、多くの女たちはフェラチオを、彼女たちが権力感として、経験していることだ。それは、もちろん、イニシアティヴをとるという条件において、であるが。言い換えれば、能動的役割をとるという条件において、である。(Paul Verhaeghe、Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE.1998) 






そのせいなのだろうか、わたくしは冒頭の画像にまずなによりもノスタルジーを覚えるのだ・・・

とはいえノスタルジーとは場合によっては、「一度たりと存在していなかったものの追憶」でもありうる。

ロマン主義的な追憶の描写における最大の成功は、かつての幸福を呼び起こすことではなく、きたるべき幸福がいまだ失われていなかった頃、希望がまだ挫折していなかった頃の追想を描くことにある。かつての幸福を思い出し、嘆く時ほどつらいものはない――だがそれが、追憶の悲劇という古典主義的な伝統である。ロマン主義的な追憶とは、たいていが不在の追憶、一度たりと存在していなかったものの追憶である。(チャールズ・ローゼン「シューマン論」)

わたくしはひどいロマン派なので、このローゼンの指摘はじつに身にしみる・・・

とはいえやはりあの女性の羞恥心はかつては存在していたはずであり、不在の追憶ではないはずだ。そしてそれは日本だけではない。現在でさえ欧米でも貴重な存在が残存している。それがかすかな残照のようなものであっても。





だがあれらの羞恥は薄れつつあるには相違ない。父の名の斜陽(象徴的権威の崩壊)後の世界において、《きみたちは言いうるだろう、もはやどんな恥もないと。vous pouvez dire qu'il n'y a plus de honte. 》(Lacan,S.17, 17 Juin 1970 )、1970年のラカンの発言だがこれは当然のこと1968年にかかわる。

中井久夫)確かに1970年代を契機に何かが変わった。では、何が変わったのか。簡単に言ってしまうと、自罰的から他罰的、葛藤の内省から行動化、良心(あるいは超自我)から自己コントロール、responsibility(自己責任)からaccountability〔説明責任〕への重点の移行ではないか。(批評空間2001Ⅲ-1 「共同討議」トラウマと解離(斎藤環/中井久夫/浅田彰)

ところでまえから気にかかっていてこれも処理できていない問いがある、「なぜ女は男よりも恥ずかしがるのか」という問いである。

ジジェクは女たちの羞恥心の起源は、ペニスの欠如だという、《何の不思議でもない、女たちが男たちよりももっと覆わなければならないのは。隠されるものは、ペニスの欠如である》

ラカンの定式において、フェティシストの対象は、−φ (去勢)の上の「a」である。すなわち去勢の裂け目を埋め合わせる対象a である。(a/−φ)

この理由で、ラカンは「恥」を去勢への敬意として特徴づけた。去勢されている事実を慎重に覆う態度として、である(何の不思議でもない、女たちが男たちよりももっと覆わなければならないのは。隠されるものは、ペニスの欠如である…)。

「恥知らず」は、去勢を公然と人目につくようにすることにある一方で、「恥」は見た目を取り繕おうとする必死の努力である。私は(去勢について)真実を知っているにもかかわらず、それが起こっていないように振りをしよう…。この理由で、身体障害者の隣人が私に向けて不具となった手足を「恥知らずに」示すのを見るとき、恥ずかしさに圧倒されるのは、彼ではなく、私なのだ。

男が歪んだ手足を彼の隣人に曝すとき、彼の本当のターゲットは彼自身を曝すことではなく、隣人を曝すことだ。隣人が余儀なく目撃した光景をもって、隣人自身のアンビバレントな不快/魅惑に直面させることによって恥入らせることである。(ジジェク『パララックス・ヴュ―』2006,私訳)

どうもこれはいささか疑わしい。古代からそうだったのだろうか。たとえば原始民族はどうだろう。







どうも男たちのほうが恥かしがっているようにみえてならない。だが女たちの腰紐や胸飾りが謎ではある(あれはひょっとして性的魅力を発揮する箇所をもっと強調するために纏っているのではなかろうか・・・)。

ほかにもたとえば日本の江戸時代はどうだったのだろうか。




男に媚びをふりまき、公然と誘惑する。そのことが、以前はみとめられていなかった。社会が、そんなふるまいを禁圧していた時代も、あったのである。

男への挑発的な媚態が公認されている場所は、遊廓や花柳界にかぎられていた。男権的な社会は、それを色街という閉ざされた空間に、封じこめていたのである。女の性的な誘惑が社会へ蔓延するのをおそれ、閉域に隔離していたと言うしかない。

近代化は、しかしこの空間をかこむ壁に、穴をあけていく。男を誘惑し挑発する。そんなふるまいを、色街の外側にも、解放していった。娼婦のような女が浮上することを、市民社会においても促進させたのである。(井上章一『パンツが見える』)

井上章一氏の名著をいくらか斜めから読んでみるならば、男より女のほうが恥かしがったのは一時的な現象ーー明治以降、半世紀強の天皇制という疑似一神教のせいだということはいえないだろうか。たとえば欧米は不幸にも一神教で禁圧社会であったので、ながく女性は羞恥心を覚える存在であった、と。

もっとも我々は、まずは上野千鶴子のもはや古典的な名著『スカートの下の劇場』を尊重しなくてはならない。

・女の下着にはもともと、性器を隠す機能は必要ありません。女の性器は解剖学的な位置関係や形状からいっても、そのままでは外から見えない部分です。

・女の下着は、いつごろから性器にピタッと密着するタイプのものになったのでしょうか。パンティが体に密着しますと、当然のことですが、汚れます。昔は下穿きを汚さないということ が女のたしなみのひとつでした。布きれを性器に密着するというアイディアは、基本的には生理のとき以外にはなかったのです。

・日本でいうと、ブルマー・タイプのものがいまのタイプのものに変わるのは戦後です。それ がいつごろどういう形で、突然コンセプトの飛躍が起きたのか、考えてみるとよくわからない ことだらけです。

・ここ2、30年ばかりのあいだの驚くべき変化は、毎日下着を履き替えるという習慣が定着したことです。

・「毎日下着を取り替えなければダメよ」とか「洗いざらしでも清潔なものを」というような衛生の観念が出てくるのも、日本だと1950年代から60年代以降です。(上野千鶴子『スカートの下の劇場』)

ーーこのような観点は男性研究家からではなかなか出てきにくい。

さて隠す必要のないものをなぜ隠すようになったのだろうか。 《女の性器は(……)そのままでは外から見えない部分》なのに。あのパンティという性器に密着する小さな布切れで何をしようというのか。

ここではまずフロイトではなく、もうすこし遡ってヴィルヘルム・ヴント(1832-1920)に登場していただくことにしようーー、《恥ずかしいから隠すのではなく、隠すから恥ずかしいのである》、と。

ふだんからパンツをはいている女と、はかない女。その両者が陰部を目撃された時にいだく羞恥心は、どちらが強いのか。こたえはあきらかである。パンツをはいている女のほうが、はずかしがるにきまっている。

陰部をのぞかれた時にいだくたえがたい羞恥心。これは、パンツをはく習慣が女たちにうえつけた心性である。パンツによって、洗脳されていった気持ちのありようなのだ。

彼女たちは、陰部の露出がはずかしくて、パンツをはきだしたのではない。はきだしたその後に、より強い羞恥心をいだきだした。陰部をかくすパンツが、それまでにはないはずかしさを、学習させたのである。

パンツをはかない時代の女たちは、それほどはずかしがっていない。現代の大胆と称される女のほうが、よほどそのことに関する羞恥心を強めている。(井上章一『パンツが見える』)

というわけで、「性器を覆い性器に密着する小さな布切れ」はお釈迦にしたらどうだろうか。下着なしでかつ性器が見えるようにたとえばガニ股で歩く訓練がなされたら痴漢などというものは消滅するのではなかろうか(そもそも人間という動物が二足で歩くようになったのが最も悪い、つまり女性の性器がみえなくなったという不幸がある)。

安吾も次のように言っている。

むかし、日本政府がサイパンの土民に着物をきるように命令したことがあった。裸体を禁止したのだ。ところが土民から抗議がでた。暑くて困るというような抗議じゃなくて、着物をきて以来、着物の裾がチラチラするたび劣情をシゲキされて困る、というのだ。

ストリップが同じことで、裸体の魅力というものは、裸体になると、却って失われる性質のものだということを心得る必要がある。

やたらに裸体を見せられたって、食傷するばかりで、さすがの私もウンザリした。私のように根気がよくて、助平根性の旺盛な人間がウンザリするようでは、先の見込みがないと心得なければならない。(坂口安吾「安吾巷談 ストリップ罵倒」)

とはいえこのあたりは精神分析的観点を考慮するとややこしくなる。

男がカフェに坐っている。そしてカップルが通り過ぎてゆくのを見る。彼はその女が魅力的であるのを見出し、女を見つめる。これは男性の欲望への関わりの典型的な例だろう。彼の関心は女の上にあり、彼女を「持ちたい」(所有したい)。同じ状況の女は、異なった態度をとる(Darian Leader(1996)。彼女は男に魅惑されているかもしれない。だがそれにもかかわらずその男とともにいる女を見るのにより多くの時間を費やす。なぜそうなのか? 女の欲望への関係は男とは異なる。単純に欲望の対象を所有したいという願望ではないのだ。そうではなく、通り過ぎていった女があの男に欲望にされたのはなぜなのかを知りたいのである。彼女の欲望への関係は、男の欲望のシニフィアンになることについてなのである。(Paul Verhaeghe,Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE ,私訳)

女が欲望されたい存在であるならば、性器を覆いかつ性器に密着する小さな布切れは、 コケットリー 発揮の手蔓としてとても有効に機能しているはずだ、《媚態の要は、距離を出来得る限り接近せしめつつ、距離の差が極限に達せざることである》(九鬼周造『いきの構造』)。

たとえばノーパンで性器が露出したなら、フロイト=ラブレーのいうように魔除けの機能があるヴァギナ・デンタータなのだがーー、《我々はラブレーの作品に、女にヴァギナを見せつけられた悪魔は退散していることを読む》(フロイト『メドゥーサの首』)。

逆に男がもっともクラクラするのは(一般的に)このような状況であるだろう。

ナオミさんが先頭で乗り込む。鉄パイプのタラップを二段ずつあがるナオミさんの、膝からぐっと太くなる腿の奥に、半透明な布をまといつかせ性器のぼってりした肉ひだが睾丸のようにつき出しているのが見えた。地面からの照りかえしも強い、熱帯の晴れわたった高い空のもと、僕の頭はクラクラした。(大江健三郎「グルート島のレントゲン画法」『いかに木を殺すか』所収)

ここでもう一度ジジェクにも登場していただこう。

男は自分の幻想の枠にフィットする女を欲望する。他方、女は自分の欲望をはるかに徹底的に男のなかに疎外する(男のなかに向ける)。女の欲望は男に欲望される対象になることである。すなわち男の幻想の枠にフィットすることであり、女は自身を、他者の眼を通して見ようとするのだ。“他者は彼女/私のなかになにを見ているのかしら?” という問いにたえまなく煩わせられている。しかしながら、女は、それと同時に、はるかにパートナーに依存することが少ないのだ。というのは彼女の究極的なパートナーは、他の人間、彼女の欲望の対象(男)ではなく、ギャップ自体、パートナーからの距離なのだから。そのギャップ自体に、女性の享楽の場所がある。(ジジェク、2012,私訳)

さてこれらの問いを長い間カンガエテイルのだが、「哲学的な訓練」の全く足らないわたくしには未解決のままである・・・

次の画像でさえわたくしには神秘的である。パンティまで同色の水着カラーで盛装した美女は、なぜたかだがスカートがまくれ上がっただけであんなに慌てふためくのだろう・・・実にフロイト曰くの「女とは暗黒大陸である」……「女は何を欲しているのか」ーーわたくしはこのフロイトの問いばかりを考えているようにさえ思える……




最後に、男性としてのわたくしは、やはりすぐれた男性研究者の指摘を掲げておくことにする。

見えないように裾を下げようとするにもかかわらず、自然に上がってきてスカートの中身が見えそうになる。何物かを隠そうとする意志と、それに逆らって真理を暴こうとする運動。その緊張溢れるダイナミズムに知覚弓となって参与する第三者としての私。この三者関係のただ中にこそ、ミニスカへと欲情を固着させるオートポイエーシス装置が構造化されているのである。(森岡正博「なぜ私はミニスカに欲情するのか」)




おそらく、人間が自己の身体をエロティシズムの対象として他者の前に呈示しようとするならば もっとも基本的な戦術はおのれの性を誇示しつつ 同時に隠すということであろう。 (菅原和孝 『身体の人類学』ーーミニスカ症候群と集団ヒステリー

ふたたびフロイトを引用したってよい。

一方の手で着物をまくり上げようとし、他方の手で着物を押さえようとするヒステリー患者の発作もこのことを示している(「矛盾する同時性」)。患者は分析中に一方の性的意味から逆の意味の領域へと「隣りの線路の上へそらせるように」たえずそらせようとする。(フロイト『ヒステリー性空想、ならびに両性性に対するその関係』

とはいえヒステリーという語が出現すると、ここで言いたいのは通念としての「ヒステリー」ではない、と説明しなくてはならないから厄介だ。

ここでのヒステリーとは通念としてのヒステリーではない。言語によって分裂をこうむった主体は、基本的にみなヒステリーである(もちろん本来はもう少し説明しなくてはならないのだが割愛)。

ふつうのヒステリーは症状はない。ヒステリーとは話す主体の本質的な性質である。ヒステリーの言説とは、特別な会話関係というよりは、会話の最も初歩的なモードである。思い切って言ってしまえば、話す主体はヒステリカルそのものだ。(GÉRARD WAJEMAN 「The hysteric's discourse 」私訳ーーシェイクスピア、ロラン・バルト、デモ(ヒステリーの言説)