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2016年10月3日月曜日

にほふをんなのあそこ




なぜひどく惹かれるのだろう
向うにむかって暈けてゆく感じか
女の股の、女の髪のいい匂いがしてきそうだ
だが別のにおいも訴えかけてくる

足指がひどく醜い女がいた
それ以外はとても美しい
写真の女のように
蹠に疣があったわけではない

妻がでていった直後のマンション
女は何度も訪ねてきた
女は床を裸足で歩いた
短い足指をまるめてなにかを掴むように
芋虫みたいな足指
と口から出かかった

甞めてみようとすると
身を、脚を、捩って抵抗した
とても臭い足だった

匂いのつよいテッポーユリ
の全開期(吉岡実〉

魚の目・タコの角質の蹠
ひどい水虫
だったのは母だ

思い出さない記憶とは何なのだろう
そして突然訪れる記憶とは

女は嵯峨野に住むお嬢さん
いや若い人妻だった

須磨の女ともだちからおくられた
さくら漬をさゆに浮かべると
季節はづれのはなびらはうすぎぬの
ネグリジェのやうにさくらいろ
にひらいてにほふをんなのあそこ
のやうにしょっぱい舌さきの感触に
目に染みるあをいあをい空それは
いくさのさなかの死のしづけさのなか

――那河太郎「小品」


幻想の役割において決定的なことは、欲望の対象と欲望の対象-原因のあいだの初歩的な区別をしっかりと確保することだ(その区別はあまりにもしばしばなし崩しになっている)。欲望の対象とは単純に欲望される対象のことだ。たとえば、もっとも単純な性的タームでいうとすれば、私が欲望するひとのこと。欲望の対象-原因とは、逆に、私にこのひとを欲望させるもののこと。このふたつは同じものじゃない。ふつう、われわれは欲望の対象-原因が何なのか気づいてさえいない。――そうだな、精神分析をすこしは学ぶ必要があるかもしれない、たとえば、何が私にこの女性を欲望させるかについて。

欲望の対象と欲望の対象-原因(対象a)のギャップというのは決定的なんだ、その特徴が私の欲望を惹き起こし欲望を支えるのだから。この特徴に気づかないままでいるかもしれない。でも、これはしばしば起っていることだが、私はそれに気づいているのだけれど、その特徴を誤って障害と感じていることだ。たとえば、誰かがある人に恋に落ちるとする、そしてこう言うんだ、「私は彼女をほんとうに魅力的だと思う、ただある細部を除いて。――それが私は何だかわからないけれど、彼女の笑い方とか、ジェスチュアとかーーこういったものが私をうんざりさせる」。でもあなたは確信することだってありうる、これが障害であるどころか、実際のところ、欲望の原因だったりするのを。欲望の対象-原因というのはそのような奇妙な欠点で、バランスを乱すものなのだが、もしそれを取り除けば、欲望された対象自体がもはや機能しなくなってしまう、すなわち、もう欲望されなくなってしまうのだ。こういったパラドキシカルな障害物。これがフロイトがすでに一つの特徴 der einzige Zug と読んだものと近似している。そして後にラカンがその全理論を発展させたのだ。たとえばなにかの特徴が他者のなかのわたしの欲望が引き起こすということ。そして私が思うには、これがラカンの「性関係がない」という格言をいかに読むべきかの問題になる。(ジジェク”Conversations with Ziiek”(Slavoj Zizek and Glyn Daly”より私訳)


なにかが突然遠くからやってくると
いつもフォーレのop.121を聴きたくなる
のはなぜなのだろう





手が届きそうで、でも届かない感じか
息苦しさと甘美さの混淆にくらくらしそうになる
そんなに昔から聴いていた曲ではないのに
いまではどうしても欠かせない作品

バッハのBWV.914の後半も似た感覚に襲われる





この曲はあの頃も
もっと前からもしばしば聴いていた
マタイのわずか一分の合唱曲と
なぜかわたくしにはセットになっている